最終章 “So Into You”〔3〕
先生への想いを手放したことで、私の生活は平穏なものに戻った。
先生に出会う前のような、なんてことはない普通の生活。
朝起きて学校に行って、特に何事もなく過ごし、そして家に帰る。
その繰り返しを積み重ね、気づけばすっかり寒い季節になった。
だけど私の想いもまた、子供でありながら厄介なものであったらしい。
簡単に切り替えることなんてできない。先生の授業を受けるたび、遠目に彼の姿を見つけるたび、心を押さえつけるのにまだ苦労している。
でもそれでいいのだ。あとは時間が解決してくれるだろう。
そうでなくとも、いずれこの学校を卒業する日が来る。
もしもあの時私が違う選択をして、一緒にいたとしたら。
卒業すれば生徒じゃなくなり、彼のそばに居られる資格を得られるところだ。
でも、今この状態のまま卒業となれば、近づくどころかもっと遠くなる。
学校にいくこと。先生がセンセイであること。私が生徒であること。
この想いの足枷とも言えるそれらの事実は、今私と彼の唯一の接点でもある。
その接点を失ってしまえば――私と彼をつなぐものはどこにもなくなる。
「麻耶」
帰ろうと鞄に荷物を詰め込んでいたら、ユキが声をかけてきた。
「……北村。玄関のとこで待ってる」
仏頂面で伝えてくれたあと、ユキは目を伏せた。
ユキはすでに、鞄を肩にかけている。帰る途中で言付けを押し付けられたに違いない。
今日は部活が休みの貴重な日だと、ユキは言っていた。
早く帰りたかっただろうし、タカシの伝言なんて無視しそうなものなのに、わざわざ戻ってきてくれたのだろうか。
最近のユキはなんだからしくない。
私に対して気を遣っているというか、私の態度に困惑しているように見える。
生徒以上に関わるのはやめる、そうとだけしか伝えていないから、それも当然かもしれない。
マフラーを放るように巻きつけて、ありがとうとだけ返す。
教室を出る私に、ユキも黙ってついてきた。
廊下に出たところで、ふと、遠目に特別な姿を見つけた。
彼に関して目ざとい自分に苦笑しながらも、そのままじっと視線を向ける。
廊下で質問につかまったのか、教科書を見ながら生徒と何やら話している、先生。
やがて真面目そうなその男子生徒がお辞儀をして、そして先生はそのまま去っていく。
「麻耶!」
突然、ユキが大きな声で私の名前を叫んだ。
驚いて振り向くと、挑むようなユキの視線は、先ほど私が見ていた方に向いている。
視線を戻すと、驚いた様子の生徒たちが数人、そして――月原先生がこちらを見ていた。
結構な距離があるというのに、目が合ったと実感する。
一瞬の間お互いがお互いをじっと見た後、何事もなかったかのように違和感なく、視線は自然とはずれて行った。
我に返ったと同時に、廊下の冷たい空気を頬に感じる。
マフラーをしっかり巻き直し、玄関に向かう。あまり待たせると、機嫌が悪くなるから……。
でも、今日の足取りは昨日より少しだけ軽い。
帰りにも思いがけず姿を見れたから。それだけのことで現金だと思うけれど。
私を見守ってくれるといった先生と同じように、私もいつも見つめているのだ。
遠くからでもいい。そばにいられなくても、同じ気持ちでいられるだけで、幸せなんだから。
――そう、幸せだ。だから……私はつらくなんかない。
ふと腕を引かれ振り向くと、険しい顔をしたユキが、さらに顔をゆがめて呟く。
「……どうして?」
私を真っ直ぐに見つめる真剣な瞳を、直視することはできなかった。
何も答えられなかった。ただ曖昧に笑ってごまかす。
ユキは焦れたような顔をして、私の腕を離した。二人とも無言のまま、再び玄関に向かう。
「遅いんだよ」
靴箱の前で私を待ち構えていたタカシは、やはり不機嫌気味だった。
でも私も慣れたものだ。「ごめん」とだけ返しながら、靴を履きかえる。
ユキは私とタカシを一瞥すると、黙りこんだまま身を翻して帰っていった。
付き合うかどうかと言う話は、何とか保留にしてもらったけれど、こうしてタカシと登下校を共にするのがその条件になっていた。でも、最近は手をつなぐことを強制しなくなった。それに随分ほっとしていた。
俯き気味に駅への道を歩きながら、タカシの話に相槌を打つ。
ユキの問いかけが頭から離れず、気分は落ち込み気味になっていた。
そのせいだろうか。いつも通りに対応したつもりだったけれど、私は変に鋭いタカシの不機嫌を増長させてしまったらしい。突然立ち止まったタカシに一歩遅れて従った私に、タカシはイラついたような表情を向けてきた。
「笑えよ」
「え……?」
「笑えって!」
目を瞬かせてタカシを見返してみても、タカシは私が従うまで許してはくれないようだった。
どうしてだろう。昔はもっと自然に話していたのに。
笑顔を交わし、楽しいと感じることだってあった。
幼なじみで気を許せて、ちょっと子供なところもあるけれど、誰よりも私のことを思いやってくれる大事な存在だったのに。そんな関係はどこかでおかしくなったまま、もう戻れないところまで来ている。
結局不器用にしか笑えない私に、タカシは舌打ちをして歩き出した。
その後をだまってついていく。
色々なものを失った。先生への気持ちを捨て、タカシに従うという選択によって。
その結果がこの現状だとしても、私は後悔なんてしない。
大人になるんだ。先生を守れる大人に。
……でも本当に、これが大人になるということなのだろうか。
我慢を覚え愛想笑いして、自分を周囲に合わせ、心を押し殺す。
もしそれが大人の在り方だとするなら、今の私は確実に大人に近づいている。
だけど、私はそうやって変わってきた自分を、嫌いだと思った。
先生に出会ったころの自分を思い出すたび、戻りたいなんて思うほど。
吐き出したため息が白く消えていくのを眺めながら、私はまた思い返す。
出会った頃よりも近いようで、ひどく遠く見えた彼の姿を。
苦しい展開で申し訳ありません。
次回更新は1月30日(木)夕方です。
ご感想へのお返事が間に合わず、今日か明日で返させていただこうと思います。
すいません><