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スタート~第5章まで

脳筋姉と知将妹の戦記です。某ラノベ賞に送ったら違反と言われたのでここに供養します。フォーマットを間違えたのか内容が残虐すぎたのかは不明。

ある世界の、ある大陸。そこにヴァーレン帝国はある。

強大な軍事力を持つガリア帝国が東にそびえるその帝国は、数多の公爵家や辺境伯家が割拠し、互いの領土や権益を巡って常に緊張をはらむ。

ヴァーレン帝国は、名目上は皇帝を戴くものの、実態は強力な諸侯たちがそれぞれに軍を持ち、複雑な同盟と敵対を繰り返す、いわば諸侯の連合帝国であった。


そのヴァーレン帝国の広大な領土の最果て、北東の僻地にラフェット公国は位置していた。

肥沃な大地は豊かな実りをもたらし、地下に眠る鉱脈からは良質な鉄が産出される。大陸を東西に結ぶ街道の要衝でもあったため、古くから交易が盛んで、人々は質素ながらも穏やかな暮らしを営んできた。

しかし、その恵まれた立地が、同時に公国の受難の始まりでもあった。東には常に虎視眈々と領土拡大を狙うガリア帝国の影が迫り、南にはヴァーレン帝国に属する他の有力諸侯たちが、ラフェットの豊かさに羨望と侮蔑の眼差しを向けていた。


ラフェットの民は勤勉で、公爵家は代々、民の暮らしを第一に考える善政を敷いてきた。

だが、かつての大戦で甚大な被害を受け、国力が疲弊してからは、帝国中央や他の諸侯からは「僻地の田舎領」「未熟な公爵家」と軽んじられるようになった。帝都の絢爛たる貴族社会では、ラフェットの公爵家がどれほど献身的に帝国の辺境を守ろうとも、その声は届かず、必要な軍事支援や物資の供給は常に後回しにされた。

民はそれを肌で感じていたし、公爵家もまた、この現状を変える術を模索し続けていた。


しかし民は、そんな中央の冷ややかな視線を知りつつも、力強く、そして穏やかに日々の営みを続けている。彼らには誇りがあった。公国を導く二人の若き姉妹、「双璧の獅子」がいる限り、ラフェットの土が異民族の軍靴に踏み荒らされることはないと信じていたからだ。


その日も、ガリア帝国との小競り合いが国境近くの丘陵地帯で勃発した。

ラフェット軍の劣勢は明らかで、指揮官たちが撤退を検討し始めた、まさにその時だった。


「エレノア様! お待ちください! 隊列が崩れます!」


副官の悲鳴に似た声が、砂塵の向こうに消えていく。馬蹄の響きはすでに一つだけ突出しており、それが誰のものであるかは、ラフェットの兵士であれば誰もが知っていた。


エレノア・ド・ラフェット。


彼女の明るい金髪が、土埃の中できらめく。無駄のない引き締まった体つきに軽装の鎧をまとったその姿は、まるで戦場に舞い降りた武神のようだ。

ガリア帝国の斥候部隊を発見するやいなや、彼女は後続の部隊を置き去りにして、ただ一騎、敵陣へと突撃していた。


「雑魚が……ラフェットの土を踏むな!」


澄み切った空色の瞳が、獲物を狙う鷹のように敵将を捉える。

その口元には、戦いを楽しんでいるかのような、無邪気さすら感じさせる笑みが浮かんでいた。

エレノアが駆る白馬は、彼女の意思と完全に一体となり、人馬一体で敵の槍衾を駆け抜ける。彼女の持つ大剣による銀閃が煌めくたびに、帝国兵が絶叫とともに地に伏した。

圧倒的な武。まさに一騎当千。彼女が通過した跡には、敵兵の亡骸と、恐怖に歪んだ生存者の顔だけが残される。


その光景を、後方の丘の上から、もう一人の将が静かに見つめていた。


「……また、姉様(あねさま)は」


ため息と共に呟いたのは、妹のリリア・ド・ラフェット。

姉と同じ亜麻色で、きつく編み込まれた髪には、小さな獅子の紋章の髪飾りが付いている。姉と同じ空色の瞳は戦場の隅々までを冷静に見渡し、周囲には伝令兵がひっきりなしに駆け回り、刻一刻と変わる戦況が報告される。


「リリア様! エレノア様が敵本隊に接触! 敵、三方向からエレノア様を包囲しようとしています!」

「第五騎兵隊を右翼へ。姉様の作った突破口から敵の側面を突かせなさい。第二歩兵隊は前進、包囲網の形成を阻止。負傷者の救護班も準備を」


淀みない指示が、彼女の唇から紡がれる。その声は若く、穏やかでありながら、戦場の喧騒を支配する不思議な力を持っていた。

リリアの額には汗が滲み、重厚な革鎧の下の小柄な身体は、すでに悲鳴を上げ始めている。先日受けた矢傷が、鈍い痛みとともに彼女の集中力を削ごうとしていた。


エレノアが敵を蹂躙する光であるならば、リリアはその光が生み出す影を引き受けていた。

姉の圧倒的な武力は、それ自体が敵を引きつける最高の囮となる。

その隙に、リリアが部隊を最適に配置し、最小の犠牲で敵を殲滅する。これが、双璧の姉妹の戦い方だった。


……最も、エレノアはそこまで考えて戦っているわけではない。


 とにかく、現状はラフェット有利になりつつあるように思えた。

 が、その時、血相を変えた伝令が駆け込んできた。

「リリア様! 左翼第二小隊、敵の予備兵の突撃を受け、崩れかけています! このままでは戦線に穴が!」


リリアは瞬時に丘の上からその地点に視線を送る。姉のエレノアが中央で引き起こした渦から最も遠いその場所で、味方の防衛線が明らかに後退していた。予備兵を向かわせるには時間がかかりすぎる。一瞬の逡巡の後、リリアは決断した。


「私が繋ぐ。護衛は二名だけついてきなさい!」


彼女は自ら馬首を返し、丘を駆け下りた。

目指すは、崩壊寸前の左翼。リリアの目的は敵の殲滅ではない。姉が、そして味方の主力部隊が敵本隊を叩くまでの、わずかな時間を稼ぐこと。


「怯むな! 私がいる! 盾を構え、隊列を立て直せ!」


砂塵の中、リリアの声が響き渡る。

彼女は馬から飛び降りると、自ら剣を抜き、混乱する味方兵士の前に立った。押し寄せてくるガリア兵の刃を、最小限の動きで受け流し、的確に相手の鎧の隙間を突く。

その剣筋に、姉のような華やかさはない。ただ、生き残るため、そして味方を守るために最適化された、無駄のない動きだけがあった。


敵兵の槍が、彼女の肩を掠める。

重厚な革鎧が衝撃を殺したが、鋭い痛みが走り、生々しい裂傷が刻まれた。しかしリリアは顔色一つ変えず叫んだ。


「第一列は後退しながら槍で牽制! 第二列は弓で援護! 指揮官を討ち取ろうと前に出た敵の側面を叩け!」


彼女自身が囮となり、敵を引きつけ、その上で的確な指示を飛ばす。

その姿に、後退しかけていた兵士たちの目が変わった。

自分たちの将が、血を流しながらすぐ隣で戦っている。その事実が、恐怖に蝕まれかけた心に再び火を灯した。


やがて、リリアの意図通りに態勢を立て直した部隊が敵の勢いを押し返し、戦線は再びラフェット軍有利となった。

危機は去った。

リリアは、肩から流れる血も拭わず、再び馬上の人となり、戦場全体を見渡せる位置まで後退する。


そして、戦闘はそれほど時間をおかず、終わりを告げた。エレノアの武勇とリリアの采配により、ガリア帝国軍は再び敗走していく。


兵士たちの歓声の中、エレノアが意気揚々と馬を寄せてきた。彼女の鎧には返り血ひとつなく、その輝く金髪は、まるで戦闘などなかったかのように太陽の光を浴びていた。


「リリア! 見たか! 私の勝ちだ!」

「ええ、姉様。お見事でした。ですが、単独での突撃は控えていただきたいと、あれほど……」

「固いことを言うな。結果的に勝ったのだから良いだろう? それより、喉が渇いた。お前の淹れる茶が飲みたいな」


そう言って無邪気に笑う姉の髪には、純白の「獅子の牙」を象った髪飾りが輝いている。彼女はこれを「無敵のお守り」だと信じて疑わない。その無垢な笑顔を前に、リリアは苦言を飲み込んだ。

自身の左腕に巻かれた、黒檀と銀で編まれた「獅子の守り」の腕輪をそっと撫でる。腕輪の中央に埋め込まれた、もう一つの獅子の牙。姉を守る盾。その腕輪の下で、また一つ増えた生々しい切り傷が熱を持っていた。


「……帰りましょう、姉様」


リリアは微笑みで痛みを隠し、姉を促した。「無傷の牙」とその影、「傷だらけの牙」。

ラフェット公国が誇る双璧の獅子の日常は、輝かしい勝利と、誰にも知られぬ代償の上に成り立っていた。



戦の喧騒が遠ざかったラフェット公国の城の一室。燭台の柔らかな光が、静かに壁のタペストリーを照らしていた。


リリアは、侍女が慣れた手つきで肩の傷を消毒する間、静かに目を閉じていた。

焼けるような痛みが走るが、彼女の表情は変わらない。侍女が息を呑むのが分かった。

今日新しく刻まれた傷だけではない。その周辺にも、まるで古地図のように幾筋もの傷跡が走っているのだ。白く細いもの、赤く盛り上がったもの、その一つ一つが、彼女が潜り抜けてきた戦いの記憶だった。


「リリア様……。どうか、ご無理はなさらないでください」

「大丈夫よ。これくらい、いつものことだから」


穏やかに答える声に、侍女はそれ以上何も言えなかった。この若き将が、その華奢な身体でどれほどのものを背負っているのか、城の誰もが知っていたからだ。


傷の手当てを終えると、リリアは休む間もなく執務室へと向かった。

そこは彼女にとっての、もう一つの戦場だった。机の上には、領内の問題から諸外国との関係まで、判断を要する書類が山と積まれている。


「リリア様、隣接するミューレン伯爵領より、非公式の食糧支援要請が。今年の凶作で、冬を越せない民が出かねないと」

報告する家臣に、リリアは地図に視線を落としながら答えた。

「備蓄の三分の一を回しなさい。ただし、無償ではありません。貸しであることを明確に伝え、見返りとして、王国中央におけるラフェットへの支持を取り付けるよう、伯爵に約束させるのです」

「かしこまりました」


家臣の返答を受け取った次に彼女が手にしたのは、ヴァーレン帝国中央からの、戦勝を祝す言葉とは裏腹に、さらなる軍役と献金を要求する書状だった。

リリアはそれを静かに読むと、燃え盛る暖炉に投げ入れた。炎が、王家の紋章を舐め尽くしていく。今はまだ、この無礼に耐えるしかない。

が、いつか必ずこの力関係を覆してみせる。そのための布石を、彼女は着々と打ち続けていた。


 ◇


夜が更け、公国の老宰相がリリアの執務室を訪れた。彼は今日の戦勝を祝し、労いの言葉を述べた後、深い溜息とともに言った。

「エレノア様の武勇は、まこと国の宝。しかし、その剣を正しく導き、ラフェットの明日を切り開いておられるのは、リリア様、あなた様です。民も、我々家臣も、あなた様こそが次期公爵にふさわしいと、そう願っております」


その言葉は、期待であり、同時にリリアの心を締め付ける重圧だった。

「宰相、お言葉が過ぎます。姉こそが公国の光。私は、その光を支える影にすぎません」

リリアは静かに否定したが、その声には微かな揺らぎがあった。


宰相が退出した後、リリアは一人、窓辺に立った。

眼下には、平和な寝息を立てる城下の街並みが広がっている。この景色を、愛する姉を、守りたい。ただ、それだけなのだ。


彼女は、姉とお揃いの「獅子の守り」の腕輪に触れる。この腕輪が姉を守る盾ならば、自分はいくらでも傷を負おう。だが、帝国中央の圧力、ガリアの脅威、そして次期公爵候補という重責。降りかかる全てを、この細い腕で支えきれるのか。


「姉様……」


無邪気に勝利を喜び、今はきっと、リリアの淹れた茶を待ちわびているであろう姉の顔を思い浮かべる。

その眩しい笑顔こそが、リリアの力の源であり、同時に彼女の心を苛む苦悩の源でもあるのだ。



リリアが執務室で最後の書類に目を通し、重い溜息をついた、その時だった。

扉が勢いよく開かれ、その音だけで誰が来たのかが分かった。


「リリア、いるか! やはりまだ起きていたな!」


戦場での勇ましさそのままに、エレノアが快活な声を響かせる。その手にはお気に入りの木剣が握られており、どうやら夜の素振りを終えたばかりらしい。

彼女は大きな歩幅でリリアの机に近づくと、その上にどかりと腰を下ろした。


「姉様、椅子を使ってください。書類が潰れてしまいます」

「固いことを言うな。それより、喉が渇いて死にそうだ。お前の淹れる茶が飲みたい」


悪戯っぽく笑う姉の顔に、リリアは仕方がないというように小さく微笑んだ。

これが常なのだ。戦場でどれだけ離れていても、城に帰ればエレノアはこうしてリリアを頼ってくる。その無邪気さが、普段堅苦しいことを考え続けているリリアにとっては救いだった。


「かしこまりました。とっておきの茶葉がありますから」


リリアは席を立ち、執務室の片隅に設えられた茶器の棚へと向かった。

選んだのはカモミールと、ラフェット公国産の蜂蜜。

慣れた手つきで湯を沸かし、ポットに茶葉を注ぐと、ふわりと優しい香りが室内に満ちていく。この時間だけは、彼女も「傷だらけの牙」ではなく、ただの妹に戻れる気がした。


琥珀色に輝く茶をカップに注ぎ、エレノアに手渡す。姉はそれを子供のように両手で受け取ると、ふーふーと息を吹きかけてから、幸せそうに一口飲んだ。


「……うまい!やっぱりお前の茶は世界一だ。戦いの後のこれがないと、始まらない」

「お口に合って何よりです」


満足げな姉の隣に座ると、エレノアは待ってました、とばかりに今日の武勇伝を語り始めた。いかにして敵の意表を突いたか、ガリア兵がどんな間抜けな顔で逃げていったか。その言葉は勇ましく、少し自慢げだったが、リリアにはその奥にある純粋な想いが手に取るように分かった。


(姉様は、ただ公国を守りたいだけ……。民の笑顔を、この豊かな大地を、誰にも奪われたくない。そのための力が、たまたま誰よりも強かった。それだけ)


姉の圧倒的な武勇を、リリアは心から尊敬していた。

ヴァーレン帝国の他の諸侯たちが、皇帝の名の下で権力争いに明け暮れ、互いの領地を削り合っている中、姉の剣はただひたすらに、公国を守るためだけに振るわれている。その高潔さが、リリアには眩しく、そして何よりも愛おしかった。


「それにしても、お前はすごいな。私が突っ込んだ後の、あの見事な采配。まるで全てが見えているみたいだ」

「姉様が無茶をするからです。あなたのようには、私にはとても戦えませんから」

リリアがそう言って微笑むと、エレノアは少し照れくさそうに頭を掻いた。

「……まあ、私にはお前が必要だ。お前がいなければ、私はただの猪武者だからな。それは、分かっている」


その不器用な言葉が、リリアの心に温かく沁み渡っていく。昼間の戦いで負った傷の痛みも、老宰相の言葉がもたらした重圧も、この一瞬でふわりと軽くなる気がした。


私たちは二人で一つ。双獅の姉妹。

姉が公国を薙ぎ払う剣であるなら、私はその剣を支える鞘でいよう。

姉が道を切り開く光であるなら、私はその光が最も輝くための影でいよう。


リリアは、姉のエレノアには見えないように、そっと自らの腕輪に触れた。

獅子の牙が埋め込まれた「獅子の守り」。

姉の髪で輝く「獅子の牙」と対をなす、二人の絆の証。


その冷たく滑らかな感触に触れるたび、リリアは決まって思い出す。今とは少し違う、遠い日のことを。



……まだ二人が、双獅と呼ばれるずっと前のこと。

書庫の隅で、分厚い歴史書に顔を埋めているのが常だったリリアにとって、太陽は少し苦手なものだった。

そんな彼女の世界に、いつも眩しい光と土の匂いを運んでくるのが姉のエレノアだった。


「リリア! またそんな暗いところに! いいから、こっちへおいで!」


木剣を肩に担いだエレノアは、返事も待たずにリリアの手を引いた。

インクの匂いしかしない妹の手を、力強く、けれど優しく握って。


「見てみろよ、すごいだろう!」

稽古場でエレノアが披露する剣の冴えは、子供ながらに圧倒的だった。

彼女が剣を振るうたびに、風が唸り、光が舞う。

運動が得意でなかったリリアは、そんな姉の姿を、憧れと少しの寂しさを感じながら見つめているのが常だった。

姉のようにはなれない。その劣等感が、リリアをさらに本の世界へと閉じこもらせた。


そんな二人が、十歳と十二歳になった年のこと。父であり、ラフェット公国の君主である公爵に、揃って呼び出された。


厳格な父の書斎で、二人は緊張して並んで立つ。父は、ビロードの布に載せられた二つの装飾品を指し示した。

一つは、純白の牙を象った髪飾り。

もう一つは、黒檀と銀で編まれ、同じく獅子の牙が埋め込まれた腕輪。


「エレノア」

父の静かだが、威厳のある声が響いた。

「お前には、ラフェットの未来を切り開く『牙』となる力が宿っている。この『獅子の牙』は、その力の象徴だ。だが、忘れるな。力は時に道を誤る。決して、その力を過信するな」


「はい、父上!」

エレノアは、きらきらと目を輝かせて髪飾りを受け取った。


次に、父の視線がリリアに向けられる。

「リリア」

「はい」

「お前には、その鋭すぎる牙を正しく導き、ラフェットを守る『盾』となる知恵がある。この『獅子の守り』は、その献身の証だ。お前の支えがあってこそ、エレノアの牙は真価を発揮する」


父は腕輪をリリアの華奢な腕につけながら、諭すように言った。

「『牙』と『守り』、二つで一つの双璧だ。決して離れるな。互いを補い、ラフェットを守り抜け。良いな」


姉を守る盾。その言葉に、リリアは胸が熱くなるのを感じた。

いつも姉の後ろを歩いているだけだと思っていた自分に、父は大切な役割を与えてくれた。隣で誇らしげに胸を張る姉の横顔を見ながら、リリアは静かに、しかし力強く頷いたのだった……。


 ◇


ふと、リリアは現在の執務室へと意識を戻す。

父の言った通りになった。姉は公国の牙となり、私は盾となった。


「おい、リリア? 聞いているのか?」

目の前で手を振る姉の姿に、リリアは微笑んで答えた。

「ええ、聞いていますよ、姉様」

「そうか? ならいいんだ。さあ、もう一杯もらうぞ!」

「ええ、姉様」


穏やかな夜は、ゆっくりと更けていく。明日になれば、また過酷な現実が二人を待っているだろう。

だが、今はただ、この安らかな時間を。戦場を離れた姉妹の絆が、遠い日の記憶に支えられ、静かに、しかし確かにそこにはあった。


第二章



姉妹が穏やかな茶の時間を過ごしてから、数日後のこと。

ラフェット城の評定の間には、張り詰めた空気が満ちていた。城壁の外では初冬の冷たい風が吹き荒れているが、室内の緊張はそれ以上に肌を刺す。


「ガリア帝国の動きが、これまでになく活発です。国境の三つの砦に同時に圧力をかけ、補給路を断つつもりかと」

リリアが巨大な軍事地図を指し示しながら、集まった重臣たちに説明する。その顔に、数日前の穏やかさはない。

「この規模の攻勢を防ぎきるには、我々の兵力だけではいずれ限界が来ます。帝国議会に正式な増援を要請すべきです」

老宰相が重々しく口を開き、家臣たちも同意の声を上げた。


その時、扉が開き、一人の男が尊大な態度で入室した。

豪奢な絹の服をまとい、ラフェットの質実剛健な雰囲気とは明らかに異質なその男は、帝国内でも屈指の権勢を誇る南方の大諸侯、シュタイン公爵からの使者だった。


彼は、評定の間の空気を意にも介さず、鼻で笑いながら言った。

「増援だと? 聞き捨てならんな、ラフェットの諸君」


使者は、リリアがまとめた戦況報告書を一瞥すると、まるで汚れたものでも払うかのように机に放る。

「蛮族の侵攻を防ぐのは、辺境の盾たるラフェット公の古来よりの役目。それを今更、帝国中央の助けを乞うとは情けない。噂に聞く『双璧の獅子』とやらの武勇も、その程度のものか」


その侮蔑に満ちた言葉に、エレノアの眉がぴくりと動いた。

彼女は黙って席に座っていたが、その空色の瞳には、すでに怒りの炎が宿り始めていた。


使者は構わず続ける。

「それよりも、だ。帝国議会は、来るべきガリアとの決戦に備え、帝国全土からのさらなる貢献を求めている。皇帝陛下のご名代として、シュタイン公より通達である。ラフェット公国には、今期収穫した穀物の五割、および鉄鉱石四割を、来月までに供出するように、と」


「ふざけるなッ!!」


ついに、エレノアが立ち上がった。その手は、腰の剣の柄を強く握りしめている。

「我らが血を流して帝国を守っている間に、お前たちは暖かい暖炉の前で酒を酌み交わしているだけだ! その上、我らの民が冬を越すための糧まで奪うというのか!」

一触即発の空気が流れる。


「姉様」

静かな、しかし有無を言わせぬ響きを持ったリリアの声が、エレノアの怒りを制した。

リリアはゆっくりと立ち上がると、使者の前に進み出た。その表情は、完璧なまでに穏やかだった。


「使者殿、ご忠告、痛み入ります。ですが、盾も度重なる衝撃を受け続ければ、いずれは砕けるもの。その時、砕けた盾の破片でどなたが傷を負うことになるか……賢明なるシュタイン公は、さぞご高察のことでしょう」

その言葉は丁寧でありながら、明確な脅しを含んでいた。

使者の顔が一瞬、引きつる。


リリアは構わず、完璧な淑女の礼をしてみせた。

「供出の件、謹んでお受けいたします。民の血と汗の結晶でございますゆえ、帝国の輝かしい勝利のために、有効にお使いくださることを心より信じております」


そのあまりに従順な態度に、使者は逆に毒気を抜かれたようだった。彼は目的を達したことに満足し、「物分かりが良くて助かる」と捨て台詞を残して、尊大に部屋を後にした。


使者が去った後、評定の間に重い沈黙が落ちた。

「これでは我々は、帝国のための捨て石も同然ではないか!」

「民が飢えてしまいます……! このままでは、ラフェットの民自身が不満を募らせ、内から崩れてしまう…!」


重臣たちの悲痛な声が響く。エレノアは怒りに唇を噛み、何も言えないでいた。武勇だけではどうにもならない、この理不尽な現実。

公国がヴァーレン帝国内でいかに軽んじられているか、その低い地位が民の暮らしをいかに脅かしているかを、誰もが改めて痛感させられていた。


リリアは、窓の外の灰色に曇った空を見つめていた。彼女の心もまた、その空と同じ色の不満と焦燥に覆われ始めていた。


 ◇


評定の間を出たエレノアは、まっすぐ城の練兵場へと向かっていた。

頭の中では、あのシュタイン公の使者のふてぶてしい顔と、リリアが唇を噛み締めながら頭を下げた姿が、繰り返し再生されていた。


「くそっ……!」


誰もいない練兵場で、エレノアは木剣を手に取ると、感情のままに振り回した。

風を切る音が、普段の澄んだ響きではなく、怒りを孕んで鈍く唸る。汗が額から流れ落ち、顎を伝って地面に滴るのも構わなかった。


なぜだ。なぜ我らが、あのような輩に頭を下げねばならない。

ガリアの侵攻から帝国を守るため、この命を懸けて戦っているというのに。勝利を捧げても、返ってくるのは侮蔑とさらなる搾取だけ。

リリアが練り上げた知略も、兵士たちの流した血も、何一つ報われない。


剣では、あの尊大な使者を斬ることはできない。理不尽な要求を退けることもできない。

エレノアが誇りとしてきた武勇という力が、評定の間ではあまりに無力だった。その事実が、彼女の心を苛み、焦りを生み出していた。


「……力が、足りないのか」


荒い息をつきながら、エレノアは呟いた。

そうだ。きっと、そうだ。力が足りないから、軽んじられるのだ。勝利が、まだ足りないのだ。

次の戦では、もっと圧倒的な勝利を掴まなければならない。

帝国の誰もが言葉を失い、ラフェットを無視することなど到底できなくなるほどの、伝説的な武功を立てるのだ。


より強く。より激しく。より多くの敵を屠り、その首を帝都に送りつけてやればいい。

そうすれば、あのふざけた貴族どもも、ラフェットの価値を認めざるを得なくなるはずだ。


彼女らしい、単純で、直線的な結論。

その思考に光明を見出したかのように、エレノアの剣筋に一瞬、いつもの鋭さが戻る。


だが、その直後。ふと、冷静に自分を制したリリアの顔が脳裏をよぎった。もしこの考えをリリアに話せば、きっと彼女は悲しそうな顔で言うだろう。「姉様、それは違います」と。


本当に、このやり方で公国は救われるのか?

一瞬、心に生まれた迷い。しかし、エレノアはその微かな葛藤を振り払うかのように、雄叫びを上げて木剣を眼前の藁人形に叩きつけた。


バキッという音とともに、木剣は真っ二つに折れ、藁人形は無残に引き裂かれる。

だが、そんなことをしても、虚しさが募るだけだった。


エレノアは、折れた木剣の残骸を握りしめ、天を仰いだ。彼女には、これ以外の道が見えない。己の武勇を信じ、それを極めることでしか、この屈辱的な現状を打開する術が思いつかなかった。


「見ていろ……」


拳から血が滲むのも構わず、エレノアは呟いた。


「いつか必ず、すべてを覆してやる」



 エレノアが練兵場で折れた木剣を握りしめていた頃、リリアは自らの執務室で、もう一つの戦いを始めていた。そこに剣や鎧はない。

武器は、帝国全土から集められた膨大な情報と、彼女自身の類まれなる分析力だけだった。


部屋の中央に広げられた巨大な地図の上には、帝国の有力諸侯を示す駒が置かれている。リリアは、その一つ、シュタイン公の紋章が刻まれた駒を、冷たい指先で弾いた。


「漁夫の利、ですか……」


独り言のように呟く。昼間の使者の尊大な態度の裏にある意図は、リリアには手に取るように分かっていた。

ラフェット公国とガリア帝国を長きにわたって戦わせ、共倒れさせる。そして、疲弊しきった北方の土地と利権を、無傷のまま手に入れる。それがシュタイン公の狙いだった。


「しかし、傲慢さは時に、身を滅ぼす」


リリアは、別の駒へと視線を移す。

それは、ガリア帝国との交易で利益を得ている西方の商業諸侯たち。彼らは戦争の長期化を望まない「融和派」だ。

「彼らは平和を望んでいる。けれど、その平和のためには、ラフェットがガリアに屈することさえ厭わないし、自ら血を流す気概はない。けれど……シュタイン公の独走が交易路の安定を脅かすとなれば話は別」

リリアはペンを取り、一枚の羊皮紙に走り書きを始めた。それは帝都の商人ギルドに潜ませた密偵への指令だった。シュタイン公の野心を匂わせる噂を、巧妙に市場へ流すように、と。


次に彼女が手に取ったのは、同じく辺境で異民族と対峙する、いくつかの小規模な諸侯たちの駒だった。

彼らはラフェットの境遇に同情こそすれ、シュタイン公に逆らう力はない。

「恐怖は、団結も生む。『ラフェットの次は、あなただ』と。この単純な事実を、親書に込めて送りましょう」

彼らを今すぐ味方につけることはできなくとも、疑念と警戒の種を蒔いておくだけで、シュタイン公の足枷にはなる。


リリアの駒捌きは、帝国内の貴族社会だけでなく、商人ギルド、傭兵団、さらには国境の向こうのガリア帝国にまで渡っていた。


そこへ、一人の影のような初老の男が音もなく入室し、一通の封蝋された書簡を差し出した。彼は、リリアが最も信頼する諜報網の要だ。

「リリア様。ガリア内部からの定期報告です。あちらも一枚岩ではない様子。強硬派と和平派の対立が深まっていると」

「……そう。好機は、意外な場所から生まれるのかもしれませんね」


リリアは書簡を受け取ると、静かに頷いた。

血の流れない戦場。そこでは、一つの情報が一個師団に匹敵し、一つの噂が城壁をも打ち砕く。


彼女は窓の外に目をやった。遠くの練兵場の方から、微かに姉の荒々しい気配が伝わってくる気がした。


(姉様、焦ることはありません。あなたの剣が、曇りなくその輝きを放つための道を……この私が、必ず創ってみせる)


武力では決して勝てない巨大な敵に対し、リリアは確かな覚悟を持って、自らの戦いを続けていた。



 深夜。

 リリアの執務室の暖炉で、静かに炎が揺らめいている。彼女は、諜報担当の男が退出した後も、一人地図の前に佇んでいた。

その視線は、遠く練兵場のある方角へと向けられている。姉、エレノアの焦燥が、まるで肌で感じるように伝わってきた。


「姉様の焦るお気持ちも、分かるのです。あの方の行動は、全て……」


リリアがそこまで呟いた時、背後で静かに控えていた老宰相が、そっと声をかけた。

「……先々代様、お二人の祖父君の御代に受けた傷跡が、今もなお、エレノア様を駆り立てておられるのでしょうな」


宰相の言葉に、リリアはゆっくりと振り返る。

彼は、姉妹が生まれるずっと前からラフェット公国に仕え、あの悲劇の時代を知る数少ない生き証人だった。


宰相は、暖炉の光に照らされた皺深い顔に、遠い日を懐かしむような、それでいて深い悔しさを滲ませた表情で語り始めた。

「今から三十年前の大戦……ガリアが帝国領の奥深くまで侵攻し、帝都さえ陥落の危機に瀕したあの時。シュタイン公をはじめとする南方の諸侯が保身に走り、帝国軍の足並みが乱れる中、ラフェットだけが帝国の盾として戦いました」


その声には、今も消えぬ誇りが宿っていた。

「先々代様は、奮迅の戦いぶりでガリア軍を押し返し、帝国の崩壊を防がれた。ですが、その代償はあまりに大きかった。我が公国の兵の半数が命を落とし、領地は荒廃し……そして、先々代様ご自身も、その最後の戦いで帰らぬ人となったのです」


しかし、と宰相は続けた。その声には、抑えきれない怒気が混じる。

「しかし、戦が終われば、他の諸侯は何と言ったか!『ラフェットは功を焦り、独断で戦を拡大させた愚か者』と。我らの犠牲の上に得た平和の中で、彼らはそう嘯き、先々代様の功績を歴史から消し去ろうとさえした。そして、疲弊した我が国への支援を拒絶し、帝国の中枢から我らを追いやったのです。今の、この冷遇の始まりでございます」


それが、ラフェット公国が負った癒えぬ傷。正当な犠牲が、裏切りによって屈辱へと変えられた過去。


リリアは、静かに宰相の話を引き取った。

「幼い頃、姉様は祖父の武勇伝を聞くのが大好きでした。私には難しすぎた戦記を、姉は目を輝かせて読んでいた。そして、祖父が正当に評価されなかったのは、その力が、その武勲が、他の諸侯を黙らせるほどには圧倒的ではなかったからだと……そう信じているのです」


リリアの脳裏に、幼いエレノアの姿が浮かぶ。祖父の肖像画の前で、小さな拳を握りしめていた姉。

「だからこそ、姉様は『誰にも文句を言わせない絶対的な勝利』にこだわる。目に見える武勇でしか、この国の屈辱はそそげないと、心の底から信じている。今日の使者の前で、誰よりも怒りに震えていたのは、過去の裏切りと今の屈辱が、姉様の中ではっきりと繋がっているからです」


エレノアの行動原理は、この過去の傷跡に深く根差していた。彼女は、祖父が成し得なかった完璧な勝利を掴むことで、歴史を正そうとしているのだ。


「エレノア様のお気持ち、痛いほど分かります。しかし、武勇だけでは、同じ轍を踏むことになりかねませぬ」

宰相が憂いを込めて言う。

「ええ」

リリアは力強く頷いた。その瞳には、迷いのない決意の光が宿る。


「だからこそ、私が必要なのです。姉の剣が、その気高さと輝きを失わぬよう。道を踏み外し、折れてしまうことのないよう、支えるのが私の役目ですから」


 そう言ってリリアは、残り少なくなった今日の戦いに再び手を付け始めた。


第三章



冬の終わりは、血の匂いを運んでくる。

ラフェット公国の山々に積もった雪が解け始め、ぬかるんだ大地が次の季節の訪れを告げる頃、それは戦の季節の始まりをも意味していた。

国境の向こう、ガリア帝国側から吹く風は、鉄と馬と、そして膨れ上がった敵意の匂いを運んでくるようだった。


ラフェット城の作戦室は、重い沈黙に支配されていた。

部屋の中央に広げられた地図上には、ガリア帝国のものを示す駒が、これまでにない数、置かれている。


「斥候からの最終報告です。国境沿いに集結したガリア軍の総数は、およそ五万。攻城兵器も多数確認されており、これはもはや侵攻ではなく、我が公国を完全に滅ぼすための『大戦』と見るべきです」


将軍の一人が苦々しく報告すると、集まった重臣たちの顔から血の気が引いた。

ラフェット公国が動かせる全兵力は、どうかき集めても一万五千。三倍以上の兵力差。まともにぶつかれば、結果は火を見るより明らかだった。


「帝国議会からの返答は……」

老宰相がかすれた声で問う。

リリアは、机に置かれた一通の羊皮紙を手に取った。シュタイン公の紋章が刻まれた、空々しい書状を。

「……『辺境の盾たるラフェット公国の奮闘を期待する』、と。増援の約束はありません。送られてきたのは、気休め程度の武具と、『勝利を祈る』という皇帝陛下からの激励の言葉だけです」


絶望が、伝染病のように部屋に広がった。帝国に見捨てられた。我々は、この圧倒的な大軍の前に、ただ滅びるのを待つだけの存在なのか。


その重苦しい空気を、一つの声が切り裂いた。

「……好都合ではないか」


声の主は、エレノアだった。彼女は腕を組み、不敵な笑みさえ浮かべていた。

「帝国に貸しを作る必要もなくなった。我らの力だけでこの大軍を打ち破れば、今度こそ誰も文句は言えまい。私の剣が、ラフェットの価値を証明する」


その言葉は勇ましかったが、彼女の瞳の奥に、これまでなかったはずの焦燥の色が浮かんでいるのを、リリアだけが見抜いていた。


リリアは静かに立ち上がった。その凛とした姿に、全ての視線が集中する。

「エレノア姉様の言う通りです。しかし当然、単に戦っては勝てません」


彼女は重臣たちを見渡し、きっぱりと言い放った。

「帝国からの支援は、もはや期待しません。我々は、我々だけの力で、この国を守るのです。正攻法では通用しないでしょう……ですが」


リリアは地図を指し示した。その指先は、一点に集中するガリア軍の巨大な陣形をなぞる。


「勝機がないわけではありません。なぜなら、我々には、帝国軍にもガリア軍にもない、最強の『切り札』があるのですから」


リリアの視線が、まっすぐにエレノアに向けられた。

それは、絶対的な信頼と、そして新たな戦術の始まりを告げる眼差しだった。



評定の間での宣言の後、リリアは作戦室に閉じこもった。

城の誰もが、彼女が国家の存亡を賭けた思考の海に深く潜っていることを知っていたが、その部屋にただ一人、入室を許された男がいた。


『不動の盾』、コンラート・ベルクシュタイン。

左目に眼帯をつけた老将軍は、黙ってリリアの後ろに立ち、共に壁の地図を見つめていた。

食事はほとんど手付かずで運ばれ、燭台の蝋が幾度となく交換される。部屋には、古い羊皮紙の匂いと、張り詰めた静寂だけが満ちていた。


床には、これまでのガリア帝国との全ての戦闘記録が、巻物となって散乱している。

リリアは、その中から姉、エレノアの戦果が記された箇所を指でなぞった。そこには常に、信じがたいほどの敵の損害と、それとは不釣り合いな味方の犠牲が記されていた。


「コンラート。あなたなら分かるはずです。姉様の力は、これまで戦術ではなく、制御不能の現象でした」

リリアは、振り返らぬまま静かに呟いた。


コンラートは、深い皺の刻まれた口元をわずかに歪め、重々しく頷いた。

「……左様。まるで、天災にございますな。我々は、エレノア様が巻き起こす嵐にただ追従し、そのおこぼれに与ってきたに過ぎない。強力すぎるがゆえに、我々自身がその力に振り回されておりました」

彼の脳裏には、三十年前に共に戦った先々代公爵の、やはり人智を超えた武勇がよぎっていた。そして、その力が最後に悲劇を招いたことも。


「ですが、もう違う。これからは、我々が姉様の力を唯一無二の戦略の核として組み込むのです」

リリアの言葉に、コンラートは目を見張った。天災を制御する、とこの若き姫は言うのか。


そのための第一歩は、戦場を選ぶことだった。リリアは地図に視線を戻し、敵の侵攻経路となりうる全ての土地を検討する。

「ガリアの五万の大軍。その最大の利点は、平原での圧倒的な物量。ならば、その利点を殺す場所で戦うしかありません」

コンラートが同意して頷く前に、リリアの指が、国境から数日の距離にある、ある一点で止まった。


「――蛇の喉笛」


その名を聞いた瞬間、コンラートの隻眼が鋭く光った。

「あそこは隘路。確かに大軍の利は削げましょう。しかし、一歩間違えば、誘い込んだ我らの方が袋の鼠になる、死地でございますぞ」


「ええ、死地です。だからこそ、敵も油断する」

リリアは、コンラートの懸念を真っ向から受け止めた。

「敵をここに誘い込みます。大軍の利を殺し、我々の寡兵の不利を補う。ここが、我々の決戦の地です」


その覚悟に、コンラートは言葉を呑んだ。だが、地形だけでは勝てない。問題は、縦に伸びた敵の陣形を、いかにして叩くか。

そこから、二人の長い長い議論が始まった。リリアが駒を動かし、コンラートが老練な経験からその作戦の穴を指摘する。

リリアが修正し、コンラートがまた問いを立てる。何日も眠らないまま、敵の思考を読み、味方の限界を測り、戦術は少しずつ、しかし確実に形を成していった。


そして、夜明けの光が作戦室に差し込み始めた頃、ついに一つの戦術が完成した。

リリアは、息を詰めて見守るコンラートに、その核心を告げた。

「エレノア姉様には、敵陣のちょうど中央に、楔として突撃していただきます」


「……何と?」

コンラートは耳を疑った。

「エレノア様を、囮に……?」


「目的は敵将の首ではありません。敵の前衛と後衛を物理的に分断し、指揮系統を麻痺させること。姉様には、敵陣のど真ん中で、ただひたすらに耐えていただくのです」


「リリア様……。エレノア様が、あの、突進しかしてこなかったあの方に、耐える戦いなどお出来になるでしょうか……。下手をすれば、戦術ではなくただの自殺行為に」


「これまでの姉様ならば無理だったかもしれません」

リリアは、静かにコンラートの目を見つめ返した。その瞳の奥には、疲労の色を超えた、絶対的な信頼の光が宿っていた。


「ですが、私は信じます。姉の強さの根源は、その武勇だけではないことを。公国を、民を、そして……私を守ろうとする、その魂の気高さを。私の言葉ならば、姉は必ずやこの困難な役目を果たしてくれるはずです」


その真っ直ぐな瞳に、コンラートは圧される。

彼は、目の前の少女に、かつて命を懸けて仕えた先々代公爵の面影と、彼には無かったはずの、柔軟で強かな知性の輝きを見た。


老将は、ゆっくりと頭を下げた。

「……老いぼれの経験が、お若い才能の邪魔をするわけにはいきませぬな。承知いたしました。このコンラート・ベルクシュタイン、身命を賭して、リリア様の『獅子の鉄槌』、成功させてみせまする」


勝利への唯一の道は、愛する姉に最大の危険を強いることの上に成り立っていた。その罪を共に背負うと決めた老将を得て、リリアは完成した作戦計画書を手に、静かに立ち上がる。

次はこの無謀な作戦を、誰よりも誇り高い姉に認めさせなければならない。それが、この戦いにおける最初の、そして最大の難関だった。



エレノアがリリアの作戦室に呼ばれた時、彼女の心は高揚していた。いよいよ、あの大軍を打ち破る策を妹が考え出したのだ。どんな手柄を立てさせてくれるのか、どんな敵を薙ぎ払わせてくれるのか。彼女は、新たな武功の機会に心を躍らせていた。


しかし、リリアが地図を前に語り始めた『獅子の鉄槌』作戦の全貌は、エレノアの期待を根底から覆すものだった。


作戦名――『獅子の鉄槌』


第一段階:誘引と布陣。

ラフェット軍は意図的に後退を続け、敵を「蛇の喉笛」へと誘い込む。その間、主力部隊は渓谷を見下ろす両側の丘陵地帯に息を殺して潜む。これが「鉄床」となる。


第二段階:楔。

敵軍の先頭が渓谷を抜けようかという、最も油断した瞬間。エレノアが、選び抜かれた精鋭重騎兵二百だけを率いて、渓谷の側面、敵陣のちょうど中央部に突撃する。その目的は、敵将の首ではない。敵の前衛と後衛を物理的に分断し、敵の指揮系統を完全に麻痺させること。


第三段階:鉄槌。

エレノアという楔によって敵陣が混乱し、前衛部隊が孤立した瞬間を狙う。丘陵に潜んでいたラフェット軍主力が、鬨の声を上げ、一斉に坂を駆け下り、孤立した敵前衛部隊に襲いかかる。これが、振り下ろされる「鉄槌」となる。


「――つまり、姉様には敵陣のど真ん中で、後続部隊を食い止める『防波堤』になっていただきます。姉様の役目は、敵を殲滅することではありません。耐えることです」


「……耐える、だと?」

エレノアは、リリアの言葉が信じられないというように聞き返した。

「馬鹿を言うな、リリア! 私の剣は、敵を斬り、道を切り開くためにある! 敵の真っただ中で、ただ耐えろだと? そんな戦い方ができるものか!」

彼女の信条そのものを否定するような作戦に、エレノアは激しく反発した。それは臆病者の戦い方だと、そう思った。


だが、リリアは怯まなかった。

「姉様、聞いてください!」

彼女は、駒を動かしながら、この作戦がいかにして味方全体の勝利に繋がり、犠牲を最小限にするのかを、論理的かつ情熱的に語った。

「姉様が楔となって敵を分断し、耐えてくれる、そのわずかな時間。その間に、私たちが孤立した敵前衛を叩きます。姉様の一人の武勇に頼るのではなく、ラフェット軍全員で勝利を掴むのです。あなたの力は、この作戦の、私たちが勝利するための、絶対に欠かせない心臓なのです!」


エレノアは、地図の上で繰り広げられるリリアのシミュレーションを、ただ食い入るように見つめていた。自分の動き一つが、戦場全体にどう影響を与えるのか。自分が耐えることが、いかに多くの味方の命を救い、勝利へと繋がるのか。

それは、衝撃的な光景だった。

自分がこれまで考えていた武功を立てて認めさせるという戦いとは、次元が違う。これは、公国の全てを守るための、巨大で緻密な仕組みだった。


(これが……リリアの戦い方か……)


エレノアは、初めて妹の知略を、単なる後方支援ではなく、戦場を支配するもう一つの力として、畏敬の念を持って認識した。


 ◇


その日から、二人の特別な訓練が始まった。

城の練兵場には、地面に無数の線が引かれ、敵部隊に見立てた旗が立てられた。


「まだです、姉様! 私が角笛を吹くまで、その線を越えてはなりません!」

「今! あの旗まで突撃! ですが、次の合図まで、そこで持ちこたえるのです!」


目の前に仮想の敵がいるのに、突撃できない。前に進みたくてたまらない本能が、エレノアを苛んだ。

何度も指示を破っては、リリアに「違います!」と厳しく叱責された。

「なぜだ! 目の前に敵がいるのに!」

「その一歩が、全体の崩壊を招くのです! 姉様の力は、もはや姉様だけのものではありません!」


訓練は困難を極めた。

しかし、繰り返すうちに、エレノアはリリアの指示の意図を、頭ではなく体で理解し始めた。自分の衝動を抑えることが、より大きな勝利に繋がることを。

自分の力を制御することが、仲間を守ることに繋がることを。


訓練の終わりに、エレノアは泥だらけのまま、リリアの指示通りにピタリと動きを止めた。荒い息をつきながら、彼女は言った。

「……分かった。もう一度だ、リリア」

その瞳には、いつものような戦いへの渇望ではなく、自らの役割を理解した将としての、真剣な光が宿っていた。


 ◇


その夜、エレノアはリリアの私室にいた。

昼間の過酷な訓練でついた腕の擦り傷を、リリアが黙々と手当てしてくれている。薬草の匂いが、静かな部屋に満ちていた。


「これくらい、どうということはない。放っておいても治る」

エレノアがぶっきらぼうに言うと、リリアは顔を上げずに、しかし咎めるような声で言った。

「……姉様は、いつもご自分の傷に無頓着すぎます。あなたのその無謀さが、戦場でどれだけ私の心を冷やすか、ご存じないでしょう」


その言葉には、いつものような冷静さはなく、深い愛情と心配が滲んでいた。エレノアは思わず言葉に詰まる。

「……お前こそ、いつも傷だらけではないか。私の知らないところで、いつも」


「私の傷は、姉様を守るためのものですから」

リリアは、ようやく顔を上げて、穏やかに微笑んだ。その笑顔は、どこか痛々しく、そしてあまりに気高かった。

「姉様が無傷で、その剣の輝きを失わずにいてくださるなら、私はいくらでも盾になります。ですが……」


リリアは、エレノアの目を真っ直ぐに見つめた。

「今回の戦術で、最も危険な場所に立つのは姉様です。私がどれだけ策を巡らせても、最後にあなたの身を守るのは、あなた自身しかいない。だから、お願いです。私の作った道を、信じて進んでください。そして、決して無茶はしないで。私は、あなたならできると、心の底から信じています」


揺るぎない信頼。それは、エレノアの武勇だけを信じるものではなかった。彼女の魂の強さを、その気高さを信じる、妹からの祈りだった。


エレノアは、リリアの献身の全てを、その言葉と眼差しから改めて感じ取っていた。

自分のために傷つき、自分のために知恵を絞り、そして今、自分のことを信じ抜こうとしている妹の姿に、胸の奥が熱くなる。

これまで自分は、どれだけこの細い肩に、重荷を背負わせてきたのだろう。


「……すまなかった、リリア」

エレノアの口から、自分でも驚くほど素直な言葉がこぼれた。

「今まで、お前にばかり……背負わせてきた。私は、ただ剣を振るうことしか知らなかった。だが、今は違う」


エレノアは、手当ての終わった自分の手で、リリアの華奢な手をそっと包み込んだ。

「ありがとう。お前がいるから、私は……戦えるんだ。お前の信じる『防波堤』に、なってみせる」


それは、エレノアが初めて見せた、素直な感謝と覚悟の言葉だった。

リリアの瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、安堵と、深い喜びの涙だった。


姉は、自分の想いを理解してくれた。


「二人で、必ず生きて帰ろう。そしてまた、お前の淹れた茶が飲みたい」

「はい……! はい、姉様……! 最高の茶葉を用意して、お待ちしております」


言葉は少なくとも、二人の間には確かな絆が満ちていた。それは、互いの弱さを認め、互いの強さを心から信じ合う、より強く、より深い絆だった。

来るべき大戦を前に、ラフェットの双璧の獅子は、同じ未来を見据えていた。


第四章



地響きが、空気を震わせる。

「蛇の喉笛」と呼ばれる渓谷に、ガリア帝国五万の大軍が、巨大な鉄砲水となってなだれ込んできていた。

軍旗は林立し、槍の穂先が鈍い光の川となってうねる。

その光景は、ラフェットの兵士たちの心を恐怖で凍りつかせるには十分だった。


丘陵の森に息を殺して潜む兵士たちが、ごくりと唾を飲む音が聞こえる。

誰もが、今すぐにでも飛び出して、あの傲慢な敵軍に斬りかかりたい衝動に駆られていた。

だが、彼らは動かない。リリア様の、そしてエレノア様の命令があるまでは。


リリアは、丘の上の指揮所で、冷静に戦況を見つめていた。その隣には、老将軍コンラートが不動の岩のように佇んでいる。

「……敵軍、先鋒が間もなく渓谷の出口に到達します」

伝令の報告に、リリアは静かに頷いた。作戦通り。敵は、寡兵のラフェット軍が隘路での決戦を避けて逃げ去ったと信じ込み、完全に油断しきっている。


「――エレノア姉様に信号を。時は、満ちました」


その瞬間、渓谷の側面から、一本の矢が天高く放たれた。


それを合図に、静寂は破られた。

突如として、渓谷のど真ん中に、地を揺るがす轟音が響き渡る。

二百騎の精鋭重騎兵。その先頭に立つのは、太陽の光を浴びて輝く鎧をまとった、エレノア・ド・ラフェットその人だった。


「うおおおおおッ!!」

エレノアの雄叫びは、解き放たれた獅子の咆哮のようだった。彼女が率いる二百騎は、巨大な竜の脇腹に突き立てられる、一本の鋼鉄の楔に見える。

ガリア軍の側面は、予期せぬ突撃に大混乱に陥る。人馬がぶつかり合い、悲鳴と怒号が渦を巻いた。


これまでならば、エレノアはこのまま敵陣を蹂躙し、敵将の首を求めて進み続けたはずだ。

だが、今日の彼女は違った。


「止まれッ! ここを死守するぞ!」


敵陣のちょうど中央を突破したところで、エレノアは馬首を返し、自らが率いる二百騎に命令を下した。

彼女たちは、まるでそこに最初から城壁があったかのように、完璧な陣形を組み、後続のガリア兵の行く手を阻んだ。

敵を殲滅するのではなく、ただひたすらに、耐える。


「馬鹿な! なぜ進まない!」「前が詰まっていて動けん!」「側面から攻撃されている!敵はどこから!」

ガリア軍の指揮系統は、エレノアというたった二百騎の楔によって、完全に麻痺させられた。前衛は後衛から切り離されて孤立し、後衛は前進することもできず、ただ混乱するばかり。


その姿を、丘の上から見ていたラフェットの兵士たちの目に、熱いものがこみ上げてきた。

あの、誰よりも先に敵陣に飛び込んでいくエレノア様が。あの、「無傷の牙」が。今、泥と血にまみれながら、味方のための壁となっている。その勇姿は、これまで見てきたどんな武勇伝よりも、兵士たちの心を奮わせた。


「エレノア様が、俺たちのために耐えてくださっている!」

「我らが双璧の獅子に続け!」

「今こそ、帝国に見捨てられた我らの意地を見せる時だ!」


士気は、爆発的に高まった。

そして、その瞬間を、リリアは見逃さなかった。

彼女は、大きく息を吸い込むと、全軍に響き渡る声で、高らかに宣言した。


「――鉄槌を、振り下ろせ!!」


その言葉を合図に、丘陵の両側に潜んでいたラフェット軍主力が、一斉に鬨の声を上げる。それは、これまで溜め込んできた怒りと誇りの咆哮だった。

兵士たちは、雪崩となって坂を駆け下り、孤立して混乱するガリア軍の前衛部隊に襲いかかった。


エレノアという鉄床の上で、ラフェットの鉄槌が、今まさに、振り下ろされた。



エレノアという楔によって分断され、ラフェット軍本隊という鉄槌に打ち据えられたガリア軍前衛は、大混乱に陥っていた。

しかし、それでもなお敵は帝国軍の精鋭。数の利を活かして態勢を立て直し、必死の反撃を試みようとしていた。


だが、その全ては、丘の上のリリアの双眸に見通されていた。


彼女のいる指揮所は、眼下で繰り広げられる地獄のような戦場の喧騒が嘘のように、静寂と秩序に支配されていた。

リリアの頭の中では、混沌とした戦場が、まるで精密な地図のように完璧に展開されている。どこで味方の勢いが勝り、どこで敵の抵抗が激しいか。

兵士一人ひとりの表情までは見えなくとも、彼女には部隊全体の流れと力の密度が、色として見えているかのようだった。


「伝令を!」

リリアの声は、冷静で、揺るぎない。

「右翼第三部隊、深追いしすぎです。半数を後退させ、中央の第二部隊の支援に回しなさい。敵は、そこを突破口にするつもりです」


「弓兵隊へ矢の補給を! 敵騎馬隊の動きが活発化しています。足を止めさせなければ、側面を突かれる!」


「左翼で突出した敵部隊は放置。コンラート様、予備兵力はまだ動かさないでください。あれは、我々をおびき出すための囮です」


次々と、矢継ぎ早に、しかし一切の無駄なく指示が飛ぶ。

伝令兵たちは、その神がかり的な采配に畏怖の念を抱きながら、戦場を駆け巡った。

リリアの指示は常に的確で、半歩先を読んでいた。敵が動こうとする、そのまさに一瞬前に、すでに対応策が打たれている。


傍らに立つコンラートは、その采配に息を呑んだ。

(お見事……まるで、盤上の駒を動かすように、戦場そのものを操っておられるわ……)


この連携の妙を、戦術の心臓として機能させているのが、エレノアの存在だった。

ガリア軍の後衛部隊は、何度も前衛を救おうと前進を試みる。

しかし、そのたびに、エレノア率いる二百騎が鋼鉄の城壁となって立ちはだかった。彼女たちは敵を倒すことではなく、ただひたすらに時間を稼ぐこと、敵をこの場に釘付けにすることだけに集中していた。


そのエレノアの奮闘が、リリアに時間を与えている。味方に兵力を再配置させ、負傷者を後送させ、戦線を立て直すための、貴重な時間を。


「姉様……!」

リリアは、遠くで奮戦する姉の姿を捉え、唇を噛み締めた。

「あなたの稼いでくれた時間、決して無駄にはしません……!」


リリアは、エレノアが切り開いた突破口、そして彼女が作っている壁を、余すところなく活用する。孤立した敵前衛部隊は、後方からの支援を完全に断たれ、丘の上からのラフェット軍の猛攻に晒される。挟撃され、包囲され、その士気と組織力は、刻一刻と削り取られていった。


やがて、ガリア軍前衛の一部が武器を捨て、逃走を始める。それは、巨大なダムの壁に空いた、最初の小さな亀裂だった。

リリアは、それを見逃さない。


「全軍、機は熟した! 崩れた箇所に戦力を集中! 一気に押し潰しなさい!」


リリアの卓越した指揮は、エレノアの圧倒的な武勇と完璧に噛み合い、双璧の連携は、奇跡と呼ばれるべき戦果を生み出そうとしていた。

だが、彼女の目は、目の前の勝利に少しも浮かれてはいない。崩壊する敵前衛の、さらにその向こう。姉を救出し、全軍を無事に撤退させるまでの、最も困難な道筋をすでに見据えていた。



戦況は、ラフェット優勢のまま推移していた。

リリアの描いた筋書き通りに、ガリア軍の前衛は分断され、丘の上からの猛攻によって次々と崩れていく。誰もが勝利を確信しかけた、その時だった。


「リリア様! 急報です! 左翼の指揮官、ダントン将軍が討ち死に! 部隊が混乱し、敵の精鋭部隊に押し込まれています!」


伝令の絶叫に、指揮所が凍りついた。地図上で見れば、ほんの小さな一点。しかし、その一点の崩壊が、戦全体の敗北に繋がりかねない。

「伝令を送れ!」

コンラートが叫ぶが、別の斥候が血相を変えて報告する。

「ダメです! あの区域は敵の矢が集中し、伝令が近づけません!」


指揮系統が、完全に断絶した。このままでは、左翼は崩壊し、そこから敵軍がなだれ込み、全軍が側面を突かれる。丘の上のリリアからは、木々に遮られ、その場所の詳しい状況が見えなかった。


リリアの決断は、一瞬だった。

「コンラート、後はお願いします」

「リリア様!? お待ちください、危険すぎます!」

老将の制止を振り切り、リリアは自ら馬を駆った。

数名の護衛だけを連れて、崩壊寸前の左翼へと、丘を駆け下りていく。


彼女が到着した最前線は、地獄だった。

指揮官を失った兵士たちは、ただ混乱し、後退を始めていた。そこに、ガリアの屈強な重装歩兵が容赦なく襲いかかる。


 そこに一つの声が響き渡った。

「怯むな! 私がいる! ラフェットの獅子リリアが、ここにいるぞ!」

リリアは馬から飛び降り、自ら剣を抜いて兵士たちの前に立った。その声は、恐怖に蝕まれかけた兵士たちの心に、最後の希望の光を灯した。


「盾を前に! 一歩も引くな! 隊列を立て直せ!」

リリアは、押し寄せる敵兵の刃を捌きながら、的確な指示を飛ばし続ける。

その姿に、兵士たちは我に返り、再び武器を構え直した。彼女という新たな中心を得て、崩れかけた部隊は、奇跡的にその形を取り戻していく。


敵の猛攻が、一瞬、弱まったかに見えた。

リリアが自ら剣を振るい、的確な指示で兵士たちの士気を繋ぎ止めたおかげだった。

彼女の剣は、相手の力の流れを読み、最小限の動きで受け流し、鎧のわずかな隙間を寸分違わず突く、氷のように冷静で、外科医のように精密な剣だった。


兵士の盾の陰から突き出された槍を身をかがめて避け、態勢を崩した敵兵の喉元に、返す刃で的確に斬りつける。

すぐ隣で敵に囲まれかけた味方兵士に「右!」と短く叫び、自らは左から迫る敵を牽制する。

彼女は個人で戦うのではない。常に部隊という一つの生き物の一部として、その脳として機能していた。


彼女が、正面から突進してきた敵兵の剣をいなし、がら空きになった胴体に自らの剣を突き入れた、その時。ほんのコンマ数秒、戦場に一瞬の空白が生まれた。


その隙を見逃さなかった者がいた。

後方で部隊を立て直そうとしていたガリア軍の将校が、リリアの存在こそがこの戦線の粘りの原因だと気づき、最後の望みを懸けて、腰の短剣を抜いた。


リリアは、敵兵から剣を引き抜きながら、殺気を感じて顔を上げた。

視界の端で、何かが夜空の流星のように煌めいた。風を切り裂く、鋭い音。それが自分に向かってくることを理解し、咄嗟に身を捻ろうとしたが、一瞬、遅かった。


ゴツン、と。鈍く、そして硬い衝撃が右の眼窩を襲った。

次の瞬間、熱い鉄の杭を脳まで打ち込まれたかのような、絶叫すら許さない灼熱の激痛が全身を貫いた。


「――っぐ……!」


声にならない呻きが、リリアの喉の奥で潰れた。


視界の半分が、まず真っ赤な閃光で焼き切れ、次にインクを零したようにどす黒い闇が急速に広がっていく。


周囲の喧騒、味方の叫び声、剣のぶつかり合う音が、一度、完全に消えた。


代わりに聞こえるのは、自分の心臓が耳のすぐ側で狂ったように脈打つ音だけ。


何が起きたのか、理解が追いつかない。


ただ、熱い。痛い。視界の右側が、もう二度と光を取り戻さないであろうという、絶望的な確信だけがあった。

脳裏に、姉の屈託のない笑顔がよぎる。厳格な父の顔が浮かぶ。コンラートの心配そうな隻眼が見える。断片的な記憶が、激痛の中で明滅しては消えていく。


「リリア様!!」

護衛兵の悲鳴が響く。だが、リリアは倒れなかった。

彼女は、血が溢れ続ける右目を左手で強く押さえながら、もう一方の手に握った剣を地面に突き立て、支えにして、ゆっくりと立ち上がった。


そして、残された左目で敵兵を睨みつけ、振り絞るように叫んだ。

「……怯むなッ!! 私はまだ立っている!! 全軍、私に続けぇぇッ!!」


その姿は、鬼気迫る、としか言いようがなかった。

敬愛する若き将が、自らの血を流しながら、なおも戦おうとしている。その絶叫が、ラフェット兵の心に宿っていた最後の恐怖を、灼熱の怒りへと変えた。

「うおおおおおおおおッ!!」

兵士たちは野獣のような咆哮を上げ、リリアを守るために、そして彼女の勇気に応えるために、目の前の敵へと猛然と襲いかかった。


崩壊寸前だった左翼は、まるで不死鳥のように息を吹き返し、猛然と敵を押し返す。

その動きは、ドミノ倒しのように戦線全体へと波及した。指揮系統を分断され、前衛が後方から完全に切り離されたガリア軍は、もはや組織的な抵抗を維持できなくなりつつあった。


「勝利だ! 我々は勝ったぞ!」

「ガリア軍を追い返した!」


ラフェットの兵士たちの歓喜の雄叫びが、夕暮れの「蛇の喉笛」にこだまする。

しかし、その歓声が静まると、戦場にはおびただしい数の亡骸と、負傷者たちのうめき声だけが残された。掲げられた勝利の旗は、あまりに多くの兵士たちの血で赤く染まっていた。


側近に支えられ、丘の上の本陣に戻ったリリアの姿は、その代償の大きさを何よりも雄弁に物語っていた。彼女の右目は血に濡れた布で覆われ、顔は蒼白だったが、その背筋は驚くほど真っ直ぐに伸びていた。


「リリア様! すぐに手当てを!」

軍医が駆け寄るが、リリアは片手でそれを制した。

「後です。まだ、戦いは終わっていません」


その言葉に、勝利に浮かれていた者たちがはっと息を呑む。

そうだ。まだ終わっていない。エレノア様と、彼女が率いる二百騎は、敵の後衛部隊の真っ只中に、今もなお孤立しているのだ。


「姉様の位置は?」

リリアの問いに、斥候が震える声で答える。

「敵後衛部隊に包囲されています! 敵は敗走しつつも、エレノア様を包囲する部隊だけは、未だ陣形を維持しており……!」


軍医の手当てを振り払ったリリアは、残された左目で巨大な地図を睨みつけた。

その思考は常人には信じがたい速度で回転を始める。右目の激痛も、全身の疲労も、まるで存在しないかのように。


「追撃部隊を二手に分けます。第一隊は敗走する敵本隊を追撃し、これ以上の抵抗をさせない。第二隊は大きく迂回し、エレノア姉様を包囲している部隊の側面を突きます。敵の注意を引きつける陽動です」

淀みない指示が、再び彼女の口から紡がれる。

「そして、私が手勢を率いて、正面から包囲網に風穴を開け、姉様を救出します」


「リリア様!」

コンラートが、悲痛な声で叫んだ。

「なりませぬ! そのお身体で、これ以上は……!エレノア様の救出は、このコンラートが責任を持って行います! どうか、どうかご安静に!」


しかし、リリアは静かに首を横に振った。その顔には、決意以外の何ものも浮かんでいなかった。

「いいえ、コンラート。私も行きます。姉を迎えに行くのは、他の誰でもない、私の役目です」


彼女は、おぼつかない足取りで、しかし決してよろめくことなく、馬のそばへと歩いていく。

片目を失い、満身創痍の「傷だらけの牙」。しかし、その姿は、勝利に沸くどの兵士よりも気高く、力強かった。


「姉様を、迎えに行きます」


リリアは、自ら救出部隊の先頭に立った。



そのころ、エレノアと彼女が率いる二百期は、敵公営部隊の作る包囲網の中で、絶望的な防衛戦を続けていた。

本隊が勝利したであろう鬨の声は、遠くに聞こえていた。

だが、自分たちだけが、まるで忘れられたかのように敵地の真っただ中に取り残されている。矢は尽きかけ、兵士たちの疲労は限界に達していた。


「怯むな! 救援が必ず来る!」


エレノアは兵士たちを鼓舞し続けた。

不思議と、焦りはなかった。

リリアに託された「耐える」という役目を、ただひたすらに全うする。

それが、今の自分の戦いだと理解していたからだ。


その時、遠くの、予期せぬ方角から、味方の鬨の声が上がった。

陽動だ。リリアの作戦が、最終段階に入ったのだ。

エレノアの顔に、希望の光が差す。敵の包囲網に、明らかに動揺が走った。


「――今です! 全軍、突撃!」


陽動部隊が敵の注意を引きつけた、その一瞬の隙。

リリア率いる救出部隊が、夕闇の中から姿を現し、敵の包囲網の最も手薄になった一点に、鋭い槍のように突き刺さった。


リリアは、先頭に立ちながらも、自らは剣を振るわない。残された左目で戦況の全てを把握し、的確な指示を飛ばすことに専念していた。

「右翼は崩すな! 中央突破一点に集中! 道を開けなさい!」

護衛たちが彼女の周囲を固め、部隊はリリアの言葉に導かれるように、一直線にエレノアのいる中心部を目指した。


やがて、包囲網の向こうに奮戦する姉の姿が見えた。

「姉様!!」

リリアの叫びが、戦場の喧騒を切り裂いて届く。


「リリア!」

エレノアが、その声に気づいた。味方の救援。妹が、本当に来てくれた。安堵に顔をほころばせ、彼女はリリアのもとへ駆け寄ろうとした。

そして、月明かりの下、妹の姿をはっきりと認め、言葉を失った。


リリアの右目は、血で染まった分厚い布で覆われていた。

その顔は蒼白で、立っているのが不思議なほど消耗しきっている。


「リリア……お前の、その目は……なんだ……?」

エレノアの声は、震えていた。何が起きたのか、頭が理解することを拒絶する。


リリアは、そんな姉の動揺を鎮めるかのように、穏やかに微笑んでみせた。

「大丈夫です、姉様。約束通り、迎えに来ました。さあ、帰りましょう。私たちの城へ」


自分のことよりも、姉の無事を喜ぶ妹の姿。

その笑顔が、エレノアの心に突き刺さった。自分の武功への拘りが、自分の未熟さが、妹にこれほどの犠牲を払わせた。自分が「無傷」でいられるのは、妹がその傷を全て引き受けてくれていたからだ。その現実が、雷となって彼女を撃った。


「…………よくも……」

エレノアの口から、地を這うような低い声が漏れた。

「よくも…………私の妹をッ!!!!」


次の瞬間、エレノアの全身から、凄まじい闘気が爆発した。それはもはや、武功を求めるための力ではない。ただ一つ、愛する妹を守るための、純粋な怒りの奔流だった。


「道を開けろォォォッ!!」

エレノアは、リリアを守るようにその前に立つと、鬼神のごとき力で退路を切り開き始めた。

リリアは、そんな姉の背中を見ながら、冷静に最後の指揮を執る。

「全軍、姉様に続け! 隊列を崩さず、ここから脱出します!」


武の化身と化した姉と、それを完璧に制御する妹。

二人の連携は誰にも止められなかった。

ガリア軍の包囲網はズタズタに引き裂かれ、ラフェット軍は、ついに血路を開いた。


 ◇


本陣への帰路、馬を並べる二人には、言葉はなかった。

エレノアは、ただ、妹の右目を覆う痛々しい包帯から、目を離すことができなかった。


本陣に到着し、勝利の喧騒がようやく落ち着きを取り戻した頃、エレノアは一人、リリアの治療が行われている天幕の前に立っていた。

軍医が退出するのを待ち、彼女は静かに中へ入る。


リリアは、簡易寝台に腰掛け、月明かりが差し込む天幕の入り口を静かに見つめていた。

右目を覆う新しい包帯が、月の光に白く浮かび上がっている。

その姿は、痛々しいほどに儚く、そして気高かった。


エレノアは、どう言葉を切り出せばいいのか分からず、ただ妹のそばに立った。

長い沈黙の後、ようやく絞り出した声は、ひどくかすれていた。

「……痛むか?」


リリアは、ゆっくりと姉の方を向いた。残された左目が、穏やかに細められる。

「ええ、少しだけ。ですが、姉様が無事で何よりです」


その、あまりに健気な言葉が、エレノアの胸を締め付けた。彼女は、握りしめた拳が震えるのを止められなかった。

「私のせいだ」

その声は、後悔と自己嫌悪に満ちていた。

「私がもっと強ければ…いや、違う。私がもっと早く、お前の言うことを、お前の戦い方を理解していれば……お前を、こんな目に遭わせずに済んだんだ…!」


これまで決して弱さを見せなかった姉の、魂からの叫びだった。

それを聞いたリリアは、静かに首を横に振った。

「姉様のせいではありません。これは、私が選んだことです。この国の、そして何よりも、あなたの勝利のために」


彼女は、自分の右目を覆う包帯に、そっと左手を触れた。

「この傷は、姉様が無事でいてくれる証です。ラフェットの光が、守られた証です。ならば、私にとってこれ以上の名誉はありません」


その言葉は、エレノアの罪悪感を和らげるための、優しい嘘ではなかった。彼女の本心だった。

エレノアは、妹のあまりに深い献身と覚悟を前にして、言葉を失う。そして、心に一つの揺るぎない誓いを立てた。


「……リリア。もう二度と、お前を傷つけさせない」

エレノアは、リリアの前に膝をつくと、その顔を真っ直ぐに見上げた。

「私が守る。お前の光も、お前の未来も、全て。これからは、私がお前の盾になる」


リリアは、そんな姉の姿に驚き、そして愛おしそうに微笑んだ。

「いいえ、姉様。あなたは、ラフェットが誇る最強の剣です。その役目は、誰にも代わることはできません」


彼女は、自分の手をエレノアの手に重ねた。

「そして私は、その剣を支え、その輝きを守る鞘であり続けます。私たちは、二人で一つの双璧なのですから。何も変わりません。ただ……」


リリアは言葉を切り、エレノアの手を強く握った。

「ただ、より強くなった。それだけです」


月明かりが、静かに二人を照らしていた。エレノアは、妹の右目の包帯にそっと触れようとして、ためらい、その手を下ろした。

言葉はもう必要なかった。この深い傷と、痛みを分かち合う誓いによって、二人の絆は、誰にも、そして何ものにも壊すことのできないものへと、固く結ばれた。


第五章



ラフェット防衛戦から数週間後。

ヴァーレン帝国の帝都は、変わらぬ華やかさと、水面下の緊張感に満ちていた。

大理石で造られた壮麗な帝国議会の議場では、有力諸侯たちが北方の戦況報告を退屈そうに聞いていた。


特に、南方の大諸侯シュタイン公は、余裕の表情を隠そうともしなかった。

彼のもとには、ラフェット公国がガリアの大軍に蹂躙され、壊滅寸前だという非公式の報告が届いていた。辺境の盾が砕け散り、その後の処理をどう有利に進めるか、すでに算段を立てていたのだ。


そこへ、皇帝陛下の名代として、戦地に派遣されていた監察官が議場の中央に進み出た。

彼は、居並ぶ諸侯たちに一礼すると、感情の読めない平坦な声で報告を始めた。


「北方の戦況について、最終報告を申し上げます。ラフェット公国軍は、ガリア帝国軍主力を『蛇の喉笛』にて迎撃」

議場が、わずかにざわめく。無謀な、と誰もが思った。


監察官は構わず続ける。

「敵兵力およそ五万。対するラフェット公国軍、一万五千」

シュタイン公の口元に、嘲るような笑みが浮かんだ。


「――結果。ラフェット公国軍の、完全なる勝利にございます」


その一言が響いた瞬間、議場は水を打ったように静まり返った。

シュタイン公の顔から笑みが消え、時間が止まったかのように固まる。

諸侯たちは、互いに顔を見合わせ、今の言葉が信じられないという表情を浮かべた。


「ば、馬鹿な!」「ありえん! 何かの間違いではないのか!」

やがて、静寂は大きなどよめきへと変わった。


「静粛に!」

監察官の声が響く。彼は、動揺する諸侯たちを見渡し、作戦の概要を淡々と説明し始めた。

「この勝利は、妹君、リリア・ド・ラフェット様の立案した驚くべき作戦、『獅子の鉄槌』によるもの。敵の大軍は巧みに隘路へと誘引され、完全に分断、包囲されました。その知略、まさに用兵の妙と言うほかございません」


リリア。あの、地味で影の薄い方の娘か。貴族たちの脳裏に、以前謁見した際の、控えめな少女の姿が浮かぶ。あの少女に、これほどの才覚が?

驚きは、やがて得体の知れないものへの畏怖へと変わっていった。


「そして」と監察官は続けた。その声には、初めて熱がこもる。

「作戦の要となり、不可能を可能にしたのは、姉君、エレノア・ド・ラフェット様の圧倒的な武勇。わずか二百騎で敵陣の只中に楔として打ち込まれ、数万の敵を食い止めたと……その戦いぶりは、もはや人の域を超えております」


武勇を好む将軍たちから、感嘆の声が漏れた。

「武神…まさに武神だ!」「我が帝国に、これほどの英雄が眠っていたとは!」


これまで「辺境の田舎貴族」と軽んじ、その犠牲を当然のものとしてきたラフェット公国。その双璧の姉妹が、知と武の両方で、帝国の誰も成し得なかった大勝利を掴み取った。

その事実は、貴族たちの認識を、そして帝国のパワーバランスを根底から覆すものだった。


称賛の声の裏で、新たな警戒心が急速に広がっていく。

シュタイン公は、屈辱に顔を歪めながら、新たな敵意を燃やしていた。

あの双璧は、もはや都合のいい盾ではない。自分たちの喉元に突きつけられかねない、鋭すぎる剣なのだと。


 その時まで、玉座で退屈そうに報告を聞いていた皇帝の気だるげな視線が、報告書を読む監察官へと向けられた。

彼は玉座に座る若き皇帝、アレクシオス・ヴァーレン。

先程まで彼は、目の前で繰り広げられる諸侯たちの議論に一片の興味も示していなかった。貴族たちの醜い権力争いなど、彼にとっては繰り返されるだけの退屈な芝居に過ぎなかったからだ。

しかし、頬杖をついていた指が、ゆっくりと離れた。退屈に玉座へ沈んでいた身体が、わずかに、しかし確かに起き上がった。

彼の深い紫の瞳から、長年澱んでいた倦怠の色がすっと消え、薄い唇の端に、これまで誰も見たことのない、面白くてたまらないというような、微かな笑みが浮かんだ。


「ほう……」


囁くような、しかし議場全体を支配する不思議な響きを持った声だった。諸侯たちのどよめきが、ぴたりと止む。


「『双璧の獅子』、か。……面白い」


皇帝は、初めて玉座から身を乗り出した。その視線は、シュタイン公でも、他のどの諸侯でもなく、ただ遥か北の、物語の生まれた地を見ているかのようだった。


「――その二人、帝都へ召喚せよ。朕が、直々に会ってみたい」


それは、政治的な計算に基づいた命令ではなかった。ただ、退屈な日常に差し込んだ一筋の光に手を伸ばすような、純粋な好奇心から発せられた一言だった。

だが、その皇帝の気まぐれな一言が、シュタイン公をはじめとする有力諸侯たちの背筋を凍らせた。眠っていたはずの獣が、目を覚ましてしまった。彼らが最も恐れていた、予測不能な意思が、今、帝国の中心で動き始めたのだ。


ラフェット公国の勝利は、戦場の終わりではなく、帝都を舞台にした、より複雑で危険な戦いの始まりを告げていた。



ラフェット防衛戦から数週間が過ぎ、公国には束の間の平穏が訪れていた。戦の傷跡は大地にも人々の心にもまだ生々しく残っていたが、冬を越えて穏やかになりつつある日差しが、それを少しずつ癒しているかのようだった。


リリアは、城のテラスで、新しい日常に慣れようとしていた。

彼女の右目は、今は上質な黒い絹の眼帯で覆われている。

もはや痛々しい治療の道具ではなく、彼女の横顔を、より理知的で、どこか神秘的に見せる装飾品の一部となっていた。片目での生活は、距離感や視野の狭さなど、多くの不自由を強いたが、彼女はそれを決して表には出さなかった。

ただ、黙々と本を読み、地図を眺め、失われた視界を補うための鍛錬を続けていた。


「リリア、茶が入ったぞ」


不意に、死角である右側から声をかけられ、リリアの肩が小さく跳ねた。

振り向くと、そこには少し気まずそうな顔をしたエレノアが、ティーカップを二つ、不器用そうに盆に乗せて立っていた。

「す、すまん……驚かせたか」

「いいえ、姉様。ありがとう」

リリアは微笑んでカップを受け取った。姉が淹れた茶は、いつも少し濃すぎる。

だが、戦いの後、エレノアはこうして頻繁にリリアの様子を見に来ては、不慣れな手つきで世話を焼こうとしてくれた。その不器用な優しさが、リリアには何よりも嬉しかった。


そんな穏やかな昼下がりを破ったのは、帝国の紋章を掲げた一人の使者だった。

荘厳な正装に身を包んだ使者は、ラフェットの重臣たちが見守る前で、皇帝アレクシオスからの勅書を恭しく広げた。


「皇帝陛下の勅命である!」


その声に、場にいた全員が息を呑み、頭を垂れる。


「『双璧の獅子』エレノア・ド・ラフェット、リリア・ド・ラフェットを帝都へ召喚する。その武勇と知略、見事であった。朕が、直々に謁見し、その労をねぎらわん」


使者が勅書を読み上げ終えると、広間に大きなどよめきが広がった。あの、政治に一切の興味を示さないはずの皇帝陛下が、直々に…?


エレノアは、驚きに目を見開いた。

「皇帝陛下が……私たちを?」

しかし、その驚きはすぐに、新たな闘志へと変わった。これは好機だ。帝都で、ラフェットの価値を認めさせる絶好の機会。

彼女は、隣に立つ妹の横顔を見た。黒い眼帯が、その決意をより一層固くさせる。今度こそ、自分がリリアを守るのだ、と。


一方、リリアは冷静だった。驚きよりも先に、その裏にある政治的な意図を分析しようとしていた。

(なぜ、皇帝陛下が自ら……? シュタイン公たちの差し金か、それとも、皇帝自身の気まぐれか。いずれにせよ……)

彼女は、そっと自らの眼帯に触れた。帝都は、戦場以上に危険な場所だ。

この傷は、同情を引くかもしれないが、侮りや弱さの象徴と見なされないか……。


エレノアが、そんな妹の肩に、力強く手を置いた。

「行くぞ、リリア」

「はい……! 姉様」


リリアは、姉の大きな手と、その目に宿る新しい決意の光を感じながら、静かに頷いた。

二人は視線を交わす。戦場で一つになった絆は、今、帝都という新たな戦場へ向かう覚悟を共有していた。



ラフェット公国を出てから数週間、姉妹はついにヴァーレン帝国の帝都サンクロリアに到着した。

戦場の土埃とは無縁の、磨き上げられた石畳。

豪華絢爛な馬車が行き交い、きらびやかな衣装をまとった人々が溢れるその光景は、質実剛健なラフェットとは何もかもが違っていた。


エレノアは、物怖じすることなく、しかし警戒を解かずにその光景を見渡し、リリアは、片目を覆う黒い絹の眼帯の下で、帝都の空気に含まれる見えない毒を冷静に感じ取っていた。


皇帝の待つ謁見の間へ通された時、二人は四方から突き刺さる無数の視線に晒された。

好奇、嫉妬、そして隠そうともしない侮蔑。

「あれが辺境の『武神』か。思ったより粗野な女だな」

「片目の姫君とは、痛々しい。戦の華々しい噂も、実態はこれか」

囁き声が、あちこちから聞こえてくる。

特に、シュタイン公は冷ややかな視線を隠そうともせず、二人の登場をまるで不快な虫でも見るかのように眺めていた。


だが、姉妹は動じなかった。

エレノアは胸を張り、リリアはその背後に寄り添うように、静かに前を見据えている。

やがて、二人は玉座の前に進み出て、深く頭を垂れた。


玉座に気だるげに座る若き皇帝、アレクシオスが、初めてその紫の瞳で二人を捉えた。

彼はまず、エレノアに問いかけた。その声は、悪戯心を含んでいた。

「『武神』と聞いたが、その剣、鋭いのか? 朕の首に届くほどに?」


諸侯たちが息を呑む。あまりに不敬で、常軌を逸した問いだった。

しかし、エレノアは臆することなく顔を上げ、はっきりと答えた。

「我が剣は、陛下と帝国をお守りするためのもの。ですが、帝国を脅かす真の敵が現れたならば、それが誰であろうと斬り伏せる覚悟はできております」


その堂々とした答えに、皇帝は満足そうに口の端を上げた。次に、その視線はリリアへと移る。

「片目を失ってまで得た勝利、割に合うたか? 傷だらけの牙よ」

その言葉は、リリアの異名を抉るように響いた。


リリアは、静かに顔を上げた。その左目は、皇帝の紫の瞳をまっすぐに見つめ返していた。

「我が公国と、姉の光が守られるならば、我が身の代償などいかほどにも。この目に映るものが半分になっても、守るべきものの価値は、何一つ変わりませんゆえ」


その凛とした声と、自らの傷をも覚悟と誇りに変えるその言葉に、議場は静まり返った。

エレノアの揺るぎない武人の魂。

そして、リリアの傷に裏打ちされた、鋼の知性と献身。

噂や報告だけでは分からなかった「双璧の獅子」の真の姿を目の当たりにし、貴族たちの間に流れる空気は一変した。


侮蔑は、畏敬に。

安易な好奇は、底知れない者たちへの警戒に。

シュタイン公は、自分の想像を遥かに超えた器を持つ姉妹を前に、苦々しく表情を歪めるしかなかった。


この双璧は、本物だ。辺境で泥にまみれていた、ただの盾ではない。

誰もが、そう認めざるを得なかった。


謁見が終わり、姉妹が諸侯たちの間を抜けて退出する。もはや、囁き声はどこからも聞こえない。背中に突き刺さるのは、畏敬と警戒が複雑に絡み合った、重い視線だけだった。


エレノアとリリアは、帝都という新たな戦場で、言葉も剣も交えることなく、最初の勝利を収めていた。



しかし帝都サンクロリアでの日々は、姉妹にとって戦場とは違う意味での戦いを強い続けた。

その頂点が、皇帝謁見から数日後に開かれた、シュタイン公主催の夜会だった。

『双璧の獅子の戦勝を祝う』という名目で、帝国の有力貴族たちが一堂に会したその場所は、クリスタルのシャンデリアが煌めき、美しい音楽が流れる、まさに栄光の都サンクロリアを象徴するような空間だった。

しかし、その華やかさの裏では、毒を含んだ言葉と腹黒い思惑が渦巻いていた。


当初、貴族たちはエレノアを取り囲み、その武勇を口々に称賛した。

「エレノア様、あなた様こそ帝国の武神! その武勇伝は、吟遊詩人たちがこぞって歌っておりますぞ!」

「あのガリアの大軍を食い止めたというお力、まさに獅子の化身!」


英雄として称えられることに、エレノアもまんざらではない様子だった。だが、会話が進むにつれ、その称賛に巧妙な棘が含まれていることに、彼女は気づき始める。

「あなた様のような方は、やはり戦場こそがふさわしい。その剣を、(まつりごと)の錆で鈍らせるのは帝国の損失ですな」


それは、彼女を統治者の器ではないと、暗に言っているのと同じだった。エレノアの表情から、少しずつ笑みが消えていく。


そして、貴族たちの関心は、静かに佇むリリアへと移っていった。

「それにひきかえ、リリア様。あなた様の知略こそ、ラフェットの未来を照らす光ですな」

シュタイン公が、わざとらしいほど感嘆した声で言った。

「そして、その右目の傷……。民を、国を思う、その気高い献身の証。これこそ、次期公爵に最もふさわしい資質ではありますまいか」


その言葉に、周囲の貴族たちも次々と同調する。

「いかにも! 武勇は将の徳、しかし献身と知略こそ統治者の徳!」

「リリア様が公爵となれば、ラフェットは安泰だ」


場の空気は、完全に「リリア待望論」へと傾いていた。それは、姉妹の間に楔を打ち込もうとする、計算され尽くした罠だった。

リリアは、姉を立てようと「姉の武勇あってこその勝利です」と何度も謙遜したが、貴族たちはそれを巧みにかわし、リリアへの賞賛を止めなかった。


エレノアは、ただ黙って、固い表情でグラスを見つめていた。

自分の武勇は、ただの便利な道具なのか。

国の未来を語る輪から、自分は外されているのか。

何より、リリアの方が公爵にふさわしいという言葉を、彼女は正面から否定できなかった。

ラフェット防衛戦での妹の功績と、その右目の犠牲を、誰よりも知っているからだ。

嫉妬、焦り、そして妹への負い目。複雑な感情が、エレノアの中で嵐のように渦巻いていた。


リリアは、姉の横顔が苦痛に歪んでいることに気づき、胸が張り裂けそうだった。この甘い毒に満ちた場所にいること自体が、もはや耐え難い苦痛だった。

「申し訳ありません。少し、長旅の疲れが出たようです。今宵はこれにて…」

リリアは機転を利かせ、シュタイン公らに丁寧に礼を述べると、エレノアの手を引いてその場を辞した。


宿舎に戻った後、二人の間には重く、気まずい沈黙だけが流れた。

やがて、エレノアは何も言わずに部屋を出ていく。向かう先は、おそらく城の訓練場だろう。その背中は、これまでになく小さく見えた。


リリアは一人、窓辺に立ち、きらびやかな帝都サンクロリアの夜景を見下ろした。

この美しい都は、姉妹の絆を試すために作られた、巧妙で、残酷な戦場だった。姉への忠誠と、公国が求めるであろう責任の間で、彼女の心は引き裂かれそうになっていた。

戦場で負った右目の傷よりも、今、この胸の痛みの方が、ずっと深く、耐え難いものに感じられた。


 ◇


夜会の翌日、エレノアとリリアの間に流れる空気は、まだ重く、ぎこちないものだった。

エレノアは一人、宿舎の中庭で無言のまま剣を振り、リリアは部屋で静かに書状を読んでいた。


その沈黙を破ったのは、リリアの方だった。


午後、リリアはエレノアを自室に招き入れた。テーブルの上には、帝都サンクロリアの地図と、有力諸侯の紋章が刻まれた十数個の駒が並べられている。


「姉様。お力をお貸しください。私の戦いに、あなたの力が必要です」

リリアの真剣な申し出に、エレノアは戸惑いながらも、妹の前に腰を下ろした。

「……私に、何ができるというんだ」

その声には、夜会での無力感がまだ滲んでいた。


リリアは、一つの駒を指さした。シュタイン公の紋章だ。

「帝都における最大の敵は、シュタイン公です。彼は、私たちがガリアとの戦いで滅びることを望んでいた。その計算が狂い、今、彼は私たちを『制御不能な脅威』と見なしています。必ず、あらゆる手を使って潰しにかかってくるでしょう」


「とはいえ、どうするんだ。斬るわけにはいかんだろう」


「敵ばかりではありません」

リリアは、別の駒をいくつか動かし、シュタイン公の駒と距離を置いた場所に配置した。

「西方の諸侯、オルデン家。彼らは商業に一番の関心を抱いています。ですから戦争を嫌い、シュタイン公の軍事拡大に警戒心を抱いています。北西のグライム辺境伯。彼もまた、異民族との境界を守る者。私たちの苦境を、他人事とは思わないはずです。他にも、シュタイン公のやり方に反感を抱く者は少なくない。彼らは今、どちらにつくべきか迷っています」


「だが、そいつらが私たちに手を貸す保証はどこにあるんだ?」

エレノアが、もっともな疑問を口にする。


「保証は、ありません」

リリアは、そこで初めて顔を上げ、エレノアの目を真っ直ぐに見つめた。

「だからこそ、姉様の力が必要なのです」


「私が彼らに利益と理屈を説きます。シュタイン公という共通の敵を示し、同盟の価値を語ります。ですが、それだけでは足りない。帝都の貴族たちは臆病で、疑り深い。最後に彼らの背中を押すのは、理屈ではなく、『確かな力』への畏敬と信頼です」


リリアは、立ち上がると、エレノアの肩にそっと手を置いた。

「姉様が、ただ黙って私の隣にいてくださるだけでいいのです。あのガリア軍五万を打ち破った『武神』が、我らの旗印であるという事実。ラフェット公国は、決して折れないし、裏切らないという、揺るぎない証。その存在こそが、どんな美辞麗句よりも雄弁な、最強の交渉カードなのです」


リリアは、熱を込めて言った。

「姉様は一人の戦士ではない。ラフェットの誇りと力を体現する切り札そのものなのです」


エレノアは、衝撃を受けていた。

自分が、ラフェットの未来を左右する象徴であり切り札であると。妹が、自分の力をそこまで信じ、頼ろうとしていると。その意味の重さを、彼女は初めて理解した。


夜会の無力感は、消えていた。代わりに、新たな、そしてより重い責任感が、彼女の胸に宿る。

エレノアは、妹の手を力強く握り返した。


「……分かった。お前の言う通りにしよう」

「ありがとうございます、姉様」

「礼を言うな。私は、お前の剣であり、盾だ。そうだろう?」


エレノアの口元に、久しぶりに自信に満ちた笑みが戻った。



その夜、姉妹は人目を忍び、帝都サンクロリアの一角に壮麗な屋敷を構える、西方の諸侯オルデン家の当主、ゲオルグ・オルデンのもとを訪れていた。通されたのは、豪華な調度品が並ぶ中にも、どこか実用的な計算が感じられる書斎だった。


「これはこれは、ラフェットが誇る『双璧の獅子』のお成りとは。このゲオルグ、光栄の至りにございます」

恰幅の良いオルデン卿は、抜け目のない商人らしい笑みで二人を迎えた。しかし、その目は全く笑っていない。

「ですが、このような夜更けに、一体どのような御用ですかな? 先にお伝えしておきますが、当家は、シュタイン公との事をこれ以上荒立てるつもりは毛頭ございませんぞ」


先手を打って牽制してくる相手に、エレノアの眉がわずかに動いたが、リリアの冷静な横顔を見て、口を閉ざした。


「オルデン卿。事が荒立つかどうかは、もはや私たちや、あなたの意思で決められる問題ではありません」

リリアは、穏やかに、しかし核心を突いて話を切り出した。

「シュタイン公の野心こそが、帝国の平穏を乱す嵐の目なのですから。…先日、彼が帝国議会の水面下で、ガリアとの戦いを名目にした『戦時特別税』の導入を画策しているのをご存じですかな?」


オルデン卿の表情が、わずかに曇った。初耳だったのだろう。

「表向きは対ガリアですが、その真の狙いが、あなた方のような商業を重視する諸侯から富を吸い上げ、自らの軍拡の資金とすることにあるのは、賢明なる卿にはお分かりのはず」


「ふむ……」

オルデン卿は唸り、顎髭を撫でた。

「確かに、シュタイン公のやり方は目に余る。しかし、我々の本分は戦ではございません。あなた方に味方したとて、得られるのはシュタイン公の怒りだけではないかな? あなた方が、本当にあのシュタイン公に対抗できるという保証はどこに?」

値踏みするような視線が、黙って座るエレノアに向けられた。


その視線を受け、エレノアは初めて動いた。

彼女は、テーブルの上に置かれていた純銀製のペーパーナイフを、まるで小枝でも拾うかのように、こともなげにつまみ上げる。そして、オルデン卿の目の前で、それを指の力だけで、ぐにゃりとUの字に曲げてみせた。


「……保証、か」

エレノアは、曲がった銀の塊をテーブルに置き、低い声で言った。

「私は、妹との約束は必ず守る。それだけだ」


その言葉と、人間業とは思えぬ行為に、オルデン卿は息を呑んだ。額に、じわりと汗が滲む。言葉による威嚇ではない。純粋な、そして絶対的な力の顕示。

ラフェットの武勇が、噂通りの、いや、噂以上のものであることを、彼は骨身に染みて理解した。


場の空気が変わったのを、リリアは見逃さなかった。

「私たちが求めるのは、軍事的な支援ではありません。オルデン家が持つ帝都随一の情報網と、帝国議会での影響力です。シュタイン公の独走を牽制する勢力を、共に作りましょう」

彼女は、身を乗り出して続けた。

「ラフェットの武と、オルデン家の情報。手を組めば、もはや誰も私たちを無視できなくなります。シュタイン公の嵐に個別に飲み込まれるか、我々と共に嵐を乗りこなす新たな船を造るか。オルデン卿、あなたの商才ならば、どちらが賢い投資か、お分かりのはずです」


決断を迫られ、オルデン卿はしばらく黙考していた。目の前には、人の域を超えた武力を持つ姉と、帝国の力学を冷静に読み解く知性を持つ妹。

やがて、彼は長い溜息をつくと、顔を上げた。その顔には、もはや商人の探るような笑みはなく、覚悟を決めた男の表情が浮かんでいた。


「……分かりました。この話、乗りましょう。ラフェット公国の双璧は、噂以上のようだ。あなた方の未来に、我がオルデン家も投資させていただきます」


密約は、成立した。


書斎を辞去する姉妹の後ろ姿を見送りながら、ゲオルグ・オルデンは呟いた。

「恐ろしい姉妹だ……。武の姉と、知の妹。あれは、帝国の勢力図を塗り替える。とんでもない船に乗ってしまったのかもしれんな……」

だが、その口元には、この危険な賭けを楽しむかのような、新たな笑みが浮かんでいた。


 ◇


その夜、姉妹の宿舎の部屋は、燭台の光が落とす深い影に満たされていた。

オルデン家との密約を成功させ、二人の間には新たな信頼が生まれていた。だが、リリアの表情は晴れない。エレノアは、妹がまだ何かを胸に秘めていることを見抜いていた。


「姉様」

リリアが、静かに口を開いた。

「今日までの交渉で、私たちの足場は少しだけ固まりました。姉様のお力添えに、心から感謝しています」

「礼などいい。それで、次は何をすればいい?」

エレノアの問いに、リリアは一瞬ためらった。そして、意を決したように告げた。


「明日、私はガリア帝国の密偵と会います」


「……何だと?」

エレノアの顔から、血の気が引いた。

「ガリアだと!?正気か、リリア! それは帝国への裏切りと見なされかねん! 相手が密偵だとしても、罠だったらどうする! 危険すぎる!」

妹の身を案じるあまり、その声は激しいものになった。これまでどんな強敵を前にしても見せなかった、純粋な恐怖が、エレノアの心をよぎる。


「落ち着いてください、姉様」

リリアは、冷静に姉を諭した。

「これは正式な交渉ではありません。水面下での接触です。ガリアとて一枚岩ではない。先日の私たちの勝利で、あちらの国内でも和平を望む声が上がっているはず。私は、彼らと手を結ぶのではありません。『シュタイン公という共通の敵がいる』という事実を確認し、一時的に北方の緊張を緩和させる。それだけです。そうすれば、シュタイン公は帝国議会で戦争継続を叫ぶ大義名分を失い、身動きが取れなくなる」

それは、大胆で危険な賭けだった。だが、ラフェットの安全を確実にするための、最も効果的な一手であることも、エレノアには理解できた。


「……それで、私に何をしろと?」

エレノアは、協力する覚悟を決め、低く尋ねた。


リリアの顔に、安堵の色が浮かんだ。彼女は、エレノアの手を取り、その目を真っ直ぐに見つめた。

「ありがとうございます、姉様。この作戦の成否は、あなたの双肩にかかっています」


そして、彼女は、作戦の核心を告げた。

「姉様は、光になってください。帝都中の蝶たちの目を、あなたという炎に引きつけて欲しいのです。その間に、私は影の中を動きます」


リリアは、シュタイン公が明日にも稽古を口実にエレノアに接触してくるであろうことを予測し、それを利用して帝都中の貴族たちの注目を練兵場に集めてほしいと、具体的な計画を話した。


エレノアは、息を呑んだ。

妹は、自分を危険から遠ざけるのではない。この最も危険な作戦の、最も重要な陽動役、つまり作戦の成否を分ける光の部分を、自分に託そうとしている。


「……分かった。任せろ」

エレノアは、妹の手を力強く握り返した。

「帝都中の誰もが、私から片時も目を離せなくしてやる。だから、リリア……」


彼女は、言葉を句切ると、祈るような目で妹を見つめた。

「お前は、必ず帰ってこい。約束だ」


「はい、姉様。必ず」


 ◇


そしてリリアが、最も危険な賭け、帝都サンクロリアに潜むガリア帝国の密偵と、水面下で接触を試みる日。

その作戦の成否は、エレノアの双肩にかかっていた。


帝都の貴族たちが集う広大な練兵場。エレノアは、妹の指示通り、そこでわざと目立つように一人で剣の素振りを行っていた。その姿を見つけたシュタイン公が、待ってました、とばかりに取り巻きを引き連れて近づいてくる。


「これはエレノア様。その武勇、帝都の噂の的ですな。よろしければ、このシュタインに一手、ご指南願えまいか?」

丁寧な言葉遣いの裏に、「辺境の武神の実力、衆目の前で値踏みしてやろう」という明確な悪意が透けていた。


エレノアは、リリアの顔を思い浮かべた。

(『姉様は、光になってください。帝都中の蝶たちの目を、あなたという炎に引きつけて欲しいのです。その間に、私は影の中を動きます』)


「指南、か」

エレノアは、挑戦的な笑みを浮かべて振り返った。

「いいだろう。だが、帝都の装飾品のようなその剣で、私の相手が務まるのか? 怪我をしても泣くなよ、公爵閣下」


その傲岸不遜な物言いに、観衆の貴族たちがどっと湧いた。シュタイン公の顔が引きつる。二人は木剣を手に取り、練兵場の中央で対峙した。


打ち合いが始まると、エレノアはすぐに相手の実力を見抜いた。シュタイン公の剣筋は、確かに鍛えられてはいる。

だが、それはあくまで見せるための剣。生死を懸けたことのない、安全な場所で磨かれただけの、中身のない剣だった。


「ほう、さすがの速さですな!し かし、力任せだけでは、本当の強者には勝てませぬぞ!」

シュタイン公は、口先で揺さぶりをかけながら、エレノアを挑発し、彼女が感情的に暴走するのを誘おうとする。


(落ち着け。私がここで本気を出せば、こいつは一瞬で終わる。だが、それでは陽動にならない。時間を稼ぎ、注目を集め続けろ…!)

エレノアは、リリアの言葉を胸の中で反芻し、ギリギリのところで力をセーブした。彼女は猛獣の苛立ちを内に秘めながら、わざと大振りな剣を振るい、シュタイン公と互角の打ち合いを演じてみせる。


観衆は、二人の華麗な剣の応酬に熱狂していた。その熱狂の中心で、二人の剣が激しく交錯し、動きが止まった瞬間。エレノアは、シュタイン公にだけ聞こえる声で囁いた。


「公爵閣下。あなたの剣は、随分と軽いようですな。帝都の空気と同じで、見せかけばかりだ」


「なっ……!」

図星を突かれたシュタイン公の冷静さが、初めて揺らいだ。貴族としてのプライドを真正面から踏みつけられ、その瞳に怒りの色が浮かぶ。

「小娘が……!」


感情的になったシュタイン公の剣筋は、途端に雑になった。

エレノアは、その隙を見逃さない。

彼女は、シュタイン公が渾身の力で振り下ろしてきた剣を、柳に風と受け流すようにいなすと、返す刀で相手の木剣を軽々と弾き飛ばした。


カラン、と乾いた音を立てて木剣が宙を舞い、地面に落ちる。

静まり返る観衆。

次の瞬間、エレノアは踏み込み、無防備になったシュタイン公の喉元に、自らの木剣の切っ先を突きつけていた。


「……これで、終わりか?」


屈辱に顔を歪め、言葉も出ないシュタイン公を見下ろし、エレノアはわざと大きな声で言い放った。

「つまらんな。これでは、訓練にもならん」


エレノアは、目的を達したとばかりに、シュタイン公に背を向けた。そして、誰にも見えないように、空を見上げて静かに呟く。


「……しくじるなよ、リリア」


 ◇


その頃、エレノアが帝都中の注目を一身に集めている練兵場の熱狂から遠く離れた、帝都サンクロリアの裏通り。忘れられたような古い織物倉庫の二階で、リリアは静かにその男を待っていた。


やがて、軋む床板の音と共に、一人の男が闇の中から姿を現した。目立たない旅人のような装束だが、その動きには一切の無駄がなく、目は暗闇に慣れた獣のように鋭い。


「ラフェットの『傷だらけの牙』か。噂通りのご登場だな」

ガリアの密偵は、試すような視線でリリアを見つめた。

「このような場所に、護衛も一人とは。大した度胸だ」


リリアは、顔を覆うフードの奥で静かに応じた。

「私の護衛は、あなたが思うよりも近くにいます。そして、あなたもまた、この建物の周囲にご自身の仲間を配しているはず。無益な茶番はよしましょう。私たちは、互いに覚悟を持ってここに来たのですから」


その言葉に、密偵の目がわずかに見開かれた。この少女が、ただの姫君ではないことを瞬時に悟る。

「……よかろう。単刀直入に聞く。なぜ、我々と接触を? ヴァーレン帝国への裏切りか?」


「いいえ」

リリアはきっぱりと否定した。

「私はラフェットを、ひいては帝国を守るためにここにいる。あなたもまた、ガリアを守るために来たのではありませんか? 私たちの間には、まだ戦場で流れた血の匂いがこびりついている。ですが、その血を流させて、遠くからほくそ笑んでいる者たちが、この帝都サンクロリアにいるのです」


「……シュタイン公のことか」

密偵の口から、意外なほどすんなりとその名が出た。


「ご存じでしたか。ならば話は早い」

リリアは続けた。

「彼は、私たちがガリアと永遠に争い、共倒れになることを望んでいる。北方が疲弊すれば、彼が帝国の実権を握りやすくなる。あなた方の祖国も、終わりのない戦争で国力を消耗するだけ。彼の野心のために、これ以上私たちの民の血を流すのは、互いにとって無益ではありませんか?」


密偵は腕を組み、リリアの言葉を吟味していた。

「面白いことを言う。だが、なぜ我々がお前を信じなければならない? これは、我々を油断させるための罠かもしれん」


「信じるかどうかは、あなた方次第です」

リリアは、そこで一歩前に出た。そして、自らフードを少しだけずらし、黒い眼帯に覆われた右目を露わにする。薄暗い倉庫の中でも、その傷跡の生々しさは密偵の目に焼き付いた。


「この傷を私に負わせたのは、あなた方の同胞です。憎くないと言えば、嘘になる。ですが」

リリアの声は、静かだが、鋼のような強さを秘めていた。

「私個人の憎しみよりも、ラフェットの民の未来の方が、遥かに重い。だから、私は危険を冒して、ここにいるのです」


その覚悟は、どんな言葉よりも雄弁だった。

「私は、正式な停戦を求めているのではありません。ただ、一時的に北方を『静か』にしたい。シュタイン公が戦争を煽るための口実を、失わせたいのです。それは、ガリアの和平派にとっても、決して悪い話ではないはずです」


密偵は、長い沈黙の後、ふっと息を漏らした。

「……『傷だらけの牙』。その異名は、伊達ではないらしいな。分かった。その提案、確かに本国へ持ち帰ろう。おそらく、我々の主も、賢明な判断を下されるだろう」


交渉は、成立した。

遠くの練兵場の方角から、微かに歓声が聞こえてくる。エレノアが、陽動の役目を果たしてくれている証だった。


「お前の姉は、帝都の人気者らしいな。派手にやっているようだ」

密偵は、そう言い残すと、再び闇の中へと音もなく消えていった。


一人残された部屋で、リリアはようやく張り詰めていた緊張の糸を緩め、壁に背をもたせかけた。

(ありがとうございます、姉様……)

この危険な賭けを乗り越えられたのは、姉が光となって全てを引きつけてくれたからだ。姉への感謝と、安堵が、彼女の心を静かに満たしていく。この密会が、帝国の未来をどう変えるのか。その答えはまだ、誰にも分からなかった。



宿舎に戻ったリリアは、彼女を迎えたエレノアに心からの感謝を告げた。

「姉様のおかげです。あなたが表で光を放ってくれたから、私は影で動くことができました」

「……そうか」

エレノアは、短く応えた。初めて、自分が妹の知の戦いで役に立てた。その事実に、戸惑いながらも、確かな喜びが胸に込み上げてくる。自分は、ただの戦う道具ではない。妹を守り、共に公国を背負う、本当の「双璧」の一部なのだと。

二人の間にあった亀裂は、この共闘で静かに修復されていた。

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