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第二章 “Inmost Passions,”〔4〕




 学校からそのままやって来たのか、スーツのままの先生は、右手に吸いかけのたばこを持っていた。そこから一筋の煙が細く立ちのぼっている。その瞳に浮かぶつめたい色が、いつもよりも凄みを増していた。


 男は悔しそうに唇を噛んでから、でも必死に食い下がろうとした。


「な、何だよオマエ……邪魔すんなよ! ……ほら女、来い!」


 苦し紛れの男は叫ぶように言って、私の腕をぎゅっと力任せにつかんでひっぱった。


「痛い、離して下さい!」


 思わず泣きそうになりながら、私は叫ぶ。するとほんのわずか、よく見ないとわからないくらいに、先生は眉根を寄せて。それでも余裕は失わずに、私と男の間に割り込むように入ってきた。


「な、邪魔すんなって……、うわっ!?」


 先生はまだ凄もうとする男の手首をつかんでひねり上げた。右手でたばこを吸いながら、左手で軽々と。


 先生はいつも右手でチョークを握っている。先生の利き手は、右のはずなのに。細身の体のどこに、こんな力を隠していたんだろう。

 男から解放された私は、庇うように私の前に立った先生の背中の後ろから、ただ黙って見ているしかなかった。


「痛い! 痛いって! 離せよ!」


 男が涙目になりながら、情けない悲鳴を上げた。それでも先生は手を離さなかった。


「今、お前がこいつにしてたことを、再現してやってるんだぞ?」


 先生の後ろにいるから表情までは見えなかったけれど、先生の声は、いつもどおりに冷静だった。


「わかった! 悪かったよ、だから離せ!」


 男が観念したようにそう言うと、先生はやっと男を解放した。腕をかばうようにして男はその場に崩れ落ちてうずくまる。先生は男の目の前の地面に吸いかけのたばこを落とすと、それを足で踏みつけた。


「まだこいつに用があるなら、俺を通してもらおうか。人の女に手を出すなら、それなりの覚悟はしてもらう」


 先生の静かな声が、思いもしない言葉を発した。私は、耳を疑った。それは、先生が言った意味は、私が先生の彼女だって意味のはずだ。


 そう考えついて、私の頬が一気にかぁっと火照った。せわしなく鳴り響く心臓の音。混乱する頭で、それでもこの状況を考えて。先生が私を守るため嘘を言ってくれたのだと、なんとか理解した。こういう男には、そう言ってやった方が早いのだ。


 でもそうわかっても、私は今。心の奥をしめつけるいとおしい感情を、抑えるすべを知らない。私を守ってくれた。あの先生が。そう思うだけで、夢をみているときのような幸せな気分になった。そんなことを思っている私を知るはずもない先生が、突然私を振り向いた。


 心臓が冷たくどきり、とした。


 先生は、相変わらずの無表情。先生の背中ばかり見てたから、気がつかなかった。やはり熱のないその瞳は、時々すごく――怖い。人を惹きつけておいて、でも簡単に突き放すような。


「なんだよ、男付きかよ……。お前も彼氏ならさぁ、自分の女一人にしてんなよ!」


 敗北者のような男が立ち上がって、先生の背中に罵声を浴びせた。でも先生はもう、男のことなど眼中にないようだった。


「行くぞ」


 先生ははっきりと私に発して、男を残して車の方に歩きだした。私は「はい」と言って、ついていくしかできなかった。


 男が小さく舌打ちするのが聞こえて、振り向くと、逃げるように早歩きで去って行くところだった。分が悪いとやっとわかったんだろう。


 助けてもらったことは、夢のようですごくうれしかった。でも、先生はもしかしたら迷惑だと思っているかも知れない。私が謝ろうと言葉を探していると、先生はすでに車の前にいた。


 気づいた私も慌てて追いかける。ドアロックを解除した先生が車に乗り込むのを見て、一瞬ためらったけれど、私も遠慮がちに助手席のドアを開けた。


 先生は私が助手席に座るのを見ても何も言わなかった。とりあえず、乗ってもよかったということだろう。ほっとした私は、おずおずとさっきの出来事についての謝罪を切り出した。

 

「あの……、すいませんでした。迷惑……」

「ああ、別にいいよ。教師は、生徒を守るのが務めだから」


 先生はどうでもよさげにそれだけ言ったきり何も言わない。無言でシートベルトをして、無言でエンジンをかけている。


 わかっていたけれど、ショックだった。先生はセンセイで、私は生徒で。それ以上もそれ以下もないんだと。今日の約束も、生徒としてとりつけたただの交換条件。でも、先生は私の中ではもう、センセイなんかじゃないのに……。


 何か気まずくて、私もシートベルトをしてから、そのまま俯いた。すると短いスカートから剥き出しになった自分の足が目に入る。きっと呆れられている。派手な化粧をしてきた上にこんなスカート。そして酔っ払いの男に絡まれるなんて。


 馬鹿みたいに張り切って、大人ぶって。やっぱりこんな服、持ってこなければよかった。


「悪かったね」


 後悔の真ん中に居た私は、突然の先生の言葉が、すぐには理解できなかった。


「え……?」

「面倒を起こさないようにあんなことを言ったけど……、いい気分はしなかっただろう?」


 先生の言葉の意味を考えて、男に“俺の女”と言ったことだろうと気づいた。気にしてくれていたなんて。


「そんなことない! 私、嬉しかった。先生が私のこと、かばってくれたって!」


 私は思わず身を乗り出して、強い口調で叫ぶように言っていた。先生が私を向いて、意外とでも言いたげな顔をしているのを見て、我に返りはっとした。先生は何気なく言っただけなのに、なにを必死になって否定しているんだろう。


 でも驚いたことに、先生は、突然口元だけでふっと笑った。あの日旧校舎で見たのとおなじように、口角を少しだけ上げて。それはほんの小さな笑みと言えるかもわからないようなもので、笑顔とは程遠かったけれど、それでも私の心拍数を上げるには十分すぎるものだった。


 心臓が強くどきりとして、胸の奥がきゅうとしめつけられる。頬が火照っていくのが自分でもわかって、先生を直視できなくなった。


「神島は、掴みどころがないね」


 先生の言葉は、私をすごく幸せな気分にさせた。言葉の内容がどうとかじゃなく、ただ、先生が私のことについて表現してくれたことが嬉しかった。今までは、先生の視界に入ることですら難しかったのだ。


 とうとう、赤くなった顔をあげられなくなってしまった私。俯いて先生の左手を無駄に見つめながら、上ずりそうな声を抑え言葉を返す。


「……それって、褒め言葉ですか?」

「褒めてもないし、けなしてもないよ。思った通りを言っただけ」


 先生はいつもどおりの落ち着いた声でそう言った。何か言おうとしたけど、何も言えなかった。再びしんとした車内で、私は先生の言葉を、もう一度自分の中で飲み込もうとする。


 掴みどころがない、なんて。そう言えば前に、ユキにもそんなことを言われたことがあった。でも、いつも氷みたいな目をしている癖に、こんな風に急に笑ったりする。掴みどころがないのは、むしろ先生のほうなのに。


「どこに行く?」


 先生がまた急に口を開いたので、またどきりとした。ハンドルに両腕で寄りかかり、先生が顔だけこっちに向けている。その仕草さえ、いちいち恰好良い。


「あ、えっと、どこでも……」

「今は、神島のための時間なんだろう?」


 感情の読めない、あくまで静かなトーンの先生の声。そうだ、私はそう言った。先生の時間をくださいと。けれど行き先も先生に任せきりだなんて、面倒だと呆れられるかもしれない。


「あ……、海に。海に行きたい、です」


 咄嗟に、私は思いついたことを言った。

 この街は海が近い。恋人たちのデートスポットだ。学校からも適度に離れているから、誰かに見つかったりもしにくいと思ったのだ。


 先生はわかった、とだけ言って、車を発進させた。そのまま静かな時間が流れる。いつも遠くに居るはずの先生と車に乗っているなんて、なんだか非現実的で、不思議な感じがした。


 ちらりと横目で運転中の先生を見てみると、信じられないほど端正な横顔が目に入り胸が高鳴る。


 私を守ってくれた先生は大人で頼りになって、恰好良くて。でも私は生徒だからあんな風に守ってもらえただけ。生徒じゃなくなったら、きっと視線も向けてもらえない。だから、先生に当たり前に守られる、先生の“彼女”は、すごく幸せなんだろうと思った。


 結婚はしていないと聞いたことがある。でもこんなに恰好良いんだから、恋人がいない方が不自然だ。そう思ったらどうしても気になって、好奇心に負けた私は、先生の横顔に思わず尋ねかけていた。


「先生は、彼女とかいるんですか?」

「……気になるの?」


 先生は前を向いたまま、表情を変えずにさらりと言った。瞬時にかっと顔に血が昇る。先生の言葉の一つ一つに翻弄されている。けれど先生の方は別に私なんかを翻弄しようとしているつもりは全くないようで、それ以上焦らそうともせず、案外あっさりと答えをくれた。


「見てわかると思うけど、人付き合いが面倒な方でね。恋人を作っても、愛想を尽かされることが多いよ」


 先生の言葉に、私の心が一気に舞い上がる。それは、今は恋人はいないという意味だ。私は必死にそんな心の内を隠し、そうなんですか、とだけ言った。


 三度目の沈黙。私は、今視界に入ってくる、先生を構成する一部すら見逃さないように、しっかりと記憶に焼きつける。


 あっさりとしてクッション一つない、淡白な先生の車の中。たばこのにおいは、先生のにおい。


 私は見つからないように、そっと隣で運転する先生を見つめた。先生の横顔を見ると、なんだかどうしようもない気分になった。


 先生の瞳を見つめて、好きだって言いたい。先生をぎゅっと強く抱きしめたい。先生の長いまつげに触れたい。先生の唇に――キスしたい。


 ああ、きっとこれが好きだって言う気持ちなんだ、と思った。それは思っていたよりも、甘い気持ちじゃなかった。たばこのにおいみたいに、ほろ苦いキモチ。


 嬉しいより、泣きたい。

 楽しいより、切ない。

 恋しいより――いとおしい。


 先生は何も言わない。私も何も言えない。けれど私は先生との空間が心地よくて、とても幸せだった。永遠に続いて欲しいと願ってしまうほど。

 わかっていた。これはただの交換条件で、私が奇跡的に掴んだたった一晩だけの夢。


 ――車の窓に、夜の海が見えてきていた。




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