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六章~ラスト

第六章



帝都サンクロリアでの外交戦を終え、ラフェット公国に帰還した姉妹を、故郷の初夏の日差しが迎えた。


そんなある日、リリアの提案で、姉妹はお忍びに近い形で領内の視察に出かけた。

「戦の準備の方が重要じゃないのか?」

馬上で揺られながら、エレノアは少し不満げに言った。政治の真似事など、自分の役目ではないと思っていた。

「これも、次の戦いに勝つために必要なことです、姉様。私たちが何を守るために戦うのか、今一度、その目で見ておくべきですから」

リリアは、黒い眼帯の奥の左目で、穏やかに姉を見つめ返した。


最初に訪れた村の市場は、活気に満ちていた。

「おお! エレノア様とリリア様だ!」

「この平和があるのも、お二人のおかげです! 本当に、ありがとうございます!」

飾り気のない、心の底からの感謝と賞賛。特に、エレノアの武勇は子供たちの間でも英雄譚として語られており、「武神エレノア様だ!」と目を輝かせる男の子の頭を、彼女は少し照れながらも、力強く撫でてやった。

自分の力が、こうして民の笑顔や子供たちの憧れに繋がっている。その事実が、彼女の心を温かい誇りで満たしていた。


だが、市場の喧騒から少し離れた場所で、一人の老婆が静かに二人を待っていた。

老婆は、この前の戦いで一人息子を亡くしたのだという。彼女はまず、エレノアの前に進み出ると、その皺だらけの手を合わせ、深く、深く頭を下げた。

「エレノア様。あなたの武勇伝、息子が大好きでございました。あなた様と共に戦えたことは、あの子の生涯で一番の誉れであったと、そう信じております」

その言葉に、エレノアは胸を打たれた。自分の戦いが、名も知らぬ一兵士の誇りとなっていた。その事実に、武人としてこれ以上の栄誉はないと感じた。


しかし、次に老婆はリリアに向き直った。そして、その視線がリリアの右目を覆う黒い眼帯に注がれた瞬間、老婆の気丈な表情が崩れ、その目から大粒の涙がこぼれ落ちた。


「リリア様……」

その声は、震えていた。

「あなた様が、そのお身を盾にしてくださったおかげで、多くの者が命を救われたと、帰ってきた者たちから聞き及んでおります。息子の死は、決して無駄ではなかったのだと…そう思うことができます。ですが……ですが、あなた様のようなお方が、これ以上傷つくお姿は、もう見たくはございません。どうか、どうかご無理なさらないでくださいまし……」


老婆は、しゃくりあげながら、リリアの手に縋り付いた。その言葉に呼応するように、周りにいた他の村人たち――同じように家族を失ったであろう人々が、静かに頷き、リリアの眼帯に慈しみと、そして痛みを分かち合うような視線を送っていた。


エレノアは、その光景に、まるで頭を殴られたかのような衝撃を受けていた。

言葉を失い、ただ立ち尽くす。


民は、自分の圧倒的な武勇を称えてくれる。だが、それ以上に、リリアの傷に心を寄せ、感謝し、涙を流している。自分が「無傷の牙」として輝いていた、その同じ戦場で、妹が血を流し、兵士たちが命を落とし、そしてその家族が今も悲しみを背負っている。自分は、その現実の、一体何を理解していたというのだろう。


帝都で貴族たちに投げかけられた、「統治者には向かない」という言葉が、侮辱としてではなく、痛みを伴う真実として蘇った。

統治者とは、民の先頭に立って敵を斬り、勝利を掲げるだけの者ではない。

民の後ろに立ち、その全ての喜びと悲しみをその背に負い、流される涙を一滴残らず自分のものとして受け止める者なのだ。自分は、民の笑顔だけを見て、その涙から目を背けていたに過ぎない。


エレノアは、自分が守ってきたと思っていたものが、いかに表面的であったかを思い知らされた。

守るべきは、領地でも名誉でもない。息子を失ってもなお誇りを失わない老婆の気高さ。傷ついた指導者を気遣う民の優しさ。そして、その全てを内包する、日々の暮らしそのものだった。


これまで見てきたはずの故郷の景色が、全く違うものに見え始めていた。育ちつつある麦畑も、青い空も、村人たちの顔も、その全てが、自分がこれから背負っていくべき、愛おしく、そしてあまりに重いものとして、彼女の目に焼き付いていた。


 ◇


視察を終えた帰り道、エレノアは夕日に染まる広大な麦畑を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「リリア。私は、今まで何も見ていなかったのかもしれないな」


その言葉に、エレノアの確かな変化を感じ取り、リリアは静かに微笑んだ。

「いいえ、姉様。あなたは、この景色そのものです。ラフェットの民が信じる、希望の光そのものですから」


希望の光。その言葉の本当の重みを、エレノアは今、初めて理解した。彼女の中で「強き武人」から、「公国を背負う者」へと、自身の意識がはっきりと変わった瞬間だった。



エレノアとの視察から数日後の夕暮れ。リリアは一人、ラフェット城を見下ろす丘の上に新しく作られた墓地を訪れていた。

真新しい木の墓標が、夕日に染まりながら整然と並んでいる。

その一つ一つに、ラフェット防衛戦で命を落とした兵士たちの名が刻まれていた。

リリアは、その名前を一つ一つ、指でなぞる。

そのたびに、脳裏に生前の彼らの顔が浮かんだ。彼女の指示で、彼らは死地へと赴いたのだ。その責任が、ずしりと両肩にのしかかる。


帝都サンクロリアで貴族たちが囁いた言葉が、耳の奥で蘇る。

『リリア様こそ、次期公爵にふさわしい』

それは、姉妹の仲を裂くための甘い毒だと分かっていた。

だが、帰国してからも、信頼するコンラートや一部の重臣たちの言葉の端々に、同じ響きを感じることがあった。

『エレノア様はラフェットの光。しかし、国を導くのはリリア様の知恵にございます』


その期待は、彼女の心を深く苛んでいた。

姉への忠誠は、揺るぎない。

しかし、公国への責任もまた、彼女の全てだった。

もし、万が一、姉が道を誤りそうになった時。公国の未来のために、私は姉を諌め、その剣を止めることができるのだろうか。

いや、それ以上に――姉からその座を奪ってでも、国を守るべき時が来るというのなら?


その、あまりに過酷な自問に、リリアは唇を噛み締めた。そんな未来が来るくらいなら、いっそ……。

 リリアは心の平静が保てなかった。

 そして、一つの考えにたどり着いた。

――また、迷惑をかけてしまう。けれど、今の自分には、それしか方法がない、と。


 ◇


城全体が寝静まった頃、リリアは一人、城の最も奥深くにある父の寝室へと向かっていた。薬草の匂いが、重く静かな廊下に漂っている。


部屋の主、現ラフェット公爵は、長い闘病生活で、かつての賢君の面影もなく痩せ衰えていた。

リリアは、眠りを妨げぬよう、音を立てずに入室する。だが、ベッドの上の父は、静かに目を開けた。

「……リリアか」

その声はかすれていたが、瞳にはまだ、確かな理性の光が宿っていた。


「父上。夜分に申し訳ありません」

「構わぬ。……帝都での働き、見事であったと聞いている」

リリアはベッドの傍らに膝をつくと、オルデン家との密約をはじめ、帝都での外交成果を改めて淡々と報告した。父は、静かにそれに耳を傾けていた。


報告を終えたリリアに、父は問うた。

「……だが、それだけではあるまい。お前の顔には、勝利した者の晴れやかさがない。何があった?」

その、全てを見透かすような眼差しに、リリアは一瞬言葉に詰まった。

しかし、彼女は、意を決して、心の内の澱を吐き出した。


「……帝都では、この私を次期公爵に、と望む声がありました。姉様を、ただの武人と侮り、私たち姉妹の間に楔を打とうとする者たちの、甘い毒です。ですが、その声は、このラフェットにまで届き、姉様の心を……苦しめております」


父は、咳き込みながらも、静かに娘の言葉を聞いていた。そして、全てを聞き終えると、ゆっくりと口を開いた。

「……毒、か。だがな、リリア。毒の中にも、真実の一片は含まれておるものだ」

「父上……?」

「お前が、この公国を継ぐのが、最も賢明な道だと、誰もが思うだろう。この老いぼれの父ですら、そう思わぬ日はないわけではない」


その言葉は、リリアの心を締め付けた。やはり、父もそう思っていたのか、と。

だが、父は続けた。その痩せた手で、リリアの手に触れながら。


「だがな、リリア。最も賢明な道が、最も正しい道とは限らんのだ」

父の瞳が、リリアの心の奥底を見つめる。

「お前は、誰よりもエレノアを愛し、その光を信じている。違うか? 公国の未来と、姉への愛。その二つを天秤にかけるのは、あまりに酷なことだ。だが、お前なら……お前なら、その両方を取る道を見つけられるはずだ」


父は、最後の力を振り絞るように、言った。

「姉を、ただの公爵にするのではない。お前が支え、ラフェット史上、最も偉大な公爵へと押し上げるのだ。それこそ、お前にしかできぬ、最も困難で、最も価値のある道ではないか?」


その言葉は、リリアの心に深く、深く突き刺さった。


ふと、彼女の脳裏に数日前の姉の姿が鮮やかに蘇った。

民の言葉に衝撃を受け、自分の未熟さと真摯に向き合っていた、あの夕暮れの横顔。

『私は、今まで何も見ていなかったのかもしれないな』

あの時の姉は、ただの「武神」ではなかった。民の痛みを背負い、悩み、それでも前に進もうとする、一人の「統治者」の顔をしていた。


その瞬間、リリアの心に差していた霧が、すっと晴れていくようだった。

そうだ。私が進むべき道は、姉に取って代わることではない。

姉は、光だ。民が信じ、希望を託す、ラフェットの太陽。ならば、私がやるべきことは一つしかない。


(私が公爵になるのではない。姉様を、ラフェット史上、最も偉大な公爵にしてみせる)


そのためならば、私は何にでもなろう。

緻密な策を巡らす参謀にも。誰もが嫌がる汚れ仕事を引き受ける影にも。そして、姉様の心を苛む全ての痛みを、その身に吸収する盾にも。


「……父上。ありがとうございます」

リリアは、涙を堪え、父の痩せた手を強く握りしめた。

「私の、進むべき道が、見えました」


父は、その言葉に満足そうに頷くと、安堵したように、静かに目を閉じた。

リリアは、しばらくその寝顔を見つめた後、静かに部屋を辞した。


リリアは、自らの右目を覆う黒い眼帯に、そっと左手を触れた。

かつては失われた光の象徴だったこの闇が、今は、彼女の揺るぎない決意の証に思えた。


(この失われた光は、そのための誓い。姉様、あなたという太陽が、曇ることなく輝き続ける未来を、私が必ず創ります)


夕日が完全に沈み、一番星がまたたき始める。

姉を支え、守り抜く。その絶対的な覚悟を固めたリリアの心には、迷いのない、静かで力強い光が灯っていた。



リリアが決意を固めた数日後、彼女はエレノアを城の片隅にある、普段は使われない古い訓練場へと呼び出した。

澄んだ空気が、二人の間の静かな緊張感を際立たせる。


「姉様。これから、あなたと私にしかできない訓練を始めます」

リリアの言葉に、エレノアは真剣な表情で頷いた。


最初に行われたのは、奇妙な訓練だった。リリアは、右目の眼帯はそのままに、残された左目にも黒い布をきつく巻いたのだ。

完全に光を断たれた彼女は、木剣を握り、静かに佇んでいる。

「……これから、姉様が私の『目』です」


訓練場には、仮想の敵として十数体の藁人形が不規則に配置されていた。エレノアの役目は、リリアにその位置や、仮想の敵の動きを、言葉だけで正確に伝えることだった。


「リリア! 右に三歩! 正面から槍が来るぞ!」

エレノアの叫びに、リリアは動く。だが、歩幅が合わず、リリアは藁人形の突き出した木槍に肩を打たれた。

「違う、もう少し右だ! いや、左か……くそっ!」

「姉様、敵がいます!」

「分かっている! だから、そこだ!」


エレノアの指示は、あまりに曖昧だった。

戦士としての彼女の感覚は、言葉に変換するには直感的すぎたのだ。

リリアは何度も空を切り、あらぬ方向へ動き、ついには藁人形に躓いて転びそうになった。

自分の言葉が妹に届かないもどかしさと、妹を危険に晒している罪悪感に、エレノアは声を荒らげた。

「くそっ! 私の言う通りに動け! なぜ分からないんだ!」

その時、目隠しをしたリリアの声が、静かに、しかし厳しく響いた。

「姉様。あなたの焦りや怒りは、私には見えません。私に見えるのは、あなたの言葉だけです。あなたの目が見ているものを、ありのまま、私に教えてください」


エレノアは、歯がゆさに唇を噛んだ。だが、妹の絶対的な信頼に応えたい一心で、必死に言葉を探し始めた。

「右……ではない。『お前の右肩の方向に、五歩先』だ」

「敵……ではない。『盾を構えた歩兵が、剣を振りかぶっている』」


彼女は、自分の感覚を一つ一つ、丁寧に言語化していった。

すると、リリアの動きが、目が見えているかのように洗練され始めた。

エレノアの言葉の僅かな間や声のトーンから、リリアは次の動きを予測し、エレノアもまた、リリアの動きを予測して、先回りした指示を出す。

二人の呼吸が、言葉を超えて同調し始めた。


そして、ついに最後の、最も厄介な位置にある藁人形だけが残った。

エレノアは、もう叫ばない。彼女は、目を閉じ、リリアと呼吸を合わせた。

「リリア、聞け。三つ数えたら、左に二歩、滑り込むように。右足を軸に反転、そのまま前へ。目の前に盾がある。それを弾き飛ばせば、がら空きの心臓部だ」


その指示は、もはや命令ではなく、一つの流れるようなビジョンだった。

リリアは、その言葉を完全に信頼し、迷いなく動いた。その動きは、まるで美しい舞のようだった。

左に滑り込み、反転し、前へ。木剣がしなり、盾に見立てた板を弾き飛ばす。


そして、寸分の狂いもなく、木剣の切っ先が、藁人形の心臓部を音もなく貫いた。


訓練場に、静寂が戻る。

エレノアは、息を呑んでその光景を見つめていた。リリアは、目隠しをしたまま、汗を光らせ、荒い息をついている。だが、その口元には、確かな笑みが浮かんでいた。

エレノアもまた、これまでに感じたことのない達成感と、妹への絶対的な信頼に、その場にへたり込みそうになった。

言葉は、もう必要なかった。



次に行われたのは、「思考」の同調だった。

興奮冷めやらぬエレノアに、リリアは「次は、思考を合わせます」と告げ、訓練場の隅に広げられた地図と駒の前へと誘った。


「姉様」

リリアは、いくつかの駒を特定の場所に配置しながら、具体的な状況を設定した。

「敵の補給部隊五百、護衛の騎馬隊は千。対する我らが動かせるのは、練度の高い騎兵三百のみ。地形はこの通り。あなたなら、どう動きますか?」


エレノアは、もはやただ直感で盤上を指さしたりはしない。

彼女は地図を食い入るように見つめ、戦士としての長年の経験から、敵が油断するであろう死角と、地形のわずかな利を探し出した。

「……この森だ。敵は、森からの奇襲を警戒するだろうが、それは正面からだけだ。この崖…馬では越えられん。だが、屈強な兵を夜陰に乗じて徒歩で登らせ、崖の上から岩や火矢で奇襲をかければ、補給部隊の荷馬車は混乱し、崖下のこの道に逃げ込むしかない」

それは、エレノアの成長を示す、具体的な作戦の骨子だった。


「素晴らしい着眼点です、姉様」

リリアは、心からの称賛を送った。その表情は、妹のものではなく、一人の参謀が、優れた将の閃きに感嘆するそれだった。

「ですが、敵の護衛部隊が健在なままでは、奇襲は成功しても、私たちは崖の上で孤立します」

リリアは、駒を動かしながら、エレノアのアイデアに肉付けを始めた。


「そこで、まず私が別動隊を率いて、こちらから敵の護衛部隊に陽動攻撃を仕掛けます。敵が私に気を取られている、その隙に、姉様が本命の奇襲を決行する。そして、姉様が敵の補給部隊を崖下に追い込んだ、その先に……」

リリアは、一つの駒を道の出口に置いた。

「……私たちが伏兵として待ち構えています。姉様が敵を追い立てる『槌』となり、私たちが待ち受ける『鉄床』となる。これぞ、第二の『獅子の鉄槌』です」


エレノアは、息を呑んでその盤面を見つめていた。自分の荒削りな直感が、リリアの知略という磨き石によって、味方の損害を限りなくゼロに近づける、必勝の、そしてあまりに美しい戦術へと生まれ変わっていく。

(私の考えが……こんな形になるのか……)

それは、感動であり、畏敬だった。


訓練が終わり、秋の夕日が訓練場を赤く染め上げる頃、二人は並んで座り込んでいた。心地よい疲労と、絶対的な充実感が、二人を包んでいた。

先に口を開いたのは、リリアだった。

「姉様。今日、分かりました」

彼女は、エレノアに向き直り、穏やかに言った。

「失った視界は、あなたが埋めてくださる。いいえ、それ以上です。あなたという光を通して見る戦場は、私一人が見ていたものより、ずっと広く、ずっと鮮やかだ。あなたがいてくだされば、私はたとえ全ての光を失っても、戦場を支配できます。あなたが、私の目であり、私の光なのですから。だから、私は何も怖くない」


その言葉を、エレノアはもう照れて逸らしたりはしなかった。彼女は、妹の言葉を正面から受け止め、自分の心を偽りなく口にした。

「リリア。私は、お前がいなければただ闇雲に突撃するだけの猪武者だ。お前のその傷も、私のせいだ。だが……」

彼女は、決意を込めて続けた。

「お前という光が私の道筋を照らしてくれるなら、私の剣は、もう迷わない。どんな敵でも斬れる。お前と一緒なら、私は最強の牙になれる。私の剣は、お前の策を現実にするためのものだ」


互いが、互いにとって不可欠な半身であること。

その事実を、二人は心の底から理解し、受け入れた。

エレノアは、そっと手を伸ばした。以前はためらったその指が、今度は迷うことなく、リリアの眼帯に優しく触れる。その傷ごと、妹の全てを守り抜くという誓いを込めて。

リリアは、その温かい手に、自らの手をそっと重ねた。

それは、ラフェット公国の未来を共に背負う、一つの魂となった「双璧」の、固く、そして永遠の誓いだった。



あの特別な訓練を終えてから、姉妹の間の空気は明らかに変わっていた。

穏やかな午後、城のテラスで地図を広げる二人の姿は、もはやどちらかが一方的に教えるというものではない。


「リリア、あの時の崖の奇襲だが……」

エレノアが、真剣な表情で駒を動かしながら問う。

「敵が、もし我々の奇襲を読んで、逆に伏兵を置いていたらどうする?その場合の、第二、第三の手は考えてあるのか?」

かつては直感だけで動いていた姉が、自ら戦略の穴を探し、次の手を考えている。

リリアは、そんな姉の変化を、深い喜びと共に感じていた。二人は、ただの姉妹から、思考と魂を共有する、本当の意味での「双璧」へと生まれ変わったのだ。


だが、その穏やかな時間は、一人の伝令の絶叫によって、唐突に引き裂かれた。


「申し上げます! 国境近くのミラの村が襲撃されているとの急報です!」

血相を変えて駆け込んできた兵士の言葉に、テラスにいた重臣たちが色めき立つ。

「何者だ!? ガリア軍は、先の戦いで完全に撤退したはず……!」


「先の戦の、敗残兵かと!」

伝令は、息も絶え絶えに続けた。

「統制は取れておりませぬが、その数およそ三百! 皆、歴戦の兵士で、復讐心からか、村で略奪の限りを尽くしていると!」


 直ちに軍議が開かれた。

老将コンラートが、苦々しく顔を歪めた。

「本隊を編成してここから向かうには、どんなに急いでも丸半日はかかる……! それまで、村がもつかどうか……」


重臣たちがうろたえ、最悪の事態を口にし始める、その混乱の中心で。

エレノアとリリアは、ただ静かに、互いの視線を交わした。

長い言葉は、もはや不要だった。互いが何を考え、何をすべきか、手に取るように分かる。


すっ、とエレノアが立ち上がった。その声は、場を支配する力に満ちていた。

「私たちが行く」


リリアもまた、静かに立ち上がり、その言葉を補足する。

「姉様と私、そして即応できる精鋭騎兵五十を率いて、直ちに出撃します。コンラート様、後続部隊の編成は、お任せいたします」


「しかし、リリア様! 危険すぎます! 相手は三百もの手練れですぞ!」

コンラートが制止の声を上げるが、エレノアはそれを不敵な笑みで一蹴した。


「民が苦しんでいるんだ。一刻も早く駆けつけるのが、我らの務めだろう。それに……」

彼女は、リリアを見て、悪戯っぽく片目をつぶってみせた。

「今の私たちなら、三百だろうが五百だろうが、関係ない。そうだろ、リリア?」


その絶対的な自信に満ちた言葉に、リリアもまた、静かな、しかし確かな笑みを返す。

「はい、姉様。私たちの力を、本当の意味で試す時が来たようですね」


その姿には、もう以前のような不安や葛藤の影はどこにもなかった。

完成された連携への絶対的な自信と、民を守るという揺るぎない決意。

ラフェットが誇る双璧の獅子は、その真価を示すべく、新たな戦場へと舞い戻ろうとしていた。



 夜の闇を突き、燃え盛るミラの村が見えてきた時、エレノアとリリアは丘の上で馬を止めた。

眼下には、略奪に狂奔するガリアの敗残兵たちと、民の悲鳴が微かに聞こえてくる。


もはや、そこに長い作戦会議は必要なかった。

「リリア」

エレノアは、戦場の全てをその目に写し取りながら、冷静に、そして的確に言葉を紡いだ。

「敵はおよそ三百。三隊に分かれて村を焼いている。右翼が百、左翼が八十。中央が最も多く、指揮官らしき男もそこにいる。奴らの連携は甘い。略たるに夢中で、背後への警戒が疎かだ。私がまず、最も手薄な左翼を叩き、奴らの注意をこちらに引きつける」

それは、戦士の直感であり、同時に、リリアと共に磨き上げた将としての分析だった。


「承知しました」

リリアは、エレノアの言葉だけで戦場の全てを完璧に把握した。

「姉様が左翼を叩き、敵の主力をそちらへ引きつけてください。その間に、私は残りの部隊を率いて、村の東側へ回り込みます。敵が姉様に対応するために集結し、村から出てきたところを、背後から一気に突き、川沿いのあの窪地へと追い込みます。そこで全てを終わらせましょう」


「ああ、任せろ」

短い言葉を交わし、二人は頷き合う。そして、二手に分かれた五十騎の精鋭が、闇の中を滑るように動き出した。


 ◇


エレノアの奇襲は音もなく迫る、夜の雷光のようだった。

馬の蹄には布が巻かれ、月明かりを避けるように村の影を縫って進む。

燃え盛る家々を背に、略奪に夢中になっているガリア兵の背後から、エレノア率いる五十騎は、まるで地面から湧き出た亡霊の群れのように、その姿を現した。


彼女の掲げた右手が振り下ろされたのを合図に、静寂は死んだ。

ラフェットの精鋭騎兵たちは、雄叫びも上げず、ただ冷徹な死神として、最も手薄だった左翼の部隊に襲いかかった。

悲鳴と剣の音で初めて敵襲に気づいた時には、すでにガリア兵の隊列はズタズタに引き裂かれていた。


これまでならば、エレノアはこのまま敵の中心へと突撃し、敵が壊滅するまでその刃を振るい続けたはずだ。

だが、今日の彼女は違った。


敵部隊の分隊長らしき男の首を馬上から一閃ではね飛ばし、最大の混乱を引き起こすと、彼女は驚くほどあっさりと馬首を返し、部隊ごと闇の中へと後退した。

敵が追撃するには十分な、しかし決して追いつくことはできない絶妙な距離を取って。


そして、安全な距離から、松明の光に照らされた敵兵たちに向かって、朗々と声を響かせた。

「ガリアの負け犬ども! 略奪しか能がないのか!」

その声は、夜の空気に満ちる恐怖と混乱を、一点の憎悪へと収束させる力を持っていた。

「ラフェットのエレノアだ! お前たちの将は、我らに尻尾を巻いて逃げたぞ! それでもまだ、戦う気概が残っている者は、かかってこい!」


その計算され尽くした挑発に、怒り狂った中央と右翼の部隊が、獲物を見つけた狼のように殺到する。


エレノアは、自分に向かってくる三百の敵意の奔流を前に、馬上で笑みを浮かべた。それはもはや、単なる戦闘狂の悦びではない。

全てが自分の、そして愛する妹の描いた筋書き通りに進んでいることを楽しむ、絶対的な支配者の笑みだった。


彼女は、敵を殲滅するのではない。

巨大な猛牛の荒れ狂う力を、赤いマントを翻す闘牛士のように、華麗にいなし、受け流し、そして望む場所へと導くのだ。

敵の槍が殺到すれば、彼女の部隊は水が分かれるように左右に散開し、敵が隊列を立て直そうとすれば、側面から矢を射かけて再び挑発する。攻撃を加えては離れ、敵が追撃を諦めようとすれば、再び雷光のごとく接近して一撃を加える。


その動きの一つ一つに、明確な意図があった。リリアが指定した、あの窪地へ。この怒り狂った獣の群れを、一頭残らず導くという、冷徹な目的が。

それは、もはや単なる個人の武勇ではない。リリアの知略と完全に融合し、戦場そのものを操る美しく恐ろしい演舞だった。


 ◇


その頃、リリアはエレノアが稼いだ時間と、彼女が引きつけている敵の動きを、闇の中で完璧に読み切っていた。

彼女は馬上で静かに目を閉じ、片目から入る光さえも遮断していた。

頼りにするのは、聴覚と、そして姉と繋がっているかのような魂の感覚だけ。

遠くから聞こえるエレノアの挑発の声、敵兵たちの怒声、剣戟の響き。

それら全てが、彼女の頭の中では、一つの壮大な楽曲のように、完璧な調和を持って鳴り響いていた。


(姉様、もう少しです。もう少しだけ、敵をこちらへ……)


伏兵として息を殺す兵士たちが、リリアの次の言葉を固唾をのんで待っている。そして、エレノアが敵の先頭集団を、計画通り村はずれの窪地へと誘い込んだ、その完璧なタイミングを、リリアは肌で感じ取った。

彼女は、閉じていた左目をカッと見開いた。


「――今です」


その静かな一言が、夜の闇に号令として響き渡る。

「鬨の声を上げなさい! 敵の退路を断つ!」


リリアの号令一下、それまで闇に沈んでいた丘陵のあちこちで、松明が一斉に灯された。ラフェットの旗が夜風にはためき、地の底から湧き上がるような鬨の声が、敗残兵たちの背後と側面から響き渡る。


「なっ……罠だ!」「囲まれた!いつの間に!」

エレノアに気を取られていた敗残兵たちは、自分たちがいつの間にか、完全な包囲網の中にいることを悟り、混乱に陥った。

前には、月光を背負い、死神のように佇む武神エレノア。

そして、後ろと横には、退路を断つ無数の敵兵。逃げ場は、どこにもなかった。


「リリアッ!」

エレノアが、妹の名を叫んだ。それは、作戦開始の合図であり、勝利を確信した喜びの雄叫びだった。

これまで敵をいなす舞に徹していた彼女の動きが、一転して純粋な破壊へと変わる。

彼女が率いる部隊は、反転して正面から、混乱し密集した敵集団へと、まさしく振り下ろされる鉄槌のように襲いかかった。


それと同時に、リリアの部隊が動く。彼らは無理に攻め立てない。ただ、巨大な鉄床のように堅固な槍衾を形成し、逃げ惑う敵兵の行く手を阻む。

エレノア隊が敵をリリア隊の槍衾へと追い立て、抵抗しようとする者は、エレノアの剣が容赦なく斬り伏せる。

槌が打ち付け、鉄床が受け止める。二つの部隊は、完璧な呼吸で獲物を追い詰めていった。


逃げ場を失い、完全に士気を砕かれた敵に、もはや抵抗する力は残っていなかった。

戦意を喪失した兵士たちが、次々と武器を捨てて膝をつく。

戦闘は、ラフェット側の犠牲者をほとんど出すことなく、驚くほどの短時間で、完璧な制圧という形で終わった。


静寂が戻った窪地で、ラフェットの兵士たちは、ただ呆然と、その光景を見つめていた。あまりに鮮やかで、あまりに完璧な勝利。

これが、自分たちの主君である「双璧の獅子」の本当の戦い方なのだと、誰もが畏敬の念と共に理解した。


 ◇


窪地の中央で、エレノアとリリアは馬を寄せる。

言葉はなかった。

エレノアは、誇らしげに頷き、リリアは、その隣で穏やかに微笑む。

その視線の交錯だけで、互いの働きを称え、この勝利を分かち合うには十分だった。

完成されし剣と鞘。ラフェットが誇る「双璧」は、その真の力を、初めて完璧な形で示したのだった。



「双璧の演舞」と呼ばれたミラの村での圧勝は、ラフェット公国にしばらくの平穏と、そして確かな自信をもたらした。

エレノアとリリア、二人の力が完全に噛み合えば、どんな敵にも負けることはない。兵士たちも、民も、そして姉妹自身も、そう信じていた。秋の気配が近づく中、誰もがこのまま穏やかな季節を迎えられるものと信じていた。


その楽観的な空気を引き裂いたのは、帝都とガリア、二つの方向からほぼ同時に、そして最悪の形で届けられた凶報だった。


きっかけは、リリアが築いた水面下の情報網から届いた、一通の暗号書簡だった。

リリアは、城の作戦室でそれを解読するうちに、その顔から血の気が引いていく。その手は、かすかに震えていた。


「リリア、どうした?」

異変に気づいたエレノアが問いかける。リリアは、声にならない声で呟いた。

「……ガリアで、政変が。私が接触した和平派の貴族たちが、『敵国との密通』の罪で、全員処刑された、と……」


コンラートが息を呑む。

「では、ガリアの今の実権は……」

「復讐に燃える者たちの手に」

リリアは、続報を読み上げた。

「新たに全権を掌握したのは、猛将ヴァルガス。先の『蛇の喉笛』の戦いで、溺愛していた一人息子を失った男です。彼は、ラフェットへの復讐だけを誓い、これまでの比ではない、国家の総力を挙げた大軍団を編成。雪が降り始める前に決着をつけるべく、すでに南下を開始した、と……」


リリアの肩が、小さく震えた。

「私が……私の浅はかな賭けが、ガリアの穏健派を排除し、最悪の化け物を、生み出してしまった……」


だが、絶望はそれだけでは終わらなかった。

時を同じくして、帝都サンクロリアのオルデン家から届いた密書が、第二の凶報を告げる。

「シュタイン公が、ガリアの政変を利用し、『ラフェットはガリアと密約を結び、帝国を裏切ろうとしていた証拠だ』と、帝国議会で公言しております。我が公国に、反逆の嫌疑がかけられています」


エレノアが、怒りに拳を握りしめる。

「なんだと……! あの狐目、どこまでも!」


「さらに」

とリリアは続けた。その声は、もはや感情を失っていた。

「皇帝陛下は、その全てをご存じの上で、ただ『面白い』と呟かれるのみ。シュタイン公の動きを、静観されています。シュタイン公は、これを好機と、反逆調査団の派遣を名目とした、事実上の討伐軍の編成を画策している、と……」


作戦室は、死のような沈黙に包まれた。

誰もが理解した。ラフェット公国は、北からは復讐に燃えるガリアの大軍団に、そして南からは「友軍」を装った帝国の討伐軍に挟撃される。まさに、絶体絶命。これまで築き上げてきた全てが、覆されようとしていた。


リリアは、自らの策が招いた最悪の事態に、その場に崩れ落ちそうになった。

その時、彼女の肩を、力強い腕が支えた。エレノアだった。


「お前のせいじゃない、リリア」

エレノアの声は、驚くほどに静かで、揺るぎなかった。

「誰のせいでもない。敵が目の前にいる。なら、私たちがやることは、昔から一つだけだ」

彼女は、妹の顔を覗き込み、はっきりと言った。

「斬り伏せる。それだけだ」


その言葉が、リリアの心に再び火を灯した。

そうだ。感傷に浸っている時間はない。絶望している暇もない。


老将コンラートが、厳かに告げた。

「もはや、小細工の通用する戦ではありますまい。これは、ラフェット公国の全てを賭けた、存亡を賭けた総力戦にございます」


作戦室の地図を前に、エレノアとリリアは静かに視線を交わした。

その瞳には、恐怖も、絶望も、もはや一片もなかった。

あるのは、完成された絆と、これから訪れるあまりに過酷な運命を、二人で受け止め、そして打ち破るという、静かで、しかし熱い決意だけだった。


最終章



秋が深まり、ラフェットの山々が赤や黄色に染まる頃、城の作戦室の空気は、冬のように冷たく凍てついていた。

壁に広げられた巨大な地図。その上には、二つの巨大な敵を示す駒が、ラフェット公国を南北から挟み込むように、無慈悲に置かれていた。


北の駒は、猛将ヴァルガス率いるガリア帝国軍総力。息子を失った復讐心に燃える男は、焦土作戦も辞さないと公言し、常軌を逸した速度で南下を続けていた。

南の駒は、シュタイン公が「反逆調査団」の名目により独断で率いる帝国軍。

彼は「帝国の秩序を乱すラフェットを討ち、真の脅威であるガリアから帝国を守る」と大義名分を掲げ、ラフェットに不満を持つ諸侯たちを巻き込んで、その勢力を拡大させていた。


挟撃。それは、いかなる軍事教練においても、最も避けなければならない絶望的な状況だった。


その絶望に追い打ちをかけるように、帝都サンクロリアから、オルデン家の密使が命からがら駆け込んできた。

「リリア様、エレノア様。帝都は、もはや分裂状態にございます」

密使は、帝都の混乱ぶりを語った。シュタイン公の扇動により、帝国議会はラフェットを「反逆者」と断じる派閥と、その功績を鑑みて擁護する派閥とに真っ二つに割れ、完全に機能不全に陥っている、と。

「ラフェット公国への公式な支援を求める動議は、シュタイン公派の妨害により、先日、正式に否決されました……」


エレノアが、怒りに拳を握りしめる。

「……皇帝陛下は、何と」

リリアの静かな問いに、密使は悔しそうに顔を歪めた。

「陛下は、玉座からその混乱をただ楽しげに眺め、『面白い芝居だ』とだけ……。シュタイン公の独断専行にも、お咎めは一切ございません」


皇帝に見捨てられ、帝国に見捨てられた。軍事的には、完全に孤立無援。

作戦室に、誰もが言葉を失い、重い沈黙が落ちる。


だが、と密使は続けた。彼は、懐からオルデン卿の親書を取り出す。

「ですが、希望が全て絶たれたわけではございません。オルデン卿からです。『我らは、公式には動けませぬ。しかし、非公式に、ラフェットへ繋がる街道の兵糧庫を満たしておくことはできます。どうか、これをお使いくだされ』と。他にも、シュタイン公のやり方に反感を抱くいくつかの諸侯から、同様の密かな支援の申し出が……」


それは、リリアが帝都で蒔いた種が、確かに芽吹いている証だった。だが、兵糧や物資はあっても、共に戦ってくれる兵士はいない。この絶望的な二正面作戦を、ラフェットの兵力だけで戦い抜かなければならない現実は、何一つ変わらなかった。


全ての報告を聞き終えた後、コンラートが絞り出すように言った。

「……もはや、万策尽きたか」


誰もが、その言葉に頷きかけた、その時。

「いいえ」

静かな、しかし凛とした声が響いた。

作戦室に落ちた重い沈黙を破ったのは、リリア。


彼女は、絶望の象徴であるかのような地図を、ただ真っ直ぐに見つめていた。その片方の瞳の奥で、常人には計り知れない思考の光が、激しくまたたいている。


彼女の頭の中では、すでに次の一手、最後の作戦が、その輪郭を現し始めていた。

エレノアは、そんな妹の肩に、何も言わずにそっと手を置いた。その眼差しは、ただひたすらに、妹の覚悟と知性を信じていた。


「道は、あります。ただ一つだけ」

彼女は、絶望の象徴であるかのような地図の前に立った。コンラートも、エレノアも、固唾をのんで彼女の次の言葉を待つ。

「北のヴァルガス、南のシュタイン公。二つの敵を、同時に相手にすれば必ず負けます。ですが」

リリアは、残された左目で二人を真っ直ぐに見つめた。

「もし、私たちが二つの敵よりも速く動き、一つの戦場からもう一つの戦場へと、まるで瞬間移動するかのように現れることができたなら?」


「リリア様、それは不可能です」

コンラートが、即座に現実を突きつけた。

「軍の移動には、あまりに時間がかかりすぎる。机上の空論にございます」


「ええ、普通の軍では」

リリアは静かに頷くと、隣に立つエレノアに視線を移した。その瞳には、絶対的な信頼が宿っていた。

「ですが、私たちには姉様がいる」


リリアは、地図の上に二つの駒を置いた。それは、同じ獅子の紋章が刻まれた、白と黒の駒だった。

「作戦名は、『双生の獅子』。一つの身体に、二つの魂を持つ伝説の獅子。すなわち、ラフェット軍という一つの身体を、姉様と私の二つの意志が、別々の場所で、同時に動かすのです」


彼女は、白い獅子の駒をエレノアの前に滑らせた。

「姉様には、ラフェットの全騎兵の精鋭を率いる『剣の獅子』となっていただきます。あなたの役目は、まず南へ向かい、油断しているシュタイン公軍の心臓部を電撃的に叩き、指揮系統を破壊し、その足を完全に止めること。そして、すぐさま反転し、北の主戦場へと駆けつけるのです」


二つの戦場を、休む間もなく駆け巡る。それは人間業ではない、あまりに過酷な役目だった。だが、エレノアの口元には、不敵な笑みが浮かんだ。

「面白い。私の力を試すには、不足のない舞台だ。やってやろう」


その即答に、コンラートが焦ったように声を上げた。

「しかし、お待ちください! エレノア様が南へ向かっている間、北のヴァルガス軍本隊は、一体誰が食い止めるのですか!? 歩兵だけでは、一日ともちますまい!」


作戦の最大の穴。その問いに、リリアは、黒い獅子の駒を自らの手元に引き寄せた。

そして、静かに、しかし、その場の誰もが息を呑むほどに、揺るぎない声で告げた。


「私が、食い止めます」


「私が、残りの全歩兵を率いる『盾の獅子』となり、ヴァルガスの猛攻を正面から受け止め、時間を稼ぎます。ラフェット防衛戦で守り抜いた、あの『蛇の喉笛』。あそこが、私の最後の戦場です」


「リリア様ッ!!」

コンラートが絶叫した。

「それは……! 生きて帰ることをお考えではない! あまりに、あまりに無謀でございますぞ!」

圧倒的な兵力差のガリア軍本隊を、騎兵の支援なく歩兵だけで食い止める。それが、何を意味するのか。それは作戦ではなく、自殺行為に等しい。


だが、リリアは動じなかった。彼女の表情は、まるで凪いだ湖面のようだった。

「他に道はありません。姉様というラフェット最強の剣を、最も効果的に振るうために、誰かが強固な盾となり、敵の牙をその身に受け続けねばならない。それができるのは、この私だけです」


エレノアは、言葉を失っていた。作戦の過酷さ、そして妹が担おうとしている役割の、あまりの危険さに。

彼女は何かを言いかけたが、リリアの瞳にある、全てを受け入れた静かな覚悟を見て、言葉を呑み込んだ。

これは、妹が、自分と、ラフェットの全てを生かすために、選び取った唯一の道なのだと。


「……分かった、リリア」

エレノアは、絞り出すように言った。

「必ず、お前の元へ駆けつける。それまで、何としてでも、持ちこたえろ。約束だ」


コンラートは、このあまりに悲壮で、しかし神がかり的な作戦を前に、ただ涙を堪え、頭を垂れるしかなかった。


作戦は、承認された。

作戦室の地図の上で、白き『剣の獅子』と、黒き『盾の獅子』が、それぞれの死地へと向かう道筋が、はっきりと描かれた。



作戦『双生の獅子』が決定した翌日から、ラフェット城は決戦に向けて、これまでにないほどの喧騒と活気に包まれた。

兵士たちは武具を整備し、民は兵糧を運び込む。誰もが、来たるべき総力戦での勝利を信じて疑わなかった。


その喧騒の中で、リリアだけが、誰にも気づかれぬよう、静かに「最後の準備」を始めていた。


その夜、彼女はコンラートを自室に招き入れた。二人きりになると、リリアは彼に、分厚い羊皮紙の束を手渡した。

「コンラート。万が一、私が帰らなかった場合のこと、あなたにだけ託します」


「リリア様……」

「聞いてください」

リリアは、老将の言葉を遮った。

「公爵位は、エレノア姉様が継ぎます。何があっても、です。あなたは、その最大の支えとなってください。そして、これはシュタイン公を、戦の後、完全に無力化するためのいくつかの策です。彼のような者が、二度と帝国を蝕むことがないように」


コンラートは、震える手でそれを受け取った。リリアが託しているのは、彼女の死後の、ラフェットの未来そのものだった。

「私が死んでも、兵たちを動揺させてはなりません。私の死は、この作戦を完成させるための、最後の駒です。そう伝えてください」

自分の死すら、冷徹な戦略の一部として語るその姿に、コンラートは涙を堪えきれなかった。

「なぜ……なぜ、あなた様ばかりが、これほどのものを背負われるのですか……」

嗚咽を漏らす老将に、リリアはただ、静かに微笑みかけるだけだった。


 ◇


日中、彼女は自室にこもり、一人机に向かって筆を走らせていた。

それは、エレノアに託すための、詳細な指示書だった。自分が戦死した後、エレノアがどう軍を動かし、ガリア軍とシュタイン公軍の残党を完全に掃討すべきか。そして、その後の戦後処理をどう進めるべきか。

ラフェット公国の、数十年先までを見据えた未来の設計図が、そこには記されていた。


その分厚い戦略計画書の最後に、彼女は一枚だけ、別の、真新しい羊皮紙を用意した。これまで書いてきた、インクの匂いと鉄の匂いが染み付いた紙とは違う。

ただ、妹として、姉に宛てた、たった一つの私的な手紙。


ペン先をインクに浸し、一度、躊躇するように空中で止める。

戦略を練る指は、決して震えなかった。


だが、今、この想いを言葉にしようとする指は、かすかに震えている。脳裏に、他愛もない日々の記憶が洪水のように押し寄せた。

不器用な手つきで淹れてくれた濃すぎるお茶。

稽古の後に、子供のようにはしゃいでいた汗まみれの笑顔。

そして、自分の傷を前に、怒りと悲しみで顔を歪めた、あの夜の横顔。


その全てを振り払うように、リリアはペンを走らせた。


『私の、たった一人の愛する姉様へ。

この手紙を読んでいるということは、私はもう、あなたの隣で笑うことはできないのでしょうね。

先に逝ってしまう私を、どうかお許しください。

あなたと共に過ごした日々は、私の人生の全てでした。あなたの背中を追いかけるのが、私の幸せでした。

あなたが戦場で輝く姿は、私の誇りでした。あなたが、ただそこにいてくれるだけで、私の世界は光に満ちていました。


姉様は、私の光でした。


どうか、泣かないで。そして、私のために、怒らないで。

これは、私が選び取った道です。あなたというラフェット最高の剣を、未来へと繋ぐための、私にできる、たった一つの、最善の一手なのです。


これからは、あなたがラフェットの、そして私の光となって、未来を照らしてください。

あなたの進む道が、いつも明るく、温かいものでありますように』


最後の言葉を綴り終え、ペンを置いた、その瞬間。

これまで鋼の意志で押さえつけてきた感情の堰が、静かに決壊した。

視界が歪む。必死に堪えようとしても、熱いものが込み上げてくるのを、もう止められなかった。


ぽつり、と。

一筋の涙が彼女の頬を伝い、羊皮紙の上に、小さな、しかし消すことのできない染みを作った。インクが、その一滴の雫に、じわりと滲んだ。


彼女は、しばらくの間、その染みをただ見つめていた。

やがて、しゃくりあげる衝動を深呼吸で飲み込むと、その涙の跡を大切なものを扱うかのように、そっと指で拭った。

そして、燃え盛る蝋燭に封蝋をかざす。溶けた赤い蝋が、血の滴のように手紙の上に落ちた。

リリアは、ラフェット公爵家の紋章が刻まれた印章を、その熱い蝋の上に、迷いなく、強く押し付けた。

ジュッ、という小さな音と共に、彼女の全ての想いと、覚悟と、そしてたった一粒の涙は、永遠に、固く、閉じ込められたのだった。


城内での彼女の振る舞いも、どこか違っていた。

長年仕えてくれた侍女に、大切にしていた髪飾りを「これはあなたに」と、何でもないことのように譲る。

城壁を見回る際には、若い兵士に「戦いが終わったら、必ず故郷に帰り、家族を大切になさい」と、普段は決して言わないような言葉をかける。

全ての準備を終えた夜、リリアは自室の窓から、眼下に広がる城下町の灯りを見下ろしていた。

この愛する故郷を、そして、誰よりも大切な姉を守るために、自分の全てを捧げる。その揺るぎない覚悟が、彼女の静かな横顔に、星のように強く、そして儚く輝いていた。



出撃を翌日に控えた夜。

城全体が最後の準備に追われる喧騒の中、リリアは一人、父である公爵の寝室の扉を静かに開けた。

部屋の主の命の灯は、まるで風の前の燭台のように、弱々しく揺らめいていた。


「……リリアか」

ベッドの上の父は、目を開けたまま、娘の訪れを待っていたようだった。その瞳は、病による濁りが嘘のように、澄み切っている。

「はい、父上。明日の出撃に先立ち、ご挨拶を」

リリアは、ベッドの傍らに膝をついた。彼女は、これから始まる戦いの、その過酷な作戦の詳細は語らない。

だが、父には、全てが分かっているようだった。


「……そうか。お前の顔を見れば、分かる。覚悟は、決まったのだな」

父は、それ以上は何も聞かなかった。娘が選び取った道が、どれほど過酷で、悲壮なものであるかを、その静かな表情から察していた。

ただ、無言の時間が、父と娘の最後の対話を、言葉以上に雄弁に紡いでいく。


やがて、父が弱々しく手を伸ばし、リリアにその手を取らせた。驚くほど冷たいその手が、娘の手を力なく握る。

「リリア……もう、父には何もしてやれん。お前たちに、あまりに重すぎる荷を背負わせてしまった……。この父を、許せ……」

その声は、後悔と、娘への申し訳なさに震えていた。


「いいえ、父上」

リリアは、気丈に顔を上げた。

「私たちは、父上の娘であることを、このラフェットの血を引くことを、何よりも誇りに思っています」


その言葉に、父は満足そうに微笑んだ。そして、遠い日を思い出すように、目を細めた。

「……覚えておるか。まだお前たちが幼い頃、二人に、獅子の装飾品を渡した時のことを」

「はい、忘れるはずもございません」

「『双璧の意味を、今こそ示すのだ』。エレノアは、ラフェットが誇る最強の剣だ。だが、その剣を真に輝かせるのは、鞘であるお前の、その魂の強さだ。リリア……エレノアを、頼んだぞ」


それが、父としての、最後の願いだった。

「行け。お前たちの好きにやれ。ラフェットは、お前たちのものだ。父も、もうすぐお前たちの祖父の元へ行く。胸を張って、娘たちの戦いぶりを報告させてくれ」


「……はい」

リリアは、こみ上げる感情を全て飲み込み、父の手を自らの額に当てた。それが、彼女にできる、最後の、そして最敬の礼だった。

「行ってまいります、父上」


彼女が立ち上がり、部屋を辞そうとした時。

「リリア」

父が、もう一度だけ、娘の名を呼んだ。リリアが振り返ると、父はただ、穏やかに、そして誇らしげに、微笑んでいるだけだった。


それが、彼女が見た父の、最後の姿となった。


部屋の扉を閉め、その背にもたれかかったリリアは、一瞬だけ、こらえていた感情で顔を歪ませた。しかし、すぐに顔を上げる。その瞳には、もはや一片の迷いもなかった。


 ◇


ラフェット城の最も高いテラスで、姉妹は二人きりの時間を過ごしていた。空には、手が届きそうなほどの無数の星がまたたいている。


「リリア、見てみろ。最高の仕上がりだ」

エレノアは、月光を浴びて青白く輝く愛剣を眺めながら、満足げに言った。その瞳は、明日の戦いへの高揚感で爛々と輝いている。

「明日は、北のヴァルガスも、南のシュタイン公も、まとめてこの剣の錆にしてやるさ。お前が立てた、完璧な策でな」


その純粋なまでの自信と、自分への信頼に、リリアは胸が締め付けられるのを感じた。彼女は、穏やかに微笑み返す。

「ええ、姉様の剣は、世界で一番強く、美しい。その剣と共に戦えることを、私はいつだって、誇りに思っていました」


リリアは、手すりに寄りかかり、星空を見上げた。

「幼い頃、書庫にこもる私の手を、いつも姉様が引いて、外へ連れ出してくださいましたね。あの時のあなたの温かい手がなければ、私はきっと、今も世界の広さを知らないままでした」

「……なんだ、急に昔の話などして」


「あなたが淹れてくれる、いつも少しだけ濃すぎるお茶も、私は大好きでしたよ」

リリアは、悪戯っぽく笑った。

「姉様。私に、光というものを教えてくれて、ありがとう。あなたという太陽がなければ、私はずっと、臆病な影のままでした」


それは、リリアが伝えることのできる、最後の、そして精一杯の感謝と愛の言葉だった。

しかし、エレノアは、その言葉に込められた悲壮な覚悟には、全く気づいていなかった。

「なんだ、リリア。らしくないな。少し感傷的になっているのか?」

彼女は、決戦前の緊張がそうさせているのだと解釈し、優しく、そして少し茶化すように妹の頭を撫でた。


「心配するな。私たち二人が揃えば、負けるはずがない。明日の今頃は、コンラートや兵たちと、勝利の酒を酌み交わしているさ。そしたら、またお前の茶を腹一杯飲むぞ!」


屈託なく笑う姉。その明るさが、リリアの心を優しく、そして鋭く刺した。

(ええ、姉様。あなたは、そうであってくださらなくては……)

リリアは、込み上げる感情を押し殺し、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。そして、眼下に広がるラフェットの領地を見下ろす。


「……本当に、美しい国です。私たちの故郷は」

その声には、万感の想いが込められていた。

「この景色を、この国を、民の笑顔を、姉様、あなたに託します」


「ああ、もちろんだ。二人で、必ず守り抜こう」

エレノアは、その言葉を「共に戦う誓い」として受け取り、力強く頷いた。

「さあ、もう休もう。明日は早いぞ」


エレノアは、リリアの肩を元気付けるように抱くと、部屋へと促した。

その温かい腕の中で、リリアは一瞬だけ、固く目を閉じた。

これが、姉の温もりに触れる、最後になるかもしれないのだと。


テラスを後にする二人の後ろ姿。

戦いへの希望に満ち、力強い足取りのエレノア。

その隣で、全ての覚悟を胸に秘め、一歩一歩、この夜の闇を噛みしめるように歩くリリア。


残酷なほどに美しい最後の夜は、静かに更けていった。



夜明け。ラフェット領南部の丘陵地帯は、深い朝霧に包まれていた。

その霧の中を、シュタイン公が率いる「反逆調査団」は、悠々と進軍していた。

彼は、ラフェットが北のガリア軍にかかりきりになっていると確信しきっていた。

この戦いは、もはや戦ではなく、反逆者を裁くための行軍に過ぎないと。彼の頭の中では、ラフェットとガリアが共倒れになった後、その領地をどう切り分けるかの計算が始まっていた。


その、あまりに傲慢な油断が、命取りとなった。


突如、進軍路の左右の森から、無数の角笛と鬨の声が響き渡った。まるで、大軍が潜んでいるかのように。

「な、何事だ!」「敵襲か!?」

シュタイン公軍の先頭が、混乱に陥る。兵士たちは、見えない敵の影に怯え、陣形を乱し始めた。

「落ち着け! ただの陽動だ! 慌てるな!」

シュタイン公が叫ぶが、その声は兵士たちの動揺にかき消される。


そして、彼らが森に気を取られた、その一瞬の隙を。

霧を切り裂いて、丘の上から姿を現した者たちがいた。


エレノア・ド・ラフェット率いる、「剣の獅子」。

その数はわずか。だが、その勢いは、一つの巨大な鋼鉄の槍が、天から投げ落とされたかのようだった。


「――目標、敵本陣!ただ一点を目指せ!」


エレノアの狙いは、敵兵を薙ぎ払うことではない。ただ一点、華美な装飾が施された、シュタイン公がいるであろう本陣の天幕だけを見据えていた。

彼女を先頭にした楔形の陣形は、混乱する敵陣を、熱したナイフがバターを切るように、抵抗なく切り裂いていく。エレノアは、道を阻む者だけを最小限の動きで排除し、その速度を一切緩めない。


「ば、馬鹿な! なぜエレノアがここに!?」

本陣の天幕から飛び出してきたシュタイン公は、自分に向かってくる死神の群れを認め、恐怖に顔を引きつらせた。彼は、まさかエレノア自身が、この南の戦場に現れるとは夢にも思っていなかったのだ。


エレノア隊は、瞬く間に本陣へと到達した。

だが、エレノアは、護衛に守られ、命からがら逃げ出そうとするシュタイン公には目もくれない。

「公爵の首ではない! 敵の目と耳を潰せ!」

彼女の命令一下、騎兵たちはシュタイン公の軍旗を切り倒し、指揮用の角笛や太鼓を踏み潰し、伝令部隊を蹴散らしていく。


数分後。シュタイン公軍は、完全に指揮系統を破壊され、ただの烏合の衆と化していた。

誰からの命令も届かず、兵士たちは右往左往するばかり。もはや、軍としての機能は完全に停止していた。


「――任務完了だ!」

エレノアは、混乱の極みにある敵軍を一瞥すると、一切の躊躇なく、部隊に反転を命じた。

「全軍、北へ向かうぞ! リリアが待っている!」


彼女たちは、現れた時と同じように、風のように戦場から去っていく。

残されたのは、指導者を失い、ただ呆然と立ち尽くすだけの、かつて軍隊だったものの残骸だけだった。


作戦『双生の獅子』、第一幕。

「剣の獅子」は、その役目を完璧に果たし、今、北の死地へと向かう。最愛の妹が待つ、最後の戦場へ。



エレノアが南で「剣の獅子」として舞う、その同じ時刻。

北の主戦場、「蛇の喉笛」では、リリア率いる「盾の獅子」が、地獄のような防衛戦を繰り広げていた。


「火矢放て!」「崖の上の投石部隊、休むな!」「第五防衛線まで後退! 負傷者を運び込め!」

リリアの指揮は冴えわたっていた。

彼女は、この隘路の地形を隅々まで利用し、幾重にも罠を張り巡らせていた。落とし穴、油を撒いた道、崖の上からの投石。

ラフェットの歩兵たちは、その緻密な策のもと、三倍以上の敵を相手に、奇跡的な粘りを見せていた。

彼女の目的は勝利ではない。

ただひたすらに、時間稼ぎ。

南の戦場を片付けたエレノアが、この死地へ駆けつけてくれるまでの、貴重な時間を稼ぐこと。


だが、敵の総大将、猛将ヴァルガスは、リリアの想像以上に手強い男だった。

「怯むな! 屍を乗り越えて進め! あの小娘の首を、死んだ息子の墓前に捧げるのだ!」

復讐心に燃える彼は、兵士の犠牲を全く意に介さなかった。彼の軍は、ラフェットの罠にかかり、血を流しながらも、その進軍速度を緩めない。


それだけではなかった。

「申し上げます! 敵の別動隊が、我々が予想しなかった獣道を通り、崖の上へ……! 投石部隊が、側面からの攻撃を受けています!」

伝令の悲鳴に、リリアは唇を噛んだ。先の戦いの敗北を徹底的に研究したヴァルガスは、こちらの策のいくつかを看破し、その裏をかいてきたのだ。


崖の上からの援護が弱まったことで、ガリア軍本隊の猛攻は、さらに苛烈さを増した。ラフェット軍が築いた防衛線が、一つ、また一つと、圧倒的な物量の前に突破されていく。味方の兵士たちが、次々と血の海に沈んでいった。


「リリア様!」

側近のコンラートが、絶叫した。

「もはや限界です! シュタイン公も兵を立て直しつつあります! このままでは、エレノア様が到着する前に、我々は全滅しますぞ! どうか、一時撤退のご決断を!」


リリアは、血と土埃にまみれながら、静かに首を横に振った。

「退く場所など、どこにもありません、コンラート。私たちがここで崩れれば、ラフェットは終わるのです」

彼女の心の中では、冷徹な計算が続けられていた。

エレノアの到着まで、あとどれくらいか。この防衛線は、あと何分持つのか。


そして、導き出された答えは、絶望的だった。

――間に合わない。


このままでは、姉が駆けつけた時には、自分たちはすでに壊滅し、がら空きになったラフェット領へ、ヴァルガスの大軍が雪崩れ込むことになる。

作戦は、破綻する。


予期せぬ事態。いや、あるいは、彼女自身が心のどこかで想定していた、最悪の事態。

リリアは、眼帯の下で、静かに、そして固く、最後の覚悟を決めた。


彼女は、残された左目で、最後の防衛線の向こうで猛り狂う、敵将ヴァルガスの姿を捉えた。

(姉様が到着するまで、あと少し。その時間を、私が創る)


彼女の指揮官としての冷静な仮面が、剥がれ落ちる。

その下に現れたのは、愛する者たちのために、自らの命を最後の駒として投じることを決意した、一人の少女の、あまりに悲壮な顔だった。



「コンラート」

リリアの声は、不思議なほど落ち着いていた。

「あなたに、全軍の指揮権を委ねます。残りの兵を率いて、後方の第三丘陵まで後退し、陣形を立て直しなさい。そこが、姉様と合流する、最後の砦です」

「リリア様! あなた様はどうされるのですか!」


「私は、ここに残ります」

その言葉に、コンラートは絶句した。

「私が、あなた方が退却するための時間を稼ぐ」


リリアは、周囲で必死に戦う兵士たちに向かって、残された力の全てを振り絞って叫んだ。

「聞きなさい、ラフェットの勇者たち! 今は退く時です! ですが、これは敗走ではない! 勝利への転進だ! 希望の光は、必ずや我らの元へ駆けつける! それまで、何としても生き延びなさい!」


その声に、兵士たちは一瞬ためらい、そして涙ながらに頷いた。コンラートに率いられ、主力部隊が後退を開始する。

リリアは、自ら選んだ十数名の護衛と共に、その場に留まった。

崩れたバリケードを背に、猛将ヴァルガスが率いるガリア軍本隊の前に、小さな「最後の盾」として、立ちはだかる。


「小娘一人が残って、何ができるというのか!」

ヴァルガスは、その姿を嘲笑った。


だが、リリアは最後の知略を巡らせていた。彼女は、ヴァルガスの個人的な復讐心を利用する。

「猛将ヴァルガス!」

リリアは、大声で叫んだ。

「あなたの息子の仇は、私の姉、エレノアではない! この私だ! 私が、あの『蛇の喉笛』の作戦を立て、あなたの息子を死地へと追いやったのだ!」


「何だと……?」

その言葉に、ヴァルガスの目が血走った。

「ならば好都合! その首、自らの手で刎ねてくれるわ!」

ヴァルガスは、全軍での突撃命令を忘れ、復讐の熱に浮かされたように、自らの親衛隊だけを率いてリリアへと殺到した。

リリアの策は成功した。敵の主力の足が、わずかに、しかし確実に止まったのだ。


だが、それは死への時間を、わずかに引き延ばしたに過ぎなかった。

リリアを守る最後の護衛たちが、一人、また一人と、ヴァルガスの親衛隊の前に血の華となって散っていく。もはや、リリアとヴァルガスの間を遮るものは、何もなかった。


「息子の仇ィィッ!」

復讐の狂気に駆られたヴァルガスが、巨大な戦斧を振り回し、襲いかかる。

リリアは、最後の力を振り絞って剣を振るう。だが、疲弊しきった身体は、もはや彼女の神がかり的な頭脳の指令に追いつけない。

足がもつれ、動きが鈍る。それでも、彼女は倒れない。姉が駆けつけるまでの、残された時間を稼ぐ。その一念だけで、かろうじてその場に立ち続けていた。


ヴァルガスは、その好機を見逃さなかった。

渾身の力で振り下ろされた一撃を、リリアはかろうじて剣で受け止める。だが、その衝撃は彼女の限界を遥かに超えていた。


ガキン!と耳をつんざく甲高い音と共に、リリアの腕から全ての感覚が消えた。

痺れと衝撃で、握っていたはずの剣が手から滑り落ち、宙を舞って、ぬかるんだ地面に力なく突き刺さる。

がら空きになった、あまりに無防備な身体。


リリアの目に、月光を反射してきらめく、巨大な戦斧の刃が、まるでスローモーションのように迫ってくるのが見えた。

もう、避ける力も、意志も残ってはいない。

不思議と、恐怖はなかった。ただ、(これで、私の役目は終わる)という、静かな諦観だけが心をよぎった。


次の瞬間、硬いものが砕け、柔らかいものが無慈悲に引き裂かれる、決して聞いてはならない鈍い音が、彼女自身の身体から響いた。

一瞬の無。

痛みすら感じない、世界の音が消えた、真っ白な一瞬。

そして、遅れてやってきたのは、もはや激痛という言葉では表現できない、身体の内側から全てを焼き尽くすかのような、灼熱の絶望だった。


左腕の「獅子の守り」の腕輪の中央に埋め込まれていた獅子の牙が、砕けた。


「ぐ……っ、ぁ……がはっ……」

声にならない声と共に、リリアの口から大量の血が溢れ出した。視界が急速に暗転し、手足の感覚が消えていく。

周囲の喧騒が、まるで深い水の中にいるかのように、くぐもって遠くなっていく。

寒い。

骨の芯まで凍えるような、絶対的な寒さが、彼女の命を奪っていく。


もう、何も聞こえない。何も見えない。

そう思った、その時。


遠く、遠くから。

その遠のいていく音の世界の中で、一つだけ、鮮明に、そして力強く響いてくる音が、彼女の鼓膜を震わせた。

希望の音。

姉、エレノアが率いる「剣の獅子」が、ついに到着したことを告げる、角笛の音だった。


薄れゆく意識の中、リリアは、その音を聞いた。

(あぁ……姉様……間に、合った……)

(私の……勝ち……)


全ての計算が、全ての苦しみが、全ての痛みが、報われた。

血に濡れたリリアの口元に、満足と、深い安堵に満ちた、穏やかな微笑みが浮かんだ。


「とどめだ、小娘!」

ヴァルガスが、勝利を確信し、戦斧を振り上げた、その瞬間。


彼の背後から、一つの白い流星が、凄まじい怒りと共に迫っていた。

「――リリアァァァァァァッ!!!!」

それは、最愛の妹を救うべく、戦場を駆け抜けてきた、エレノアの絶叫だった。



とどめを刺そうと戦斧を振り上げたヴァルガスの背後から、エレノアは白い流星となって突撃した。その怒りの咆哮は、もはや人のものではなかった。

予期せぬ奇襲に、ヴァルガスは驚愕し、慌ててその一撃を受け止める。凄まじい衝撃が戦場を震わせた。しかし、今のエレノアの目的は、この男を討ち取ることではない。


彼女は、ヴァルガスを力で弾き飛ばして距離を取らせると、すぐさま馬から飛び降り、血の海の中に横たわる、最愛の妹の元へと駆け寄った。


「リリア……? おい、リリア! しっかりしろ!」

エレノアは、妹のあまりに軽い身体を抱きかかえる。砕けた鎧、夥しい量の血、そして、人形のように力の抜けた手足。その現実に、エレノアの心は凍りついた。

「嘘だ…手㎥約束したじゃないか……! 生きて帰るって……! また、お前の茶を飲むって……!」

必死に呼びかけるが、リリアの反応は、ほとんどない。


その時、かろうじて、リリアの瞼がわずかに持ち上げられた。血染めの眼帯に覆われていない、残された左目が、エレノアの姿を捉える。

「あね……さま……」

か細い声。その口の端から、再びごぼりと血が溢れた。


「喋るな! 傷に障る!」

「……聞いて……ください」

リリアは、最後の力を振り絞って、言葉を紡いだ。

「泣かないで……ください……。まだ、戦いは……終わって、いません……」

彼女は、エレノアに託したはずの、指示書を思うように、微かに胸元を指し示そうとする。


「あの、手紙を……読んで……ください……。私の、最後の策が……そこに……」

「最後の策だと……? もういい、もういいんだ、リリア!」


「いいえ……!」

リリアは、エレノアの顔をしっかりと見つめようとした。その瞳に、最後の理性の光が宿る。

「ガリアを……そして、背後から迫る……シュタイン公をも……共に打ち破るための、道……」


そして、彼女は、最愛の姉に、最後の信頼と、未来の全てを託した。

「あなたなら、できる。これを……」


 リリアは、獅子の牙の欠片がかすかに残る「獅子の守り」の腕輪を差し出した。

「私の……ひかり……あね……さま」

最後の呟きは、もはや音にならなかった。


エレノアの腕の中で、妹の身体から、完全に力が抜ける。その手が、だらりと地面に滑り落ちた。

カラン、と乾いた音がして、「獅子の守り」の腕輪が、血だまりの中に転がった。


時が、止まった。

エレノアは、ただ、腕の中で冷たくなっていく妹の亡骸を見つめていた。

その温もりが、急速に失われていく。

信じられない。

信じたくない。

だが、その腕に伝わる重さと冷たさだけが、動かしようのない現実だった。


やがて。

静寂を破り、エレノアの口から、天を、地を、そしてこの世の全てを呪うかのような、絶叫が放たれた。


「リリアァァァァァァーーーーッ!!!!」


それは、一人の将の叫びではなかった。

自らの半身を、光を、未来の全てを奪われた、一人の姉の、魂からの慟哭だった。その悲痛な叫びは、敵も味方も関係なく、戦場にいる全ての者の心を震わせた。



エレノアの絶叫は、慟哭であり、咆哮だった。

その叫びを最後に、彼女の瞳から理性の光が完全に消え去った。深い悲しみは、その許容量を超えた時、純粋な、そして狂気に満ちた破壊衝動へと転化する。

彼女は、腕の中で冷たくなったリリアの亡骸を、そっと、宝物を扱うかのように地面に横たえた。そして、ゆっくりと立ち上がると、猛将ヴァルガスへと向き直った。


その姿に、歴戦の勇士であるヴァルガスですら、背筋に氷の杭を打ち込まれたかのような恐怖を感じた。

もはや、そこに「双璧の獅子」はいない。いるのは、狂戦士。ただ、目の前の全てを破壊するためだけに存在する、厄災の化身だった。


「……殺す」


呟きと共に、エレノアの姿が消えた。

次の瞬間、ヴァルガスは自分が振るう戦斧の、遥か上を行く速度と、比較にさえならない重さの一撃を、まともに受けていた。凄まじい衝撃に腕が痺れ、数歩後退させられる。

「ぐ……っ! こ、こいつは人間ではない……! 化け物か!」


エレノアは、もはや剣術の型など使わない。ただ、圧倒的な力と速度で、ヴァルガスを、そして彼の周囲にいた親衛隊を、無差別に蹂躙し始めた。

斬る、というよりは、叩き潰す。

その剣が振るわれるたびに、ガリア兵の鎧が紙のように裂け、肉が弾け、血飛沫が舞った。

ラフェットの兵士たちでさえ、その狂気に満ちた姿に、恐怖で近づくことすらできない。

彼女は、もはや勝利のためではなく、この世の全てを道連れにするかのように、ただ破壊の限りを尽くしていた。


ヴァルガスを追い詰め、その巨大な身体を地面に叩き伏せた。エレノアは、その喉元に剣を突き立て、とどめを刺そうと、無感情に剣を振り上げた。


――その、瞬間だった。


彼女の視界の隅に、地面に転がる、きらりと光るものが映った。

それは、リリアの手から落ちた「獅子の守り」の腕輪だった。


その微かな光を見た途端、エレノアの脳裏に、血を吐きながらも自分に未来を託した、妹の最後の声が雷鳴のように響き渡った。


『あなたなら、できる。私の作った道を、進んで……』


道……? リリアの、道……?

そうだ、あの手紙。私に託された、指示書。リリアが、その命と引き換えに遺した、未来への道筋。

目の前の男を殺せば、この焼け付くような怒りは、少しは晴れるかもしれない。

だが、それはリリアの願いではない。リリアが命を懸けて遺した道を、この私が、自らの怒りで閉ざすというのか?


「う……うぉぉぉ……っ!」

破壊衝動と、妹との最後の約束。二つの巨大な感情が、エレノアの中で激しくぶつかり合い、その身体を内側から引き裂こうとする。


そして。

振り上げていた剣の切っ先が、わななくと震え、やがて、ゆっくりと下ろされた。

エレノアの全身から立ち上っていた、禍々しいまでの殺気が、すっと霧のように消え去る。

瞳に、再び理性の光が戻ると同時に、怒りではない、ただひたすらに深い悲しみと、妹への愛情の涙が、堰を切ったようにその頬を伝い始めた。


彼女は、恐怖に顔を引きつらせるヴァルガスに、もはや何の興味も示さなかった。ただ、背を向けると、腕輪を、震える手で拾い上げ、左腕に着けた。

そして、リリアの亡骸のそばに、静かに膝をついた。


「リリア……聞こえるか」

エレノアは、リリアの亡骸に向かって、そして天に向かって誓った。その声は、もはや絶叫ではない。全てを背負う覚悟を決めた、王者の声だった。


「お前の道、確かに受け取った。見ていてくれ。お前と共に、私は勝つ」


狂気の武神は、死んだ。

そして今、この瞬間。最愛の妹の死という、最大の絶望の淵から、ラフェットの未来を背負う、真の将が産声を上げた。



ヴァルガスが慌てて一時撤退し、狂気の嵐が去ったエレノアの心に残ったのは、全てを失ったかのような、あまりに深い静寂と虚無感だった。彼女は、リリアの亡骸のそばで、妹に託された、血に汚れた分厚い指示書を、震える手で開いた。


そこに記されていたのは、もはや作戦計画という言葉では表現できない、神がかり的な未来の設計図だった。


彼女は、驚異的な集中力で、その文字を追っていく。

そこには、猛将ヴァルガスの性格を完璧に読み切り、彼の軍が次にどう動くかを予測し、それに対する反撃策が、幾重にも、幾通りも記されていた。

それだけではない。南で足止めされているシュタイン公の軍が、いつ、どのように態勢を立て直して背後を突いてくるか、そのタイミングまでが正確に予測されていた。

そして、その帝国軍を「友軍」として欺き、ガリア軍と同士討ちさせ、最終的に壊滅させるための、恐ろしくも緻密な罠が描かれていた。

さらにその先、二つの軍を破った後、混乱する帝国議会でラフェット公国がどう主導権を握るべきか、その外交戦略までが、鮮やかに示唆されていた。


エレノアは、言葉を失った。

リリアは、自分の死すら、この壮大な盤上の駒の一つとして、完璧に織り込んでいたのだ。

この二手三手、いや、十手先までも見通した計画の全てが、「姉様なら、この私の遺志を継いで、必ず成し遂げてくださる」という、絶対的な信頼と、「姉様だけは、絶対に生かす」という、あまりに深い愛情の上に成り立っていることに、彼女は気づいた。


「リリア……お前は、ここまで……私のために……」

涙が、再び溢れ出した。それは、もはや単なる悲しみの涙ではない。自分に向けられた、妹のあまりに大きく、そしてあまりに重い愛と献身に対する、感謝と畏敬の涙だった。


エレノアは、涙を拭うと、リリアの亡骸から、彼女がいつも身に着けていた、小さな獅子の紋章の髪飾りをそっと取った。そして、自らの「獅子の牙」の髪飾りの隣に、それを並べて、固く結びつけた。

リリアの知恵。リリアの覚悟。リリアの傷。その全てを、自分が背負うと誓う儀式だった。


彼女は、リリアの亡骸に自らのマントをそっとかけると、静かに立ち上がった。

その姿は、以前の「無傷の牙」ではない。彼女の全身には、目には見えない、しかし誰の目にも明らかな、無数の深い傷跡が刻み込まれているかのようだった。深い悲しみと、それを乗り越えた絶対的な覚悟。

リリアの傷と遺志の全てをその一身に負った、「傷だらけの牙」が、そこに立っていた。


彼女は、指導者を失い、絶望に打ちひしがれるラフェット軍の兵士たちに向き直った。

その声は、雷鳴のように、戦場に響き渡った。


「聞け! ラフェットの勇者たちよ!」

「リリアは死んだ! 私の妹は、この戦場で散った!」

その言葉に、兵士たちが悲痛な声を上げる。

だが、エレノアはそれを、力強い一言で制した。


「だが、彼女の策は、彼女の魂は、今、ここにある! この私と共にある!」

彼女は、リリアが遺した指示書を、天に高く掲げた。

「これがお前たちの進むべき道だ! 私の妹が、その命と引き換えに示してくれた、唯一の勝利への道だ!」

「悲しむな! 涙を拭え! 我らが流すべきは、涙ではない! 妹の遺志に応え、勝利を掴むための、血と汗だ!」


「私に続け! リリアと共に、勝つぞ!」


その叫びは、もはや一人の武人のものではなかった。絶望の淵から民を立ち上がらせる、真の指導者の咆哮だった。

その声に、その姿に、兵士たちは死んだはずのリリアの影と、それを超える新たな指導者の光を見た。

絶望は、希望へと変わった。

兵士たちの目から涙は消え、代わりに、鋼の決意の光が宿る。


「「「うおおおおおおおおっ!!!!」」」


地を揺るがす雄叫びが、それに応えた。

エレノアは、リリアの策と自らの武勇を手に、全軍の先頭に立つ。

彼女の指揮のもと、ラフェット軍は、最後の、そして最も輝かしい勝利に向け、一つの魂となって動き出した。



「リリアと共に、勝つぞ!」

エレノアの咆哮は、新生ラフェット軍の新たな鬨の声となった。

絶望の淵から蘇った兵士たちは、一人の英雄と、その背後にいる亡き智将の魂に導かれ、反撃の濁流となってガリア軍に襲いかかった。


エレノアは、もはや先頭で無秩序に暴れるだけの武神ではなかった。

彼女は、リリアが遺した指示書を完全に頭に叩き込み、戦場全体を俯瞰しながら、リリアがそこにいるかのように的確な指示を飛ばした。

「右翼、三百メートル後退! 敵の騎馬隊をあの湿地帯に誘い込め!」「中央、私が道を開ける! 私に続け!」


猛将ヴァルガスは、ラフェット軍の統制された動きに驚愕した。

それは、先ほどまでとは全く質の違う、まるで一つの生き物のような軍の動きだった。彼が復讐心から繰り出す無謀な突撃は、リリアが予測していた通り、ことごとくエレノアに逆用され、巧妙な罠へと変えられていった。

そして、戦局が動くべき、まさにその瞬間が訪れた。

リリアの策が敵の陣形に作り出した、ほんの一瞬の、しかし致命的な隙。エレノアは、それを見逃さなかった。

「――全軍、私に続け! リリアの道を、開く!」

彼女自身が、その声と共に全軍の先頭に立ち、敵陣の心臓部を貫く。

その一撃は感情的な暴走ではない。妹がその命と引き換えに示してくれた、唯一の勝利という目的のためだけに放たれる、計算され尽くした神速の一撃だった。


その一撃によって、指揮系統から完全に切り離され、戦術的に追い詰められた猛将ヴァルガスは、自分が敗北したことを悟った。

だが、復讐の鬼と化した男は、ただでは死なない。

彼は、周囲の兵士たちに「手を出すな!」と一喝すると、その血走った目でエレノアだけを睨みつけた。

「ラフェットのエレノア! 息子の仇! このまま犬死にするくらいなら、貴様の首を道連れにしてくれるわ! 私と、一騎打ちをしろ!」


それは、追い詰められた獣の、最後の咆哮だった。

戦場が、一瞬、静まり返る。

「いいだろう」

エレノアは、その挑戦を、静かに受けた。

リリアのために、そしてこの戦場で死んでいった全ての兵士たちのために、この憎しみの連鎖を、自らの手で断ち切るべく。彼女は、静かに馬から降りると、剣を構えた。


激戦の火蓋が切られた。


ヴァルガスの巨大な戦斧が、風を唸らせて襲いかかる。

大地をえぐり、空気を震わせる、まさに破壊の化身。

対するエレノアは、その圧倒的な力を、決して正面からは受けない。彼女は、まるで流れる水のように、あるいは舞い散る木の葉のように、その猛攻をひらりひらりとかわし続けた。

彼女の瞳は、もはや怒りに燃えてはいない。氷のように冷たく、澄み渡り、相手の動き、呼吸、筋肉の僅かな強張りまで、その全てを見通していた。


「小賢しい! 逃げることしかできんのか!」

焦れたヴァルガスの一撃が、さらに大振りになる。

――今だ。

エレノアは、その一瞬の隙を見逃さなかった。彼女は、相手の力を利用するように身を翻すと、懐に潜り込み、ヴァルガスの戦斧の、柄の部分に、自らの剣を正確に、そして神速で叩き込んだ。


キィン! という甲高い音。狙いは、刃ではない。力を支える、その心臓部。

エレノアは一度で終わらせない。

彼女はヴァルガスの周りを舞うように動きながら、二度、三度と、同じ箇所に寸分の狂いもなく剣撃を集中させる。


やがて、ヴァルガスの戦斧の柄に、致命的な亀裂が入った。

「なっ……!?」

ヴァルガスが驚愕に目を見開いた、その次の瞬間。彼が最後の力を込めて振り下ろした戦斧は、エレノアの剣とぶつかり合うと、凄まじい音を立てて砕け散った。

刃の部分が宙を舞い、ヴァルガスの足元に突き刺さる。


武器を失い、無防備に立ち尽くす巨漢。


エレノアは、その胸の中央に、静かに、そして吸い込まれるように、剣の切っ先を突き立てた。


「……見事だ」

ヴァルガスは、口から血を流しながら、そう呟いた。その瞳から、憎悪の炎は消え、ただ、一人の武人としての穏やかな光が宿っていた。彼の巨体は、糸の切れた人形のように、ゆっくりと大地に崩れ落ちた。


総大将の、あまりに劇的な死。


それを目の当たりにしたガリア軍の兵士たちの心は、完全に折れた。武器を捨てる者、逃げ出す者、その場に泣き崩れる者。

ガリア軍は、この瞬間、完全に壊滅したのだった。


だが、休んでいる暇はなかった。

エレノアは、疲弊しきり、勝利の余韻に浸る兵士たちを前に、血に濡れた剣を高く掲げた。その声は、もはや姉を失った悲しみに震えてはいない。ラフェットの未来を背負う、指導者の声だった。


「聞け! 私はお前たちに休めとは言わん! 私はお前たちに、もう一度死地へ向かえと言う!」

兵士たちが、その言葉に息を呑む。

「我らの故郷を、我らの誇りを踏みにじろうとする、もう一つの敵がいる! 私の妹は、この勝利のためだけに死んだのではない! ラフェットの全ての敵をこの地から一掃するために、その命を懸けたのだ!」

彼女は、リリアの指示書を固く握りしめた。

「リリアの最後の策が、我らを待っている! 彼女の死を、仲間たちの死を、決して無駄にするな!」


その叫びは、兵士たちの肉体的な疲労を超え、その魂に直接火をつけた。

彼らは人間離れした精神力で再び立ち上がり、天を衝くような雄叫びを上げた。


ラフェット軍は、すぐさま南へと、奇跡的な速度で反転を開始した。


 ◇


その頃、シュタイン公は、ラフェット軍がガリア軍との戦いで壊滅したという、自らが望んだ通りの誤報を信じ、漁夫の利を得るべく、意気揚々とラフェット領を進軍していた。

やがて、彼の視界の先に、ボロボロになったラフェット軍の敗残兵たちが、潰走してくるのが見えた。兵士たちは武器を捨て、旗は引き裂かれ、まさしく壊滅した軍の姿だった。


「やはりな。哀れな者たちよ。しょせん、辺境の田舎軍か」

シュタイン公は、馬上から嘲笑い、油断しきって命令を下した。

「追撃せよ! 一人残らず捕らえよ! 抵抗する者は斬り捨てて構わん!」


それこそが、リリアが指示書に遺していた、最後の罠。「偽の敗走」だった。

シュタイン公軍が、功を焦って細い谷間に進入した、その瞬間。

潰走していたはずのラフェット軍が、ピタリ、と足を止めた。振り返ったその顔には、もはや敗者の絶望はない。

あるのは、獲物を罠にかけた狩人の、冷たい怒りの炎だけだった。


「な、なぜだ! なぜ貴様らがここに!」

シュタイン公が絶叫した、その時。

谷の両側の崖の上に、それまで息を潜めていたコンラート率いる別動隊が一斉に姿を現し、退路を断った。岩石と火矢の雨が、シュタイン公軍の頭上に降り注ぐ。

かつてラフェットが陥りかけた挟撃が、そっくりそのまま、そしてより完璧な形で、シュタイン公に返されたのだ。


「罠だ! リリアの罠か! あの小娘、死してなお、この私を……!」

シュタイン公の絶叫も虚しく、彼の軍はパニックに陥り、身動きの取れない谷底で、一方的に蹂躙された。

エレノアは、その地獄絵図の中心で、ただ一人、シュタイン公だけを見据えていた。彼女は、彼を討つために剣を振るう必要さえなかった。

シュタイン公の野望は、彼が最も侮っていた少女の、死してなお輝きを失わない知略の前に、あまりに呆気なく、完全に潰え去ったのだった。


二つの大軍を、わずか一日のうちに打ち破る。

それは、後世の歴史家が「奇跡」としか評せない、完全なる勝利だった。


静寂が戻った戦場で、兵士たちは、信じられないという表情で立ち尽くし、やがて地を揺るがすほどの歓声へと変わった。

エレノアは、その歓声の中心で、ただ静かに空を見上げていた。空に差し出した腕に、「獅子の守り」に残る、牙の欠片が輝いていた。


「見たか、リリア。私たちの、勝利だ」


この報せが帝都サンクロリアに届いた時、帝国は震撼した。

ガリアの脅威を再び打ち破ったことは貴族に衝撃を与え、シュタイン公派の諸侯は帝国軍を独断で危険に晒した反逆者とされ、失脚した。

エレノアは、もはや単なる辺境の公爵家の将ではなくなった。

ヴァーレン帝国全土を救った、救国の英雄として、その名は不滅の伝説と共に、歴史に深く刻み込まれることとなったのである。



数ヶ月後。

ラフェット公国は、冬の静寂に包まれていた。

戦いの傷跡を癒すかのように、清らかな雪が大地を白く覆い、その日、ラフェット城の大聖堂には、春の光のような、厳かで温かい光が差し込んでいた。


エレノアは、公爵の証である、重い儀仗の正装に身を包んでいた。

鏡に映る自分の姿は、昔の面影がないほどに、落ち着き、そしてどこか物悲しい光を宿している。

「リリア様も、きっとお喜びでしょう。あなた様のそのお姿を」

傍らに立つコンラートが、声を詰まらせながら言った。エレノアは、ただ静かに頷いた。


大聖堂には、ラフェットの重臣と民、そして帝都サンクロリアから駆けつけたオルデン家当主をはじめとする、数少ない真の友人たちが集っていた。

誰もが、畏敬と、そして慈しみの念を持って、祭壇へと進むエレノアの姿を見守っている。


ラフェットに古くから伝わる儀式にのっとり、老宰相が、公国の歴史そのものである公爵の冠を、エレノアの頭上に静かに捧げた。

そして、彼女が集った人々に向かって振り返った、その瞬間。


誰もが、そこに新たな指導者の誕生を見た。


その顔には、帝国を救った英雄としての栄光と、最愛の妹を失った深い悲しみ、そして、この国の未来の全てをその双肩に背負うという、あまりに重い覚悟が刻まれている。

かつての「無傷の牙」は、もういない。そこに立っていたのは、民の痛みと、妹の遺志、その全ての傷をその魂に負った、「傷だらけの公爵」だった。


帝都からの使者が、皇帝アレクシオスの祝辞を読み上げる。

「帝国の英雄、ラフェットの新公爵エレノアを祝福する。その剣と、亡き妹君の知恵が、帝国北方を永遠に守る盾となることを、朕は信じている」


やがて、エレノアが、新公爵としての第一声を発する。それは、雄弁な演説ではなかった。ただ、短く、そして心からの言葉だった。

「私は、最強の公爵にはなれないかもしれん。だが、誰よりも、民の痛みが分かる公爵になる。誰よりも、平和の尊さを知る公爵になることを、ここに誓う」


彼女は、集った民を真っ直ぐに見つめた。

「私の隣には、いついかなる時も、最高の参謀がいる。私の妹、リリアが、その命と引き換えに遺してくれた道がある。私は、決して一人ではない。彼女と共に、この国を導く」


そう言って、エレノアは自らの左腕を、静かに掲げた。

その手首には、腕輪が巻かれていた。リリアの形見――「獅子の守り」が。

そして、彼女の髪には、これまでと同じように、「獅子の牙」の髪飾りが輝いている。


式が終わり、エレノアは一人、城の最も高いバルコニーに立った。雪は止み、雲の切れ間から、新しい季節を予感させる陽の光が、白銀の世界に降り注いでいる。


「行くぞ、リリア」

彼女は、隣に立つはずの、今はもういない妹に向かって、そっと呟いた。

「私たちの仕事は、まだ始まったばかりだ」


その横顔には、もう迷いはない。

リリアの遺志を胸に、彼女の傷をその魂に刻んで、エレノアは、ラフェット公国の未来へと、力強く歩み始めた。

双璧の獅子の物語は、ここで一つの終わりを告げ、そして、傷だらけの公爵の、新たな伝説が、今、静かに始まろうとしていた。

最後まで読んでいただきありがとうございました。もしあなたが応募する機会があるならフォーマットと内容には気を配りましょう。私もそうします。

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