14 今だけは恋人設定
「──き……紗紀?」
名前を呼ばれ、肩を揺すられる。
「え?」
我に返ると、隣で一空が心配そうな目でこちらを覗き込んでいた。
肩に置かれた一空の手と、間近にある端整な顔に、紗紀は胸をドキリとさせる。
「泣いているのか?」
「泣く?」
慌てて指先を頬のあたりに持って行く。
自分でも気づかずに涙を流していた。
「あらやだ、どら焼きを食べて泣くなんて。この子ったら、よほどおいしかったのね」
祖母が口元に手を当て、呆れたように笑った。
「あはは、そうかもね。おいしすぎてね」
笑いながら言って、紗紀は涙を手の甲で拭った。
「大丈夫か、紗紀。呆けた顔をして。疲れたか?」
肩に置かれていた一空の手が、今度は頭に触れ優しく撫でられる。
またしても胸がトクンと波打った。
なに? 今まで見せたこともない優しい態度。
彼氏設定だから?
「うん、少し疲れたかも。でも、大丈夫」
紗紀は写真から手を離した。
それにしても、今の光景は何だったのだろう。
夢? ううん、違う。
まるで、脳裏に楓と真蔵、二人のやりとりが映像として流れていく感じであった。
女性は曾祖母の楓。そして、男は楓が愛したけれど、結ばれなかった男性だ。
その時、壁の時計が鳴った。
時刻を見ると午後六時。外はうっすらと夕闇が落ち始めている。山に囲まれたこの田舎では日が落ちれば、すぐに宵闇が迫り辺りは真っ暗となる。
「おや、もうこんな時間。夕飯にしましょうかねえ。たいしたものはないけれど、一空さんも食べていきなさい」
「ありがとうございます。遠慮なくいただきます」
「一空さんはお酒は好きかしら?」
「はい、とても」
トキはくすくすと笑う。
「おい、ばあさんや、あれだあれ。あのとっておきのあれをだしなさい」
無口だった祖父があれあれ、と言ってトキに指示をする。
「はいはい、分かっていますよ。あれですね。とっておきのお酒ですね」
物怖じしない一空の態度に、祖父は気をよくしたようだ。
好印象なイケメンは、誰の心も許してしまうのか。
「では用意しましょうね。そうそう一空さん、今日は泊まるところは決まっているのかしら?」
「いえ、これから探そうと思っているところです」
「だったら、うちに泊まっていきなさい。部屋だけはたくさんあまっているから」
「え?」
一空がここに泊まると聞き、紗紀は慌てる。
まさか、こんな展開になるとは。
「伊月くんと言ったな? そうしなさい。ばあさん、新しい敷布や毛布があっただろ? それを出しなさい。風呂は沸かしてあるのか。まだ袖を通していないわしの寝間着があったろう?」
祖父もご機嫌だ。
一空のことが気に入ったらしい。
「はいはい、分かっていますよ。だけど、おじいさんの寝間着を伊月さんが着たら、窮屈かもしれないわねえ」
窮屈かもではなくて、間違いなく窮屈だから。
それにしても、一空が泊まることに紗紀が反対する余地はなさそうだ。
「では、お言葉に甘えて」
本当に泊まっていく気!
「宿、とっていたんじゃないの?」
「いや、まだだが」
それが何だ? と言わんばかりの一空の態度に、紗紀はぽかんと口を開ける。
少しは遠慮してよ。
「ご飯の用意するから、待っていてくださいね」
トキはうふふ、と嬉しそうに笑いながら立ち上がり、台所へと向かう。が、すぐに振り返り、祖父に向かって手招きをする。
「おじいさん、こっちに来て手伝っておくれ」
「なんでわしが」
「いいから!」
と、言いながらトキは紗紀と一空を交互に見る。
「ん? ああ……」
トキの思惑を理解した祖父は、よっこいしょ、と言って立ち上がり、トキの後に続いて部屋から出て行った。
部屋に二人きりで残され、会話もなく気まずい沈黙が落ちる。
一空は湯飲みに手を伸ばしお茶を飲む。
どこにでもある、ありふれた湯飲みに普通のお茶っ葉。けれど、一空が飲むと、さまになるのが不思議であった。
座卓に正座で座り、背筋を伸ばした姿勢も美しい。
伊月さんが私の田舎にいるなんて変な感じ、と思っていた紗紀は不意に重要なことに気づきはっとする。
「そういえばさっき、私のことを紗紀って名前で呼ばなかった? それも呼び捨て。呼んだわよね!」
「恋人なのだから、問題ないのでは?」
「こ、こ……恋人!」
「トキさんが言った」
「否定してよ。勘違いされたら困るじゃない」
「別にそこまでムキになることもないだろう。ここにいるだけの間なのだから」
「まあ、確かにそうだけど……」
と、小声で呟き紗紀は湯飲みに残ったお茶を飲み干した。