9-6 「灰燼の祈りは届くのか」
ぜえぜえ、と。
崩落した天井から差し込む極微かな光が、荒れ果てた瓦礫の聖域を亡霊のように照らし出していた。
二人の喉から漏れるのは、呼吸というよりは生存をかけた鞴の軋みに近い。
焼き切れる寸前の肺が酸素を渇望し、心臓は肋骨という檻を内側から叩き壊さんばかりに狂った早鐘を打っている。
白い肌を浸食する漆黒の蔦――呪痕は、またしてもナナミの顔半面を完全に覆い尽くし、残された白磁の領域を飲み込まんとしていた。
だが、奇跡的に「瞳」の光だけは濁っていない。
自我の崩壊、魔への堕落。
瀬戸際で踏みとどまっているのは、誰かが紡いだ絆の言葉か、あるいは彼女自身の魂が持つ強靭な核のせいか。
時折、麻痺が這い上がるのか、彼女は掌を何度もぐっぱと握りしめ、自身の感覚と存在の輪郭を確かめている。
しかし、運命の砂時計は残酷なまでに残量が少ない。
彼女が完全に闇へ融解し、ナナミがナナミ以外の人の形をした「何か」に成り果てる前に、この悪夢に終止符を打たねばならない。
「魔王本体に、攻撃は通じない……みたいね」
「カウンターは食らうけど……やっぱ、狙うなら鏡だな」
「もう一度……!」
「ああ!」
ナナミの掌から、残存魔力を練り上げた極光が迸る。
闇を穿ち、爆ぜる閃光。
その輝きを視界の遮蔽とし、ロイが疾風のごとく踏み込んだ。
踏みしめる石畳が砕け、疾風の剣閃が走る。
残された最後の一枚。魔王を守護する「鏡」の中央一点を、切っ先が捉えた。
バキンッ!
鼓膜を震わせる硬質な破砕音。
分厚い氷壁が崩れ落ちるような、重く、確かな破壊の手応えが掌から脳髄へと伝播する。
絶対防御の障壁は崩れ去り、魔王の本体が無防備に晒された。
闇の奥底から、怨嗟とも苦痛ともつかぬ絶叫が轟き、空間を震わせる。
「グオオォオオオオアアアアッ!!!!!」
「やったのか……!?」
ロイは顔を上げ、汗と血に塗れた顔に歓喜の色を浮かべた。
勝利の確信。
極限まで張り詰めていた神経が弛緩し、強張っていた肩から力が抜け落ちる。
しかし、隣に立つナナミの瞳だけは、まだ戦場の冷厳さを失ってはいなかった。
「……いいえ、まだよ!」
彼女は即座にロイへと向き直ると、自身の髪に大切に飾っていたマーメイドパージュを引き抜いた。
海の加護を秘めた美しい真珠。
迷うことなく、それをロイの髪へと押し付ける。
直後。
世界が、スローモーションのように引き伸ばされた。
魔王の絶叫は断末魔ではなかった。
更なる破壊の産声を上げるための、禍々しい前奏曲。
砕け散ったはずの鏡の破片が、重力を無視して空中で停止し、切っ先を二人へと向けた漆黒の流星群へと変貌する。
目で追うことさえ許されぬ神速の豪雨。
だが、ナナミだけは瞬時に反応していた。
目にも止まらぬ早さでで祈りを唱え、多重の光壁が辺りに展開された。
しかし、魔王が放った憎悪の奔流は、人の子が編んだ理など薄紙のように貫通する。
致死の黒光が、ロイの心臓めがけて一直線に迫る。
回避は間に合わない。
死の冷たさが肌を撫でた、刹那。
視界を柔らかな影が覆った。
「ーーっ!」
鈍く、湿った音が響く。
ナナミの背中から、鮮血の花が咲き乱れた。
彼女は迷うことなく自らの肉体を盾とし、ロイへ迫る死を受け止め、一直線に心臓を、貫かれた。
「ガハッ……」
唇から吐き出される、毒々しいまでに鮮烈な赤。
見開かれたライラックの瞳から、命の灯火が急速に吸い出されていく。
支えを失った体が、糸の切れた操り人形のように重力に従い、ゆっくりと崩れ落ちる。
「ナナミーーーーーーーッッッ!!!!」
ロイの絶叫が、血で染まった世界を引き裂いた。
駆け寄り、抱き留めたその体は、あまりにも軽く、恐ろしいほどに冷たかった。
胸の傷から溢れ出し、ロイの手を濡らす液体だけが温かい。
生温い命そのものが零れ落ちていくのを、止める術など、どこにもない。
「……ピピィーーーーーーーッッッ!!!!」
ロイのマントのフードの中で、いつも震えて隠れてばかりだった小さな温もり。
小鳥のピィが、聞いたこともないような悲痛な啼き声を上げ、虚空へと飛び出した。
***
ゴォーン、ゴォーン……
どこか遠く、意識の境界で、終わりを告げる弔いの鐘が鳴り響いている。
あるいはそれは、ロイ自身の心臓が奏でる、絶望の律動だったのかもしれない。
途端に、世界の時が凍結した。
視界から色彩が剥落し、セピア色の静寂が万物を支配する。
舞い散る瓦礫も、空中に噴き出した血飛沫も、全てがガラス細工のように静止した絵画の中。
ただ一つ、ナナミが散らした命の赤だけが、鮮烈な彩度を保ったまま網膜に焼き付いている。
いやだ、いやだ、いやだ。
心が獣のように咆哮しても、肉体は金縛りにあったかのように指先一つ動かない。
ふと、目の前の空間に、まばゆい金色の光が凝縮し始めた。
光の繭が弾け、現れたのは優美な尾羽をなびかせる、神々しい大鳥。
「ピィ」
まさか、ピィなのか?
問いかけは声にならず、心の中で響く。
呆れたように鼻を鳴らしたその鳥は、御伽噺でしか聞いたことのない、深淵に語られる伝説の存在。
不死鳥。
色を失い、凍結した時間の中で、ピィだけが悠々と黄金の翼を広げ、舞っている。
やがてピィは空中に固定された瓦礫の上に優雅に降り立ち、心臓を貫かれた魔女と、絶望に顔を歪めた勇者を見下ろした。
『永い間、ずっと見てきたのに、生まれるのに随分と時間がかかってしまった』
「おま、え、その姿……!? しゃべ、人間の言葉を喋れるのか!?」
ロイの脳裏に、直接響く声。心の中で思ったことをピィは拾いあげ、都度返してくれた。
「私を誰だと思っているんだ!」と言わんばかりに翼を大きく広げ、威圧する。
だが、威容に恐怖は微塵も感じない。あるのは圧倒的な「生命」への畏敬。
『こンの朴念仁!私は偉大なる不死鳥ぞ!次こそ生まれし時に変な名前をつけたら容赦しないからな!この小娘もだ!無遠慮に何度も何度も神聖な私を鷲掴みにしやがって!』
口調は乱暴なれど、揺れる金色の瞳は慈愛の海を湛えていた。
ピィはナナミの元へ舞い降りると、弱々しく愛おしげに、コツンと嘴で冷たくなりかけた彼女の額をつついた。
『この娘は、私の命をもって、現世に繋ぎ止めよう。本当は最後の最後の切り札として取っておきたかったが、致し方ない』
ピィの言葉に、時と共に止まっていたはずの心臓がドクリと激しく高鳴った。
命をもって?
それはつまり、ピィの完全なる消滅を意味する。
「ぴ、ピィ!待ってくれ!ピィ!みんな生き残る道はないのか?このまま時を止めてくれれば考える時間はいくらでも……」
ピィだって、ロイにとってかけがえのない相棒だ。
卵から孵し、共に旅をしてきた家族のような存在だ。
どちらかを選べなどという残酷な天秤に、魂を乗せられるはずがない。
そんなロイの未練と優柔不断を見透かしたように、相棒は有無を言わさなかった。
『さらばだ、相棒よ。なかなかに外の世界は楽しかったぞ』
「……ッ!」
『世界を正せ。勇者ロイ、お前にならできる』
本来、不死鳥は永劫の輪廻を生きる超越者。
灰となっても、何度でも炎の中から蘇る。
だが、ピィの場合は成長にかける時間をあまりにも早めすぎた。
未熟なまま覚醒し、全ての生命力を他者へ譲渡すれば、代償として永い永い眠り――あるいは永遠の無へと帰することになる。
ピィの輪郭が揺らぎ、まばゆい光の粒子へと分解されていく。
魂が洗われるような清冽で美しい輝きは、温かく、優しく、ナナミの胸に開いた空洞へと吸い込まれていった。
神々しい不死鳥が完全に消失した瞬間、世界の歯車が再び噛み合い、時計の針が動き出す。
「ッ、あ……!」
何も掴めずに、ロイの手は虚しく空を切った。
抱き留めていた腕の中で、骸になりかけていた少女が、激しく咳き込んだ。
「ゲホッ、ゲホッ……!」
ナナミが朦朧としながら、風穴が開いていたはずの胸元をさする。
そこは傷跡ひとつなく塞がっていた。
それどころか、失われたはずの血色が戻り、体が羽毛のように軽い。
遠くで、すごく生意気な顔をした鳥に文句を言われた気がしたけれど、あれは夢だったのだろうか。
困惑する彼女を見て、傷だらけの顔を涙でぐしゃぐしゃにしたロイが呟いた。
「ピィが……ナナミを助けてくれたんだ」
「……!ピ、ピィは……どこに……」
「ナナミの中に……いる」
「…………!」
ナナミは息を呑んだ。
さよならも告げずに消えたピィは、たくさんの奇跡をもたらしてくれていた。
進行する呪いを最小限に抑え、傷を癒やし、心の摩耗さえも密かに回復させてくれていたのだ。
自らの存在を代償に、命を分け与えてくれた。
神獣にしか成しえない奇跡。
なんで、どうして。
溢れ出しそうになる慟哭を、唇を噛んで堪える。
たしかに太々しいとさえ思った日もあった。食いしん坊で意地っ張りで、プライドの高い小生意気な小鳥だと思うこともあった。
けれど、温かい安らぎを与えてくれた、優しい子だった。
もう二度と、あの愛らしい姿に会えない。
そう認識した瞬間、楽しかった些細な記憶ばかりが走馬灯のように駆け巡る。
「ピィ、ああ、ピィ……ごめんなさい。ありがとう。あなたにもらった命、必ず、無駄にしないわ」
ナナミは胸に手を当て、深く俯いた。
そして、顔を上げる。
その表情に、ロイは息を呑んだ。
凪いだ湖面のような瞳に、決して揺らぐことのない烈火の光が射している。
滅多に見せない、感情を剥き出しにした人間らしい表情。
本当に魂ごと生まれ変わってしまったかのように、いつも水のように冷静な彼女の内側から、灼熱の想いが滾っていた。
ナナミは天を仰ぎ、叫んだ。
祈りなんて神聖なものではない。運命への宣戦布告。
「偉大なる光の女神エデルよ!彼のものの傷を癒やし力を貸したまえ!……もっと速く、もっと強く、もっと護りを!いるならさっさと力を貸しなさい!女神エデル!」
信仰にあるまじき、恫喝に近い叫び。
女神エデルの奇跡を乞う際、回復士は誰よりも恭しく、己を卑下し、丁寧に愛を込めて詞を紡ぐのが常識だ。
さもなくば、神の寵愛など降り注ぐはずがない。
神に対し、これほど不敬な命令口調で語りかけ、あまつさえ力を要求する者など、歴史上存在しただろうか。
しかし――女神エデルは応えた。
闇に閉ざされた雲の隙間を縫って、天から極光の柱が降り注ぐ。
驚きに目を丸くするロイの身体を、奔流のような温かな光が包み込んだ。
深手の傷がみるみる塞がり、枯渇していた魔力と体力が、腹の底から湧き上がるように回復していく。
満身創痍が嘘のように、全身に力が漲る。
「ピィがくれた最期のチャンスよ……! 絶対にここで魔王を仕留めてみせる」
「ありがとう。そうだ……そうだな! やるしかない!」
ロイは溢れる涙を乱暴に拭い、伝説の剣を強く握り直した。
迷いはない。背負った命の重さが、なまくらになりかけた心を鋭く研ぎ澄ませる。
「……お願いよ。最期の……チャンスなの」
祈るように閉じられたナナミの胸に触れる手。
ポツリと吐かれた言葉は、静かに穢れた大地に染み込んでいった。
***
全ての鏡を破壊され、苦しみにのた打ち回っていた魔王の影が、再び蠢き始める。
周囲を覆っていた濃密な瘴気が、徐々に晴れていく。
不定形だった影が収束し、ひとつの明確な形を成していく。
その姿を目にした瞬間、ロイとナナミは言葉を失った。
思考が真っ白に停止する。
あってはならない。そんな筈はない。
消えゆく姿を、この目で、仲間たち全員で見送ったのだから。
「「…………!!?」」
瘴気の中から現れたのは、短い期間であったが共に旅をし、笑い合った神官の姿。
「「ゼロ……!?」」
あの時と同じ穏やかな顔立ち。
しかし、瞳だけが光を吸い込む底なしの虚無を映していた。
「やぁ!久シぶりデスね。ボクはこんなしゃべり方でしたデしょうか?」
彼は、魔王だと思っていた災厄は、ゼロの姿を模して――いや、ゼロそのものとしてそこに立っていた。
定まらない口調、継ぎ接ぎのような自我。
壊れたレコードのように歪な在り様が、かえって不気味さを増幅させる。
「そんな、だって……あなたは、私が……」
驚愕に目を見開くナナミ。
あの日、あの時。確かにナナミはゼロの肉体も魂も昇華させたはずだ。
手のひらから砂のようにすり抜けていった魂の感触を、今でも鮮明に覚えている。
彼を殺したという十字架を、一生背負う覚悟でここまで歩んできたのに。
まさか、彼が魔王だったなんて。
信じられない。信じたくない。
ゼロの姿をした魔王もまた、困惑に顔を歪めていた。
永い、あまりにも永い封印の時。
自我が摩耗し、記憶が彼方へと霞んでしまうほどの孤独。
けれど、魂の奥底に焼き付いた感情だけが、腐らずに疼く。
愛おしい。
目の前の少女が、かつて愛し、自分を封印した魔女の姿と重なる。
自分を苦しめた全ての元凶であり、唯一の光であった愛しい魔女が、二百年の時を超えて再び目の前に立っている。
「マリナ、マリナ……!愛しいマリナ!どうしてオレを封印なんてした?あれ?オレ?ボク?」
縋るような視線。甘ったるく、粘着質な愛憎。
ナナミは恐怖に全身を震わせ、首を激しく振った。
色々な感情がないまぜになり、心が崩壊しそうになる。
怖い。知らない。私は何も知らないのに。
なぜ、誰も彼もが私を通して「彼女」を見るのか。
「……違う!違う違う違うっ!私はナナミ!マリナじゃない!私はあなたを愛してなんかいない!」
耳を塞ぎ、悲鳴を上げてしゃがみ込むナナミ。
「ナナミ、落ち着くんだ!」
錯乱する彼女を、ロイが強く抱きしめた。
体を捩って逃れようとする彼女を、決して離さないように、さらに強く腕に力を込める。
僅かな体温で、彼女を「今」に繋ぎ止めるために。
「君に封印されてからの日々はとても永かった。ああ、だんだんと記憶が蘇ってきた。
マリナ、そいつと逃げ出したかった?だから僕を裏切ったんだな」
ゼロの顔が、嫉妬と憎悪で醜く歪む。
かつての穏やかな神官の面影は、そこにはない。
「やめろ!こいつはマリナじゃない、あれからもう二百年も経ってるんだ!」
ロイが叫ぶ。
そのはずだ。伝承だってある。何度もそうやって聞いたことがある。
魔女マリナが魔王を封印してから二百年もの時が流れている。
二百年前に生きていたマリナが、今のナナミであるはずがない。
分かっている筈なのに、心のどこかに小さな棘が刺さる。
何度も脳内に流れ込む、子供の頃に出会った魔女マリナの記憶。
夢と言うには鮮明すぎて、現実と言うには朧げな白昼夢。
何より、ナナミ自身の素性。
どこで生まれ育ったのかも分からない、伝説の剣と共に宝箱の中にいた少女。
マリナの子孫で魔法が使えるが、自ら呪われて魔法が使えるようになったという事実。
ロイは首を振る。
今はそんな疑念に囚われている場合ではない。
考えれば考えるほどに、底なし沼に引きずり込まれそうになる。
兎にも角にも目の前の敵は、かつての仲間であり、世界を滅ぼす魔王なのだ。
「いいなぁ、ソレ!」
魔王ゼロが、無邪気な子供のように笑った。
彼は先ほどのピィの献身、奇跡の光景を反芻し、あろうことか理を魔法で模倣してみせた。
漆黒の炎が彼の傷を包み込む。
傷つくたびに再生し、蘇る力。
本来の「不死鳥」が持つ、無限の再生能力。
「あ、僕にも出来るみたいだ」
絶望が、冷たい風となって吹き抜けた。
ただでさえ圧倒的な力を持つ魔王。
こちらは女神の力を無理やり借りて、ようやく立っている状態だというのに。
相手は、傷つくことさえ無意味化する再生の力を手に入れてしまった。
一瞬、ロイの足がすくむ。
怯えるロイとナナミを見下ろし、ゼロは優しく、残酷に語りかける。
「絶望は尽きない。故に、僕は滅びない」
黒い炎を纏った魔王の一撃が放たれる。
ロイは錯乱するナナミを庇い、剣で受け止めた。
ガキンッ!
鈍い金属音が響き、伝説の剣の刃に、亀裂が入った。
衝撃でロイは膝をつく。
剣が、欠けた。
勇者の象徴であり、唯一の希望であった刃が、悲鳴を上げたのだ。
「そんな……なんで……だって……どうして……」
うわ言のように繰り返すナナミ。
「ナナミ、お前はナナミだ!魔王がきっと惑わそうとしているんだ!耳を貸すな!」
必死に叫ぶロイの声も、絶望の淵には届かない。
「マリナ、こちらへ戻っておいで。こんな世界、壊してしまおう? 二人で、永遠に。君の好きなダンスを踊っていよう」
魔王の手が、優しく差し伸べられた。
冷たい指先は、救いか、それとも破滅への招待か。
逃げ場のない絶対的な闇が、二人を飲み込もうとしていた。




