最終章 “So Into You”〔6〕
見失っていたのかもしれない。私の一番大切なことは何なのか。
タカシのことだけじゃなく、見えない未来までも案じて臆病に手を離したけれど、無我夢中になって足掻いてでも、そばにいればよかったと思う。
正しいのか、間違っているのか、ずっとそう自分に問いかけてきた。
先生を守るために、正しい選択をするべきだと。
――でも、そうじゃない。きっと正解なんてないんだ。
先生のそばにいても、離れても。誰かは間違っていると言い、誰かは正しいと言うだろう。先生の言ったように、簡単なことじゃないから。だったら自分で、自分自身の答えを決めたい。
先生を守りたいのなら、何があってもこの手で守ればいいだけ。
遠回りしたけれど、私はやっとそれに気づき、そして今からそれを実行するのだ。私のすべてをかけて。
「何か心境の変化でもあった?」
翌日、何気ない昼休みの風景の中、食べ終わったお弁当箱を包みに戻しながら、ユキが何気なく聞いてきた。聞かれた私は目を瞬かせてしまった。心境は確かに変化したけれど、何も言っていないのに。
「なんでわかったの?」
「麻耶の思ってること、目に出るって言ったでしょ。目力よ。目で語るってやつ、ね?」
イタズラっぽく笑って、ユキが言った。
ああ、そういえばいつか、ユキにそんなことを言われたっけ。それにしても、私はそんなにわかりやすいのだろうか。それともユキが私のことを理解してくれているということなのか。後者だと思いたい。
「やっぱりそれでこそ麻耶だよ。先生のことでしょ」
「うん……」
素直に認めると、ユキがふぅと息を吐いた。そして屈託なく笑う。
最近、ユキのこんな笑顔を見ていなかった。
ずいぶん心配をかけてしまったのかもしれない。
「でも、よかった。これでやっと、あれを有効活用できるわ」
「あれって何?」
「ん? 秘密」
意味深なユキの台詞は気になったけれど、すぐに図書室の作業に行く時間になってしまい、結局聞き出すことはできなかった。
そして迎えた放課後。更木さんにお願いして、放課後の作業を休ませてもらった。
私には目的があった。――タカシだ。今日、覚悟を決めて彼と話すつもりだった……のだけれど。
「北村ならあたしが呼んでくるからさ。ここで待ってて」
何故か強引なユキに、空き教室で待たされる羽目になってしまった。
誰もいなくてひたすら静かな中、適当な席に座り待っているけれど、手持無沙汰もいいところだ。確かに今は作業のためタカシと一緒に帰る約束はしていないけれど、別にわざわざこんなところに呼び出さずともいいだろうに。鞄を机の横にかけて、なんとなく顔を机に伏せると、だんだんと眠気が襲ってくる。
ふと、教室のドアが開く音がした。タカシだろう。
早く起きないとまた不機嫌になる、そう思っても、もう少し眠気と付き合いたい気分で、私はそのままの姿勢でいるしかなかった。するとタカシが近づいてきて、私の前の席に座る。
何故か、タカシは何も言ってこない。
私も今更顔を上げられず、しばらく沈黙が流れる。
怒っているのだろうか。私が謝るのを待っているのかもしれない。仕方なく顔を上げようとしたけれど、その前に頭を撫でられた。
優しく、慈しむように私に触れる、暖かい手。
どきりとした。……私はこの手を知っている。
タカシじゃない。彼は――
顔を上げるタイミングを逃したまま、見えない“彼”の姿を想像する。
二人だけの教室の中、彼が私の前の席――本来生徒の座るべき席に座って、居眠りする私を眺めている情景。
長い脚を組んで、いつもの読めない顔をして。
でもその眼差しはきっと、あの誰も知らない優しい色。
あり得ないはずのそんな想像図は、私の胸をきゅんと躍らせた。
やがて彼が立ち上がったのか椅子を引く音がした。
そのまま去っていく足音を、引き留めたい衝動に駆られる。
……でも、まだ駄目だ。ちゃんと向き合えるようになったら、その時は……。
完全に気配が消えて彼が出て行ったのを確認し、私は顔を上げた。
と、前の席の机上に何か紙が乗っている。
手にとってみると、定期的にやっている英語の小テストの答案だった。
名前はユキ。95点を100点に訂正してあるけれど、この問題、最近のものではないような……。
良く見ると答案以外にもユキの可愛らしい字で何か書いてあった。
――“月原先生の採点ミスで満点を逃しました。速やかに訂正し、放課後、三階隅の空き教室に返しに来てください”
「ユキ……」
思わず笑いを漏らしてしまった時、再びドアがスライドした。
今度こそタカシだ。タカシは私の手元を不機嫌に見やった。
「それ何」
「ユキのテスト」
「ふーん。なんでおまえが持ってんの? まぁいいや。帰るぞ」
言い放って、タカシが私に背中を向ける。幼いころから見慣れた背中。
もしかしたら私が気持ちを押し殺していたことで、彼のことも傷つけていたのかもしれない。
「タカシ」
名前を呼んだら不機嫌に振り向く。でもちゃんと私の目を見てくれる。
そこだけはずっと変わらない。私にとって大切な存在であることも変わらない。
でも、今はっきりとけじめをつけたい。
タカシのことを――あの画像を何とかしなければ、先生を守れない。前に進めないのだ。
……先生は、私のこの選択を望まないかもしれない。
悲しむかもしれない。でも、私がそうしたいのだ。私は私の道を自分で選んだだけ。
先生を、そして私のこの気持ちを守るという道を。
さっき触れられた手の優しい暖かさに、私は確信したのだ。
この選択こそが私自身の答えだと。
――確かに先生の言った通り、私は頑固者だ。
「私、学校辞めるから」
きっぱり言い放った私の言葉に、一瞬唖然としてから、タカシは眉根を寄せる。
「……は? 何の冗談……」
「私が生徒じゃなくなったら、問題ないでしょ。認めてくれるでしょ?」
「なっ……、何言ってんだよ……」
「お願いタカシ。疑うならこれを今すぐ出してくる」
鞄から取り出した退学届けに、タカシが衝撃を受けたように目を見開く。
「ふざけんな! 貸せ!」
私の手から乱暴に退学届をひったくると、タカシはそれを破ってしまった。
「オレがこんなことで許すと思ってんのかよ!? なぁ、お前を不幸にしたくないんだ。バカみたいな真似はやめろよ! オレを見てくれよ……」
「バカだなんて言われたくない!」
私が声を荒げて反論したので驚いたのか、タカシは怯んだ。
確かに、他人から見たら愚かなのかもしれない。
訳のわかっていない高校生が、衝動に任せた結末と言われるかもしれない。
恋愛のために盲目になった、短絡的な過ちに見えるのかもしれない。
でも、そうじゃない。絶対に失いたくないものがあるのだ。
この気持ちは私の幸せと同義だ。何に代えても守るべき、大切なもの。
私がこの選択を後悔することはありえない。
「不幸にしたくないって言うんなら、もうこれ以上私を縛らないで。タカシの気持ち、嬉しいよ。でもタカシが私を思ってくれるみたいに、ううん、それ以上に、私は先生が好き。失いたくないんだよ……」
「……」
「他には何にもいらない。一緒に居させてほしい」
険しい顔のまま唇を引き結んで、タカシがひどく悲しそうな顔をした。
いつも必死に虚勢を張っているけれど、強い感情を持て余し動揺したときには、表情にそのまま出てしまうのだ。タカシは昔からそうだ。
そんなタカシを久しぶりに見て僅かに胸は痛んでも、私に譲る気はない。
身を翻して教室を出ていくタカシの姿を、黙って見送った。
次回更新は2月7日(金)です。
残すところあと二話。最終話は二話分くらいのボリュームになりそうです。
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