1.お嬢とサバト
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僕の主人であるユーフェミアお嬢さまはこの“深淵の都”の十大貴族に数えられるほどの大貴族のご令嬢であり、数多く存在する貴族令嬢の中でも評判の美人で頭も良く礼儀作法もしっかりの、どこに出しても恥ずかしくない完璧な淑女である。
──なのにもう18と、そろそろ嫁き遅れと揶揄される年齢だ。婚約者もいないことはない。というか、ちゃんといるし、よりどりみどりと言ってもいいうえにこれまた申し分ない公爵家の若様が婚約者なのだ。だがなぜ家柄も容姿も教育も申し分ない婚約者もちゃんといる彼女がこの体たらくなのかといえば……。
「アートゥ、アレはまだなの?」
「はい、もう少し……でもお嬢、アレ、マジなんですか」
「当たり前じゃないの。今度こそ悪魔王を降臨させ、わたくしに跪かせるのよ!」
これである。
扇で口元を覆い、オホホホホと高笑いするお嬢の姿は残念以外の何者でもない。お嬢のこの姿を見て結婚したいなどという輩がいたら、頭がおかしいか性癖がおかしいかのどちらかでしかないだろう。
少なくとも、お嬢がどんなに“完璧な淑女”などと呼ばれる素晴らしい令嬢であろうと、こんなようすを見せられたら僕はごめんだ。嫁にするならもっとおとなしくて可愛らしい女の子がいい。魅力的な角か尻尾があるならなお良しだ。
「だから早くアレをわたくしのために読み解くのよ、いいわね?」
「はあ……」
まあ、お嬢のいいところは取り繕わないところだよな、とは思う。取り繕わなさ過ぎて、婚約者もたぶんドン引きのはずなのだが……呼ばれて来てみればお茶を飲みながら延々と次のサバトで悪魔王を降臨させたらどーたらこーたらと、“誰もそこまで聞いてない”なので、ドン引きしないわけがないと思うのだが……公爵家の若様はなぜかあまりにアレなお嬢の趣味を受け入れてるし、結婚はまだ先だ、その前に悪魔王を降臨させるのだという主張のとおりに結婚を先延ばしにしている。
ひょっとして、若様は何かそういうものがいいという性癖なのかもしれない。
ちなみに、お嬢の言うところの“アレ”とは、最近手に入れた魔導書のことである。
今から遡ること数日、いつものようにお嬢の護衛騎士エリアスが何やら包みを持って僕のところへやってきたのが今回の始まりだ。
「アートゥ、ユーフェミア様から今回はこれを、とのお達しだ」
「はあ」
ああ、またやるんですか、サバト……と考えながら渡された古い書物の表紙を撫で、パラパラとめくり……その感触と内容に、つうっと冷や汗が落ちた。
「ちょ、待ってエリアス。これどこから手に入れたんだ」
踵を返す護衛騎士を慌てて呼び止めると、あからさまに不機嫌そうに顔を顰めて振り向いた。
「いつもの商人からだという話だが、何か問題でもあるのか?」
「問題だらけだよ。やばいよこれマジものだ。こんなの使ったら本物が来ちゃうって」
「なんだと?」
「皮は山羊革を然るべき方法で鞣したアレなものだし、内容も鏡文字まで使って本格的に暗号混じりだけどたぶんアレだし、載ってる魔法陣だってアレだし、ちょっとこれ本格的過ぎてマジでヤバい。書いてある内容もヤバ過ぎる。こんなの持ってたら悪夢まで見そうなくらいだ」
エリアスは真剣に顔を顰めて考え込む。彼はお嬢の安全に心血を注いでいるし、僕はこのまま安泰な生活をつつがなく続けることを心の底から望んでいる。たとえものすごく僕を気に入らないエリアスであっても、「お嬢に本物を召還させてはマズイ」という点で僕と利害も意見も完全に一致しているのだ。
あくまでも、「オカルトかぶれ」の範疇で「なんちゃってサバト」での「召喚の真似事」で収めないといけない。お嬢の安全と僕の生活のために。
「……そいつはどのくらい本物なんだ」
「はっきりは言えないけど、大悪魔は無理でもそれに準ずる強さの悪魔も呼べそうなレベル」
大悪魔はぶっちゃけ神に準ずる力を持つ悪魔で、九層地獄界の中で政権交代が起こればあっさり下位神くらいにはなれるほどのお話にならない強さだ。こんなのをうっかり呼び出した日には、血の雨だけでは済まない事態になる。悪魔王なんてほぼ神で言わずもがなだ。怖すぎて名前だって唱えたくない。
その下の位の悪魔でも万一出てきたら洒落では済まない。最低でも騎士団一個中隊と上位の魔術師数人が出張る騒ぎになるだろう。中堅悪魔でも並の戦士じゃ話にならない……なんにしろ、まともにやっちゃったらサバト会場に阿鼻叫喚の地獄が再現されてしまう。
一瞬のうちにそれだけの事実が頭を過ぎったのか、エリアスも顔色を変えて息を呑み……僕と目を合わせて、お互い頷いた。
「いつも通り、やっとく」
「任せた。俺は時間を稼ぐ」
いつも通り、というのは、単に僕がこの書物のパチモノを用意する間、エリアスがなんやかやと日数を稼ぐというだけのことだ。だったらサバトだオカルトだを止めさせればいいのだが、あいにくお嬢を止められるはずの立場である旦那様はじめお嬢の兄君たちはお嬢に甘い。砂糖を吐く勢いの甘さで、お嬢に「お願い」と言われると逆らえなくなってしまうのだと目尻を下げて呟くさまは、まこと筆舌に尽くしがたい残念ぶりだ。
……こんなことで尽くせない筆舌ってなんだよと思うが、実際そうなんだから仕方ない。もうちょっといろいろ考えたほうがいいよと思うが、僕が口を出せるはずもなく、見ているだけだ。
いいのか、この家。これでもたしか十大貴族に数えられる侯爵家だよな。
「というわけなので、また頼むよ」
餅は餅屋と、仲良くしている魔術師ジャスパーのところへ問題の本を持ち込み、偽物の作成を頼む。彼はいちおう“神混じり”と呼ばれる種族で、この手の本を預けて悪用される心配も少ない。
なんで神混じりと悪魔混じりが仲良くしてるのかというと、そこはそれ、人外種族どうし通じるものもあるということなのだ。
「君も苦労してるみたいだね」
「まあ、これで安定した老後を送れるならと思えばこそね。専属吟遊詩人の給料も悪くないし」
「……それにしても、こんなのよく見つけるね、君のお嬢は」
「まったくだよ。この2年でこれで5冊目とか勘弁してほしい。どうしてこんな余分なところで目が利くんだろう」
「おかげで、私が格安で魔術書を手に入れられて助かってるわけだけど」
あははと笑うジャスパーに、どれくらいかかりそうかと確認する。
「これなら……8日ってところかな」
「そうか、8日か……なら、ちょうど10日後が新月だし、そこを狙いましょうということにしようかな」
「それよりも、そろそろ何かしら召還できないとお嬢さんがキレ始めるんじゃないかい?」
「ああ、それもあった……」
僕が若ハゲにでもなってしまったら、侯爵家は責任を取ってくれるだろうか。
「やっぱ魔霊が妥当かな」
魔霊というのは、知能を持たない不定形の最底辺の悪魔だ。いやむしろ悪魔になりきれなかった悪魔というか。大した力もないので、エリアスがひとりいれば即切り捨てて終わるだろう。なんなら僕が仕留めたっていい。
だが独りごちる僕にジャスパーが無情にも告げる。
「この前もそれじゃなかった? ついでに言うなら、さらにその前も」
「これ以上だとお嬢の行動が読めないからやめておきたい」
「小悪魔くらいならなんとかなるんじゃない?」
「いや、そんなの出てきたらお嬢が喜んで収集つかなくなるから嫌だ。それに小悪魔は呼ぶのに生贄がいるじゃないか。冗談じゃない」
「ああそうか」
生贄なんて、どんなにつまらない小動物だろうが最初の1匹を殺してしまったが最後、どんどんエスカレートするに決まってる。今のところせいぜい祭壇に生肉供えるだけで収まってるから、当局のお目こぼしだってもらえているのだ。もっと“本格的”にやらかしちゃって検挙されたやつらのことを考えたら、どう転んだってアウトだろう。
「……本当に君も苦労するね」
僕だって、ジャスパーの哀れむような視線に溜息しか出ないよ。
「そう思うなら、いい案くれ」
「……そうだなあ、ひとつ考えておくよ」
そう言ってにっこりと笑うジャスパーに何か引っかかるようなものを感じた気がしたけれど、まあいいかと流しておく。彼ならきっと悪いことにはしないだろう、たぶん。
それから5日後、ようやくジャスパーから「予定通りでOK」と連絡が来た。これまで家令を巻き込んでどうにかお嬢に予定を入れまくってたエリアスに、もう大丈夫だと伝える。
「お嬢、アレですが、なんとか調べたところ、5日後の新月の夜あたりが良さそうですよ」
「あらそうなの。なら今すぐ準備を始めないと」
「そうですね」
お嬢はうきうきとサバト仲間に向けて手紙をしたため始めた。まあ、仲間といっても今回は小さなものだし、ほんの数人だし、大した規模にはならないだろう。
「今回はルーファスも呼ぶのよ」
「えっ」
ルーファス様、つまりお嬢の婚約者の若様呼ぶってなにそれ聞いてない。
「ふふ、たまにはわたくしにも付き合ってもらわなくてはね」
いやそんなことしたら今度こそ婚約解消ってことにならないか。思わずエリアスに視線を送ると、彼もあちゃあと言わんばかりに頭を抱えていた。お前も知らなかったのか。
まずい。そろそろ魔霊でも呼んどくか、なんて言ってる場合じゃない。
うふふとなんとも言えない笑いを漏らしながら、いそいそと若様のためのカードと封筒を持ってくるよう侍女に命じるお嬢の後ろで、僕とエリアスは視線だけで「お前どーすんだよ」とやりあうが、もうどうしようもない。
──なるようになあれ。
そして問題の当日。
侯爵家の離れにいつものサバト仲間にルーファスを迎え、粛々と儀式が始まった。依頼の魔導書(偽物)を寄越す時、ジャスパーは「心配することは何もないよ、大丈夫」と言ったが、本当に大丈夫なのだろうか。考えると胃がキリキリとしてくる気がするので考えるのはやめた。エリアスも心なしか顔色があまり良くない。
……これで婚約解消なんてことになったら、やはり僕が責任を被ることになるのだろうか。
魔法陣の前に設えた祭壇に恭しく生肉を供え、お嬢は魔導書の呪文を指でなぞりながら一言一句間違えずに唱える。いや、お嬢、そこはドヤ顔するところではありませんから。どうか若様がドン引きしませんように。
ちらりと横のエリアスを見れば、やはり祈るような顔でハラハラしながらお嬢と若様を交互に見つめていた。
今更ながら、ジャスパーにもっと大丈夫の意味を尋ねておけば良かったと思う。
とうとうお嬢が呪文を唱え終わり……『我が呼び出しに応じしものよ出でよ』という締めの言葉を放つと魔法陣が光り始めた。
……え、光った? ヤバいなんか来る?
慌ててまたエリアスを見ると、既に手を剣に添えている。僕もおたおたしながら腰の剣をいつでも抜けるように構えた。
「ホホホホホ、さすがわたくし! ルーファス様、召還成功ですわ!」
いやお嬢、そこ勝ち誇るところじゃないから! ルーファス様におそるおそる目をやると、何故か彼はにこにこと微笑ましいものでも見るようにお嬢に笑いかけていた。
ああ、ルーファス様はそっちのひとでしたか。
──もうどうにでもなあれ。
そうしてどんどんと輝きを増す魔法陣に違和感を感じ、いや、この光おかしくないかと首を捻ったところで、ポンと音でもしそうな勢いで光の玉が飛び出した。
「……へ、“光霊”?」
思わずそう呟くと、お嬢がすごい勢いで僕を振り向く。
「アートゥ、何これ、どういうことなのか説明しなさい!」
「え、いや、その」
“光霊”というのはいわゆる下級天使のことだ。天使になりきれていない天使というか、十天国界の最下層にいて天使の下働きをするちょっと聖なる霊というか、つまりジャスパーが「大丈夫」と言ってたのは「こいつが来るから大丈夫」という意味だったのだ。
「ユーフェミア様、こいつ悪魔じゃなくて天使です。下級の……いてっ!」
光霊は、さっそく悪魔混じりの僕に目をつけたのか、いきなり電撃を放ってきた。電撃といっても静電気程度のものだが、痛いものは痛い。
「ちょ、やめろ。だからお前ら天使は嫌いなんだ、ひとの話くらい聞けっての、いてっ」
その昔、僕の親が天使も悪魔もベクトルが真逆なだけで、どっちも紙一重の同じようなものだと言ってたことを実感する。むしろ話を聞かない分、天使のほうがタチ悪いんじゃないか。
バチバチと次々放たれる電撃を必死で避けていると、ルーファス様が感嘆の声を漏らした。
「さすが、ユーフェミア。天使を呼び出してしまうとは驚きました」
え、そこ? いやお嬢、ドヤ顔する前にこれなんとかして。そしてルーファス様も同類だったんですね。
「うふふ、このくらい、わたくしにとってはどうとでもないことですわ。ルーファス様、この天使を気に入ったのでしたら、ルーファス様の僕として差し上げましてよ。
……さあ、天使。アートゥで遊んでいないで、お前はこれからルーファス様に誠心誠意お仕えするのよ、いいわね?」
光霊はするすると若様のほうへと飛んで行って、その肩に収まった。
「オホホホホ、ルーファス様、天使の聖なる光がとてもお似合いですわ」
お嬢、そこ高笑いするとこと違う。
ちなみに、一連の出来事が続く間、お嬢のサバト仲間はぽかんと呆気にとられたままだった。たぶんお嬢のことだ、悪魔王を呼び出すのではなかったのかという彼らの疑問はこのまま煙に巻いて終わるつもりだろう。
翌日、「ルーファス様が天使を従えているなら、やはりわたくしは悪魔を従えなくてはならないわね」と、お嬢はなぜかぼうぼうに燃え上がっていた。
悪魔混じりが従ってるんだから、もういいじゃないですかと思ったが、もちろん思っただけで終わらせておいた。
【九層地獄界】
俗に言う地獄。悪いことすると死んだ後魂の行き先に指定される。全部で九層構造になっていて、各階層を大悪魔がそれぞれ支配している。
さらには最下層に悪魔王アスモデウスがいると、その昔地獄を旅した偉大な魔術師が書き残している。
【十天国界】
俗に言う天国。天の国とか天上とかいろいろ言われる。
善なる教会に帰依した善良な魂が死後行くところで、全部で十層構造になってて最上層に神自身がおわすと言われるが誰も確かめたことはない。
ここの住人は基本みんな神のしもべで、天使と呼ばれている。
天使は、通常、召喚に応じてくれないことで有名。