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第三章  “Look My Heart.”〔2〕




 先生と私だけの、準備室の狭い空間の中。一瞬流れた沈黙に、私の告白の言葉だけが不自然に空中に浮かび、そのままどこかへ流れていくような感覚だった。


 先生の反応を待ちながら、私の心がより一層余裕をなくしてゆく。先生の返事なんてわかっている。それでも心の片隅で、応えて欲しいと切望しているのだ。


「……神島。重要な問題を忘れてないか」


 ふと、先生がため息混じりにやっと言葉を発したので、私の心臓が反応した。しばらく沈黙を守っていた先生が、やっと私に言葉を発してくれたことに対する嬉しさと、先生の言おうとしていることに対しての不安とが入り混じった、複雑な鼓動の音。


 先生はそんな私を知ってか知らずか、相変わらず色のない瞳で、淡白に言葉を続ける。


「俺は教師で、君は生徒だ。……君なら、わかるだろう?」


 ゆっくりと、まるで親が子供に諭し聞かせるような言い方だった。あっさりと引かれた強固で頑丈な“先生と生徒”のラインを前に、言葉を失う。悔しさと歯がゆさに、下唇をかみしめた。

 教師や生徒という言葉の前には、私の気持ちなんてまるで意味がない。ふられることすらもできていない。その前に、対象外だと言われたようなものだ。


 貼り付けたような無表情の先生。やっぱりもうどうやったって、先生のセンセイじゃない顔は見れないのだろうか。


 先生の迷惑になるから。先生はセンセイだから。そうやって先生の答えを、私なりに私の中で結論付けようとするけれど。でも、この気持ちを簡単に捨てたくない。そんな心の葛藤に負けた私は、気づけばらしくもない言葉を発していた。


「わかります。でも、わかりたくない。先生が好きなんです」


 優等生の建前の前に生きてきた私が、センセイに逆らうのなんて初めてだった。今だけは、一歩でも引くわけにはいかない。この気持ちを守るために。


 生徒だ子供だと侮らないで欲しい。先生が生徒じゃない私自身を見てくれるまで、絶対に諦めたくない。大人の先生と対等に渡り合おうと、私は必死に強がっていた。


 ふと、先生がカタン、と音を立てて椅子から立ち上がった。無表情だったはずの先生の顔が私を向いた瞬間、私は息が止まりそうなほどの衝撃を覚えた。


 先生が、口角を吊り上げて笑ったのだ。


 まるで教室での彼らしくない笑い方。生徒の誰もが、先生がこんな目をして笑うなんて思わなかっただろう。あの日、旧校舎で見たそれよりも、もっと冷たい光を瞳に宿した、虚無的な笑い方。

 けれど、彼の端正な容姿に、あまりにも似合いすぎるそのさまには、どうしようもなく心を囚われてしまうような妙な魅力があった。


 例えるならば、清く正しく清純なものよりも、少し陰りのあるものの方に惹かれてしまうような。


「冷たくしたつもりだったけど……どうしてそんなに俺に執着するのか、わからないな」


 苦笑交じりという感じに、先生が言葉を洩らす。けれどその瞳は少しも困ったりはしていなかった。あくまで余裕を崩さない、彼はやっぱり大人の男の人だ。


 その彼の大人の部分が、彼の瞳のきれいなまでの冷たさが、私を強烈に支配する。私に近づいてくる、先生の靴のコツコツという音すらも、私の鼓動を早める要因になりつつあった。


「君は優等生だと思っていたのに……」


 やがて私の前で立ち止まった先生は、そんなことを言いながら、その吸い込まれそうな冷えた瞳で私を見下ろした。


 心臓のせわしない鼓動に翻弄される。その場に立ちすくみながらも、先生をじっと見上げる。教室ではあんなに遠くに居るのに、今はこんなに距離が近い。――めまいが、する。


「聞き分けのない生徒は嫌いなんでね。神島がそういう態度を取るなら、今後もあまり優しくはしない」


 笑っているはずなのに。先生のその口から出てきたのは、優しさのかけらもない冷たい声。けれどこれがきっと、生徒に優しく在るべき“センセイ”の義務を脱ぎすてた、先生の素顔だ。少しだけ、ほんの少しだけ、近づけたんだ。センセイじゃない先生に。だから心は遠くても、まだ私の方から逃げ出すことはしたくない。

 拒絶されたからって、すぐに消せるような気持ちじゃない。そんな簡単じゃないんだ、私の想いは。


 不特定多数の中に、きっと月原先生に惹かれてる子もたくさんいる。だけど私のこの気持ちだけは、不特定多数の中にあっても、絶対に誰にも負けない。


「私は、生徒として先生に好かれたいんじゃありません。好きなんです」


 怯むことなく、想いのままに私は告げた。どんなに突き放されようと、その瞳がどんなにつめたい光を宿していようと、先生から私は目をそらさない。生徒の一人としてじゃなく、私自身を見てもらうために。


 怖い。嫌われたくない。逃げだしたい。そんな数々の感情、私の弱い部分。それに負けないくらいに強くなりたいと思った。生半可な気持ちじゃ、先生は振り向いてはくれない。強くなることが、先生を好きでいられることの条件なんだ。


 しばらく、無言のままお互いがお互いを見ていた。先生の顔からすでに笑みは消えていた。もう冷たい笑みすら見せてくれない。本当に冷たいひとだ。先生はさっさと引き下がれと思っているんだろうけど、そうはいかない。


「君は本当に……、掴みどころがないな」


 やがて、押し負けたように、先生はため息交じりに漏らした。というより、面倒になって仕方なく言ったんだろうけれど。


 突然出現した、あの夜の、車の中での会話の一部。先生が初めて、私のことについて表現してくれた言葉。

 先生はあんな夜のことなんて、もうすっかり忘れていると思っていたのに。こんなタイミングで言われると、もっと先生のことを好きになってしまった。私をこんなに夢中にさせておいて、先生はあっさりと私から離れていき、元のように机について、書類に向かった。


 また、私の存在を無視したいかのような態度。どうしていいかわからずに、その場に立ち尽くす私。するとそんな私に、先生は疲れたような声音を投げてきた。


「好きにするといい」


 私は驚いた。それは、先生のことを好きでいていいという意味だろうか。あの夜、想いを告げようとした時も、今日、告白した時も。先生は頑なにセンセイであろうとして、生徒である私の気持ちを許そうとはしなかったのに。


「先生のこと、好きでいても、……いいんですか?」


 遠慮がちに、私は先生に問いかける。すると今度は、先生は書類から顔をあげて、少し離れた所に立っている私を見やった。


「気持ちまで縛ることはできないだろう? ただ俺は、生徒に特別な感情を持つことはない。それだけはわかっておいてもらおうか」


 いつも通りに、淡白な声だった。やっぱり、生徒。先生の瞳の色は、また私のことを生徒の一人としてしか認識していない。そうやって可能性なんて一つもないと、私のことなんて対象外だと、決めつけないでほしいのだ。


 いつかきっと先生を振り向かせるから。私の気持ちを、想いを否定する理由に、生徒なんて言葉を使ってほしくない。

  

「先のことなんて、誰にもわかりません。私にも、先生にも。……そうでしょう?」


 私の言葉に、先生は少し考えるような難しい表情をした。そしてすぐにまた、いつか旧校舎で見たのと同じに、意地悪く口角を吊り上げた微笑みを浮かべた。そんな表情がどれだけ私の鼓動を跳ね上げているかなんて、彼は知らないのだろう。


 無自覚なだけ、余計にたちが悪い。それとも彼はわかっていてやってるのか。女なら誰でも、彼を好きになってしまうかもしれないとすら思った。余裕な目をした先生は、頬杖をつきながら言った。


「そこまで言うなら、その気持ちを貫き通してみるといい。できるなら、ね」


 試すような言い方だった。私が諦めると踏んで、長続きしないと見くびっているんだ。先生はわかっていない。私の気持ちが、どんなに大きいか。ただ先生にあこがれて、遠くから見つめてるだけなんて、そんな可愛い恋、私にはもうできない。


 その余裕の向こう側にある、先生の熱を。瞳の奥に隠されている感情を、私はどうしても見せて欲しい。


「簡単に諦められるような半端な気持ちなら、とっくに諦めてます。でも、そうじゃないから、私は今ここに居るんです」


 先程と変わらず強気で告げた私に、先生は小さく笑いを洩らした。


「何を言っても強気に返してくる。見かけによらず面倒だね、君は」

「“大人しい優等生”よりずっといいでしょう?」


 私は先生を見据えた。本当は強気なんかじゃないのだ。いつ、先生が私を拒絶するかわからない。今はまだ、こうして私と話してくれているけれど、面倒だと無視される可能性だってある。生徒という権利を放棄して、センセイに想いを告げるからには、そのくらいのことは覚悟している。


 けれど怖いものは怖い。こうして先生を見つめ、自分の想いに自分を動かしてもらわないことには、逃げ出したくなってしまう。


「そうかもしれないけどね。……時間切れだ。俺の勤務は五時まで。子供の我儘に付き合うのも、五時までだ」


 ふと腕時計に視線を落とした先生が告げる。壁に掛けてある時計を見ると、ちょうど五時になったところだった。


 また、子供だなんて。あからさまに厄介払いをしようとしている。それでも、先生は残念がるだろうけれど、私はもうそんなことでいちいちくじけない。

 

「わかりました、帰ります。でも、最後に一言だけ」


 尚も言葉を続けようとする私を、先生はしつこいと言わんばかりに気だるげな目でちらと見た。振り向いて欲しい。そのためには、私の気持ちを証明して見せないといけないんだ。


「私が子供だからって、私の気持ちを思いこみだと、思い込んでいるのはむしろ先生の方かもしれないですよ」


 私の言葉に、先生は書類のページをめくりながらふっと声もなく笑っただけで、何も言わなかった。明らかに、私のことを甘く見ている。恋愛対象外の子供で生徒な私のことなんて、この先も永遠に興味がないのだと。


 今はまだ手の届かない、この大人の男のひとの心を、いつか掴み取りたい。何事にも決して執着を見せない、淡白でストイックなひと。こんなひとに愛されるのは、どんな気分だろう。そう思うと、どうしても惹かれてしまうのだ。

 

 まだ帰りたくなんてなかったけど、仕事の邪魔をしてしまうわけにはいかない。失礼します、と小さく礼をしてから、私は準備室を出た。後ろ手に扉を閉めた途端、自分の膝が緊張の余り震えていたことに気づいた。必死に気を張っていたから、そんなことにすら気付く余裕なんてなかったのだ。


 けれど今日、先生に告げた想いも、逃げないという決意も。もう、曲げる気なんてさらさらない。今はただ、先生に想いが届くことを願って。扉の向こう側の先生に想いを馳せながら、私はその場を後にした。



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