第二章 “Inmost Passions,”〔5〕
程無くして辿り着いた夜の海は、真っ黒な深い色をしていて、吸い込まれそうで怖かった。それでもその神秘的な雰囲気に思わず見入ってしまう。
なんだか――先生みたいだと、思った。先生は夜の海に似ている。
適度な場所に車を停車させた先生は、エンジンを落として、けれど車から降りようとはしなかった。降りて一緒に海を見に行ってくれると思っていた私は、思わず先生を見た。すると先生は私の言わんとしたことを感じ取ったのか、淡白な声で言葉を発した。
「見てきていいよ」
「先生は……?」
「俺は、ここでいい」
先生はそう言ってふっと視線をどこかへやってしまった。その扱いが、なんだか子供を遊びに連れてきてあげた親みたいだ。
私は喜んで一人で出ていく無邪気な幼児じゃない。そんな態度、傷つくだけだ。それに一人で行ったって楽しくも何ともない。先生と行くからこそ、意味があるというのに。
先生は、私のそう言う気持ちをわからないのだろうか。それともわかっていても面倒だから適当にあしらっているのか。どちらにせよあまり嬉しい話ではない。
「それなら、私もここから見てます」
言って、私は窓を隔てた海に視線を向けようとした。けれどそれを途中でやめた。たばこをくわえた先生がライターを取り出しているのが、目に入ったのだ。
「あ、待って」
咄嗟に、先生がライターを鳴らすのを止めていた。すると動作を止めた先生の眼が私を向く。
「たばこは嫌い? ならやめとこうか」
「違います。ライター……、私が、火をつけてもいいですか」
「……変わったことをしたがるね。いいよ」
そう言って、先生は私にライターを手渡してくれた。私は少し震えそうになる手で、握りしめたそれを先生のたばこの元に持っていく。こんな簡単なことをするのにだって、先生が相手だというだけで、私は馬鹿みたいに緊張していた。
かちり、と私の指がライターを鳴らすと同時に、小さな光がそこに生まれる。うす暗い車内で、先生の頬が淡くオレンジ色に照らされ、ぼんやりと浮かび上がった。
心が、切なく揺さぶられる。どうしようもなく惹かれてしまうのだ。決して手の届かないこの人に。そうして見とれている間もなく、その光は先生のくわえたたばこに火をともした。
私の生み出したものが、先生に伝わってゆく。――狂おしいほど、愛おしい瞬間。あんなに不可解だった自分の気持ちも、自覚してしまえば何の抵抗もなく私を支配する。
ライターの小さな灯火すら失って、再び薄暗さに支配された車の中。たばこの煙を気だるそうに吐き出してから、先生は私を見た。どうしてこんなに動作の一つ一つがいちいち私の心音を跳ね上げるのだろう。見つめていたことを悟られないように慌てて目をそらす。少し不自然だったかもしれない。
「いいの?」
「な、何がですか?」
「付き合ってるんじゃないのか? ほら、あの三組の。いくら教師とは言っても、二人で会ったなんて聞いたら怒るんじゃないか?」
先生の言っていることを、私はすぐに思い当たった。三組の、とはタカシのことだろう。この間一緒に居るのを見られたし、そう誤解を受けても仕方ない。
先生にとっては私のことなんてどうでもいいことはわかっている。けれど私は先生に誤解されたくない、と思った。
「彼はただの馴染みです、そんなんじゃない。でも、すごく……、すごく好きな人は、います」
言って、私は先生を見つめた。貴方が好きなんです、と。心の奥からあふれ出すような感情を、一斉に先生に向けて。けれど掴むのがとても難しい先生の視線は、やはり簡単に私から外れていった。先生はたばこの灰を灰皿に落としながら、再び口を開く。
「好きだなんだと言っても、まだ高校生だろう。狭い世界だ」
「……どういう、ことですか」
「たとえば高校の時好きでたまらなかった奴も、大人になって考えてみれば、たいして好きじゃなかったと思えることがよくある。思い込みだよ」
先生の言葉は、それは、案に私のことを言っている。簡単に私のことを決めつけられた気がして、それがなんだか「子供」の「生徒」というイメージ先行で、先生が私のことなんてまるでわかろうともしてくれていないように思えた。
悔しい――。こんなにも私の心を大きく揺さぶる、この大切な感情まで否定されたようで。
「どうしてわかるんですか?」
私が少し強い口調で言ったので、先生の視線が再び私に向けられた。
先生は人形じゃない、人間だ。感情のない瞳に、きっと感情の色の浮かぶ時は来るから。私はそれをどうしても知りたいのだ。何故なら私は先生に、こんなにも焦がれているのだから。
「私の気持ちはだれにも決められない。誰にも、測られない。私だけのものです。先生、私は――」
勢いづいて言葉をまくし立てる私の言葉は、けれど中途半端なまま終わってしまった。ふっと、先生が目をそらしたのだ。たばこの煙を重たく吐き出して。
先生は拒絶していた。言葉じゃなく、全身で。面倒だと、困るのだと、そう言っていた。
そうだ、先生は優しくない。だから簡単に逃げる。向き合ってくれない。ちゃんと、私のことを見てくれていない。生徒だと、その認識を決して外さない。
いつもは職務を適当にこなしているだけのくせに。こんなときばかり“センセイ”だ。気持ちを、言わせてももらえない。
言葉を失って何も言えない私を尻目に、車の時計をちら見した先生は、たばこを灰皿に押し付けてからエンジンをかけた。
「そろそろ、帰ろうか。家まで送るから」
「え……。でもまだ、九時……」
「もう九時、だろう? 子供は帰って寝る時間だ」
「……子供……」
私はもう、打ちのめされたような気分で弱々しく呟いた。子供、なんて。やはり、先生の中で私は不特定多数の内の一人、ただの生徒にすぎないのだと思い知らされた。
発信した車の窓から、遠ざかっていく夜の海。私は窓の外に視線を向けたまま、先生を見つめることすらできなかった。
車の中に残されたたばこの匂いが、なんだか苦かった。