福来友介
間を空けながらの長い連載となるかもしれませんが、読んでいただければ幸いです。
ヨハネ入定(仮)
兄弟よ、あなたがたに平安があるように。
新約外典『ヨハネ行伝』・一一五
一
福来友介は、心底後悔していた。
ジイジイと蝉の声がうるさい。つくつく法師の声もいくらか混じっているようだ。
真夏、それも炎天下の午後の山道である。人の往来は皆無に等しい。真上に昇った太陽が剛く射し込み、乾いた空気をいっそう埃っぽくしている。草熱、粘土の匂い、それに混じって先程から鼻をくすぐるのは杉の香りか。道の左右に何本かの巨樹がまっすぐに生えている。
ずっと下った麓の方を見遣れば、今福来が立っている山から流れ出した河が広い田園の間を蛇行し、更にその先には紺碧一色の果てしない水平線が地球の丸さに合わせて僅かに弧を描いている。その空と海の接点には絵に描いたようなかなとこ型の積乱雲がすくすくとその背を伸ばしている。対岸に目を向けると、土の斜面が延々と続く。今歩いているこの坂を登り詰めた向こうには、さらに幾つかの峰の稜線が果てしなく続き、盛り上がった緑が眼に痛い。しかしそんな爽やかな風景の中で、太陽は今まさに最高潮を迎え、その力を惜しげもなく振り下ろしている。土の道はカラカラに乾いて、所々ひび割れていた。
――お天道様、地上に煉獄の門でも開かんとしているのか。
そう考えてから、すぐに思い直した。
――否々(いやいや)、煉獄の火は魂を洗う清めの炎の筈だな。こんな、べったりと纏わりつく熱さじゃあるまい。
ワイシャツ姿の眼鏡を掛けた蓬髪の男が一人、大汗を掻いて歩いているのだ。誰が見ても清浄さは感じられないだろう。暑苦しいだけである。
深い山間の街道のわりに、よく開けた路幅であったから、道の左右に点在する、亭々たる杉の巨木も、ごちゃごちゃと生える有象無象の植物たちも、嗜虐的な太陽から福来の太い身体を隠してはくれなかった。ふらふらと覚束ない足取りで歩んでも影は殆ど身体から離れない。正しく直射日光である。
それにしても暑い。
――やっぱり、気軽に立ち寄れるような場所ではなかったな。
そう思った。福来は帝都内にある私立命境大学の三回生である。此処、□□県を訪れたのも、元々大学の研究会の活動として来たのだ。福来は古文書の解読を主な活動内容として掲げる部会に所属している。会員はみな(殆ど、のほうがいいか?要推敲)男で史学や文学の学部生である。
大学公認の正式な部会で、週に一度は一応勉強会のようなものをするものの、それは会員が古文書の読解力を身につける程の勉強にはならない。会員達は普通、近世以前の仮名文字がそこそこ読めるようになれば好いほうである。
実際の活動は、「未だ誰にも見つからずに眠る(謎の)古文書を捜し求めて、西へ東へ怪しい社寺や遺跡などに(旅行に)赴く」という大変子供っぽく、且つ怪奇趣味に溢れたものである。方向性からして学問的ではない。オカルトなのだ。いくら面白半分の好事家の集まりとはいえ、実証史学全盛の昨今、その牙城たる命境大学の学生でそういったものを本気にする者など居ない。
だが、子供じみた神秘や謎はそれゆえに面白く蠱惑的で――、総勢十三名の会員も皆、馬鹿にしながらも内心、毎回のテーマと長期休みごとの秘宝的文書の捜索旅行を楽しみにしているのだと、福来は思っている。
もちろん福来もそうした物好きの一人である。そして今回メンバーの決定した古文書は、
「本邦に辿り着いた基督の使徒ヨハネの遺した古代の聖書!」である。
例によって真偽はともかくとして、そそる内容である。出発は盆になる前、夏休みの前半と決定した。
こうして福来は文月の末日、二泊三日の旅行に参戦したのだ。最初の目的地は、関東北部に位置する。□□県は宇津眞砂を流れる不尽河の川尻に、大生部神社という廃社の跡地があるのだ。ここはもう神主も居らず、荒れるに任せるが儘の場所なのだが、その来歴たるや相当に不可思議な噂がついて回る。それというのも比較的大きな社のくせにずいぶんと昔に廃れてしまい、現在ではどんな神様を祭っていたのかすら分からない。今回のテーマにも関わる、キリスト教の聖地跡説なる荒唐無稽で浪漫あふれる噂まで立つ程の、そっちの方面では中々有名な神社であった。
そうした胡散臭さ(イコール浪漫)は置いておいても、河原からすぐ近くの丘の上に鎮座するこの社殿跡地からは、真正面に太平洋が開けていて、潅木の間から西日を浴びて乱反射する小々(ざ)波が水平線まで広がっている様などまさしく絶景である。これはこれで福来達の心を打ち、到着した日には会員一同でなんとなく海に向かって手を合わせてしまった。
一通り野次馬的興味による調査が済むと、近くにある民宿(海の家?に一泊して、翌日は、川上からすぐに始まる山々の奥に在る、というか放置されているらしい、今回の目玉である「聖ヨハネの土饅頭」へと、調査に赴く。はずだったのだが……。
この季節、海はあまりにも美しく、心地よかった。辺鄙な所ゆえ数は少ないとはいえ、浜辺の女性たちは、大学に学籍を置いていながら若い女性にあまり縁がないという哀れな野郎共にとって眼福であった。
今回は全員水着を持参していた。当然海で遊ぶことも予定のうちで、調査の方はついでに、という程度の腹積もりで皆来ていたのだ。まず一日目の夕方、大生部神社から帰ったら、日が暮れるまで遊んだ。翌朝は山へは行かずに全員まず砂浜に出た。
泳ぎ、潜り、砂の城を作り、ワカメを掬い、ヤドカリを捕まえることに熱中し始めたころ、全員の心は一つになっていた(と福来は思っている)。
――もう、これで充分いいじゃないか。
皆元々本気で調査などするつもりは、ない。精々ハイキングがてら一時間ほど行軍して、山頂からの景色を拝んで帰ってこようというだけの話である。まさか、墓荒らしをする訳でもなし。戦利品は、神秘の文書に近づいた(らしい)という高揚感を味わえることと、山登りという行為によって得られるであろう大自然と大調和する自分の五感の解放感、この二つのみである。
誰からともなく、調査の中止を言い出し、それは即決された。
そうして丸一日存分に童心に帰って、夜には落ちてきそうな満天の星空の下、すっかり塩焼きになってひりひりする肌を濡れタオルなどで冷やしながら、小さな花火を打ち上げたりした。ささやかながら満ち足りた心になって、酒も早々に切り上げて皆早めに床に着いた。
そして今日である。現在福来は「聖ヨハネの土饅頭」を探して黙々と歩いている。
――止めとくべきだったな。
心底後悔しながら。
二泊三日の三日目は朝、朝食を食べたら解散であった。最後の〆のときに、部長の浅野喜三朗から次に集まるときまでに、めいめい今回撮った写真と、関係資料の整理をしてくるようにとの宿題が出された。一応文化祭のときに簡単な探検記を作るのである。
東北や関西、南方や満洲に実家のある上京組みは最寄の駅からそのまま帰省するため、基本的に現地解散となった。
海の家から、特別幹線へ接続する電車の時間に合わせて一人また一人と去っていき、いつのまにか部屋には、福来と浅野だけになっていた。他の者と違って、浅野は大学の近くに家があり、今回はせいぜい関東の端っこに来ている程度なので、電車の乗り換えは気にせずに帝都までゆっくりと帰るつもりのようであったし、福来は未だ帰省する予定もなかったから、大学近くの下宿に帰ればいいだけで、途中までは浅野と一緒に帰るつもりでいた。二人きりになってからしばらくは超古代文明の話に花が咲いた。そうしている内に、徐々に福来の怪奇趣味がまた頭をもたげてきた。
自然と二人の会話は今回の神秘探訪旅行の思い出話に向かっていた。
「いや~しかし何だね福来君、海って、いいよね」
うふふ、と満足げに大きな二本の前歯を出っ張らせて笑う。浅野が前歯を隠さずに笑うということは、本当に愉快でいる証拠である。
下がった眼鏡を尖った鼻の上にずり上げる。浅野は福来とは違って細面である。
「いいですよね。この、青い海!白い雲!露わな肌!とでも申しましょうか」
「最高だよね」
「最高ですよね。ええ旅行としてはね。ただですね。今回いつにも増して怪奇探訪が少なくありませんか」
「いいじゃないか。そんなことは」
「まあいいんですけどね、このままだと文化祭の出展には内容が足りない気が」
「いいじゃないか。そんなことは」
「まあいいんですけどね、しかし体裁は一応整えませんと、来年度の部費の削減も…」
「そいつは困るね」
浅野は細い手を頭に回して寝転んだ。
「あっちは行きませんでしたからね」
「ああ、よはね饅頭」
浅野の中では聖ヨハネもすでに饅頭である。
「まあ冒険記はいくらでも水増しできますけど、怪奇趣味の僕としては」
「行ったらいいじゃないですか」
浅野は寝転んだまま視線を福来に向けてさも簡単そうに言い放った。
「いやしかし徒歩で往復二時間ですから…」
「全然電車には間に合うじゃない。行ったらいいじゃないですか」
「いやしかし…」
「行ったらいいじゃないですか」
「……」
「行ったらいいじゃないですか」
「……」
こうして福来は、リュックに大きな麦茶の入った水筒を詰め込んで、海の家を後にしたのだった。
そして現在、全身にミンミンと大音量の合唱と直射日光とを浴びて、福来は、ひどく後悔していた。
もう山頂までの七割ほどは来ているはずだ。ただ体力と麦茶は残り二割を切っている。このまま行くと理論上、途中で倒れる計算になる。よって福来の採るべき行動はひとつである。
――きゅ、休憩しよう。
福来はふらふらと道の端に寄っていき、いくらか杉の木の陰になっているところの大きめの岩の上に、ああ、とかひゃああ、というような声を出して腰を下ろし、坂を見下ろす恰好になって座り込んだ。
リュックの口をあけて水筒を取り出し、麦茶を一杯のどを鳴らして飲むと冷たい雫が五臓に染み渡る感じがして、ようやく人心地ついた。ワイシャツもズボンももちろん下着も、滝のように流した汗で湿って肌に密着している。
それを乾かしてくれる風はそよとも吹いてはくれなかったが、日光から逃れられると、だいぶ違う。帽子をかぶって来なかったため、髪の毛にたまる熱が恐ろしいことになっていたが、それが少しずつ冷やされていくのが分かる。ありがたい。かくも日陰は恵み深きかな、などと心の中でつぶやいた。降り注ぐ蝉の声もこうしている分にはどこか風流で身に染みいる。強い夏草の香に混じって、何かの華の匂いであろう、甘い香りが流れてくる。とりあえず山頂まで登ってみる元気はありそうだ。登頂したら、それはいい眺めが見れるだろう。
どのくらいそうしていただろうか。ふと福来は、前方、坂の彼方に不審なものを感じた。目に痛いほどの勁い光量のために、遠い場所へはあまり目を開いて向けられないのだが、何か、案山子のようなものが立っている気がする。
福来は眩しさを堪えて無理に目を細く開けて、眼鏡を少し傾けた。こうすると斜めになった眼鏡を除くことになり、幾分度の強い視力で遠くを視られるのだ。そうしてみると、どうやら異国風の、切支丹の司祭のような白い服を着た男が一人歩いて来る様に見えた。
男は次第に福来の座り込んでいる位置に近づいて来るようだった。
福来は少し考えた。男が近づいて来たら会釈ぐらいはしたほうが善いのだろうか。人と山道で会ったら挨拶くらいはするだろうし、そうしたほうが善いとは思う。しかし福来は、初対面の人間と余計な接触を持つのはかなりのストレスになると思っている。
識らない人間との気まずい時間など最も嫌うところである。そうした緊張感は自分の普段保っている個性だとか安定を容易く奪ってしまう。そうしてろくに受け答えできなくなってしまうことなど、考えただけでも厭だった。実際にそんなことになった例は無くとも、である。
福来はこちらに近づいてくる男を無視することに決めた。そして男の方へ顔を向けているのも止めて、坂の上のほうを眺めることにした。相変わらず山頂の向後は割れんばかりの青い空の中、純白の雲が風に吹かれている涼やかな景色である。暫く眺めていよう。下方より登って来るであろう異邦人も、このまま自分を無視してくれればいいと思った。そうなれば後は楽だ。かの人物がより遠くへ去ってから出発すればいい。
しかし。
ふと、福来は耳に聞きなれぬ音を聞いた。
――ん。
じゃり。
――ぼろん。うん。あ、ばん、うん。
じゃり。
――かん。まん。ぼろん。うん。あ。ばん。うん。おんばざらゆせいそわか。
じゃり、と背後で地面を踏む音がして、何かがそこで静止した。福来は座ったまま硬直する。
居る。馬鹿な。いつの間に。
男は、背後から福来に声を掛けた。
「兄弟よ、あなたの上に平安がありますように」
福来が振り向くと、目の前に着物姿の青年が柔和な微笑を湛えて福来に正対していた。
異国の服のように見えたのは、白い胴着に白い袴をつけている所為で、近くで見ると和装そのものだった。その純白の衣が目に眩しい。
福来は反応が出来ずに、惚けた顔で男をまじまじと見つめた。やけに枯れた声のわりに、男の見た目は若い。二十代か、あるいはもっと若いのかもしれない。坊主頭に細い目が、漫画に描いた人の顔のように認識しやすくて、何だか出来すぎていると、福来は思った。
「こ、こんにちは」
「義に沿う人の子も絶えて久しくなりましたが……」
「はい?」
「しかし幸いなるかな。この道は今日、現を思い出された上人様の御前に参ります。」
男は指先を額、水月、右肩、左肩と辿らせた。軌道はきれいな十字となって男のすがたをいよいよ正しいものにする。直立した姿勢がとても良い。
「え?…あー、あのすいません、自分は…、その…。か、観光中でして。あの何かのお邪魔になるようで」
福来は意味もなく気圧される。言葉が繋がらない。
「とんでもない。あなたが、今日、ここにいるのですから。――ありがとう」
男は迚も嬉しそうに言う。
福来の頭を一瞬、癲狂院、という単語が掠めた。以前学校で習ったことがある。憎悪期に入った患者は、病院を脱走すると山に駆け入ることがあるという。しかしこんな場所に癲狂院などあるはずがない。それに目の前の男は福来などよりも余程、落ち着いている。福来は混乱する。言動から察するに、どうやらこの男は切支丹のように思える。ただ、男の袴姿はそれに合っていない。それに――。
――上人様?
「今日という日に、罪びととまみえることができるとは。共に与る者よ。幸いなるかな」
「………」
もしかしたら、何か新興の宗派の者なのかもしれない。宗教者特有の途切れ目のない笑みからも、この男が何かを深く信心していることだけは知れた。誰も彼もが豊かになった昨今、世間では有象無象の随神の道が毎年流行しては消えていく。
二度の大戦を制したこの超大国の、その精神的な支えが、多分にそうした異種神教に依っていたことは間違いない。戦勝というお墨付きを貰ったそれらは、近年ますます増えている。
中にはこんな山奥まで来て秘儀を行う者たちが居てもおかしくはあるまい。現に最近世間を騒がせている高尾山バラバラ殺人事件の首謀者には、新興宗派である皇真理教の関与が疑われているのだ。
だが。
この男はどうやら切支丹宗の人間らしい。少なくとも本邦の宗旨の者ではない。
昨今巷では隠秘、伝統派を問わず宗教は大いに流行っているが、それらは殆どすべて本邦の教理のものである。敵国(邪)宗旨たる切支丹宗の活動は近世近代を通して制限されており、現在本邦では正教は既に絶え、若干の普遍教と、かなり小規模な新教が活動を行っているのみである。それらは本邦の神教の熱狂ぶりに比べるとあまりにも普通で、大人しい。
それでいて切支丹宗は異端には厳しいという。普遍教にしても新教にしてもそれは変らない。むしろ最近では、それはより厳格なものになっているという。
だから、切支丹の異端など居るわけが無いのだ。この国に。おまけに男は独りである。
「それでは参りましょう。兄弟よ」
福来は怯んだ。男は、当然のように同行を促す。何故か一緒に行くのが当たり前のような気持ちになる。確かに男の澄み切った面相からは悪意は感じられない。
しかし福来は思い直した。何にせよ怪しげ、というか十分に怪しい宗教者だ。関わるのは身に危険を及ぼすかもしれない。
「あ、は、は、いや、はは、さっき申しましたように私、只今観光中でして」
卑屈な笑いが出る。厭だ。
「ついでにお目当ての観光地ってのも見つからない、というかあるわけないというか、ともかく」
「参りましょう。」
人の話を聞かない。否、言葉など元から通じているのだろうか。
「いや、あの」
しかし男はまっすぐな目で福来を見て、涼やかに云った。
「さあ。いおはんね様がお待ちです。」
男の表情は清らかだ。福来はなぜか次第に、この男は悪いものではないと感じ始めていた。
相変わらず真夏の陽は熱く照りつけ、近くの樹ではまた蝉たちが騒々しく鳴き始めた。
二
私は結局、ついて行くことにした。
確かに私は元々人に引きずられやすいタイプなのかもしれない。それでもこんな山中で見ず知らずの怪しい男と平気でご一緒する趣味はない。今、男の背を目にしながら黙々と歩いていること自体不思議だ。が――。
なに、例えこの男が怪しげな宗教者だろうと、私に危害は加えられまい。見たところ武器になるようなものは一切持っていないし、痩せた少年のようなこの男は、見るからに膂力が無さそうだった。体格的には差は圧倒的だろう。それに。
もし仮にこの男が切支丹宗の異端であったとして、その観察が出来るのはまたとない機会だ。まさに怪奇、神秘そのものではないか。それにそれに。
――いおはんね様。
正直私は若干、期待していた。
かの聖ヨハネと響きが似ていないか。
そう思うとどうしても確かめたくなった。もしこの切支丹の男がヨハネの塚の在り処を知っていて、それらしき場所を見ることが出来るのなら――。
それは私にとってこの上ない僥倖と言えよう。
私の中の好事家の血が騒いでいる。落ち着いて冷静になって下した判断とは言い難いが、今は男の後ろに付いていくことに、大して不安を感じなかった。
男はお経のような言葉をつぶやきながらすいすいと山道を登っていく。
――かん。まん。ぼろん。おん。あ。ばん。うん。
――かん。まん。ぼろん。おん。あ。ばん。うん。
――かん。まん。ぼろん。おん。あ。ばん。うん。
――おんばざらゆせいそわか。おんばざらゆせいそわか。おんばざらゆせいそわか……。
異国の言語のような、それでいてどこかで聞いたことが有る様な、不思議とすんなり耳に入ってくる。そんな独特の調子と音に聴き入っていると、不意に男が歩みを止めた。
ぴたりと声も止まった。日が翳って来て、黒い影が道をさあっと覆った。しんとする。いつの間にか蝉の鳴き声が止んでいた。男が右手側の林の中を指差している。私は男の小さな背中越しに、鬱蒼として密な薄暗い木々の間を眺めた。若い草や笹や蔦や蔓で混沌とする暗緑色の洪水のずっと向こう側に、私の下宿の部屋程の僅かな面積だろう。平らな地面が顔を見せている。
その真ん中。こんもりとした草の塊と、その上には大きな石が乗っている。
あった。なぜかそう確信した。これが、聖ヨハネの――墓だ。
私は思わず男を追い越して、林の中に分け入っていた。
そのとき、すれ違いざま男が頭を垂れて何か私に言ったような気がしたが、男の声が呟くような小さな声だったのと、耳を通る風の音のせいで、聞き取ることが出来なかった。
私は息を荒くしながら歩きにくい地面を急いで歩いた。
塚を目指しながら、後ろに置いてきてしまった男のことが少し気になった。
そういえばまだ男の名前を聞いていない。あの男の名前はなんというのだろう。
男はきっと合掌して、微笑んでいるに違いない。
きっとこっち側には入って来れないのだ。
理由もなくそう思った。
そう思うと、
もう自分があの道に帰ることが出来ないような気がして、何だか少し寂しくなった。
自分の居場所がまだ道から遠くないことを確認するために、ちらりと後ろを見遣ると、少年のような男は、こちらを向いて、やはり微笑みながら合掌していた。
――ありがとう。
そう男が言ったような気がしたが、やはり私は、それを聞き取ることができなかった。
三
塚は思ったよりも清潔に保たれていた。土饅頭の上に置かれた、遠目にはただの岩に見えた石碑は、極めて読み取り難いものの、何か文字が彫りこんであったことが判る。一体いつの物なのか、相当に古い。辺りには砂利のような石礫が散らばっており、昔ここに何か小さな石造りの建物のようなものがあったことがわかる。四方はみっしりと杉や椈の木で埋め尽くされている。見通しが全く利かない。
なるほどここに到るには全くの道なき道を通って来るしかない。こんな山奥のど真ん中に、こんな遺跡があろうとは、誰も思うまい。これはものすごい収穫ができた。これは同好会の発表どころか、新聞雑誌にも載るような大発見ではあるまいか。誰もこんなところは見つけられまい。
――そう、だれも。
何だろう。この違和感は。
――誰にも見つけられない、どこからも見える筈のない場所なら、あなたはどうやって此処を見つけたのですか?
急に体が震えた。そう。此処は、何処だ?
この場所はみっしりと四方を森に囲まれている。ならば、道に居た私に此処が見える筈が無い。私はどうやってここを見つけた?思い出せ。
何か得体の知れない焦りの中で、私は必死にこの場所を見つけたときのことを思い出す。
私は密な薄暗い木々の間を眺めた。
若い草や笹や蔓や蔦で混沌とする暗緑色の洪水のずっと向こう側に――。
私は――。
私の視線は樹木を飛ばしてしまっている。
眩暈がした。自分が今立っているという現実感が無い。呼吸が苦しくなる。
――どこからか、何かの甘い――匂いがする。
膝が勝手に崩折れて、胴体が地面に打たれる。私はそのまま動きが取れなくなった。
そうしてしばらくすると、地面が消えた。
四
気が付くと私は、満天の星空の中に居た。否、居たというよりもふわふわと星空の中を漂っていたのだ。上も下もない。辺り一面遥か彼方までぼんやりとした提灯のような星が並んでいる。
――どうして私はこんなところに居るのだろう。私は確か、痩せた少年のような宗教者に導かれてヨハネの土饅頭に辿り着いた。筈だったのだが。
そこからは能く思い出せない。確か、何か迚も不安になって――。
――今はそうでもないのか。
私は何故だか怖くはない、安心だという気分になっている。よく本に書かれる表現にある、母の腕に抱かれるようとでも言うか、そんな安らかな気がした。
そうしてしばらくは漂っていた。ぼんやりと星の灯りを眺めているうちに、ふと気づいた。
――なんだ、星じゃないのか。
点滅する星々はよく視ると何かの形を思わせる。近くの星の一つをよく観察したところ、何かの虫の足のようにも見えるものが六本、生えている。生えているだけではなく時折活発に動いたりもしている。本当に虫のようだ。(この虫のようなモノの形はみんな基本的に菱形をしている。大きさは、一抱え程はあろうか。その菱形の中は半透明な何かで満たされていて、真ん中に桃色をした拳大の球が入っている。どうやらこの球が光っているようだ。
それらはみな一つ一つで浮かんでいるのではなく、鎖のようなものでそれぞれが繋がっている。それをずっと辿っていくと、目に映らないほど果てしなく遠い場所にまで続いているようだった。
――ああ、ここは地面の中なんだ。だからこんなに遠くまで何にも遮られないで見られるんだ。
――地面は過去の死骸がずっと積もってできているのだ。死者の世界。ならば、ここは根の堅洲国、それとも――常世の国か。
そう思い私は納得して、またぼんやりと鎖でつながれた虫たちを眺めた。虫たちの明滅は、よく視ると弱い規則性があるようだった。いくつかの光が菱形や鎖の間の遠大な距離を、途切れることなく彼方から此方へと飛び交っている。それを見て、私はそれらが眠っているのだと感じた。そう感じたのは、たまに不規則性を交えながら繰り返す一定の明滅からだった。その律動は、どこかで見たことがある。何処かの場所のことではなく、何か、とても身近なものだった気がする。膨大な数の提灯。明滅。鎖。蟲。律動。
――そうか。
思い出した。これは脳だ。以前学校で機械を通して見たことがある。あの人の頭の中の信号にそっくりだ。
こんなに荒唐無稽なものを見て、不思議とさっきから「何故」という感情が湧かない。
――それはあの男と行き会ったときからずっとだったか。そう、未だ名前も知らないあの男に。
つらつらと役に立たない思考が浮かぶ。「意識」を持つには何も複雑な構造が必要なわけじゃない。膨大な信号伝達の網状組織がありさえすればいいのだ。
これの一つ一つがこの視界の野に満遍なく存在するとしたら、そしてそれらが綿密に信号を介して繋がっているとしたら、当然――意識も有るのだろうなと、そう思った。
ふいに、あたりの様子が変った。辺りの虫――菱形たちの持つ足がどれもうねうねと素早く動くようになり、光の通行が次第に速くなっていく。何か気持ちがざわざわとして落ち着かない。辺りを駆け巡る光の量がどんどん増えて、次第に眩しくなってくる。
ああ、夢を見始めたのだと、私は思った。しばらくの間目を細めてその様を眺めていた。
ふいに私は自分の左腕が溶けて無くなっているような気分に襲われた。見ると、私の左手はいつの間にかひとつの菱形の中に入り込んでいた。体温と同じ温度なのか、寒天のような物体の中。違和感が無い。しかし私が手を引き抜こうとしたときに、それまで寒天のようだったひし形が、急に密度を増した。
――厭だ。
私は手を引き抜こうと引っ張ったが、どうにも抜けない。それどころか、菱形の足が私の手に引っかかってくる。
これには、意思がある。細胞や組織とは違う、やはりこれは虫だ。これは――。
私は動けない。元から依って立つ所などないのだから。
次第に辺りは眩い光で埋め尽くされる。この虫にも光がなだれ込み――私は体が透明になるようにのを感じた。
ぼろぼろと崩れるように自我が失われ、理解できるようになる。この星で生きたモノの記憶、凡ての記憶と、今繋がっている。その生き物一つ一つの一生分の記憶がなだれ込んでは出て行く。これは弥勒の時間。常世の夢。
常世の夢が開く。この星の全ての記憶。
永遠ほどの一瞬がある。
ふと思い出した。
私は、
私は私になる前はどこに居たのだろうか。
岩。羊歯。花。草。土。塵や埃や泥の中。
そうか。私はどこにでも居たのだ。そして今もこの星を循環している。雨のようなものだなと思う。
かつて。今。
海の中。節足動物。私は思わず鰭を震わせて喰らいついた。羊歯植物。好く晴れた空。岸壁の巣に帰る。雪の降る日。雷雨。美しい鹿に投げた槍が外れ。町の中を、男の背中を見ながら、黙々とその後ろに付いていく。他の弟子も同様である。私はこの男と約束をしたのだ。守らなければならない。主よどこに行こうか。
――なんだ。
――私はこの記憶に固執しているのか。感情が途切れない。私はこの記憶そのものになっていく。
そうだ。私はいまだにこのときに拘っている。
薄っぺらな現実の私になど意味はとうに無い。
行く末は越し方と入れ替わる。
今と昔。
――――上人様。
――あなたは。
ああ。
思い出した。
主よ。
そう。
私は。
私は。
私は主の使徒である。




