第三章 “Look My Heart.”〔1〕
日常的な毎日が当たり前だった頃は、それに慣れきっていて、何も思うことはなかった。けれど非日常的な――あの夜の、短時間の夢のような時間を体験してしまったために、もうこの日常は私にとって辛くなってしまった。
第三章 “Look My Heart.”
あの夜から、もう一週間近くになる。あの夜、私はあっさりと家まで送り届けられた。先生はためらいもなく、何の言葉もなく、そのまま帰っていった。
それから次の週の学校でも、予想通りというか、先生は元のように戻ってしまって、やはりあの夜のことはなかったことなっていた。
廊下ですれ違おうが、授業中番号で私に当てようが。先生の私に対する認識は以前と全く変わっていない。生徒として、ただそれだけ。もうあの夜のように先生の近くに行けることは二度とない思うと、気分が落ち込んでくる。
今日も、上履きに履き替えて廊下に出ながら、私は朝からため息をついた。
「月原センセー、おはよー」
ふと、知らない女子生徒の明るい声が耳に飛び込んできて、私の心臓は朝から大きく動かされた。顔をあげると、廊下の向こう側から、先生が歩いてくる所だった。先生はその生徒に適当に返して、そのままこっちに近づいてくる。
心臓の音がじわじわと大きくなる。けれどそんなことを知る由もない先生は、立ちすくむ私の横を素通りして、そのまま職員室を目指していった。
先程まで高ぶっていた気持ちが、急激に冷めていく。ここ数日ずっと、先生とすれ違うたび、先生の視線が少しでもこちらに向かないかと期待して、あっけなく裏切られるのを繰り返している。
――先生。生徒。その強固で重苦しい壁は、今日も顕在だ。
落ち込んだ気持ちのまま教室に入ると、すでに着ていたユキが席を立って、私の所までわざわざやってきた。
「よし、今日もちゃんと来たね」
そう言って、ユキは満足そうに笑った。心配してくれているのだ。あの日、メイクをしてもらったりしてユキは協力してくれたけれど、あの夜のことはあまり喜べるものではなくて。
私の落ち込んだ雰囲気を見て悟ってくれたのか、ユキは何も聞かない。ただ気づかわしげに私を見守ってくれている感じだ。
そのまましばらくユキと話して、チャイムが鳴って。席に着くと、何気なく過ぎていく授業。その過ぎていく中に、どうしても何気なくは過ごせない授業がある。胸が痛んで、どうしようもなくなるような。
今日は、その日。月原先生の授業の日。先生は今日もいつも通りに遅れて教室にやってきて、そして黒板に投げやりな英語を書いている。彼に私の想いは届かない。
先生は例文の説明を終えてから、「何かわからないところがある者は」と教室を見回した。誰も何も言わず、小さな沈黙が生まれる。
「じゃあ、各自カッコ1番の問題を解いてみろ」
そう言って、先生は教卓の斜め後ろにある椅子に座る。そして教科書を片手に、その長い脚を組んだ。生徒たちがしんとした中でシャーペンのカリカリという音を小さく鳴らし始める。
私は問題を手早く済ませ、一番に顔を上げた。すると、生徒達の出来具合を見ていたのか、教室の様子を見回していた先生とふと目が合った。
なぜか焦り、目がそらせなくなってしまった私。けれど一瞬のうちに、無表情なままの先生の視線は、その手元の教科書に奪われた。
――胸が、痛い。苦しいんだ。先生への愛しさは日に日に強くなっていくばかりで。
遠い、遠いあのひと。なのにどうしてこんなに私の心を離さないのだろう。もう一度、先生のセンセイじゃない顔が見たい、なんて。馬鹿みたいに、夢見ている。馬鹿みたいに― ―こんなの、初恋に戸惑う小学生みたいだ。
一日だけの魔法は、とけたというのに。あの日、あの場所で先生を見つけて手に入れた奇跡は、もう消えてしまったというのに。
気持ちの落ち込みを回復できないまま放課後になって。鞄に道具を詰めていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、そこにはユキが。私は作り笑って見せたけど、ユキには通用しない。
「麻耶、元気出しな? 何があったかわかんないけど、頑張ればいつかは気持ちも伝わるよ」
「……どう頑張るって言うの?」
苦笑いした私に、ユキが怪訝な顔をした。私は自分の言葉の意味を裏付けるように、落ち込みを隠し、努めて軽い口調で言った。
「拒絶されたの! だからもう、受け取ってもらえない気持ちになんて、意味ないでしょ」
するとユキは気遣わしげに眉根を寄せた。
「告白したの? はっきりだめだって、言われた?」
「そうじゃないけど……でも、雰囲気でなんとなくわかるじゃない?」
後ろめたさを押し込め、私は口調を強めた。告白したわけじゃない。フラれたわけでもない。ただ、あの重苦しい車内の雰囲気で、告白なんてできなかったのだ。先生の態度が、彼の心の中をすべて物語っていた。
けれど私の言葉を聞いたとたん、ユキは厳しい目になった。
「麻耶。相手が答えてくれないのが怖いからって、気持ち押し込めるのは、ただの逃げでしょ?」
痛いところをつかれて、私は言葉を失い、俯いて沈黙する。あの夜の先生の態度に、私はひどく傷ついていた。そしてこれ以上傷つかないように自分を守ろうとしていたのかもしれない。
消せない想いに苦しみながら、もう手は届かないのだと、何も行動を起こすこともせず、ただ決めつけていた。でも心のどこかではわかっていた。先生から、自分の気持ちから、逃げている自分。
「月原先生ね。今週、放課後は英語準備室で一人で残って仕事してるらしいよ」
ユキの思いがけない言葉に、私ははっとして顔を上げた。ユキには先生が好きなことも、旧校舎での出来事も、全部言っていないはずだ。目を丸くしたまま、私は問いかける。
「なんで……」
「わかるよ。何年友達やってると思ってんの? わかりにくい麻耶のことでも、お見通しだって」
そう言って、ユキはやれやれと微笑んだ。
「感謝してよ? いろんな先生たちにさりげなく探りいれんの大変だったんだから!」
その笑顔が苦笑に変わり、訊きまわることはかなり大変だったことを物語っていた。上手く立ち回ってくれたんだろう。
「ありがと、ユキ……」
自然と微笑みながら、私はしんみりとこぼした。ユキは満足そうに笑った後、ふと、また真面目な顔になった。
「チャンスを待ってるだけじゃ、掴めない恋の方が多いんじゃない? 自分から向き合わなきゃ、先生を振り向かせることなんてできないよ」
ユキのその言葉に背中を押されて、私も表情を引き締める。
逃げてはいけないのだ。彼はセンセイで、私は生徒で。でもそのままでいいなんて、もう思えなくなっているから。この気持ちを抑えることはしたくない。
可能性がないことは百も承知だ。けれど伝えないならば、私の気持ちは意味がないものになってしまう。そのことにやっと気がついたら、それまで抑え込んでいた私の気持ちが急激に溢れだし、一斉に向かっていくようだった。
その先に居るのは、彼。私の心をすべて占めている、決して簡単に捕まってはくれないあのひと。
目を閉じれば、あの日見た彼の姿が浮かんでくる。冷めた目に、ちいさなひかり。私の心を一瞬で魅了した、遠いひと。私の心の、すべてをさらっていったひと。
そのまま部活に向かうユキと別れて。突き動かされるように、私は走っていた。英語準備室に居る、彼の所へ。
息を切らしながら勢いでやってきた私は、けれど辿り着いた準備室の扉の前で躊躇した。決心してここまでやってきたはいいけれど、いざ、先生に向き合うということが現実となって迫ってくると、急に怖くなる。しばらく、私はなすすべなく扉の前で立ち尽くしていた。目をぎゅっとつむりながら、こんなことじゃダメだと心の中で自分を叱咤する。
先生は甘くないひとだ。私が諦めれば、そこで私の恋は終わる。だから、今。私はなけなしの勇気を、すべて振り絞らなくてはいけない。
震える手で、恐る恐るノックすると、中から先生の返事が聞こえた。心拍数がこれ以上ないほどに上がっていく。もう引き下がれない。震えそうになる声を抑え、失礼します、と言いながら、私は汗ばむ手で、鉛のように重い扉を、思い切って開けた。
先生は机で何か書類のようなものを書いている途中みたいだった。顔をあげて訪問者を待っていた先生は、入ってきた私が予想外だったのか、怪訝な顔をした。
けれど彼はすぐに、無表情に戻る。まるで私の存在を無視したいとでも言うかのように、手元の書類にその視線を落とした。
「……何か、質問?」
授業中に生徒を番号で当てるときのような投げやりな言い方で言ってから、先生は書類にペンを持った手を走らせ、これ見よがしに仕事を始めた。
大方、体よく私を追い払おうとしているんだろう。だけど私も決心してきたのだ。そう簡単には引き下がらず、はいと頷いてみせる。先生は私をちらとも見ずに、手を動かし続けながら言う。
「……神島が理解できないような、難しい内容の授業は、してないつもりだけどね」
見透かされたようでどきりとする。先生の言うとおり、授業の質問ではないのだ。先生の冷たさにひるみそうになるけれど、私も負けじと言葉を返す。
「いいえ。先生の言葉を受けて浮かんだ疑問に、答えを出すことができないんです。私は、先生の見解が聞きたい」
譲らない私の態度に、先生は観念したようにペンを置き、溜息を吐いた。
「……いいよ。聞こうか」
白々しい、先生もきっとそう思っているだろう。質問だとは言ってみても、私は教科書も何も持ってない。口実を何一つ持っていないのだから。
やっとのことで私を向いた、先生のきれいな瞳。先生は私を振り向かない。拒絶されることなんてわかりきっている。怖くないわけがない。
でも、先生がセンセイだからって、子供じみた感情だって決めつけて、諦めて、大人ぶって感情を隠すなんて、それは違うのだ。
先生への気持ちに蓋をして、気付かないふりをして。精一杯虚勢を張った自分こそが、きっと一番子供だった。そうだ。好きの気持ちは、きっと――……
「人を好きになるのに、大人とか子供とか、関係ありますか?」
私の口から、いつになく強い口調でそんな言葉が出てきた。意外だったのか、少しだけ目を大きくして私を見る先生。
大人しい、目立たない、優等生――先生の中にあるだろう、私の「生徒」としてのイメージ。そんなもの、全部壊してしまいたい。
だって見てしまった。校舎裏で、没収した煙草をくわえる姿。先生がセンセイだっていうなら、学校であんな顔見せないで欲しかった。鮮烈に惹かれてしまったのは、あの時、先生がセンセイの顔をしていなかったからだ。
言葉を失ったのか、何も言いたくないのか。黙っている先生に、私は更に畳み掛ける。
「もしそうだっていうんなら、先生のほうがずっと子供です」
目をそらさないで、ちゃんと私を見てほしい。だって嘘なんかじゃない。偽物なんかじゃない。ただ胸が苦しくて、理由なんて考える余裕もないくらいに、惹きつけられる。
こんな感情、知らなかった。教えてくれたのは、他でもない、今目の前にいる人。ただの生徒じゃ嫌だ。あの教室、黒板と教卓のある空間と、並んだ机の間にある「壁」の向こうから、見てるだけじゃ嫌だ。
だから、私は今、壁を崩そうとしている。
決して崩れそうにもない壁を。
センセイ。せんせい。――先生。
「好きなんです。私は、月原先生が好きです」
吸い込まれそうな先生の瞳を見つめながら、私は想いをすべてぶつけた。