18 霊が視えない霊能者の浄霊
「簪は戻った。これで未練なく旅立てるはずだ」
しかし、楓はまぶたを半分落とし、小さく首を横に振る。
「行き方が分からないのか?」
死んだ者がこの世に長くとどまり、然るべき時に上にあがらないと、自力では成仏できなくなることがある。
その区切りが四十九日だ。
この世にとどまり続けると、いずれ悪霊になることも。
「ならば、僕が上にあがるための道を開こう」
それでも楓は首を横に振る。
「待って伊月さん。楓さん、まだ何か言いたそう。悲しそうな顔をしてます。もしかして、まだ何か心残りがあるのかも」
そのせいで、この世から離れられないのかもしれない。
「だって、迎えに来ると言っていた真蔵さんはどこ? 彼がいないじゃないですか」
一空の服の袖を掴み、紗紀は何とかならないの、と目で訴える。
紗紀の切実なお願いに一空は苦笑する。
「分かっている」
再び一空は数珠を持ち上げ両手を合わせた。
「思う人が迎えに来るのを待っているのだな?」
楓はゆっくりと頷いた。
「真蔵さんは迎えに来られないの? 彼は今どこに?」
紗紀の問いに一空は眉を寄せた。
「少しばかり難しい状況のようだ」
「難しいって、真蔵さんは成仏したから?」
しかし、一空は否と首を振る。
「成仏してくれたならまだいい。男を呼び出してこの場に降ろせばいいのだから。そうではないから難しい」
紗紀の脳裏に最悪の状況が過ぎる。
「もしかして、真蔵さんは楓さんのことを忘れてしまった。あるいは、楓さんのことを好きではなくなった。だから迎えには来られなくなったの?」
だとしたら楓が気の毒だ。真蔵はたとえ他の女性を娶っても、心に思う女性はただ一人、生涯変わらず楓だけだと言っていた。
しかし、一空はどれも違うと首を振る。
「紗紀、墓前の後ろ、梅の木の下を視てみろ。何か感じないか?」
「ええと……」
言われるまま木の下を見るが、何も視えないし特に感じない。
霊感があるといっても、すべてが視えるというわけではないのだ。
「な……」
何も感じない、と言いかけた紗紀の両肩を背後から一空に強く掴まれる。
「視える筈だ。僕も手伝おう。一度目を閉じ、深呼吸してゆっくりとまぶたを開け」
え! え、え……。
いきなり何をするのだと思ったが、一空に言われた通り目を閉じ、深く息を吸って吐く。そして、目を開いた。
梅の木の下に、一人の若い男が立っているのが視えた。
「まさか、あの人が真蔵さん!」
肩越しに振り返ると、一空の顔が近くにあり、紗紀は慌てて顔を前に戻す。
「視えたか?」
紗紀は頷き、霊を視ることのできない一空のために、視えたものをそのまま説明する。
「和装姿の若い男の人が立っています。上質そうな着物……若旦那っていう雰囲気の。でも何て言うか、生気がないような。いえ、すでに亡くなっているのだから生気がないというのはおかしな表現だけれど、元気がない感じで、力なく両腕を脇に垂らして、目もどこか虚ろです」
「そうか」
「もしかして、一空さんはすでに真蔵さんを呼び出していたんですか?」
「呼びだしたのではない。彼は最初からそこにいた。どこへも行かず、ずっとその梅の木の下に」
「ならなぜ、目の前にかつての思い人がいるのに、彼は無反応なんですか? それに……」
「それに?」
「何だか今にも消えそうで、身体が透けているようにも視えます」
「やはりな」
やはりとは? と紗紀は首を傾げる。
「然るべき時に上にあがらないと自力では行けなくなることがある。そして、このままこの世にとどまり続けたら」
「悪霊になる、ですね!」
「あるいは、消滅」
「そんな」
「男は亡くなってからも長い間、かつての恋人が来るのを待ち続けるため、この世にとどまっていた。悪霊にこそなることはなかったが、姿が薄れ自我も消えかけている」
紗紀ははっとなって口に手を当てた。
「楓さんのことを待ち続けていたせいで」
「生きている人間でも生命力の弱い者や強い者もいる。死者も同じ。あの男、己の意識がまだ残っているか怪しいな。このままだと、間違いなく消える」
「そんな、せっかく楓さんが側にいるのに、どうにかしてあげられないのですか!」
一空に向き直った紗紀は、ひしっと相手の腕にすがるように掴んだ。
必死な顔をする紗紀をしばし見下ろした一空は、不敵な笑みを浮かべた。
「僕を誰だと思っている」
「超人気凄腕霊能者! 伊月一空さんです!」
紗紀の手を解き、一空は梅の木の下まで歩んだ。
「真蔵といったな。僕の声が聞こえるか?」
しかし、一空に呼びかけられても相手はいっさい反応を示さない。それどころか、愛する恋人が目の前にいても分からないのだ。
「ずっと、ここで待っていたのだな。約束を果たすため、どこにも行かず長い間その場所に。その気になれば、彼女をあの世へと連れて行くこともできた。だが、そうはせず、彼女が寿命をまっとうするのを待ち続けた。辛かっただろう。寂しかっただろう」
すると、真蔵の目から一粒の涙がこぼれたのを紗紀は見る。
「泣いてます! 涙を流してます」
「弱々しいが、まだかろうじて意識はある。これならいけるかも。〝コウキ〟いるか?」
こうき?
木の下にいる真蔵を見つめたまま、一空はこの場にはいない何者かに呼びかけ、命じる。
これも後で聞いたのだが〝コウキ〟とは一空が使役する眷属の一人である。そういった眷属を一空は何体も持ち、霊能者としての仕事を手伝ってもらっているのだ。
「この男の意識に入れ。やることは分かっているな?」
一方、何が起きようとしているのかさっぱり理解できず、戸惑いながら紗紀は一空と真蔵を交互に見る。
すると、それまで弱々しくうなだれていた真蔵の目が、ひたっと墓前の横に立つ楓に向けられた。その表情に徐々に生気がよみがえる。
『楓さん、約束通り迎えに来たよ。僕が贈った簪を髪に挿してくれているのだね。ああ、まだ、僕のことを思っていてくれた』
穏やかで優しい笑みを浮かべ、真蔵は楓に手を差し伸べた。
楓の目に、涙が盛りあがりあふれて頬に流れ落ちる。そんな楓の肩を包み込むように真蔵は抱きしめた。
もう絶対に離さないというように。
『この世では無理でも、あの世で二人一緒に幸せになろう』
ふわりと風が吹き梅の花びらが虚空へと躍るように舞い、抱き合う二人を包み込む。
舞い散る梅の花に包まれながら、二人の姿がふっとその場から消えた。
消えていく瞬間、紗紀に向かって楓が微笑んだのを見たような気がした。
「二人とも消えました」
楓の少女のような笑みが心に残る。
長い月日を越え、ようやく二人の思いは重なった。
「どうやら旅立ったようだ」
一空は再び手を合わせ、経を唱える。
優しく、そして力強く、心が洗われるような一空の経に、知らず知らず紗紀の目に涙がこみ上げてきた。
泣くつもりなんてなかったのに、涙が止まらない。
嫌味な感じで、最初は冷たい嫌な奴だと思っていた。けれど、彼が上げるお経は温かくて、いつまでも聞いていたいような心地よさがあった。
経が終わり一空が振り向いた。
「泣いているのか?」
「べ、べつに! 二人が出会えてよかったなと思っただけよ」
一空はふっと笑った。
「何ですか、その笑い。やな感じ……」
突如、勢いよく風が吹いた。
いっせいに梅の花びらが青空に舞う。
花びらの行方を追うように、紗紀は空を見上げた。
こんな不思議なこともあるんだね。
そんなことを思い、隣に立つ一空を見つめた。
霊が視えない霊能者か。
一空の横顔にかすかな笑みが浮かんでいたのを見た紗紀の胸がとくん、と小さな痛みを伴って鳴った。
紗紀は胸に手を当てる。
本当は思っていた程、嫌な人ではないのかも。
むしろ……。