9-8「絶望の底で名前を呼ぶ」
刃こぼれした剣を見つめる瞳に、いくつもの悔恨が去来する。
旅立って間もない頃に出会い、まともに使いこなせなかったが、ドワーフの里で鍛え上げられ、幾多の死線を共に越えてきた伝説の剣。
もしも自分ではない、もっと相応しい勇者の手に握られていたならば、無様に欠けることなどなかったのではないか。
鏡のように磨かれた剣身に映る己の顔は、ひどく憔悴し、死相すら漂わせている。
戦場という極限の淵で、心の奥底に沈殿していた暗い泉から、弱音がとめどなく溢れ出す。
まだ足を引っ張るのか。
まだ過去の弱さに甘えるのか。
剣と共に、心までへし折れてしまったのか。
刹那、脳裏に「在り得たかもしれない未来」の情景が灯る。
――ナナミと並んで歩く、平和な街の石畳。
――くだらない冗談で笑い合い、怒られ、不器用に仲直りをする日々。
――冬の朝、湯気の向こうで焼きたてのパンを分け合う、ありふれた幸福。
その全てが、手の中の欠けた刃と同じように、パキリと音を立てて砕け散った気がした。
陰鬱な感情が支配する。
ナナミに「来るな」などと格好をつけておきながら、彼女の加護がなければ、とっくに魂ごと消し炭になっていただろう。
ボロボロになるまで酷使させ、庇わせ、あまつさえ命を削らせ、ピィという犠牲まで払わせて。
それでもなお、彼女を想えば、胸の奥にどうしようもない熱が灯る。
折れかけた心を、無理やり叩き起こす。
「終わりか?お前が倒れたのなら、もうアストリアは破滅させる」
ゼロの声は、絶対零度の氷のように無機質だった。
だが、その響きの底には、触れれば凍りつくような粘着質な狂気が絡みついている。
「……っ」
自分の命一つを差し出すことで、全てが終わるならそうしたい。
今にも地に額を擦り付け、懇願したいくらいだった。
諦めて、楽な道を選び、逃げ続けてきた人生だ。
そう簡単に本質など変われるはずがない。
灰の瞳など持って生まれなければ、名もなき一市民として、平凡に生きて死んだはずなのに。
「諦めきれたら、楽だったのになぁ」
自嘲と共に言葉が漏れる。
もうとっくに手遅れなのだ。楽な道になど戻れない。
全ては、この少女と出会ってしまったから。
何もない空っぽの自分に、彩りと温もりを与えてくれたから。
漠然としていた未来に、明確な「希望」という名の呪いを抱いてしまったから。
諦めない理由は、それだけで十分すぎるほどだった。
軋む膝を叱咤し、剣を地面に突き立て、ロイが立ち上がる。
折れてなお、刃は鈍く光る。
それは剣の輝きではない。持ち主の瞳が、まだ死んでいないからだ。
「なぁ、教えてくれよ。なんでゼロの姿で現れたんだ」
意外にも、ゼロは対話に応じた。
あまりにもあっけらかんと。
魔族の王とは思えぬほど、軽薄に。
先刻までの世界を圧し潰すような威圧を、まるで他人事のように手放して。
「なんでも何も、僕はゼロで、ゼロは僕だ」
ゼロの唇が緩やかに、三日月のように歪む。
笑っていないのに、顔の筋肉だけが笑いの形を作っている。
人間の表情を模倣しながら、奥に潜む「人ではない何か」が透けて見える。
「封印されてたはずのお前が……! なんで俺たちに近づけたんだ!」
「僕の魔法で作った分身に行かせればいいだけだ。それに僕の魂は各地に散らばっていた。お前たちを見つけるのは造作もない」
ゼロが細い指先を虚空へ上げると、足元の影がぐにゃりと揺らいだ。
ボコボコと沸騰する泥のように、“ゼロの形をした肉塊”が床から這い出す。
心臓が早鐘を打つ。胃液が喉までせり上がる。
それは笑顔の形をして、「目」が存在しなかった。
「敵情視察とでもいえばいいか。どんな人間が僕を滅ぼしに来るのか、ちゃんと見ておくべきだろ。灰の瞳の勇者が生まれたら、必ず会いに行ったよ。本当にアストリアを救うのに相応しいか、試すために」
ロイの喉が、引きつった音を鳴らす。
「お前が……他の勇者たちを……」
激しい動悸が胸を叩く。
歴史上、自分の前にも何人もの「灰の瞳の勇者」が存在したことは知っている。
自分よりも高潔で、才能に溢れ、屈強な肉体を持った勇者たちだったことも。
ずっと疑問だった。
それほどの傑物たちが、なぜ各地に散らばる魔王の魂を破壊するに至らず、若くして命を散らしていったのか。
なぜ、志半ばで女神エデルの御許へ旅立ってしまったのか。
ゼロは無感動なまま告げた。
「本当に肩透かしだったよ。魔法で作った僕を模した肉塊ごときに、皆殺されてしまった。マルザフィリアを向かわせるまでもなかった」
笑っていないのに、笑っていた。
嬉しくなさそうなのに、歓喜しているように見えた。
そこにあるのは、命への冒涜と、絶対的な強者の驕り。
ロイは言葉を失った。
歴代の勇者たちはーー
旅立って間もなく、まだ世界の実情を知る前に、希望を抱く前に、この不気味な分身によって屠られていたのだ。
遠くで聞いていたナナミの肩が、小刻みに震えている。
「……」
ゼロが糸で引かれたようにカク、と首を傾げる。
「お前達には期待していた。マリナがついていたし……ああ、でも僕はマリナに祝福したはずだ。それなのになぜ呪われている? なんでだ?ナンデ?どうして?なぜ?」
声が次第に歪み、最後には硝子を爪で引っ掻いたような不協和音となって裂ける。
瞬間、大気が悲鳴を上げた。
狂乱したゼロが漆黒の衝撃波を放つ。
反応すら許されず、ロイは枯れ葉のように吹き飛ばされた。
世界がぐにゃりと傾き、鼓膜が破れんばかりの耳鳴りが脳内を蹂躙する。
「っぐ……ぁっ……!!!!」
恐怖に震えうずくまるナナミの足元まで、石ころのように転がる。
地面に鮮血の花が咲く。
ライラックの瞳が限界まで見開かれた。
「ロイ、ロイ! ああ、ロイ……!」
一歩、また一歩。
ゼロがゆっくりと近寄ってくる。
足音が重なり合って響き、背後の影が異様に長く伸びて二人を飲み込もうとする。
歩みは緩慢なのに、逃げ場を完全に奪うような圧迫感。
「なぜお前はマリナの姿形をしている?ナナミとはなんだ?」
魔王から発せられる問いは鋭利な刃だった。
ナナミの心臓に深く突き刺さる。
かつて犯した罪、背負った業を、無遠慮に抉られる痛み。
「……っ!!!」
ゼロの問いに答えることなく、血塗れのロイを抱き寄せながら、ナナミは手をかざし、極大の魔法を解き放つ。
大地が震え、魔力の奔流がゼロへ向かって叩きつけられた。
「今のは少し効いた」
ゼロは服の埃を払うように、淡々と評価しただけだった。
涙が滲み、視界がぼやける。
怖い。何もかもが恐ろしい。
自分を通してマリナを見ている狂気も、魔王から向けられる歪んだ愛も、腕の中にある温もりが消えつつある現実も。
「私は伝説の魔女マリナの子孫、最後の魔女、ナナミ・マチルダよ!あなたのマリナではない!」
恐怖を振り切るために、さらに魔法を放つ。
休む間もなく、ありったけの魔力を叩き込み続ける。
そのたびに回路が焼き切れ、体が悲鳴を上げるが、止めるわけにはいかない。
ロイの胸に手を添えたとき、理屈を超えた奇跡が溢れた。
祈りの形にすらならない、魂からの必死の願い。
「お願いだから生きて。お願いだから、置いていかないで……」
身が裂けるような痛みに慣れたとはいえ、辛くないはずがない。
けれど痛みがなければ、精神が崩壊してしまいそうだった。
だから痛みを抱きしめるように魔力を燃やした。
女神にではなく、腕の中の青年に祈りを捧げ続けた。
ゼロの瞳が、獲物を見つけた爬虫類のように細められる。
「ああ、そうか。でもマリナと血は通っているのならば、また作り直せばいい」
ドオオオン!
ゼロが指先一つで弾いた魔法は、ナナミの全力攻撃を倍加して跳ね返した。
分厚く展開した光の障壁が、硝子細工のように粉砕される。
砕片が光の雨となって降り注ぎ、焼けるような衝撃がナナミの華奢な体を貫いた。
地面に叩きつけられ、肺から空気が強制的に排出される。
「中身はいらない。綺麗に取り出してやる」
伸びてくる漆黒の影。迫りくる死の気配。
ゼロの蒼白な手が、ゆっくりと彼女の喉元へ向かう。
「愛しているよ、マリナ。もう一度、僕の元へ」
その寸前。
よろよろと、血濡れの影が立ち上がった。
回復の奇跡を使ったとしても、到底癒せるはずのない深手。
息は荒く、全身が血と泥に塗れているのに、それでも笑おうとしている。
「行かせない。ナナミには指一本触れさせない」
刃の欠けた剣を握り構える。
決して強そうには見えなかった。
足は震え、構えは崩れている。
だが、誰よりも揺るがなかった。
胸の奥で、ドス黒い嫉妬が疼く。
――愛している?
この狂った魔王に、彼女を、思い出を、未来を奪われるなど、我慢ならない。
ナナミが地面に伏しながら、息を呑んで傷だらけの背中を見つめる。
ゼロがふっと動きを止め、虚空を仰いだ。
「まだ、立つか。……あの忌まわしい女神のせいか」
暗闇に染まる天井なき空を、ゼロは見上げた。
遠く、懐かしむような、奇妙な声音。
「女神に干渉させないように閉ざしているのに。それでも声を探して探して、手探りで奇跡をこぼしている」
声には、かすかな寂寥が混じっていた。
女神エデルがいるであろう彼方を空の瞳で見つめたあとで、かつて愛し、そして憎んだ魔女の名を呟く。
「……マリナ、僕たちは見放されたのになぁ」
その名を口にした瞬間だけ、ゼロは慈愛に満ちていた。
だからこそ、底知れぬほど残酷だった。
「でも煩わしいな。もう。早急に終わろう。僕はマリナさえいればいいんだ。抜け殻でも、血肉だけでも」
ロイの灰の瞳が、爛々と煌めいた。
恐怖を塗りつぶし、己を鼓舞するために、わざとらしく口の端をニィッと歪めてみせる。
「俺も、“ナナミ”を守るためならなんでもするって決めてるんだ」
折れた剣でもいい。
折れかけた自分でもいい。
世界なんて、そのついででもいい。
勇者だからじゃない。
――俺だからだ。
一人の男として、一人の女を愛しているからだ。
ロイの言葉を聞いた瞬間、ナナミの視界が涙で滲んだ。
優しくて、甘い痛みが胸を駆け巡り、熱が凍りついた四肢を奮い立たせる。
「ロイ……」
彼女の指が震える。
触れれば壊れてしまいそうなほど、それでも、確かにそこにあった絆。
二人が互いを見つめ合った瞬間。
止まっていた世界が、再び動き出した。




