壱
深い闇に閉ざされた海の底。
灰色の砂に死んだ魚の死骸が膨らんでいる。
そこに群がるプランクトンたちは青白く発光したかと思うと、大きな口に牙を生やした深海魚に素早く飲み込まれる。
地中で温められた熱いお湯が沸き立ち、砂煙がぼこぼこと溢れる世界にたった一人でナルシスは目をつむったまま流れに身を任せていた。
ナルシスは自分がどこから来たのか、そしてどこへ向かうのか分からなかった。
ただ真っ黒に塗りつぶされた深海で気づいたときには流れに身を任せていた。
あるときは輝く白い傘を被ったシルバージェリーフィッシュというクラゲを枕にして眠り、またあるときにはハサミが三叉に別れているトルネードクラブとジャンケンをして遊んだ。
誰が教えてくれたわけでもないのに、ナルシスはたくさんの水生生物と心を通わせることができた。
ただしなかには危険な魔物たちもいる。
例えばギデオンに目をつけられたときは、ダイオウイソギンチャクの群れのなかに身を潜めなければきっと鋭い尾びれで八つ裂きにされていただろう。
エメラルドに染まった三角形の殺人尾びれを思い出してナルシスの額から汗がにじんだ。
海水と混じった汗は瞬く間に拡散し、プランクトンたちが興味深そうに近寄ってくる。
ナルシスは海流に逆らわずに彷徨っているうちに、周期的に自分が移動している位置が掴めるようになっていた。
魚たちが白骨化して堆積している「夢の墓」を通り過ぎてしばらくすると灼熱の湧水が渦巻く「地獄谷」が待ち受けている。
頑丈なナルシスの肉体を以てしても、地獄谷の暑さは皮膚が剥がされて眼球が焼けるほどに厳しかった。
だからナルシスはそういった危ない魔境に差し掛かるとようやく手足を使ってほかの流れに乗ることにしている。
目には見えないいくつもの海流が深海には張り巡らされている。直感を頼りにナルシスは上下左右どこへでも身を翻して流れを掴む。
あらゆる情報は親切なプランクトンや魚たちがこっそり耳打ちしてくれる。
地獄谷に沈まなくてすんだのはそういった助けがあったからだ。
シルバージェリーフィッシュの触手を首に巻き付けてナルシスは軽くなった体から意識を手放していく。
そうして眠っていることが1日のほとんどすべての時間を占めていた。
しかし太陽の明かりが届かない深海では寝てばかりいてもどのくらい時間が経過したのか良く分からないし、誰も急かすものもいなかった。
そうしてナルシスは眠り続けている。
まるでいつか来る大きな災害に備えてでもいるかのように。
(続)




