最終章 “So Into You”〔7〕
タカシと話してから、もう一週間がたっていた。その間一回も顔を合わせていない。
辞めると決心したのは、嘘じゃない。でも、図書室での作業が終わる前に辞めるのは、迷惑をかけるし良くないと思った。だからそれが終わったら、けじめをつけるつもりにしていた。
「麻耶、お菓子ちょうだい」
休み時間、ユキにそんな声をかけられた。いつものお約束というか、ユキは私の鞄に常備しているキャンディなどを勝手に取って食べる。一応でも断りを入れられただけ珍しいくらいだ。
次の授業の予習をやっていた私は、特に返事もせず、私の鞄を探るユキに任せていた。すると私の目の前に、突然何かが突きつけられる。
「どういうこと、これ」
はっとして顔を上げる。ユキに突きつけられたのは、鞄に入れていた退学届だったのだ。
「それは……」
「ちょっと来て」
強引に手を引かれ、空き教室まで連れて行かれる。扉を閉めるなり、険しい顔のユキは私に詰め寄った。
「月原先生は知ってるの?」
「……」
「やっぱり知らないんだ。月原先生のこと以外、理由なんてないよね。辞めることで解決しようとしてるの?」
「……もう決めたの。いくらユキでも、何も言われたくない」
悩みぬいて出した答えなのに、堂々としていられないのはなぜだろう。少しだけ感じる気まずさの中、それでも折れる気配のない私の態度に、ユキが眉根を寄せる。
「やっと元に戻ったと思ったら、何してんのよ。勝手に一人で決めることじゃないでしょ!? 麻耶のバカ!」
言い捨てて、乱暴に扉を閉めて出て行く。……“勝手に一人で”? それはどういう意味だろう。私の道だ、私が自分で決めるべきではないのだろうか。そのはずだ。そう思うのに、ユキの声はやけに頭に残って、私はしばらくそこから動けなかった。
その後ユキとは一言も言葉を交わさないまま、放課後を迎えた。更木さんとの作業を終えて、雑談しながら廊下に出る。と、タカシがそこに待っていて、私は驚いた。待つのが苦手なタカシが、ずっとここで待っていたのだろうか。しかも廊下は寒いのに……。
「神島さんの友達? 何か約束でも?」
「あ、えっと。うん……」
とりあえず更木さんに頷くと、気を遣ったのか彼女は先に帰っていった。一週間全く接触がなかっただけに、久しぶりな感じがする。そのまま落ちてくる沈黙。気まずさに耐えられなかったのか、タカシがふと歩き出したので、私もついていった。やがて廊下の途中で、タカシがしびれを切らしたように立ち止まる。
「お前さ、どうしてもあいつが好きなの」
タカシがぽつりと漏らした。私を振り返る不機嫌な目を、真っ直ぐに見返す。
「うん」
「あっそ。お前本当にバカだな」
「……」
ユキに続きまたバカと言われてしまい、私は複雑な面持ちで黙る。と、つかつかと歩み寄ってきたタカシは、突然私の鼻をぎゅっと摘まんだ。苛立ったように眉を寄せたその顔を、瞬きしながら見返す。
「何、いきなり……」
「オレ、散々なことした」
言われた内容が一瞬飲み込めなくて、私は唖然とした。今まで自分を正当化することしかしなかったタカシが、素直に認めているのだ。
「お前のためだって思ってたし、謝る気はないけど。でも、どっか独りよがりだった。お望み通りもう縛らねーよ。オレはお前が好きだから、辞めてほしくなんかないし」
「タカシ……」
「ただそういうオレだからこそ、今のおまえに言えることが一つある。オレの言うことなんて聞きたくないっていうなら、聞かなくてもいいけど」
「ううん。聞くよ」
「……。この前必死になったお前見て、頭冷やして。今日また会ったら、なんか今までのオレみたいだと思った。自分の気持ちでいっぱいになるのもわかる。オレもそうだったかもしれないしな」
「……」
「でも、少しは考えてやれば? あいつも、オレと同じなんじゃねーの。好きな女が学校辞めて、それが自分のためだって知ったら、どう思うだろうな」
はっとしてタカシを見る。そんなことはわかっていた。悲しませるかもしれないと。わかっていた――つもりだった。指摘されて改めて、その重さに気づく。先生が自分を守らず辞めてしまうことを、私は何より恐れていたのに。何も見えなくなって、私が同じことをしようとしていた。
「お前の気持ちは凄いと思う。でも、一人で勝手に突き進むな。オレじゃだめでも、あいつがいるだろ。食えない奴だけど、案外何とかしてくれんじゃねーの。……もし今後、こういうことがあってもさ」
「……。そうだね。気を付ける」
言われたことは確かに心に響いて、眉尻を下げながら答える。私自身の答え、それだけじゃ足りなかったのだ。ちゃんと一緒に居て、気持ちを確認し合って、二人の答えを見つけること。それが想い合うということなのかもしれない。
「言われる前に気づけよ。だからお前はバカだって言ってんだ」
不機嫌にふんと鼻を鳴らし、タカシがまた歩き出した。ついていきながら、私は小さく笑う。ユキにもタカシにもバカ呼ばわりなんて。
……でも、そうだったかもしれない。こうやって道を選択して猛進しては、途中でやり直しつつ進んでいくんだろう。そんな積み重ねの先で大人になるのは、悪くないと思った。
タカシはなぜか靴箱の方向ではなく、別の道を歩いていく。どこへいくのかと不思議に思いながら、見慣れた道順に胸騒ぎを覚える。それでも黙ってついていくと、タカシはある部屋の前でようやく止まった。
やっぱり――英語準備室だ。人の気配がするから、先生は室内にいるんだろう。一体何をするつもりなのか。私が不安を口にする前に、タカシが口を開いた。
「もうお前みたいなバカには付き合ってらんねーよ、麻耶。あの不愉快な写真も、全部削除してやったし……。持ってるだけで癪に障るから」
扉の向こうにまで聞こえそうな声で、タカシが言い放つ。と言うより扉の向こうに向けて、聞こえよがしに言っているようだった。
「誰かさん達が退学になろうと失職しようと、オレには関係ないしな。お前もあいつも大嫌いなんだ。……だから、あいつにもそう伝えて来い」
一方的にそれだけ言い捨てると、タカシはいつものうるさい歩き方でさっさと去っていく。呆けたように見送っていると、ふと準備室の扉が開いてびくついた。
「随分、大きな声で会話するんだね」
室内の暖かい空気を感じると同時に、姿を見せた彼と、真っ直ぐ視線が合う。久しぶりにとても近くで会話して、それだけで緊張していた。
「それで君は、どうするつもりなのかな。もう帰る?」
問われて我に返る。タカシは認めてくれた。そして私の胸には覚悟がある。何かを犠牲にする覚悟とは違う。ユキやタカシが教えてくれた、“一緒に守って行く覚悟”。だったら今、私のとる行動は一つだ。
「いえ。まだ……帰りません。質問をしても?」
「質問、ね。もうさすがに覚えたと思うが、教師の勤務時間は五時までだ」
そんなことを言いながら私の手を引き、室内に入れてくれる。先生が扉を閉めると、廊下の冷たい空気から解放され、暖かい空気に包まれた。
「ただ、君になら例外を認めてもいい。君は俺の、特別な生徒だから」
思わず先生の顔をじっと見つめてしまう。特別なんてのぼせそうな単語を使いながら、そんな優しい目をするなんて狡い。私が頬を染めていると、再び手を引かれ、先生がいつも座っているデスクの椅子に座らせられた。
近くなった石油ストーブのおかげで、足元がぽかぽかと暖かくなる。もしかして先生は、私の頬が赤いのは冷えているからと思ったのかもしれない。でも訂正するのは恥ずかしいから、誤解されたままにしておく。
「質問があるんだろう? 何でも聞いてやるから、言ってごらん」
暖かい掌が、冷えた私の髪をなでる。促されるまま、私は話し出した。
次回更新は2月10日(月)です。
次話、いよいよ最終話です。どうか最後まで応援をよろしくお願いします!
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