転生聖女の私が王子の推し活垢の中の人だとバレてしまいました
「――。――!」
神へ捧げる祝詞が、薄暗い病室に響き渡る。
それと同時に、それまで浅い呼吸を繰り返し苦痛に歪めていた顔が、嘘みたいに穏やかに変わる。
この国では珍しい銀の前髪が、それまでは吹き出す汗に額へ張り付いていたが、布で拭いてやると、再び艶を取り戻した。
患者の妻は、その様子を見て程なく泣き崩れた。
マイヤーと名乗ったその夫妻は、遥か遠い母国で不治の病と匙を投げられ、それでも諦めず噂を頼りにここまで来たと言っていた。
「本当に、なんとお礼を申し上げたら良いか……。聖女アンジェリーナ様。本当に、ありがとうございます。異国の娘にも、悲しい思いをさせずに済みます」
「お役に立てたのであれば何よりです。どうか、神のご加護を」
妻は、溢れる涙もそのままに、恭しくお辞儀をした。
病人の看護を修道女に任せ、私は病室を出た。
ここは、王宮の一角。私――アンジェリーナ・ヴェルブランは、公務の一環でしばしばこの場所で『治療』を行っている。
神に祈りを捧げ、病を治す。人智を超えた奇跡の力。
人は私を、聖女と呼んだ。
「やあ、アンジェリーナ。相変わらず精が出るね」
廊下の向こうから、王太子であるレイモンド殿下が現れる。
彼が微笑みとともに紡いだその一言は、上質な絹糸を撫でるように耳の奥を滑り落ちた。
一切の焦りも乱れもない堂々とした響きの中に、深い慈愛が滲んでいる。
「……いえ。仕事ですので」
対して、私の口からは、思ったよりも低い声が出る。
そのまま私は顔を俯け、逃げ出すように歩き出した。
背後で、彼の衛兵がぼやいた。
「はぇ~、殿下のお声がけにあんなそっけない態度とは。さすが、『氷の聖女』」
それが嫌味であることは分かっていた。もう、何度も言われているから。
でも、そんなのどうだっていい。そんなことよりも、もっと大事なことで私の頭はいっぱいだった。
*
同じ王宮の別区画。
絢爛な装飾が施された廊下を、私は自室へ向かって歩いていた。
さっきまで目の前にいた殿下の指先の温もりが、まだ肌に残っている。
胸の鼓動をなだめるように自室へ急ぐ私の耳に、前方から大理石を打つ硬質な靴音が響いてきた。
ミレーヌ・ブラント公爵令嬢。レイモンド殿下の婚約者、つまり次期王妃だ。
公務で出張中と聞いていたが、もう戻ってきていたのか。
反射的に廊下の端へ寄り、深く頭を垂れる。
視界の端で、金糸の刺繍の豪華なドレスが揺れた。
周りの衛兵や侍女たちが彼女の美しさに目を奪われ、息を呑む気配が伝わってくる。
私は義務として形ばかりの礼を捧げ、嵐が過ぎ去るのを待つ。
すれ違いざま、冷徹な視線が私の頭頂部を射抜いた気がしたが、それすら今の私にはどうでもよかった。
気配が遠ざかるや、私はすぐさま踵を返し、そそくさと歩みを速めた。
背後から、周囲の喧騒に掻き消されそうなほど小さな、けれどはっきりとした舌打ちの音が突き刺さった。
*
私室の扉を開けると、香油の匂いとともに綺羅びやかな調度品が私を出迎えた。
九か月前に初めて通されたときからこの見た目だが、未だに落ち着かない。
だが、今はそれすらも目に入らない。
扉が閉まった瞬間、私は履いていたヒールも構わず、中央のベッドへダイブした。枕に顔を埋めて、足をバタバタと暴れさせる。
「……」
ひとしきり動いた後、死んだように固まる私。
やがて、遠慮がちなノックが聞こえ、それから扉の開く音がした。
「アンジェ様、お戻りになっていたのですね。おつかれさまでした」
その声を聞いた瞬間、私の中で張り詰めていた氷の聖女の仮面が、音を立てて粉々に砕け散る。
「クララァーーーッ!!」
私は脇に立つ小柄な少女の肩をガシィッ!と掴んで激しく揺さぶった。
「……はぁ、またですか?」
クララと呼ばれた少女は、特に驚きもせずため息を吐いた。
「クララ~。私、殿下と九文字も話しちゃった……!」
彼女は私の侍女だ。付き合いも一番長く、私が素で話せる貴重な相手でもある。
「へえ。ひと月に一文字のペースですね。すごい、すごい」
はにかむ私に、クララは「褒めてないんですけど」と冷ややかに言い放つ。
「『相変わらず可愛いね』、ですって」
「絶対捏造ですよね」
「はぁ、しんどい……。なんであんなに顔面が良すぎるのかしら。ハッ、忘れないうちに今日の文面を練り上げなきゃ」
「聞いてねえ……」
そう、私はレイモンド殿下の限界オタクだった。
私は文机について光石を取り出すと、その表面を指でなぞった。すると、そこから浮かび上がるように光る画面が表示される。その枠内には、いくつかのアイコンが並んでいた。
指を左右に動かし、私はその中から『ルミナス』という名前のものを押した。
画面が切り替わり、上から下へ四角い枠が無数に並ぶような見た目になる。
その一つ一つの小さな枠に、まるで街頭の瓦版のように、誰かの記した文や画がひしめき合っていた。
ルミナスは、この世界におけるSNSの名称だ。
その導入や使い勝手の良さから、数年前に公開されて以来、瞬く間に人々の注目を集め、今や老若貧富の差なく広く利用されている。
慣れた手つきで操作し、私は自分の投稿画面を表示した。
ユーザーネーム『@kira_kira_raymond』のアイコンとプロフィールの下に、レイモンド殿下への愛を綴る文章や、そのご尊顔の画像が大量に並んでいる。
『@kira_kira_raymond』は私の裏の顔――推しである殿下を全肯定し、その尊さを世界に叫ぶためだけに作成した聖域だ。
日中に大聖堂で神に捧げている祈りよりも、このアカウントで呟く「尊い」の文字列の方が、よほど魂が籠もっている。
本日の殿下を世界に最大限還元すべく思考を巡らせている間に、クララは無表情で茶菓を完璧に設え、そのまま部屋を後にした。
完成した文面を穴が開くほど推敲し、投稿を済ませる。
窓から吹き込む風にほんのりと冷たさが混じる。外の光が、いつの間にか白から鈍い金色へと変わっていた。
すっかり冷めてしまった紅茶を啜ると、強烈な眠気が襲ってくる。
魔力を使った後はいつもこうだ。寝れば治るものではあるが、普段使わない筋肉を動かしたような気怠さが頭にのこる感覚は、いつまで経っても慣れるものではない。
庭木の葉擦れの音が徐々に遠ざかり、私の意識は眠りの淵へと落ちていった。
*
夢の中で、私はこの世界とは違う場所、日本にいた。
何度も見た夢。しかし、ただの空想ではない。
私ははっきりと覚えている――自分の前世のことを。
私は白石彩花という名前の、システムエンジニアだった。
当時日本を襲った大災害による通信障害の復旧にも関わり、社内で表彰されたこともある。
しかし、若輩の活躍を気持ちよく思わない人間の妬みか、はたまた人見知りする私の無愛想な態度が災いしたのか、周りからは「氷の白石」などと揶揄されていた。
だが、私はそれを気にしたことはなかった。なぜなら、私には推しがいたから。
二次元アイドル育成ゲーム『虹色イルミネイト』。その主人公である玲音が、私の心の支えだった。
彼への思いを日々SNSに綴ったところ、それが考察系の推し垢として評判を集め、いつの間にか数万人のフォロワーを抱えるほどになっていた。
彼さえいれば、辛い現実も乗り越えられる――そうして念願の『虹色イルミネイト』ドーム初公演当日。
私は玲音のメンバーカラーで気合たっぷりにコーディネートして、意気揚々と参戦した。
だがそれも虚しく、開場前の人混みで何者かに刺殺された。
*
光石の振動が、私を浅い眠りから引きずり出した。
どれほど時間が経ったのだろうか。先程まで部屋を暖めていた午後の陽光は跡形もなく消え去り、代わりに冷たい瑠璃色の影が床を這っている。
カーテンの隙間から覗く空は、インクを流し込んだような深い藍色へと変わりつつあった。
最初は何かの通知音かと思った。だが、普段の柔らかな鈴音ではなく、低く長く尾を引く警鐘が耳障りに響いている。
それは、以前侍女のクララと取り決めた緊急時にだけ使う着信音だった。
私は手を伸ばし、光石を取った。吹き込む風に冷やされた指先で、端末を操作する。
その画面には、クララからの短いメッセージが表示されていた。
『アンジェ様、大変です。ルミナスをご覧ください』
いつも冷静なクララとは異なる様子に、私は急いでアプリを起動した。
トップ画面にはハッシュタグのトレンドが映っている。
『#聖女様』、『#身バレ』、『#中の人』……。
不穏なタグが連なり、それにぶら下がって最新の投稿が並んでいる。
〈え、あの氷の聖女が!?〉
〈ガチ恋オタクじゃん……〉
〈公務サボって何してんのww〉
しばらく、頭の理解が追いつかなかった。
そんな私を置き去りにするように、投稿は次々と更新される。
その中に『@kira_kira_raymond』という文字列があって、私はようやく理解した。
どうやら、そのアカウントの中の人がバレたらしい。
……。
「いや、中の人、私だけど!?」
神の下僕として、ただ世界と人々を愛さんと、その身を捧げた。
手のひらから零れる光は、幾多の命を救う奇跡の力。
この世界で最も清き存在と崇め奉られ、これまで生きてきた。
ルミナスなどという俗の世界に、最も相応しくない人物。
それが私。それなのに――。
〈『殿下の服の縫い目がほつれている。私が糸になって、その身体をお包みしたい』だってw〉
「ア゛ア゛アーー!! その糸で私の首を絞めてくれーーー!!」
窓の外、宵を告げる神殿の鐘が鳴り始める。聞き慣れた音色が、今はやけに遠い場所から響いてくるように感じられた。
「終わった……」
私は寝台に転がると、枕に顔を埋めて、誰にも届かない声で呟いた。
「終わった、終わった、おわったぁ……」
亜麻布の上掛けの中で、しばらく身を縮めていた。
すると不思議なもので、絶望の底からふと、前世の記憶が懐かしさを伴って浮かび上がってきた。
担当のシステムが深夜に落ちて、SNSが大炎上していた、月曜の朝。
あの朝も私は、こうして枕に顔を埋めて「終わったぁ……」と呟いたものだ。
だが、失敗をそのままにしておくわけにはいかない。私はすぐに切り替えて、スーツに袖を通した。
その晩は、当然家に帰ることは出来なかった。
――同じだ。あの時と。
こうしている間にも新着の投稿が増えていく。
このまま手をこまねいていても、事態は解決しない。
私は、火照った頬を冷ますように窓際に近づくと、よし、と小さく呟いた。
まずは状況を正確に把握するところから始めよう。
『@kira_kira_raymond』。
それは、私がこつこつ育ててきた、王太子レイモンド殿下の観察用アカウント。
ルミナスで王都民から「神アカ」と信頼され、フォロワー数も非常に多い。
この世界における写真は魔法の力で撮影され、その画質は撮影者の魔力に依存する。
私の推し活は唯一クララの知るところだが、彼女は優秀な魔法使いでもあり、殿下の撮影は彼女にすべて一任してきた。
前世同様、私は相変わらず考察という名の愛を注ぐばかりだが、それに加え、高画質な殿下が毎日のように投稿されていることも、アカウントの大規模化を導いた要因だろう。
それゆえ、私は投稿内容には細心の注意を払っている。
恒例のごとく差し込まれる限界オタク的投稿も散見されるが、基本の投稿内容は殿下の公務記録、政策解説、デマ訂正といった、すべて公になっている情報に基づいており、私個人に関わる内容は含まれていない。
だからこそ、なぜ突然こんなことになっているのかが分からない。
私はいくつかの投稿の中から、それらが共通して参照している大元の情報を辿っていった。
やがて、私は一つの投稿へと辿り着く。
ユーザーネーム『@___xxx_fallen_angel_raymond_xxx___』。
そこには、四枚の画像だけが並べられていた。
最初の二枚と残りで区切られている。
一、二枚目は、私が過去に『@kira_kira_raymond』で投稿した、直筆の夢日記と似顔絵だった。
『公開演舞で見事な剣捌きを見せたレイモンド様。万の軍勢の中でも、きっと麗しく輝くのでしょう。戦の中、私は暴漢に襲われて、今にもその魔の手が触れようとしている。そこに貴方様は颯爽と駆けつけあっという間に敵を退けた後、「怪我はないかい?」と囁くのです……。もうダメ、心臓がハイドロ・ヒール(上級治癒魔法)でも追いつかないくらいバクバクしてる。――もしかしてこれが、恋? #レイ様しか勝たん #今日のレイ様 #息ができない』
自分が投稿した文面なのに、他人に引用されると死にたくなるのはなぜだろう。いっそその剣で、私の首を刎ねてほしい。
そして残りの二枚。
それは私の執務室に保管していたはずの、紙の雑記帳の写真だった。
誰にも、見せたことがない。殿下への想いを、その側で感じたことをただ書き溜めた、私だけの記録。
『執務室の灯が、深夜まで点いていた。ここのところずっとだ。うまく化粧で誤魔化しているが、表情には少しだけ陰が滲んでいる』
『今日も執務の合間に剣術の稽古に打ち込んでいる。着飾っているが、毎日のように傷を負っていることを知っている。それなのに、なんで私を――こんな無愛想な女を、気にかけてくれるのだろう』
そんな赤裸々な文面が、先の夢日記と全く同じ筆跡で書き起こされている。
流麗な文字に、わずかに丸みを帯びた書き癖。わざわざ分かりやすいように両者に共通する部分に印を付けてある。
注意して見ずとも、四枚の写真が同一人物のものであることは明白だった。
「あんたが犯人ね……!」
明らかな悪意の籠る投稿に、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。
――駄目だ、こういうときこそ冷静にならなきゃ。
私は一旦画面から目を離し、もう一度窓の外を眺めた。
宵の風が火照った頭を冷やしてくれる。
原因は分かった。あとは解決するだけ。
だが、どうする。アプリを管理する光信局か、宮廷内の監察組織へ連絡するか――。
しかし、ルミナスでこれほど大規模な損害が起きた事例は、私が知る限り存在しない。
ここが現代日本なら名誉毀損で情報開示させることも可能だろうが、この世界でそこまでの法が整備されているとは思えない。
念のために『@___xxx_fallen_angel_raymond_xxx___』のアカウントと件の投稿の写真を撮ったが、これだけでは不十分だろう。
もっと決定的な証拠を見つけなければ。それも犯人を特定できるような……。
私は急いで自分の執務室へと向かった。
雑記帳は、ご丁寧に本棚の定位置に戻されている。
取り出して写真に映っていた頁を開くと、オダマキの押し花が挟み込まれていた。
私が見ると分かっていて、こんな自らを誇示するようなことをしたというのか。
「舐めた真似してくれるじゃない」
自分が想像するよりも、さらに一段低い声が出てきた。
春の陽だまりのようだ、と形容をされる普段の聖女とは似ても似つかない、冷たい響き。
氷の白石。氷の聖女。
いい得て妙かもしれない。自嘲するような息がふっと漏れた。
でも、こんなことをしたからには分かってるでしょうね。
落とし前は付けさせてもらうわよ――。
* * *
翌朝、私は王室の側近に呼び出され、謁見の間に立っていた。
「面を上げよ、聖女アンジェリーナ」
玉座から重苦しく響いた国王陛下の声に、私の心臓が跳ねる。
正面には、険しい表情の陛下と、扇で口元を隠しながら哀れみの視線を向けてくる王妃陛下。
そしてその傍らには、王太子であるレイモンド殿下が立っている――。
昨日の騒動をすでに本人も聞いているのだろう。
その表情はいつもより複雑で、私を見る目は少しだけ揺れていた。
国王陛下が再び問う。
「此度のルミナスにおける騒動、一体どういうことか説明せよ。聖女ともあろう者が、我が息子の隠し撮りを『今日も生きてて偉い』という怪しげな言葉と共に拡散していたというのは、真実か?」
国王陛下の言葉に、周囲の近衛兵たちの甲冑が小さく鳴った。「あの鉄面皮がだもんな、信じられないよ」「イメージ違いすぎでしょ」などと、そこかしこから抑えるような笑い声が届く。
ああ、今すぐ聖なる魔力で自爆したい。
「陛下、説明など不要にございます!」
甲高い声で割って入ったのは、レイモンド殿下の婚約者、ミレーヌ様だった。
彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、私を指差す。
「聖女の皮を被ったストーカーですわ! ルミナスのタイムラインを見ましたけれど、『尊すぎて心臓が無理、命の危機』などと不穏な供述をしておいででした。即刻、聖女の資格を剥奪し、王宮を追放すべきです!」
静まり返る謁見の間。
全員の視線が、床に膝を突く私に突き刺さる。
私は深く息を吸い込み、喉の奥でせり上がる恐怖を、一息に呑み下した。
聖女の祈りよりも真剣な、人生最大の交渉を始めるために。
「……まずは、今回の一件で、王宮の皆様にご迷惑をおかけしていることを、心からお詫び申し上げます」
喉から無理やり絞り出した声は、今にも消えそうなほど震えていた。
「例のアカウントは、私のものに相違ありません。そして、それが王宮の品位を損なう内容だったこと、申開きのしようもございません」
陛下は深い身じろぎを一つして、その鋭い眼光で私を見下ろした。
「聖女は私欲を捨て、民のために身を捧げなければならない。それなのに、私情で王族を追い回し、あのような破廉恥な書き込みで世間を騒がせるとは。これでは民への示しがつかぬ」
一分の隙もない正論が、私の胸に深く突き刺さる。
けれど、ここで引き下がるわけにはいかない。私は頭を下げたまま、さらに言葉を絞り出した。
「重々承知しております。私の処遇は如何ようでも構いません。……しかし、無礼を承知でお願い申し上げます。私にもう一日だけ、時間を頂けませんか。必ずや、犯人を見つけてみせます」
私の必死の嘆願に、陛下は渋面を浮かべた。
ただの言い逃れだと捉えられても仕方のない状況だ。沈黙が重くのしかかり、息が詰まりそうになる。
その時、これまで一言も発さなかったレイモンド殿下が、静かに口を開いた。
「犯人に当てがあるというのか」
糾弾されている最中だというのに、私は「真剣な顔も素敵……」と一瞬思考を乗っ取られそうになる。
けれど、必死に怯む心を震わせ、彼を見据えて何とか声を絞り出した。
「……はい。件の暴露に使われた画像は、私の執務室に保管していた雑記帳を盗撮したものです。つまり、私の執務室に侵入することのできる人物しか、犯人たり得ないのです」
「そんなの、一日で出来っこないですわ!」
厳かな空間を掻き乱すようなミレーヌ様の声を追いかけるように、手元の扇がせわしなく風を切る。
その扇の向こう側で、彼女の双眸には昏い勝ち誇りの色が、冷ややかな三日月となって浮かんでいた。
「往生際が悪うございますわよ! そもそも、聖女なんて大層な肩書ですが、元は平民の出でしょう。それを、加護の魔力が発現したというだけで王宮に召し出したものだから、自分は何か特別だと、勘違いしているのではなくて?」
「ミレーヌ!」
レイモンド殿下が咄嗟に窘める。再び謁見の間が静まり返った。
ミレーヌ様の言葉は極端ではあったが、周囲の側近たちが言葉を発することはない。皆、似たようなことを、これまで思っていたのかもしれない。
陛下の視線も厳しさを増していく。万事休すか。
そう思った瞬間、殿下が場違いなくらい穏やかな声を出した。
「分かった。なら、一日だけだ」
「殿下!?」
ミレーヌ様が裏返った悲鳴を上げる。
言い出した私でさえ、驚きに目を見張った。まさか、推し本人から猶予を与えられるなんて。
「父上。よろしいですね? 聖女の進退を決めるにしても、王宮内の安全を脅かした真犯人を放置しておくわけにはいきません。一日だけ、彼女に猶予を」
レイモンド王子は陛下に向き直り、毅然とした態度でそう確認した。
陛下は不満げに鼻を鳴らしたものの、王子の理路整然とした言葉を拒むことはしなかった。
「……よかろう。期限は明日の同時刻までだ。それまでに証拠を揃えられねば、相応の処分を下す」
私は深く平伏した。心臓はまだ早鐘を打っている。
推しに救われた歓喜と、一日で犯人を捕らえなければならないという極限のプレッシャーで、眩暈がしそうだった。
* * *
謁見の間を辞して一刻ほど経った頃、私は執務室にいた。
聖女だからと、祈って人を治すばかりが仕事ではない。
国内の巡礼計画であったり、ときには諸外国との折衝にも立ち会うことがある。そういった大掛かりな仕事以外にも、日々の雑用もこなさなければならない。
人手の少ない王宮では、聖女でさえも貴重な労働力なのだ。
そのため執務室は、日本のオフィスよろしく書類の山がそこかしこに積み重なり、非常に手狭な状態であった。
普段は一人で作業するばかりなのでこれで良いのだが、今このときは、もう少し片付けておけば良かったとも思う。
何せ今この部屋には、私以外に四人の人間がいる。
侍女のクララ。
書記官のマウリ。
宮殿の施設管理のベルト。
そしてミレーヌ様の側近である侍女ヴェロニカ。
四人にはある共通点があった。それは、この四人だけが、執務室を解錠するための鍵となる魔紋を持っているということ。魔紋には実体がなく、誰かと貸し借りできるようなものではない。
つまり、この四人の内の誰かが、私の雑記帳を取り出して中身を撮影した犯人である、ということだ。
「さて、皆さんに集まっていただいたのは他でもありません。昨日の騒動のことについて、お一人ずつお伺いしたいことがあります。……その前に、大変お見苦しいものを、申し訳ありませんでした」
私は深く頭を下げた。
すると、ベルトがこれ以上ないというほどに畏まりきった様子で、こちらに寄ってきた。
「そんな、勿体のうございます、聖女様。お顔をお上げくださいませ。誰にでも秘密はあるものでございます」
幼くして奉公にやってきた娘とは聞いているが、心根の優しい気遣いに、少しだけ涙腺が緩みそうになる。
窓から差し込む光が彼女を照らし、その銀の艶が美しく反射した。なぜかその色に既視感を覚えたが、深くは気にしなかった。
部屋の入口あたりでつまらなそうに話を聞いていたヴェロニカが声を上げる。
「何でもいいですけど、用があるなら早くしてもらえませんか。あたしもこの後ミレーヌ様のところへ戻らないといけないんですよ」
一人際立って長身な彼女は、その体躯と飾らない風貌も相まって、少しだけ威圧的な印象を受けた。
「すみません。なるべく手短に済ませるので、どうかご辛抱ください」
そこで、一番年長のマウリが不思議そうな顔を私に向けた。
「それにしても、なぜ僕たちが疑われているのでしょうか? ルミナスは誰でも使えるものですから、誰がやったかなど絞り込めないのでは」
もっともな意見だった。
彼ら、少なくとも犯人以外は、今回の騒動がどういった経緯で起きているのかを知らない。
どこぞの誰かが流した噂が予想以上に広まって今に至る、とでも思っているのだろう。
「ええ、ですが、こちらをご覧ください」
私は自身の光石を起動させ、ルミナスのあるアカウントの画面を表示した。
そこには、『@xxx_fallen_angel_raymond_xxx』が投稿した例の四枚の写真が映っている。
クララには予めこのアカウントの件を伝えていたし、そもそも素の私を知っているので、相変わらず無表情なのは変わらない。というか、むしろ若干引いている。
一方でそのほかの反応は三者三様であった。
ベルトが顔を赤らめながら私の方を見た。
「これは、ちょっとどきどきしますね……。ところで、この写真の手帳は一体?」
私は返事の代わりに頷き、棚から雑記帳を取り出す。
「こちらです。ルミナスに書き込めないような、個人的な事柄を色々と書き溜めてあります」
件の画像と寸分違わぬその一冊に、皆の注目が一斉に集まる。
するとマウリがすでに意図に気付いたのか、目を見開いた。
「そうか。僕たちは全員、聖女様の執務室の鍵を持っているのですね。つまり、この本の写真を盗撮できるのは、我々しかいない」
私は返事の代わりに、小さく頷いた。
「皆さんにお声がけしたのは、まさしくそれが理由です。――とはいえ、犯人も詰めが甘かったみたいですね。どうやら、私がこの雑記帳の本当に隠したかった頁には気付かなかったみたいです」
そう言って、私は唇の両端を釣り上げ、不敵な弧を描いた。
「ここからは、個別にお話を伺わせてください。一番最初にクララだけ部屋に残っていただける? 他の御三方は一旦廊下でお待ちください」
そうして四人全員への聞き取りを終え、私は再度全員を執務室に集めた。
「みなさん、ご協力ありがとうございました。貴重なお時間を割いていただき、感謝いたします」
マウリが少し意外そうな顔を浮かべている。
「いえ、それは良いのですが……。正直驚きました。聖女様はもっと、寡黙なイメージがあったといいますか」
「ったく、異端審問かってくらい根掘り葉掘り。少しは勘弁してくださいよ」
ヴェロニカは凝り固まった筋肉をほぐすように肩を回している。
私は苦笑を浮かべた。そんなに厳しく問い詰めたつもりはないのだが、やりすぎてしまったかもしれない。
とはいえ、これで確認は取れたし、仕込みも上々だ。
私はもう一度全員に礼を述べ、その場は解散となった。
*
「アンジェ様、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
クララがそう言ったのは、私たち二人が光信局へ向かって馬車で移動しているときだった。
少し前。私とクララは、執務室での聴取を終えた後、一秒の時間も惜しむように王宮を出た。
目的は光信局。光石をはじめとする、通信魔法の保守管理を行う組織だ。
クララが以前からそこの局長と面識があるらしく、もしかしたら助けになるかもしれない、と直接訪問する手筈を整えてくれていた。
「どうしたの?」
「先程の件です。なぜ、あんなことを……雑記帳と瓜二つな偽物を、三冊も用意したのですか」
ああ、と私はそのときのことを思い出す。
クララだけを執務室に残し、他三人を廊下に待機させたとき、私は彼女に複製魔法を使うよう指示した。
そうして新しく用意した偽物に細工をして、何食わぬ顔で一人ずつ呼び出し始めたのだ。
「ふふ。まあ、見てれば分かるよ」
クララは意味がわからないというように半眼で睨んできた。
私が黙ったままニマニマと彼女を見ていると、横腹を指でつついて来た。
いつも私の推し活を冷やかしてくる彼女が、少しだけ悔しそうな顔を浮かべているのがなんだか小気味良い。
そうこうしている内に、光信局に着いた。
すでに話が通っているようで、衛兵に名前を告げると、すんなり局長室へ通された。
「これはこれは、聖女様! ようこそお越しくださいました」
初老の男性はハロルド・キールと名乗った。
少しだけ心許のない頭を掻きながら、私たちにソファを勧める。
「お時間を頂きまして、ありがとうございます。早速ですが、本件についてご相談したいことが」
「ええ、ええ。クララちゃんから粗方は伺っております。例のルミナスの騒動、私も朝から胃が痛くなる思いで眺めておりましたよ」
ハロルドは、白いものの混じった眉を申し訳なさそうに下げた。
クララが「ちゃん」付けで呼ばれていることに少しだけ目を見張ったが、彼女自身は何食わぬ顔で湯気の立つ茶碗を受け取っていた。
そういえば、クララは王宮に上がる前に光信局の下働きで働いていた時期があると、いつだったか聞いたことがある気がする。それで彼と面識があったのか。
「お気遣いありがとうございます。……その、本日お伺いしたのは、あるアカウントの追跡をお願いするためです」
私は手元の光石を起ち上げ、ハロルドに投稿の画面を向けた。
昨日『@xxx_fallen_angel_raymond_xxx』が投稿した四枚の画像が、薄暗い局長室の机の上にぽつんと光る。
「ふむ、なるほど。流出元と思しき匿名アカウント、ですな」
「ええ。実体のあるアカウントとの紐付けが分かれば、犯人特定に繋がります。お聞きしているところによると、光紋分離という技術で、光石ごとの発信元を追えるとか」
ハロルドは「聖女様は博識ですな」、と目を丸くした。
彼は手近な棚から大ぶりの魔石板を引きずり出し、机の中央に据えた。表面には六角形の升目が、蜂の巣のように整然と並んでいる。
「光紋というのは、簡単に申せば、光石ごとの『指紋』のようなものでして。発信のたびに、その光石固有の波形が刻まれます。普段は通信負荷を下げるために伏せられておりますが――こうして見える形に呼び戻すと、まあ、こんな具合に」
ハロルドが指で空中を撫でると、画面に複雑な紋様が結晶のように浮かび上がった。同心円が幾重にも重なり、その各所に細い棘のような分岐が伸びている。
「アカウント名は、ご本人の意思で何度でも変えられます。けれど、光紋だけは、光石を物理的に廃棄しない限り、生涯ついて回ります。仕事熱心な詐欺師も、最後はここで足が付くわけですな」
そう言って技術屋らしい純朴な笑みを浮かべた。
彼は流出元のアカウント名を升目に入力した。蜂の巣が一斉に発光し、しばらく明滅したのち、すっと一点で光が止まる。
そして止まった升の中央に、一つの名前が結晶のように浮かび上がった。
その文字列に、全員の表情が凍る。
『@mireine_brant_official』。
画面に表示されていたのは、まさかのミレーヌ・ブラント公爵令嬢の公式アカウントだった。
なぜ、彼女の名前がこんなところに……。
「そんな、何かの間違いでは」
思わず漏れた私の言葉に、ハロルドは静かに首を振った。
「いえ、情報に間違いはありません。これは光石という魔導具の根幹に関わる絶対的な仕様です。この紋様が同一であると示している以上、間違いなくミレーヌ様ご自身の光石から発信されたものです」
私は絶句し、隣に座るクララと顔を見合わせた。
ミレーヌ様が、私を陥れるためにあの画像を投稿した?
昨日廊下ですれ違ったとき、そして今朝の謁見の間での彼女の発言。
思えば、これまでも幾度となく、私を目の敵にするような態度を取られてきた。
彼女が私を王宮から追放するためにこんなことをした、というのはあり得ない話ではない。
だが、そこには決定的な矛盾があった。
あの雑記帳は、間違いなく私の執務室に保管されていたものだ。そして、あの部屋に入るための鍵を持っているのは、私とクララを除けば、マウリ、ベルト、ヴェロニカの三人しかいない。
ミレーヌ様本人が私の執務室に侵入し、直接撮影することは物理的に不可能なのだ。
だとしたら、どうやって彼女は知り得ないはずの情報――あの写真を手に入れたというのだろう?
鍵を持つ誰かが彼女の手引きをした? それとも、あの四人の中に実行犯がいて、ミレーヌ様にデータを送った? いや、そもそもミレーヌ様自身が関与しているのなら、なぜわざわざ足のつく自分の光石で……?
ぐるぐると巡る思考の渦の中で、ハロルドが「おや」と低く声を漏らした。
「どうかなさいましたか?」
「ええ……。少しお待ちを。どうやらこの光紋には、もう少し深い階層に別の接続の痕跡があるようですな」
彼は魔石板に顔を近づけ、太い指で弾くように空中の紋様を操作した。
すると、ミレーヌ様の公式アカウントの名前の裏側から、隠されていた別のアカウント情報がずるりと引きずり出されてきた。
「同じ光紋で、もう一つ別のアカウントが運用されているのを発見しました。これは……『私信板』ですね」
私信板。限られた者としかやり取りできないよう、不可視の術式が組まれた、俗に言う鍵付きのアカウントのことだ。
「おそらく、この私信板を通じて、実行犯と画像の受け渡しなどのやり取りをしていたか、あるいは……」
「その中身は、見られないのでしょうか」
おずおずと尋ねた私に、ハロルドは困ったように眉尻を下げた。
「残念ながら。非常に強固な防壁が掛けられておりまして、この私信板の鍵を外すには流石の私でも少しばかり時間がかかりそうです」
「無茶なお願いだとは分かっています。……明日の朝までに、なんとかなりませんか」
彼は画面を睨みつけたまま、小さく息を吐いた。
「何か分かったら、すぐにご連絡いたします。聖女様方は、どうか王宮でお待ちください」
「……分かりました。どうか、よろしくお願いいたします」
ハロルドの頼もしい言葉に、私は深く頭を下げた。
未だ真犯人の特定には至らない。焦燥感を胸に抱えたまま、私たちは光信局を後にしたのだった。
* * *
日が沈み、藍色の深い衣が地上を覆っていく。
昼の熱気を残した風がふっと冷たさを帯び、木々がわずかに身震いをした。見上げる空には、いつの間にか微かな星屑が瞬いている。
私とクララは宮殿を出て、敷地内の宿舎へと向かった。
見張りの衛兵には大層驚かれたが、「緊急の用件で立ち入らせてください」と無理やり押し通った。
そうして宿舎の廊下を進み、とある部屋の前に立つ。
その扉を控えめに叩くと、中から現れたのは、ベルトだった。
*
光信局から戻ってきた後――。
調査を続ける私とクララの光石に通知音が鳴った。
それは、昨日『@xxx_fallen_angel_raymond_xxx』の新着があった際に分かるよう、事前に設定したものだ。
何か新しい投稿がなされたのかもしれない。
お互いに頷き合い、私はルミナスを起動した。
『@xxx_fallen_angel_raymond_xxx』
〈聖女様の雑記帳、まだ続きがありました〉
そこに表示されていたのは、短い文章と一枚の写真。
写真に映っていたのは、またもや私の雑記帳の中身だった。
その帳面に書かれた文字列が視界に映る。
『極秘で殿下の等身大抱き枕を作成した。中綿には私が祈りを込めた最高級の聖水を染み込ませており、毎晩口付けを交わしてから眠りについている。これがないと魔力が回復しない』
私は咄嗟に机にヘドバンし、窓から身を投げたくなる衝動を無理やり抑えた。
「アンジェ様!?」とクララが何やら騒いでいるが、もう関係ない。
――かかった。
額を熱いものが流れている感触にも関わらず、私の口角はなぜか自然と持ち上がっていた。
喉の奥から込み上げる笑いを殺しながら、私は鋭く光る瞳でクララを見据えた。
「行くわよ、クララ」
「ちょっと、どちらへ!」
*
そうして、ブツブツと文句を言うクララを宥めながらやってきたのが、この宿舎。
目の前のベルトは、突然現れた二人に目を見開いている。
「聖女様に、クララさん……。なぜこんな場所へ」
「単刀直入に言うわ、ベルトさん」
私はゆっくりと顔を上げ、冷ややかな瞳で彼女を見据えた。
「私の部屋に侵入したのは、貴方ね」
「なっ――!」
ベルトは小さな顔を歪ませ、目に見えて狼狽した。
「何をおっしゃっているのですか、聖女様……! 私、そんなこと――」
「誤魔化しても無駄よ。証拠は、貴方自身がルミナスに投稿してくれたのだから」
私は手に持っていた光石の画面を、ベルトの目の前に突きつけた。
そこに映るのは、先ほど『@xxx_fallen_angel_raymond_xxx』が投稿した、私の雑記帳の写真。
「こ、これがどうしたというのですか? 私は何も……」
震える声で弁明しようとするベルトを遮り、私は冷たく言い放った。
「今日の昼間、執務室でみなさんに事情聴取をしたわね。聞き取りの手順は全員同じ。昨日どこで何をしていたか。それを証明できるか」
「……はい」
「でもね、私の目的は話を聞くことだけではなかったの」
私は一歩、ベルトに歩み寄る。
「それぞれの容疑者と話す途中、私は複製した雑記帳をあえて目立つように棚へと仕舞った。複製した本を一人につき一冊ずつ見せながら、同じことを繰り返したわ。どこに仕舞うかだけを、毎回変えてね」
部屋の入口から見て、マウリの前では左の本棚へ、ヴェロニカの前では右のカップボードへ。そして、ベルトの前では奥のチェストへ。
ベルトの顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。
「そしてその三冊の偽物には、それぞれ全く違う『私が本当に隠したかった秘密』が書き込まれていた。貴方が撮影した文面――あれは、貴方と話している間に、私がチェストへと仕舞った雑記帳に書いたものよ」
夜の宿舎の廊下に、重い沈黙が落ちる。
ベルトは、自分がまんまと罠に嵌められたことを知り、ぎゅっと唇を噛み締めた。
「貴方は聴取の後、再び私の執務室へ忍び込み、チェストから雑記帳を取り出した。……まさか、それが犯人を特定するために用意されたダミーだとは知らずに」
あの時。
『本当に隠したかった頁』とこれみよがしに強調したのには、理由があった。
犯人は、昨日も部屋に忍び込み、わざわざ押し花を挟んで挑発してくるような自信家だ。
だから、犯行翌日の、最大級に警戒されているタイミングでも、きっと乗ってくると思っていた。
そして、本当にそれが起きた。私自身、半ば祈るように仕込んだ賭けではあったが。
その代償に、さらなる秘密が暴露されたことに心の中で血涙を流しつつ、私はさらに追い打ちをかけるように、じっと彼女の目を見据えた。
「言い逃れは、させないわ」
有無を言わせぬ私の宣告に、ベルトは糸が切れたようにその場でへたり込んだ。
しかし、それで終わりではない。
でもね、と私は続けた。
「貴方は確かに私の部屋に侵入した。でも、写真を実際に撮影し、それをルミナスに投稿したのは貴方じゃないわよね」
ベルトは弱々しく顔を上げて、私を見る。
どうしてそれを、と言いたげな目だった。
その額には冷や汗でひと筋の銀髪が張り付いている。
事情聴取のときにも感じていた違和感。それがようやく形を成す。
「ねえ、ベルト。貴方は、もしかして――」
* * *
翌朝。
王宮の謁見の間は前日よりも多くの人で埋まっていた。
貴族、聖職者、王宮監察、書記官。噂は半日で都中に駆け抜けていたから、玉座の間には立ち見が出るほどだ。
その視線の中央に、私は再び膝をついていた。
「面を上げよ、聖女アンジェリーナ。期限の一日が経った。証拠は揃ったのか」
国王陛下の声に、私は静かに頷いた。
ミレーヌ様は、玉座の脇のお気に入りの席で、扇を緩やかに動かしながら笑みを浮かべていた。
「はい、陛下」
私はそんな彼女の顔を真正面から見据えた。
「本件の真犯人は――ミレーヌ・ブラント公爵令嬢、あなたです」
ぴたりと、ミレーヌ様の扇が止まった。
一拍分の間。謁見の間が、再び静寂に飲まれた。
そして、俯き表情を隠すミレーヌ様の肩が、くつくつと笑い出す。
「ふふふ」
それは次第に大きくなっていく。
「あはははは、ああ、可笑しい! わたくしが何でそんなことをしなければいけないの!? レイモンド王太子の婚約者である、このわたくしが!」
高々と扇を掲げ、凄絶な笑みを浮かべるミレーヌ様。
彼女はひとしきり笑った後、今度はふっとその表情から色を消し、底冷えのするような冷たい目を向けてきた。
「そこまで言うのなら、あるのでしょうね。わたくしがやったという証拠が。もしも出任せだったとしたら、貴方は王宮の品位を下げただけでなく、未来の王妃に無実の罪を擦り付けたことになる。これはもう立派な大逆罪、問答無用で死刑ですわよ!」
目は一切笑っていないのに、その瞳には妖しげな光が浮かび、その口元は大きく歪められている。
もし今から話す内容が真実でないのなら、死刑。
謁見の間にいる全員の目が、私に向けられている。押しかかる重圧に、耳の奥で心臓の早鐘がうるさいほどに鳴り響く。
怖い。間違っていたら、どうしよう――。
揺れる視界の端に、レイモンド殿下が映った。
玉座の側に控えた彼は、いつもよりも少しだけ強張った表情をしていた。
――関係ない。
私は自らの震える拳を強く握りしめる。
目を閉じ、冷たい空気を肺の奥まで吸い込んだ。
思い出すのは、前世の記憶。大規模システムの致命的なエラーを報告した、あの役員会議。
あの時も、四面楚歌の重圧の中で吐き気を堪えながら、それでも冷静に、被害状況と対応策を説明した。
今回だって、やることは同じだ。
ゆっくりと目を開ける。震えは、もう止まっていた。
纏う空気の温度が、一気に下がる感覚。これが、周囲が勝手に作り上げた『氷の聖女』の仮面だというのなら、今は最大限に利用させてもらう。
何十もの視線が縫い付けられた、痛いほどの静寂。
私は、極寒の吹雪のような視線でミレーヌ様を真っ向から射抜き、しんと冷え切った声で口を開いた。
「――証拠なら、ございます。ハロルドさん」
私の合図に、控えの間から光信局長ハロルドが魔石板を抱えて進み出た。
彼の白い眉は、昨日の夕刻に見たそれよりも一段、深く下がっていた。夜を徹して解析してくれていたのだろう。
彼は中央の投影装置に魔石板を据え、謁見の間の中央、その空中に、ルミナスの画面を大きく映し出した。
「聖女様の暴露騒動は、こちらの一件の投稿から始まりました」
画面が遷移して、あるアカウントのプロフィールが表示される。
『@xxx_fallen_angel_raymond_xxx』。私の雑記帳の中身を盗撮し、それを投稿したのがすべてのきっかけ。
「ふん、これが何だというの。こんなの、誰が使っているかなんて、分かるはずないじゃない」
ミレーヌ様が鼻を鳴らした。
ハロルドは、畏まりながらも、その言葉に首を振った。
「いいえ、特定可能です。――光紋分離によって」
「光紋分離……?」
聞いたことのない単語にミレーヌ様は訝しげな表情を浮かべた。
「普通に使っている分には聞き馴染みのない言葉でしょうからな。無理もありますまい」
そう言うと、ハロルドは画面に二つの光紋を並べた。
同心円と、棘のような分岐。それらが重なると、二つの模様が寸分の狂いもなく一致していることが分かった。
「光紋分離を使えば、ルミナスのアカウントに紐づいた、利用者固有の通信用の魔紋――すなわち光紋が抽出出来ます。そしてこれは、先程の流出元のアカウントと、とある別のアカウントの光紋を並べたものです」
比較に使われたもう一つの光紋を、ハロルドが選択する。
するとさらに画面が遷移し、そのアカウントの詳細が表示された。
『@mireine_brant_official』。
それは紛れもなく、ミレーヌ・ブラント公爵令嬢の公式アカウントであった。
ミレーヌ様の表情が青ざめる。
「な、何というデタラメを! こんなもの捏造に決まってます」
いいえ、とハロルドが続けた。
「光紋とは光石ごとの『指紋』に等しいもので、所有者の意思では決して変えられません。光石を物理的に廃棄しない限り、生涯ついて回ります。すなわち――このアカウントからの投稿は、ミレーヌ様ご自身の光石から発信されたものに、相違ございません」
謁見の間に、ざわめきが波紋のように広がった。
ミレーヌ様の扇が、震えながら口元を覆い隠した。
「ば、バカなことを! 何かの間違いです、陛下! わたくしの光石が、そ、そう! 光石が誰かに盗まれたのですわ。だって、この写真を私が撮ったという証拠はどこにもないじゃない!」
ミレーヌ様は扇をわなわなと震わせ、怒りを露わにする。明らかに先程までの余裕はない。
だが、まだ決定的ではない。彼女が写真を撮ったかどうかは、確かにこの情報だけでは証明できないからだ。
玉座の陛下も深く眉を寄せている。
「聖女アンジェリーナ。これについて反論はあるか」
尚も厳しく射抜くような視線に、喉の奥がからからに干上がるような感覚がする。
だが、まだ挫けるわけにはいかない。
「ミレーヌ様の仰るとおりです。あの雑記帳は、私の執務室に保管されており、写真を撮るには部屋に入らなければいけません。しかしその鍵を持っているのは、私と侍女クララ、書記官マウリ、施設管理のベルト、ミレーヌ様の側近ヴェロニカの、五名のみ。ミレーヌ様ご自身は、その中に入ってはおられません」
ミレーヌ様は、それ見たことかと言わんばかりに勝ち誇った表情を浮かべた。
そして、扇を振り、何事かを言おうとする――。
しかし、私はそれを遮り、毅然と続けた。
「ですから、ミレーヌ様は他者に鍵を開けさせて、それに続いて侵入されたのです」
私はゆっくりと、傍らに控える人物の方を見た。
そこには、ベルトが小さく立っていた。
私が目配せすると深く頷き、私の隣まで歩み出た。
彼女の瞳には、もう昨夜の涙はない。代わりにただ静かな覚悟の光だけが灯っていた。
*
昨夜、ベルトの部屋を訪ねたとき。
私は彼女の美しい銀髪を見て、こう尋ねた。
「ねえ、ベルト。貴方は、もしかして――マイヤー、というご家名ではないかしら」
その瞬間、ベルトの肩が、目に見えて震えた。
俯いていた顔がゆっくり持ち上がり、薄明かりの中で、銀の前髪が瑪瑙のように揺れた。
「な、なぜ……それを、聖女様が」
「数日前、王宮の治療室にマイヤーと名乗るご夫妻が、不治の病に罹ったと、遥か遠くの国から治療を求めて来られたの。二人とも、貴方とよく似た銀の髪をされていたわ」
ベルトの瞳孔が、急速に開いていくのが分かった。
「お父様、が……?」
「ええ。もう治してあるわ。今は、お母様と一緒に、看護室で休んでいらっしゃる」
その一言で、ベルトの口から短い悲鳴のような呼吸が漏れた。次の瞬間、彼女は廊下の壁にずるりと崩れ落ち、両手で顔を覆って号泣し始めた。
夜の宿舎の廊下に、抑えきれない嗚咽が、ぽつりぽつりと落ちる雨垂れのように響いた。
「お父様、来て、いらしたのですか……。私には、何の、連絡も……」
「ご夫妻は、敢えて知らせずにいらしたそうよ。あなたが王宮で頑張っているのに、また心配の種を増やしたくない、と」
私はベルトの背に手を置き、その震えが少し収まるのを待った。
少しして、堰を切ったように告白を始めた。
「半年前……父の病が悪化したと、母から手紙が来ました。私は王宮医をどうにかしてお願いできないかと、ミレーヌ様にご相談したのです。公爵家のお口添えがあれば、と思って……。ミレーヌ様は『斡旋してあげる』と仰ってくださいました。でも、何ヶ月待っても、お医者様の手配はされませんでした」
予想していた答えだった。だが、ベルトの口からそれを聞くと、別種の冷たいものが、胸の底に降りた。
「先月、ミレーヌ様が仰いました。『もう一度だけ、お父様のために、お願いがある』、『聖女様の執務室の鍵を開けて』と」
ベルトの肩が、また震え始める。私は手のひらで、ゆっくり、その震えを止めた。
「ベルト。あなたは、今夜のうちに、お父様とお母様のところに行きなさい」
「で、でも、私は、聖女様を陥れる手助けを……私、一体どうしたら」
「明朝の謁見の場で、すべて話してもらえないかしら。あなたの口から、本当のことを。それが、あなたの名誉を守る、唯一の道よ」
*
そして今。謁見の間にベルトは立っている。
周囲の目が一気にその小さな身体に向けられた。
怖いのだろう。その肩は小刻みに震え続けている。
「あら、ベルトじゃない」
ミレーヌ様は虫でも見るような目で彼女を見た。
「貴方は、私の無実を主張してくれるわよね?」
扇を勢いよく閉じて、バチン、と甲高い音が響く。
その音に、ベルトはひっ、と縮こまった。
私はそんな彼女の背中に、優しく手を添える。
大丈夫、と言い聞かせるように、不安に怯える彼女の目を真っ直ぐと見つめた。
ベルトの表情が、ようやく和らいだ。
もうその目に迷いはない。
「貴方の証言を、聞かせて」
彼女は頷くと、まっすぐ陛下に向き直り、震えのない声で語り始めた。
半年前、父の病で王宮医を頼ろうとしたこと。ミレーヌ様が「斡旋する」と約束しながら一度も手配しなかったこと。代わりに「聖女様の執務室を開けろ」と要求してきたこと。
ベルトの語りが進むにつれ、貴族たちの顔色が、次第に青くなっていった。
「私は、父の命を盾に取られて、聖女様の信頼を裏切る道具にされていました。けれど、聖女様は昨日、何も知らなかった私の父を、すでに治してくださっていた。ミレーヌ様が斡旋するとお約束された王宮医では決して助からなかった父の命を、聖女様は救ってくださっていたのです」
ベルトの声は、貴族たちのざわめきの中で、震えそうになるのを必死に堪えていた。
「聖女様の秘密を暴いたのは、ミレーヌ様、貴方です」
そうして最後の一言を、ミレーヌ様の前に放った。
彼女の扇が、ついに手から落ちた。床を打つ、乾いた音が、玉座の間に虚しく響いた。
自身の手中で支配していたと思っていたベルトからの告発。
ミレーヌ様にとって、それは予想外の一手だった。
もはや動揺を隠すことも出来ず、開いた口はただ虚しく震えるのみ。
謁見の間の聴衆も真相を悟り始めたか、ざわめきが少しずつ大きくなる。
だが、まだ終わりではない。
彼女のしでかした悪事は、この程度ではない。
「次に、こちらをご覧ください」
再度ハロルドに合図を送ると、手元の端末を操作し、画面を切り替えた。
ミレーヌ様の公式アカウントと同じ光紋下に、もう一つ、隠されたアカウントが存在していた。
私信板にのみ存在する、鍵付きの非公開アカウント――『@columbine_foolish』。
その画面が映ったところで、彼女の顔がさらに一段、大きく歪んだ。
「そ、それは……! やめて、見せないで!」
必死な要求も虚しく、ハロルドは容赦なくその鍵を外した。画面にアカウントの投稿内容が一覧で表示される。
最初に映ったのは、ミレーヌ様の自撮りだった。彼女の細い首には、宝石を中央に配した薄っぺらい金色の首飾り――いま現在、彼女の首にかかっているのと、寸分違わぬ細工。
〈殿下、毎日かわいい顔して掌で踊ってる 今日は孤児院まで連行して、写真を撮った〉
謁見の間の貴族たちが、息を呑む音が、波のように重なった。
投影画面は、続けて流れた。
〈婚約者のベアトリスだっけ 適当にスキャンダル用意して王宮に送りつけたら即追放されてやんの 『魅了の魔具』やっばww ベアトリスはもう死ぬまで牢屋だってwww〉
〈ブラントのとこのババアとの養女縁組おしまーい これで公爵令嬢ミレーヌ・ブラントの誕生ww 人生チョロいわ~〉
ベアトリス公爵令嬢は、レイモンド王太子のかつての婚約者だった。
天女のような美貌に加え、王族に加わるに相応しい気品を兼ね備えた彼女は、国中から有り余る祝福を受けていた。
しかし、ある日王室の金庫に手を出したという内容の醜聞が発表され、瞬く間に世間に広まった。
何一つ弁明を聞き入れてもらえなかった彼女は、そのまま食事も喉を通らぬほど衰弱し、やがて公の場から姿を消した。修道院に送られたとも、すでに亡くなったとも囁かれていた。
当時の私はまだ王宮におらず、詳細は知らなかった。
まさか、この一件にもミレーヌ様が絡んでいたとは。しかも魅了の魔具とは一体……。
謁見の間が、しんと静まり返った。
あまりにも悍ましい所業の数々に、貴族の中には、両手で口を覆って後退る者すらいた。
重苦しい雰囲気が場を包む中、陛下がゆっくりと口を開く。
「魅了の魔具とやらによる王族への影響行使。元婚約者ベアトリス公爵令嬢の冤罪。身分の偽装。王宮職員ベルトへの脅迫と、聖女アンジェリーナへの誣告。――何か一つでも事実と異なるところがあるなら、いま、この場で反論せよ」
国王陛下の声は、扉の隅々まで届くほどに、低く、はっきりと響いた。
ミレーヌ様の唇が、何度も、何かを言いかけては止まった。
やがて、両手で顔を覆い、その奥から、それまでとは別人のような、甲高く掠れた声が漏れ始めた。
「ちがう……ちがうわ……これは、捏造よ……。レイモンド、レイモンド、信じて……わたくしは……わたくしだけが、貴方の隣にいるべき女なのよ……!」
陛下の合図で、衛兵が両脇から踏み出した。ミレーヌ様の首に絡んでいた金色の首飾り――精緻な細工の魅了の魔具――を、白い手袋で慎重に外す。
外された瞬間、玉座の間の空気が、一段、軽くなった気がした。
陛下が、深い夢から醒めたように瞬きをした。隣に控える王宮魔術師長の顔から、ぼんやりとした影が剥がれ落ち、本来の明晰な光が戻ってきていた。
陛下の宣告が、玉座の間に響き渡る。
「ミレーヌ・ブラント公爵令嬢との婚約は、本日付で解消する。彼女の身柄は、王宮監察の管理下に置く。魅了の魔具については、出処を即時調査せよ」
* * *
衛兵に両脇を支えられて引きずられていくミレーヌ様の足音が、扉の向こうへ遠ざかってから、私はもうひとつだけ、口にした。
「陛下。施設管理のベルト・マイヤーは、ミレーヌ様の脅迫の被害者でございます。同時に、ご自身の証言と勇気で、本件の真相を明らかにしてくれた、最大の協力者です。どうか、情状酌量のお慈悲を、お願い申し上げます」
陛下は数秒だけ沈黙し、それから深く頷いた。
ベルトは両膝の力が抜けたのか、床に崩れ、ほろほろと涙を流した。
「アンジェリーナ」
声がかかった。完全に不意打ちだった。
顔を上げると、玉座から降りたレイモンド殿下が、私の前まで来ていたのだ。
彼はゆっくりと、片膝をついた。
「ファッ――!」
推しの唐突な行動に、私の思考回路は一瞬でショートし、意図せず奇妙な声が漏れる。
玉座の間で、未来の王が、一介の聖女の前に傅いている。
周囲の貴族たちがざわめきすら忘れて息を呑む中、彼は私の震える手を取り、その青い瞳で私を真っ直ぐに見上げた。
「……アンジェリーナ。ルミナスでの騒動、すまなかった。私の不徳の致すところだ。だが――君があのアカウントの主だと知って、実は少し、嬉しかったんだ」
「……はい?」
嬉しかった? あの致死量の黒歴史を全世界に晒されて?
頭に疑問符を浮かべる私に、殿下はどこか懐かしむような、それでいて少しだけ痛みを伴うような微笑を浮かべた。
「最初、私は君の孤高さに、救えなかった過去を重ねていたのだと思う。だが君の言葉を追い、君の不器用な優しさに触れるうちに、私はようやく気づいた。私が見ていたのは過去の影ではなく、君自身だったのだと。」
ベアトリス様。
無実の罪で王宮を追われ、行方知れずとなったかつての婚約者を思い出し、胸の奥がチクリと痛んだ。
「けれど、ある日ルミナスで『@kira_kira_raymond』を見つけた。あの凄まじい高画質の写真は、撮影魔法を極限まで使いこなすクララにしか撮れないとすぐに分かった。だから、あのアカウントの中の人が君であることは、随分前から察しがついていたんだ」
「なっ――!?」
待って。それってつまり。
私が『今日の顔面も国宝』、『存在が世界平和』とオタクをかましていたのを、推し本人が、ずっと前から、私が書いていると知りながら、見ていたということ……!?
即死刑より重い公開処刑の継続宣告に、私の顔面からスゥッと血の気が引いていく。
「最初は驚いたけれど……気づけば、毎日君の言葉を追うのが日課になっていた。君はただ私を褒めそやすだけでなく、私の公務を誰よりも正確に記録し、根も葉もないデマを訂正し、そして……あんなにも情熱的に、私という存在を全肯定してくれた」
殿下の手が、私の手を包み込むようにギュッと強くなる。
その体温が、手袋越しにじんわりと伝わってきた。
「あの文字の裏にある、君のひたむきで誠実な人柄に触れるうちに、私はいつしか過去の面影ではなく、君自身を見るようになっていた。『氷の聖女』なんかじゃない、温かくて、少し不器用で、愛に溢れたアンジェリーナ・ヴェルブランという一人の女性に、心から恋をしていたんだ」
「で、殿下……」
「ミレーヌという重しが取れた今、私は自分の意志で君を選びたい。すぐに答えをくれとは言わない。けれど――どうか、君を想うことを許してくれないか」
謁見の間に、感動のため息が漏れる。
誰の目から見ても、それは完璧な、おとぎ話のような告白の場面だっただろう。
普通の令嬢であれば、感極まって涙を流し、震える声で頷くところかもしれない。
胸の奥が、どうしようもなく熱くなった。
嬉しい。そんなの、嬉しいに決まっている。推しが、私なんかに、こんなふうに言葉をくれているのだから。
だが、私の脳内では、前世から引き継いだ限界オタクの業が、許容量を完全に超えて大爆発を起こしていた。
推しからの特大ファンサ。顔面国宝の至近距離での微笑み。
「い、いや、そんな! 推しからあんなお言葉をいただくだなんて、私ごときには宇宙の法則が乱れるといいますか! 私はどちらかというと壁になりたい、いえ、部屋の観葉植物として、殿下の尊い日々を見守る後方腕組みポジション希望といいますか!」
「アンジェリーナ?」
「アッ! いや、それよりも私は殿下の袖の糸になりたいといいますか、いっそ殿下の歩く絨毯の繊維として踏まれる人生が至高であって、殿下のお隣に立つだなんて、おこがましいにもほどが――!」
息継ぎすら忘れてオタク特有の早口をまくし立てる私に、周囲の貴族たちは「聖女様が壊れた」とざわめき始めた。
しかし、当のレイモンド殿下は少しも引く様子はなく、むしろ堪えきれないというように声を上げて笑い出した。
「ふふっ、あははは! 袖の糸、か。ルミナスに書いてあった通りだね」
殿下は立ち上がると、パニックを起こして固まる私の腰を抱き寄せ、耳元で甘く囁いた。
「それなら、一生私をその糸で、解けないように包み込んでくれないか?」
「ア゛ア゛アーー!!」
国宝級のイケボによる破壊力抜群の殺し文句に、私の心臓のメーターはついに限界を突破した。
私はそのまま白目を剥いて、愛しの推しの腕の中へと、幸せに崩れ落ちたのだった。
* * *
そしてやがて、その日が来た。
婚約発表の知らせは、ルミナスのトレンドを一日中占めた。
ミレーヌ・ブラントは、長年の拘禁刑を宣告された。共犯――魅了の魔具を彼女に売り渡した闇商人と、身分偽装の書類に印を押した役人――もそれぞれ処断された。
マイヤー一家は、療養のため、しばらく王宮の保護下に置かれることになった。ベルトは私のもとで、引き続き働きたいと言ってくれ、私は二つ返事で了承した。今はクララの元で侍女見習いとして励んでくれている。
ハロルドは、王立学院から正式な栄誉を授けられた。
本人は「こんな爺さんよりも若い人を応援してほしいけどねえ」と困った顔をしていたが、研究費が増えたことについては、心持ち嬉しそうに見えなくもなかった。
そして――『@kira_kira_raymond』。
私のアカウントは、王妃陛下公認の『公式観察アカウント』として、新たな歩みを始めた。
そう、あの王妃陛下が、だ。
ミレーヌ・ブラントが謁見の間で断罪された日。
すべてが終わった後、王妃陛下は玉座から下りられ私の側へ寄ると、ご自身の光石を取り出された。
そして、静かに私に向けてくださった画面には、王妃陛下ご自身の私信板アカウントが映っていた。
驚くべきことに、そのフォロー欄の一番古い欄に、『@kira_kira_raymond』の名前が入っていたのだ。
「アンジェリーナさん、わたくしもずっと、貴方の記録を読んでいたのよ。息子のことを、これほど気にかけてくれて、本当にありがとう」
王妃陛下の微笑みが、私のこれまでをすべて肯定してくれたような気がして、心の中を温かいものが満たしたことを今でも覚えている。
それからというもの、月に一度、王妃陛下と私と「王家観察サロン」という名の、要するに普通のお茶会を開くことになった。
なぜか巻き込まれたクララは面倒臭そうにしていたが、王妃陛下と話していてもさして物怖じしないところは、私もさすがに舌を巻いた。
その夜、私は窓辺で光石を取り上げ、文章を打つ。
〈今日はひとつの節目ですが、このアカウントは変わりません。これまでもこれからも、推しの姿を見届け続けます。 #今日のレイ様 #聖女〉
投稿ボタンを押して、私はそっと、息を吐いた。
窓の外、宵を告げる神殿の鐘が、今日も柔らかく響き渡る。聞き慣れた音色が、今度は、すぐ近くから聞こえた。
✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼
ここまでお読みくださり、ありがとうございます!
少しでも楽しんで頂けましたら幸いです。
✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼




