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ruth story  作者: Cy


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9-5 「嘘の白庭にて」


ロイとナナミの背中が、歪んだ森の奥へと吸い込まれるように消えた、その刹那だった。

周囲を漂っていた薄い霧が、意思を持った軟体生物のように蠢き、爆発的な速度で膨張する。

視界全域が乳白色に塗り潰され、方向感覚はおろか、上下の感覚さえも曖昧になる「白の牢獄」が完成していた。


「……さあて」


ぬるりとした声が、鼓膜ではなく脳髄に直接響く。

霧が渦を巻き、中空に道化の姿が浮かび上がった。

メディスト。

彼は重力という概念を嘲笑うかのように空中でくるりと回転し、芝居がかった手つきで乾いた拍手を打つ。


「いいねえ。美しい友情を魅せてもらったよ。

逃げる勇者、見捨てられる仲間。

最高に“壊しがい”のある展開だ」


「逃げ? 彼らは戦いに行くんだよ」

「それを邪魔させないのが、僕たちの出来ることだ」

「あんたメディストとか言ったか? あんまり面倒かけないでくれよ」


三人は即座に背中合わせに陣取り、武器を構える。

強気な言葉とは裏腹に、空間の温度は急速に絶対零度へと近づいていく。

肌を刺すのは冷気ではない。濃密すぎて質量すら伴った「悪意」なのだ。

捕食者を前に必死に毛を逆立てる小動物のような健気な姿に、メディストは歓喜で仮面の下の顔を歪ませた。


「強がり。脆い。ああ、なんと愛おしい!」


メディストがパチン、と指を鳴らす。

世界が、裏返った。


***


突如、シルリアの視界が反転する。

極彩色のノイズが視神経を焼き、次の瞬間に広がったのは、彩度を完全に失った灰色の世界。

違和感は、手のひらから伝わってきた。

べっとりと、生温かい液体で濡れている。

握っているのは、身体の一部のように使い慣れた愛弓。

足元には、よく見慣れた槍使いが倒れ伏していた。


「な……?」


喉がひきつり、酸素が凍りつく。

ジークの胸には、シルリア自身が放った矢が深々と突き刺さっていた。

うつ伏せに倒れた彼が、恨めしそうに首だけをねじ上げ、こちらを見上げる。


『お前さ、いつも判断が遅いんだよ』


幻のジークが、氷点下の声で告げる。


『迷って、考えて、結局間に合わない。お前が優柔不断なせいで、仲間は死ぬ。何も守れやしない。自身の矜持ですら、ただの飾りなんだよ』


「ち、ちが……私は……」


胸が万力で締め上げられるような苦痛。

弓を持つ腕が激しく痙攣する。

誰かを守るために磨き上げた技術で、何よりも信頼する背中を、自らの手で貫いた感触。

指先に残る弦の振動と、生々しい血の温もりが、現実味を帯びてシルリアの精神を蝕んでいく。


一方、ジークの視界もまた、無間地獄へと変貌していた。

目の前で、シルリアが弓を引き絞っている。

鋭利な矢先が向いているのは、敵ではない。

無防備な背中を晒す、クラリスだ。


「……っ!」


「やめろ!」と叫ぶよりも早く、弦が弾ける音が響く。

矢は吸い込まれるように飛び、クラリスが音もなく崩れ落ちた。

駆け寄り、その体を抱き起こすと、クラリスが冷淡な瞳で振り返り、ジークを嘲笑った。


『また、選択を間違えたね』


合理的であるはずの思考が、ドロドロとした感情のタールに侵食され、機能不全を起こす。


(もし、あの時こうしていれば)

(判断を誤らなければ)


脳内を駆け巡る「後悔」という名の可能性が、無数の刃となって心臓を滅多刺しにする。


(俺はいつも、間違えてばかりだ……)


せめて手の届く範囲だけは守りたいと願うのに、あと数センチ手を伸ばせば届くのに、指先はいつも虚空を掴み、何も救えない。


そして、クラリスは。

歌おうとして、声が出なかった。

喉がにかわで張り付いたように動かず、指は石のように硬直する。

周囲を取り囲む精霊たちが、彼から蜘蛛の子を散らすように距離を取っていく。


『怖い』『痛い』『苦しい』

『また、奪われる』

『人間たちはいつも勝手だ』

『都合のいいように私たちを使い捨てにする』


精霊たちの“拒絶”。

吟遊詩人として、精霊使いとして、最も恐れていた悪夢が顕現する。

シルリアの姿をした影が、見下し、冷ややかな視線で睨みつけてくる。


「歌えない君に存在意義なんてあるの?」


彼女のいう通りだった。

歌えない自分に何が残る?

ただの無力な存在。

精霊の力を借りなければ、呼吸することさえ許されない出来損ない。

人と精霊の架け橋になれない存在に、生きている価値などあるのだろうか。


「違う……! 違うんだ、僕は、僕たちは……!」


否定の言葉は空回りし、誰にも届かない。


メディストは、絶望に染まる三人の表情を特等席で眺め、身をよじらせて哄笑する。


「ほらほら、仲間を疑え。憎め。

信じてきた絆が、ボロボロに崩れ落ちる音を聞かせてよ」


幻影は、ついに“現実”の境界を侵食した。

悪夢が肉体を突き動かす。


現実世界で、シルリアが虚ろな目で反射的に弓を引いた。

狙うは、仲間を殺そうとする敵影。


「近づくな……!」


「シルリア、落ち着け! 俺は味方だ!」


彼女の放つ矢は、誰よりも速く、正確無比だ。

ジークが槍を構え、すかさず射線上から避ける。

だが、彼が繰り出した槍の穂先もまた、殺意を持ってクラリスへと向いていた。

ジークの目には、クラリスこそが裏切り者に見えているのだ。


「……ジーク?」


「違う! これは……!」


意思とは無関係に、防衛本能が身体を動かす。

信じたいのに、脳が見せる映像がそれを許さない。

五感が矛盾し、あべこべな感覚が焦燥感を煽り、視野を針の穴ほどに狭くしていく。


メディストが笑い転げる。


「最高だ! 仲間を信じられなくなった瞬間、人間は一番脆い! そのまま殺し合え! 砕け散れ!」


高らかな哄笑が死の森に響き渡る。

三人の武器が、互いの急所を捉えようとした、瞬間。


ドンッ、と大地が鳴動した。


寸でのところで、シルリアの放った矢がクラリスの腕を掠める。

ジークの槍がシルリアの肩を掠める。

クラリスの歌に果ての精霊が反応し、ジークの手に傷を作る。


しんと、辺りが静まり返った。


白銀の閃光が、視界を埋め尽くす白い霧を物理的に、概念的に押し返す。


「目を覚ませ」


威厳に満ちた咆哮。

アルルホスが、死闘の中心点に降り立っていた。

全身から放たれる神聖な波動が、三人の精神に絡みつく悪意の蔦を一時的に焼き切る。


「これは“真実”ではない。だが、己の心が弱れば、幻もまた肉を裂く刃となる」



神獣の金色の瞳が、三人の濁った瞳を射抜いた。

眩い光は、泥沼に沈みかけていた理性を強引に引き上げる。


「分かっているから……腹が立つんだよ!あんな悪夢を見せたあいつにも、それに屈しかけた自分自身にも!」


だが、一度刻まれた「疑心」という傷は深く、幻覚が解けてもなお、互いを見る目に恐怖が残っていた。

震える手で武器を握りしめ、味方であるはずの顔を直視できない。



沈黙の中、アルルホスの放つ白光とは違う、もっと柔らかく懐かしい温もりが三人の手元で灯った。


「これは……」


シルリアが自分の手の甲を見る。

そこには、小さなライラック色の光が脈打っていた。

数刻前、決戦の地へ向かう際、ナナミがかけてくれた『守護の奇跡』。

ナナミが触れた箇所が光り輝き、悪意の霧を中和するように優しく広がっていく。


じわり。

光に触れた瞬間、脳内にあった凄惨な幻覚が霞み、代わりに鮮やかな記憶が雪崩れ込んできた。


『シルリア、怪我を隠しちゃだめじゃないか。ほら見せて、僕だって手当てくらい出来るんだよ?』

旅の途中、傷ついた腕を必死に手当てしてくれたクラリスの心配そうな顔。


『ジーク、このスープ美味しい!レシピを教えてよ』

味気ない野営の食事を、目を輝かせて褒めてくれたシルリアの笑顔。


『クラリスの歌を聞くと、なんでかよく眠れるんだよなー』

自信をなくしてうつむいていた夜、隣に寝転んだジークに意図せずに励まされたことも。


記憶の中心には必ず、バカみたいに真っ直ぐな仲間たちがいた。

不器用で、喧嘩っ早くて、臆病で、傷だらけで、お人好しで、いつも誰かのために必死になれる、愛すべき仲間たち。


「……っ」


シルリアの瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。

おかしいな。幻覚の中ではあんなに憎らしかったのに。

今、目の前にいる彼らの顔を見ると、どうしようもなく愛おしい。


「なにやってんだ、俺は……」

ジークが槍を取り落とし、顔を覆う。

指の隙間から、堪えきれない嗚咽が漏れた。

背中を預け合ってきた日々が、言葉より雄弁に「信頼」を証明しているのに。


「あはは……みんな、ひどい顔……」

クラリスが涙でぐしゃぐしゃになった顔で、引きつったように笑う。

笑っているのに、涙が止まらない。

怖かった記憶が、温かい記憶に塗り替えられていく。

このライラックの光が教えてくれている。

「あなたたちは、独りじゃない」と。

ナナミが祈りを捧げる時の、切なくて優しい顔が頭から離れない。


殺したはずのジークは、今も自分を案じてくれている。

嘲笑っていたクラリスは、共に泣いてくれている。

見下してきたシルリアは、悔しさに唇を噛んでいる。


わずかな針の先ほどの疑念が生み出した悪い夢でしかなかった。

互いの不完全さを許し合い、支え合ってきた記憶こそが、何よりも確かな「真実」だったのだ。



シルリアが涙を拭いもせず、猛然と顔を上げる。

ペリドットの瞳から迷いは消え失せ、本来の騎士の鋭さが戻っていた。

その瞳は、濡れているからこそ、水晶のように澄み渡っている。


世界が“二重”に見える。


メディストが作り出した幻影のレイヤーと、少し奥にある現実。

二つを繋ぎ止めている、ねじれた感情の核。人の恐怖を糸のように束ね、操る黒い心臓。


「あれ……は……」


目を凝らし、確信する。

涙で洗われた瞳に、セレスティア聖教国で授かった加護の光が重なる。

紫紺の輝きが、敵の「真の姿」を容赦なく暴き出す。


「……見えた……!」


すかさず、引き絞っていた弦から指が離れる。

シルリアが放った矢が、何もない空間を切り裂き“核”を掠めた。

空間に亀裂が走り、硝子細工のようにひび割れる。


「ちっ!」


メディストが初めて不快そうに舌打ちをする。


「目がいいね、お嬢ちゃん!だが、見ただけで消せるかな?」


幻影は完全には消えない。

核を突かれたことで、むしろ逆上するように瘴気の濃度が増す。

粘りつくような精神汚染が、再び三人を飲み込もうと迫りくる。


ジークが一歩前に出た。

大槍を、力任せに地面へと突き立てる。


「俺の番だ」


迷いはもうない。

後悔も、選択への恐怖も、すべて飲み込んで背負う覚悟。

過去を悔やむのではなく、今、ここにある仲間を守るために。


「心を穢すなら、洗い流すだけだ!」


槍の石突きから新緑の光が溢れ出し、周囲一帯に清冽な精神の海が広がった。

ルミーナ王国で授かった加護が、今度はジークに力を貸した。


冷たく澄んだ波紋が、思考を覆っていた毒を物理的に洗い流していく。

泥のような疑念が消え、透明な信頼だけが残る。


「……俺たちは、敵じゃない。背中を預ける仲間だ」


互いの呼吸が、心臓の音が、はっきりと分かる。

正気が戻った瞬間、クラリスが迷いのない指で竪琴を掻き鳴らした。


「……聞こえる」


ちゃんと歌えるか、心配だったけど。

声は震えているが、旋律は確かだった。

拒絶の幻聴はもうない。

あるのは、この死の大地に眠る、小さくも確かな声たち。


「君たちも、ずっと待っていたんだね」


クラリスの澄んだ歌が、地面に染み込んでいく。

生物のいない死の世界。けれど、そこにはかつて楽園を形作った残骸がある。

無機物の精霊たち。

崩れた噴水、折れた石柱、砕けた石畳。

長い時を経て瘴気に晒され、誰にも顧みられなかった「物」たちの記憶から生まれた精霊たち。

それら全てに、クラリスは魂を同調させる。

ナンバル=ムウで授かった加護がクラリスの歌をより強いものに変える。

赤き光がメディストの目を潰す勢いで刺激した。


「な、なんだこれは!?」


メディストが後退する。

地面が、瓦礫が、ひとりでに振動を始めていた。


「お前は……!精霊と“対話”しているのか!?こんな、死んだ瓦礫共と!」


「そうだよ。彼らだって、生きていたんだ」


クラリスは涙を浮かべながら、微笑んだ。

もはや彼の心は、周囲の精霊たちと同化している。

かつて楽園だった誇り、穢された怒り、忘れ去られた悲しみ。

それら全ての濁流を、クラリスは自らの心という器で受け止めた。


「独りじゃないって、知ってるから。僕が、君たちの声になる!」


大地が、積年の怒りを解放した。

巨大な石柱が槍のように隆起し、崩れた壁が巨人の手となって道化師を逃げ場のない檻へと追い込む。

石の奔流が、メディストを押し潰す。


「や、やめろ!

まだ……まだ楽しめてない……!ボクの脚本は……!」


「人の心を弄ぶな!!!」


シルリアの二の矢が、逃げ惑うメディストの仮面ごと、その黒い核を完全に射抜いた。


「足掻くなよ、沈め」


ジークの槍が、蒼い軌跡を描いて最後の一撃を叩き込む。


「こ、こんな、脆い人間にやられるなんてェェェエエッ!!?!!」


轟音。


幻影の回廊が粉砕され、霧散していく。

森に、本来の静寂が戻った。


***


三人は、張り詰めていた糸が切れたように崩れ落ちた。

外傷こそ少ないが、精神の摩耗は限界を超えている。

血の気が失せた顔で、荒い息だけが重なる。


アルルホスが静かに近づき、鼻先で三人を労うように触れた。


「よくぞ耐えた。人の心は、なんと脆く……だが、強靭なものなのだな」


「アルルホス……君もありがとう……僕たちに力を貸してくれて……」


クラリスが震える手でアルルホスの頬を撫でる。

今まで知ろうともしなかった小さな温もりに、神獣は心地よさげに目を細めた。


「ポーションは残ってるか……俺はもうないんだ」

ジークが懐を探るが、指先に力が入らない。

朦朧としながらも、まだ仲間のもとへと駆けつける気でいるようだ。


「早く、回復を……ロイたちのところに……行かなきゃ」

「ああ、休んでる暇は……ない」


這ってでも進もうとするシルリアとジークを、アルルホスは太い前足で優しく制した。


「ならぬ。心を消耗しすぎだ。その状態で魔王と対峙しようものなら、瞬きする間に魂ごと消滅するぞ」


「で、でも……!」


「案ずるな。お前たちの想いは、私が繋ぐ」


アルルホスが地面をドンと踏み鳴らすと、汚染された大地から、金色の柔らかな光の粒子が舞い上がった。

それは粉雪のようにゆっくりと三人の上に舞い降り、傷ついた心と体に溶けるように沁み込んでいく。


強制的な極上の安らぎ。

張り詰めていた神経が解れ、泥のような疲労と共に、抗えない眠気が襲い来る。


「ロイ……ナナミ……」


「あとは……頼む……」


次第にまぶたが重くなり、三人は重なり合うようにして倒れ込んだ。

穏やかな寝息が聞こえ始める。

アルルホスと、彼らに呼び起こされた精霊たちが見守る中で、傷だらけになった魂が少しずつ、本来の輝きを取り戻していく。


「暫し、安心して眠るといい。目覚めた時こそ、真の力が必要となるであろう」


白銀の獣は、最奥の方角を鋭く睨み据え、静かに三人を守る盾として座り込んだ。

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