最終章 “So Into You”〔5〕
私は驚いて固まるしかなかった。
更木さんが先生のことを好きだったのは知っていた。
でも私の気持ちに気付かれているなんて思いもしなかったのだ。
「私もね、すごく好きだった。追いかけて追い回して、それでここも見つけたの。ここで本を読むんだよね、彼。いつの間にかぱったり見なくなったけど」
言って、更木さんは伏し目がちにほほ笑みながら、椅子の背をそっと撫でる。
彼女のその表情、その仕草だけで、私は彼女の心を見抜いてしまった。
私と同じ。今この時も、彼を想っていると――
だからこそ、更木さんもこの椅子の存在を知っていたことに、私は若干落ち込んだ。
自分だけの秘密のように思っていたのかもしれない。……何を勝手に独占欲を振りかざしているんだろう。今更意味はないのに。
そんな私の内心なんて知らない更木さんが、言葉を続ける。
「告白もした。でも月原先生をずっと見てたら、無意味だって思ってあきらめた。……だって彼の視線の先には、いつも神島さんが居たから」
思いもよらないことを言われ、私は目を見開いた。
そんなことがありえるだろうか。確かに好きだと言ってもらった。でも私自身、視線を感じたことなんてないし……。
「気づいてなかったでしょ? 月原先生の見つめ方ってすごく上手いから。特に神島さんには、絶対に気付かれないように気を付けてたんじゃないかな。よく観察しないと、わからないくらいにね」
何とも言えなくて、私は沈黙する。
彼女の気持ちは本物だ。
更木さんがそう言うのなら、そうなのかもしれないけれど……。
今、それを知るのは複雑だった。
「私、辛くて……。彼氏作って失敗したりしてね。だからあきらめたけど、もう好きじゃないとはまだ言えないから。今でもつい、月原先生を目で追っちゃうんだよね。最近の彼、どこか変な気がして……。何かあった?」
「えっ……」
突然話を振られ、私は困惑した。
断定できるわけじゃないけど、彼女は核心をついている。
最近私は先生から目を逸らしがちだったから気づかなかったけれど、もし彼が変だとするなら、もしかしたら私が拒絶したせいなのかもしれない。でも私はとぼけることにした。
「先生が変な理由を、なんで私に聞くの……?」
「だって彼の心を動かせるのなんて、神島さんだけだろうから」
「……」
言葉に迷う。何も言えないのだ。後ろめたかった。
真剣に彼を想いながら、彼の気持ちを思い身を引いた更木さんに、彼の気持ちを拒否した私が何を言えるっていうんだろう。でも、私は間違っていないはずだ。だったら言えるはずだ。ううん、言うべきだ。私の決めた選択を、その理由を。
葛藤した末、私は弱々しく声をもらした。
「先生は、先生だから……」
「……? どういう意味……?」
「生徒じゃ、そもそも好きになる資格がないでしょ?」
その一言を聞いて、更木さんの顔色が変わる。
「何……言ってるの? まさかそんな理由で、身を引いたってこと?」
愕然とした更木さんを前に、私は目を伏せる。
すると彼女は、人当たりの良い印象の彼女らしくなく、皮肉に笑った。
「……やっぱり優等生なんだね、神島さんって。物わかり良く、いい子にして。それで満足?」
その台詞に、今までの私の葛藤を馬鹿にされた気がして、私は眉根を寄せながら強く拳を握った。
「あなたにはわからない。何も知らないでしょ? 私がどんな気持ちで――っ!」
言いかけた途中で強い衝撃を受け、私は必然的に言葉を切る。
じんじんと痛みを感じる頬に手をやりながら、唖然とした。平手打ちされたのだ。
「わからないよ。わかりたくない。神島さんみたいな弱虫の気持ちなんて……!」
私をぶった手をそのままに、更木さんの目に涙が浮かぶ。
彼女が涙を流すのを、なんとも言えない気持ちで見ていた。
「私だって、考えなかったわけじゃないの……。迷惑かけるかなとか、見つかったらただじゃすまないとか。でも、そんな障害には負けたくないと思った。この気持ちひとつあれば乗り越えられるって。そう言い切れるくらい、好きだって思ったから」
そう言って涙を指先で拭い捨て、彼女の眼が私を見据えた。
ひたむきで、真っ直ぐで、何の迷いもない、きれいな眼差し。
「あなたも、そうなんじゃないの?」
ぶたれた頬よりもずっと強く心が痛み、私は顔をゆがめた。
失われていく、懐かしさを伴った夕暮れの赤い色。
やがて暗さを増していき、あの日と同じ景色を見せるのだろう。
学祭当日、足を踏み入れた夜の図書室――。
彼はここにいた。
窓際に立って腕組みをし、背中を窓にもたれかけさせて、顔を窓の外に向けて。
そして私もここにいた。彼を見据え、彼の前に立っていたのだ。
真っ直ぐな目をして、ひたすらに彼だけを思って。
強い想いを胸にした過去の自分と、目の前の更木さんとが重なる。
彼女はかつての私だ。私が変わってしまっていたのだ。
私は生徒だから、先生と結ばれることはできないと。
だからこの気持ちを封じ込めると決めた。自分の心を犠牲にして、先生を守るべきだと。でも――
――“本当に、それが私の答えなの?”
私の頬に、抑え込んできた涙が伝った。
ううん、……違う。それは私自身の答えなんかじゃない。
私の気持ちより、先生の気持ちより、ただ周りの目を優先しただけだ。
でも、何よりも大切な気持ちを見つけた今、先生の言ったとおり、そんなことなんてどうでもよかったのに……。
あの夜ここで告げた気持ちに、嘘偽りなんてひとつもなかった。
彼を見つけた瞬間も、めげずに彼を追いかけていた時も、ずっと。
先生への気持ちこそが、私のすべてだった。
なのにどうして私自身が、それを否定していたんだろう。
「神島さんなら、きっと大丈夫だよ。あの月原先生の気持ちを掴んだんだからさ」
冗談ぽくそう言って、小さく笑った更木さんは私の肩に手を置いた。
照れ隠しのように鼻をすすりながら、私は更木さんに笑みを返す。
更木さんの気持ちを無駄にしたくはない。私は、ひとつの決意を固めていた。
長々とうだうだして申し訳ありませんでした。次話、やっと先生が登場します(笑)
次回更新は2月5日(水)です。
前回も書きましたが、今後の更新予定は、2月5日(水)→2月7日(金)→2月10日(月)です。