2.お嬢と逸品
後書きに専門用語の基礎知識追加
コンコンとノックをする音で目が覚めた。
「アートゥ、奥様がお呼びよ」
「大至急行きます!」
僕を呼びに来た使用人の声に慌てて返事を返し、起き抜けの顔を洗う。見苦しくないように身支度を整えると、急いで奥様……つまりユーフェミアの母君の部屋へと足を運んだ。
「まあ、アートゥ、早かったわね。朝食を一緒にいかが?」
「奥様さえよろしければ、喜んでご相伴いたします」
部屋で僕を待ち構えていた奥様の、朝食をともにするようにとの言葉ににっこりと微笑み、優雅に礼をする。役得だ。ただの使用人ならそうもいかないが、吟遊詩人だとこういうことがたまにあるので嬉しい。
「お前にね、演奏を頼みたいと思ったのよ」
「奥様の仰せであれば、もちろん喜んでお承ります。どのような曲をお望みでしょう?」
たしか奥様は、3日後にご友人を招いてお茶会を開く予定だったはずだ。おそらくそこでの演奏だろう。
──ああ、ひさしぶりにまともな吟遊詩人としての仕事かもしれない。最後にちゃんと吟遊詩人らしいことをしたのっていつだったっけ。
喜びに打ち震える僕に、奥様はいくつかお気に入りの曲目を上げていった。どれもぐだぐたに甘く、甘すぎて口から砂糖が流れ落ちそうなロマンスの歌ばかりである。ベクトルの向きは違うが、奥様も相当なお花畑の持ち主なのだ。
「わかりました。ところで、新しく仕入れた曲があるのですが、そちらもいかがですか? 海を越えて悪竜を退治した英雄とさる国の王妃の、道ならぬ恋の歌なのですが」
「まあ、素敵。ではそれも入れておいてちょうだい」
「喜んで」
“道ならぬ恋”という単語にぱああっと脳内のお花畑が満開になったのか、奥様は蕩けそうな笑顔で頷いた。たぶん、頭の中では英雄と王妃が愛してるだのなんだのと言い合っているのだろう。この手の物語を聞くたび、当人同士はいいけどどう考えたって周りはド修羅場だよなあと思うのだが、ご婦人方はそんなことどうでもいいらしい。
所詮他人事だし、そんなものか。
それからいくつか最近の流行やら噂話やら、奥様の喜びそうな話をして、退出した。うん、こうだよ。吟遊詩人ならこういうのが本来の仕事なんだよ。魔導書とかサバトとかどう考えたって僕の仕事じゃない。
「あら、アートゥ、ここにいたのね」
奥様の部屋を出たところで背後からいきなり声を掛けられて、一瞬飛び上がりそうになりながら振り向いた。
「お嬢! 何か、僕にご用でも?」
どうやら僕を探していたらしいお嬢のようすに、僕は嫌な予感を禁じ得ない。
「うふふ、新しい魔導書が手に入ったの。今度こそ悪魔王を召喚よ!
……アートゥ、この前みたいにうっかり天使が出てくるのはなしよ」
「はい」
平常運転すぎるお嬢に膝から崩れ落ちたくなるのをぐっと堪えて、僕はお嬢から包みを受け取って……包みを通してひんやりと伝わる感覚に、さっそく背中を冷や汗が伝う。
「……お嬢、これどこで手に入れたんですか」
「いつもの商人よ」
これ絶対だめな本だ。包みを開ける気にもなれない。表紙見るのも怖い。包んであるとはいえ、なんでお嬢は平気で持ち歩けるのだ。あとでエリアスに言って、こんな危ないものお嬢に売るなと商人を締めておかねば。
「アートゥ?」
「あ、いえ、いつものように、中身確認してお嬢が使えるようにしますね」
あははと笑いながらとりあえずそれだけを言って、背後に控えるエリアスに後で来いと目配せをした。
エリアスがまたかと引きつった気がするが、たぶん気のせいではなかろう。なんせ、前回に続いて今回もなのだ。
慌てて自室に戻ってまず厚手の革の手袋をしっかりとはめて、おそるおそる包みを解くと出てきたのは……。
「げえ、装丁のこの皮って……」
口に出すのも憚るものの皮を鞣して贅沢に使った装丁の、その道のひと垂涎ものの逸品です。僕もさすがにこんなの見る日が来るとは思いませんでした。
……お嬢、くじ運がいいのか悪いのかわからないよ。
処分にしろなんにしろ、僕の手に余ることには間違いはないので、いつも通りジャスパーのところへ持ち込もうと考える。その前に、少しだけ中を確認しておかないとな。
「げ、インクまで……」
あらぬものを原材料として使っているインクはもうどう見ても禍々しい色になっていた。あまりにガチな作りの魔導書に、よくお嬢は平気でこれを持ち歩けたなと考えて、思わず椅子の上で膝を抱えてしまう。直接触ったりしただけでただで済む気がしないものを、商人もお嬢もよくもまあ、何も感じないで扱えるものだ。お嬢はともかく、商人はちょっと調べたほうがいいんじゃないだろうか。
ガンガンと扉をたたく音がして、あ、エリアスが来たなと思う。
「開いてるよ」
膝に顔を伏せたまま声を掛けると、思った通りエリアスが乱暴に扉を開けて入ってきた。
「今度は何……どうした?」
「……この前以上に本物で、今へこんでるところ。相当ヤバいよこれ。素材からしてちょっと違う。いつもの商人、どうにかしたほうがいいかもよ」
「……どうヤバいんだ」
「まず、これちゃんと読んだら悪堕ちしかねない。だから召喚の魔導書かどうかは不明だけど、装丁に使われてる皮はどう見ても悪魔のものだし、インクもたぶん人かなんかの血が使われてる。つまり相当ガチっていうか、その筋のひとが涎を垂らして手に入れようと襲ってくるレベル。推測だけど、その方面に大人気のとある本を一部写したものじゃないかな」
エリアスはそこまで聞いて、なんでそんなものがと頭を抱えた。
「つまり……」
「うん。こんな本、噂になってないほうがおかしいから、しばらく身辺注意したほうがいい。夜とかね」
はあ、と溜息を吐きながら、エリアスは「商人を締めるという意見には賛成だな」と言った。
「僕も、ちょっと情報とか気をつけとくから……あ、君のとこって、どっか善なる教会に伝手があったっけ?」
「うちは代々正義と騎士の神の教会の信徒だ」
「なら、そっちも気をつけといて」
訝しげに目を細めるエリアスを、僕はちらりと見る。
「この本のせいでお嬢が教会に言いがかりつけられたら困るでしょ」
「その時はお前を差し出すから問題ない」
「それでもお嬢の責任問題にはなるよ」
「……気をつけておく」
苦々しげに僕を見るエリアスに、僕自身もどこかの教会にコネを作っておいたほうがいいなと考えた。お嬢に影響がなければ、エリアスは喜んで僕を教会に売るだろう。
だけどエリアスはわかっているのか。僕がいるからこうやってヤバい魔導書を水際で食い止められているんだぞ。僕が集めた古今東西の魔法学と伝承知識がフルに役立っているんだぞ。
ジト目でエリアスを見る僕に、何を思ったのか彼は笑顔で「大丈夫だ、お前が悪堕ちした時は俺自らが斬り捨ててやるから問題ない」と告げた。僕が問題にしてるのはそこじゃない。
「とにかく、僕のほうでも、お嬢になんか来ないように対策考えておくよ」
“対策を考える”なんて言ったところで、やることはいつも通りだ。厳重に梱包した書物を抱えて2、3、用事を済ませたあと、僕はジャスパーの塔を訪ねた。
「今度はこれだよ」
さっそく包みを開けてジャスパーに見せると、彼は「うわあ」と声をあげて嫌そうな顔になった。
「あ、やっぱりこれが何かわかるんだ?」
「わからないわけないだろう。私をなんだと思ってるんだよ」
「さすがに僕もこれは扱いに困るっていうかさ。あと、絶対噂になってると思うんだよね、そのスジのひとに」
「だろうね……って、まさか!」
肩を竦めたと思ったらすぐに彼は瞠目して僕を凝視した。
「うん。だから、この本はここに持ち込まれたって噂を流したよ」
とたんに階下からやかましい物音が響いてきた。
「あ、さっそく来たみたいだね」
「来たみたいだねって、お前なあ……」
彼は呆れた顔で僕を見る。いいじゃないか、こないだはあんな仕込みをしていたんだから。
ゆっくり茶を飲みながら待っていると、どたんばたんと大きな物音がだんだんと近づいてきた。ジャスパーは善人だけど、悪人と自分に危害を加えてくる輩には容赦のないタイプだから、ここまでたどり着くのはさぞ大変だったことだろう。かなりえげつない罠やら魔法やら仕掛けてあるはずだし。
そうやってのんびりしていたら、とうとう扉が開いて、どう見てもそのスジの魔術師と下僕の脳筋が姿を現した。少しどころじゃなくくたびれている。
「本を寄越せ。その偉大な知識は俺のためのものだ!」
「はいはい」
ジャスパーが面倒臭そうに呪文を唱えると、たちまち襲撃者たちはするすると魔法に押され、わやくちゃのひとまとめに纏まってしまった。そのまま動けずに唸り声を上げるだけのオブジェとなっている。
「さすが空間制御の匠だね。いつもながら見事だ」
僕が感心してそう呟くと、彼はやっぱり少し嫌そうに僕を見た。
「勝手に変な二つ名を付けるのやめてくれないかな」
結構いいと思うんだけどな。
それはともかく、たいていの襲撃者は、ここまで来る間にトラップだなんだで消耗しまくってるというのに、襲撃をやめないから頭が悪いと思う。以前そう言ったら、ジャスパーは「諦めきれないくらいのバランスにしてるからね、つい最後までがんばりたくなるんだよ」とにやりと笑った。やはり善良さと人の好さは比例しないなと思うんだ。特にジャスパーを見ているとそう思う。
「まあ、とりあえず残念だったね。2度目のチャレンジはないから、ここで君は退場ね?」
僕は肩を竦めて、ジャスパーの魔法に絡め取られて動けない魔術師に止めを刺した。これがジャスパーを利用するときの約束だからしかたない。
「で、この本はどうする?」
「いつものとおり、処分はまかせるよ。中身は多分、悪魔王カルトの儀式やらなんやらだろう? お嬢には使える本じゃなかったって言っとく」
「了解」
僕は首尾よく本を押し付けて、お嬢のお屋敷へと戻った。
そのままお嬢に「あの本ガセでした」と報告し、お嬢は盛大にがっかりして商人を罵倒してたけど、その商人はどうも昨日のうちにそのスジの人の襲撃で儚くなったと聞いたので、問題はないだろう。
やっぱりね、本物は手を出すべきじゃないと思うんだよ。火傷したら目も当てられないしね。
専門用語の基礎知識
【悪堕ち】
とても普通の生き物が、とてつもなく邪悪な物品や生き物に関わったり邪悪な行いを繰り返したり悪神に関わったりなどの原因により、邪悪で悪魔な存在へと華麗な転身を遂げてしまうこと。
この世界ではよくある事故として片付けられることが多い。もちろん、転身を遂げた生き物も聖騎士とか神官とか名乗る連中に片付けられることが多い。