下卑するもの、戦慄世界とデカダンス
「で、もしこのまま誰も来なかったら運命に逆らわなかったわけだ」
「逆らったから僕がいま此処にいるんだと思うんだけど」
それもそうかもしれない。その言葉は言わないで、ただそっと笑って見せた。そうすれば目の前の彼女は「またか」といった表情で俺の目を見た。けどその表情に毒気はない。毒気を含んだ表情をしているのはいつも自分のほうだ。それは俺がサディスティックな傾向を持ち、また加虐によって自身の精神の安定を図っているからだ。それを彼女は知っているのかもしれないし、知らないのかもしれない。
「けれど結果はいっしょだろ?何に逆らうって言うんだい」
「運命とかうんたらかんたら言ったのはそっちでしょ」
力を込めた指先が彼女の皮膚に食い込んで、爪痕を残そうともがく。爪は一定の長さに保っているけれど、その保っている長さが長すぎるんだと言ったのは確か彼女ではない人だ。
「で、どうするの」
「どうもしないよ」
特に意図もなく、彼女が嫌がりそうな質問をしてみた。どうするって、俺が彼女を解放しなければ彼女はどうしようもない。たった一本で繋がった俺と彼女は、あくまで俺が有利な一本で存在する関係だ。
離してやっても構わない――――そうは思うが、自分のどこかほの暗く、血なまぐさい獣の様な本性がそれをけして許しはしない。いや、ただの欲求だ。もっと、彼女の嫌がる顔が見たい。喜ぼうが哀しもうが痛がろうが苦しもうが狂うことのないその美しさを、感情という側面で歪められる。それも、自分の様な下衆がだ。それがたまらなく喜ばしい。
「嗚呼、本当に、君は愉快だね?」
「それは僕をバカにしていると受け取っていいのかな?怒るよ」
「怒ったって、なんともないからさ」
笑いを隠しもせず言うと、彼女はうまく勘違いをして眉を寄せた。白く無機質な服が風に煽られて揺れた。それが包む体も、同時に。
「手、離してよ」
「やあーだ」
「何その喋り方。寒気する」
「えー、ひどいなあー」
にこにこ。鏡を見なくても自分がどういう表情をしているのか把握するのは簡単だ。ようは、イマジネーションだ。想像力。頭の中で自分の顔のつくりと筋肉の付き方とその動きを再構成すれば、相手が嫌がる顔をしているかしていないかわかる。逆から考えて、頭の中のイメージ通り表情を作れば相手を顔だけで嫌がらせるのは簡単だ。
人なんて、簡単に激昂する。
「寒いんだけど」
「これからはさ、寒いとか関係ないとこいくんでしょ?」
ぎろり。彼女の目が俺の顔を射ぬく。その視線は俺の顔を貫き風穴をあけ、遠い世界を睨んでいるみたいに不安定だ。俺を、睨めない人。
「だったらさ、寒い経験だっていっぱいしといたほうがいいんじゃないかなって俺の優しさ」
「非道いよ」
「非道くて何が悪いの?」
君にはもう関係ないでしょ、俺がひどいとかひどくないとか、下劣だとか鬼だとか人でなしだとか。
「いっそ、一緒に落ちてあげようか」
「いやだ。あの世でまで一緒とか絶対やだ」
「俺は――――それも楽しいなあ」
さらに手に力を入れると、その動きで彼女の体が揺れる。真冬の高いところは寒いなあ。
「飛び降り自殺ってさ、楽しい?」
「少なくともいま僕の手を掴んでるバカが消えれば楽しいかもしれない」
「えー、その人いなくなるといーねー」
わざとらしく言うと、彼女は飽きたのか全身の力を抜いて、俯いた。雪のうっすらと積もった地面は白く虚無のように広がっている。病院の白さと相まってそれこそあの世みたいだ。なんもない世界。ただ死だけが待っている世界。
「やっぱさ、置いていかれるのは癪だよね」
彼女はもう反応する気を完全に失ったらしい。無視を決め込むとは、加虐心をどこまでも煽ってくる人だ。ならば、そうするしかない。いや、そうでなくてもそうするつもりだったけれど、やっぱり俺が彼女を大切に思ってるとかそういうのは許せないから。
「置いて行くべきだよね、俺が」
開いていたもう片方の手も使って、彼女を全力で屋上へ引き上げる。その反動で体が宙に投げだされた瞬間、彼女の手を離す。離してくれって言ったしね。
「俺が優位でなきゃさ」
屋上のコンクリートに全身をぶつけて、痛みにうめく彼女が見える。耳元が急にやかましくなって、重力ってのは風と仲が悪いなあと思った。俺と彼女とは大違いだ。
「なんで―――――――――」
たぶん、彼女は目の前で飛び降り自殺が起きれば恐くてできないだろうなあとか、思ったりして。
全速力のトラックとぶつかったらこんな感じかな、なんて衝撃が全身を貫いて、ぼんやりと膜の向こうでさわぐ声がした。数秒前まであんなにうるさかったのに、いまはこんなに静かだ。
素直になれなかったなあ。そんな言葉が口からぽろりと零れて、真っ白い世界を後にした。