弐
弓なりに反らしたからだをバネのように引き絞ると腕の筋肉がキリキリと音をたてる。
シグマの肩甲骨から上腕にかけてはち切れんばかりのオーラが膨張して、握りしめた拳の先には尖った銛の先端が獲物であるクルエルシャークに向けられていた。
クルエルシャークの体表は光沢のある鱗で覆われていて、泳ぎながらその微細な凹凸が海水を切り裂く。
瞬間的な摩擦が水と水の隙間を生み出し、摩訶不思議な推進力を得たクルエルシャークはほとんど透明に近い速さで迫ってくる。
獰猛な敵に怯える子どもたちが互いに顔を見合わせていた。その中で最年少のピートだけはシグマの背中から目を逸らしてはいけないと、必死に集中力を高めていた。
ーーー
海藻の森で遊んではいけないとピートたちは知っていた。この日は長老たちが王族の住む東の海へ出かける会議をしていたために、普段は見張りのいる洞窟が束の間出入りができるようになっていたのだった。
森には面白いものがたくさんある。
大人たちが首飾りにつけているレッドパールや、子どもたちが滅多に食べることを許されないトルネードクラブの卵が孵化する様子にみんな夢中になった。
そうして気づかないうちに森のはずれまで来てしまったのだった。
ピートの村には掟がある。
・子どもだけで洞窟に入るべからず
・海藻の森は大人ひとりだけで入るべからず
・森のはずれで立ち止まるべからず
5人の子どもたちは遊び疲れていた。
ピートが腰をおろすと、年嵩のレイジが掟を思い出し注意した。
だが慣れない海流は平衡感覚を狂わせて、まともに立っていられない子どもたちは次々とその場に倒れた。
黒々とした巨大な海藻が波に踊り、赤や黄色のプランクトンが二重らせんを描いて上昇していく。
トルネードクラブがあちこちで飛び交い、名前の聞いたことのない魚が海藻と岩の間を横切っていく。
生き物たちはダンスしていた。彼らの溢れんばかりの命を全身で表現しているとも言い換えられるだろう。
子どもたちだけが静止していた。
すべてが躍動する世界において、じっとしていることは死んでいることと同じだと長老は語っていた。
豆粒ほどの大きさでも、認識するには十分異質な塊としてクルエルシャークの瞳には映った。
動いていない獲物を発見するのは久し振りのことだった。
遥か遠くで泳いでいたクルエルシャークが加速すると、いきなり巨大な怪物が魔法のように姿を現したことで子どもたちは言葉を失った。
シグマは一部始終を見ていた。
二枚貝の殻のなかで息を潜めていると、クルエルシャークが何か標的を目がけて突進するモーションをかけている。
驚いたシグマがサッと殻から這い出すと、クルエルシャークの視線の先で幼い少年たちが真っ青な顔をして卒倒しかけているのが見えた。
「まずいな…」
弾かれたようにシグマは駆けた。
瞬きすら許されない状況に緊張の糸が張り巡らされる。
担いでいた銛を片手に持ち替えてシグマは深く息を吸い込んた。
力を込めると腹の底から熱いものが込み上げてくる。
うねりをあげたパワーが腰から背中、そして腕を伝って銛にかき集められていく。
それから先は一瞬だった。
大人すら容易く噛み千切るクルエルシャークの幾百もの歯が少しずつその存在を明らかにしてなまめかしく光る。
恐るべき速さでやってきた怪物は、間合いに入った途端に顎を上下に目一杯開く。
初めに打ち込んだシグマの銛はクルエルシャークの牙に当たって、硬い金属同士をフルスイングしたような激しい衝撃音が鳴り響く。
しかしクルエルシャークにとってはかすり傷にもならない。
再び体勢を立て直して身を震わせている。
突進が来る前に、シグマは残りの銛が二つあることを確かめる。
クルエルシャークの口腔をつぶさに観察すると、黒く濁っている歯に狙いを定めて、もう一度弓なりのからだをしならせて銛を叩き込んだ。
ピートは刮目した。
圧倒的な恐怖の中で、建物よりも大きな怪物に交戦している男がか細い銛を巧みに操っている。
そして放たれた銛は真っすぐにクルエルシャークの虫歯をとらえたのだった。
脆くなっていたらしき黒い歯に深々と銛が突き刺さる。
クルエルシャークは感じたことのない違和感に戸惑っているようだ。
その隙にロープを最後の銛にくくりつけたシグマは、その反対側を子どもたちのからだに手早く結んだ。
不安そうにシグマを伺うピート以外の子どもたちは気絶している。
「これで良し、じっとしてるんだぞ」
シグマがまた弓なりの姿勢を取る。
きつく巻かれた腰のロープをピートはしっかりと握りしめる。
急に視界が暗転したと思ったら、ピートは海藻の森の中を高速で浮遊していることに気がつく。
銛とともに投擲された子どもたちは森のはずれから元来た道を辿るようにして、海藻を薙ぎ払う銛に導かれている。
5人に繋がったロープはぐんぐん銛に先導されて、しばらくするとトンネルが見えてきた。
ピートは自分たちをたった一度の投擲で遠方まで運んでしまうシグマの怪力に驚くのと同時に、これほどのパワーを以てしても倒せないクルエルシャークの頑丈さにとてつもない恐れを抱いた。
すっかり疲れ切った視界の隅で、トンネルの内側からランプを抱えて走ってくる人影が見えた。
焦燥した様子の村の見張り番と、その奥に長老の顔が現れたとき、そこでピートの記憶は途絶えた。
(続)




