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第一章 “Yes,I Long For You.”〔1〕



 あの時、あの場所で。いつもとは違った彼に出会うまで、私はこんな感情を知らなかった。彼の吸うたばこのにおいにも似た、ほろ苦い気持ち。


 嬉しいより、泣きたい。楽しいより、切ない。

 恋しいより――いとおしい。


『彼は、センセイ』



 ◇ ◇ ◇



 ストイック――彼のイメージは、まさにそれだった。

 年は二十代後半で比較的私たちと近く、綺麗な顔立ちをしているのに、その雰囲気はまるで近寄りがたく、彼のイメージを冷たく無機質なものにしていた。


 教卓の前に立った彼の指は、いつも通り 黒板に白い文字を落としてゆく。


 やがて書き終わった彼がチョークを黒板の溝に投げ捨てると、衝撃で折れた半分が床に落ちた。それでも彼は特に気にした様子はない。まつげを伏せ、英語の教科書に目を落として。そしてまずまずの発音で、淡々と文章を読み上げる。表情ひとつ動かさない、無愛想な人。


 彼はこの教室という同じ空間に居ながら、私とは全く違うところに居る。



  やさしいキスの仕方

  〜You Explain Simply How to Kiss〜

  第一章 “Yes,I Long For You.”




 休み時間に恋の話をする、というのは、高校生らしくあたりまえな日常。でも私の場合、語るべき恋の話がないからいつも聞き手に回るしかない。すると必ず意見を求められる。


 今日も例にもれず、ユキという私の親友は週末の彼氏との話を終えてから、「麻耶はどうなの」と私を見た。


 瞬間、いつものように頭に浮かぶのは、無表情で無愛想な、彼。なんて途方もない話だろう。そんな子供じみたものを信じられるほど、私は子供じゃない。


「誰かを好きになるってどんな感じ? どうやったら好きになるの?」


 私はユキに向かってそう言った。質問に質問で返され、ユキは困ったように笑った。私の返答は、暗に私の恋の話が 相変わらず何もないことを告げている。だから今時の高校生にして、こんな質問をするのはきっと私くらいだ。


「方法論じゃないよ。簡単には語れないけど、ひとつだけ、教えたげる」


 ユキはまるで秘密の話をするかのように、意味深な笑みを浮かべた。


「落ちるもんなのよ、恋は」


 ユキのその言葉と同時に、授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。それぞれ集まって話をしていた生徒たちが、ぱらぱらと散っていく。私とユキも自分の席に戻る。次は彼の授業。前の授業が終わった時から、準備は念入りに終わらせてある。


 ――そうして10分。


「さぁ、授業始めるぞ。席につけ」


 その言葉とともに、10分の遅れを気にした様子もなく教室に入ってきた彼に、まだ少しざわめいていた教室が一気に静まり返る。席を離れていた数名が、慌てて腰を低くしながら 自分の指定された場所に戻っていく。


 授業の始まりの、日直の号令と挨拶は必要ない。彼は面倒だとそれを嫌う。教卓に教科書を開き、自分の準備ができたら、何の前振りもなく授業に入る。それが彼のやり方なのだ。


 生徒たちが落ち着いたところで、彼は黒板の端に書いてある、今日の日付をちらりと見た。


「じゃあ、今日は12日だから……、12番、読んで。25ページ」


 12番――私だ。一呼吸置いて、裏がえらないように慎重に「はい」と答えた私の声は、きっと彼の耳には届かなかっただろう。


 立ち上がり、指定されたページを読み上げる。彼とおなじように淡々と、抑揚のない声で。英語を読んでいるはずなのに、発音はまるで日本語のそれだ。


 彼は私の名前を呼ばない。

 彼は私の名前を知らない。

 彼は私の名前になんて興味がないのだ。


 私だけじゃない。きっと彼はこの教室に、学校に居るすべての生徒と呼ばれる全員に、興味を示していない。


 教科書を無意味に読みあげる私の声は、はたしてその耳に入っているのか。彼はちらりとも私をみることなく、チョークで黒板をなぞり続けている。私が読み終わって座ってみても、半ば投げやりに動いているその手は止まらなかった。


 目を凝らすと彼の周りに、チョークの白い粉がかすかに舞っている。窓から差し込む光の当たった部分だけしか見えないその白いヴェールは、どこか幻想的にも見えた。手が届かない場所にある虹のような感覚。


 黒板と教卓のある空間と、並んだ机の間には「壁」がある。センセイと生徒。大人と子ども。


「この文章をどう訳したらいいのか。それがわかるポイントになっているのが、これ」


 先生は、チョークの先で黒板に書いた英文の一部をコンコンとつついた。ポイントだと言っている割に、相変わらずの抑揚のない声。彼がここに居ることを仕事だと割り切っているのは明らかだ。忠実に与えられた役目をこなしているだけ。本当の顔なんて、決して見せない。無表情だとかそういうことじゃない。今ここにいるのはセンセイとしての彼であって、彼自身はここにはいない。


 恋なんて、そんなんじゃない。でも興味がある。知りたい。見てみたい。その心が動く瞬間を。冷めた目が、熱を持つ瞬間を。

 



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