9-4 「闇より還れ」
手応えは確かにあった。
剣の切っ先が肉を断ち、骨を砕く重厚な感触のようなものが掌に伝わったはずだった。
しかし、噴き出したのは鮮血ではなく、砕け散るガラスの破片のような魔力の残滓。
ロイの瞳に映っていた魔王の姿が、陽炎のように揺らぎ、霧散していく。
「――幻影か!」
驚愕に思考が停止するよりも早く、背筋を氷柱で貫かれたような悪寒が走った。
視界の端、死角となる背後から、圧縮された殺意が奔流となって迫る。
回避行動をとる時間など、刹那も残されていない。
死が、物理的な質量を持って二人の頭上に降り注ごうとしていた。
「光を生み、命を抱く慈愛の女神エデルよ!
清き光をもって、我らの身を包み、
魔の穢れを拒む壁と成し給え!」
悲鳴に近い、けれど凛とした詠唱が戦場に響く。
ナナミがロイの背中を守るように飛び出し、指を組む。
展開された白銀の障壁。彼女の祈りを、生命力を注ぎ込んだ絶対防御の盾。
だが魔王の放った一撃は、人の身が操れる奇跡の理を遥かに凌駕していた。
パァァァァンッ!
硬質な破壊音が鼓膜を劈く。
輝く光の壁は、巨大な鉄球をぶつけられた薄氷のごとく呆気なく粉砕された。
防御を貫通した衝撃波が、二人の肉体を紙屑のように吹き飛ばす。
「「っっ……!!!」」
天地が逆転する浮遊感の直後、全身の骨が悲鳴を上げる激突音。
祭壇を囲む岩盤に叩きつけられ、肺の中の空気が強制的に吐き出される。
砂塵が舞い、視界が灰色に染まる中、ロイは霞む意識を叱咤し、隣へと這いずった。
「……ピィ……無事か?」
「ピ……」
「ッ、ぅ……ナナミ……!」
呼びかけに対する返答はない。
崩れた瓦礫の中で、彼女は糸の切れた人形のように四肢を投げ出し、沈黙していた。
ロイの心臓が早鐘を打つ。
震える手で彼女の肩を抱き起こし、顔を覗き込んだ瞬間、全身の血が凍りついた。
「!!」
白い。あまりにも白すぎる肌に、墨を零したように鮮烈に刻まれていた。
呪痕。
これまで衣服の下、胸元に留まっていたはずの蔦のような漆黒の模様が、今は首筋を這い上がり、頬を侵食し、瞼の上まで達している。
いくら強力な魔法を連発したとはいえ、これまでの進行速度とは次元が違う。
堤防が決壊した濁流のようだ。早すぎる。
なぜ、慢心していたのか。
無茶をするなと何度口にしようと、誰かのために命を削ってでも無茶をするのがナナミという少女だ。それを誰よりも知っていたはずなのに。
これ以上、穢れが魂の深淵まで達し、彼女が「人」でなくなってしまう前に、自分が守り抜かねばならなかったのに。
後悔が胸を焼き尽くそうとした時、ナナミの瞼が痙攣し、ゆっくりと開かれた。
いつも凪いだ湖面のような瞳ではない。
底のない絶望。
「う、っっあああああああぁ!!!!」
言葉にならない咆哮。
喉が裂けんばかりの絶叫が、枯れた大地を震わせた。
「ナナミ!ナナミ!しっかりしろ!」
ロイの腕の中で、ナナミが暴れ狂う。
獣のようにのたうち回り、喉を掻きむしり、激痛と破壊衝動に身を任せる姿。
祭壇の中央に鎮座する魔王は、ただ愉悦に歪んだ顔で見下ろしていた。
口元には嘲笑を浮かべ、早くこちら側へ、堕落の淵へ落ちてこいと手招きしているようだ。
「くそっ!」
ロイは彼女を落ち着かせようと、乱れる腕を掴もうとした。
刹那。
華奢な少女のものとは思えない、剛力が発生する。
バヂンッ!
乾いた音と共に、ロイの手が弾かれた。
爪が皮膚を裂き、鮮血が滴り落ちて地面に赤い花を咲かせる。
痛みよりも、拒絶された事実が重くのしかかる。
荒い呼吸を繰り返すナナミの顔を見据え、ロイは息を呑んだ。
顔の左半分を覆い尽くした漆黒の呪痕。
侵食された側の瞳は、かつての美しいライラック色を失い、魔族特有の禍々しい「緋色」へと変貌していた。
ーーイル=シャル国で見た、不気味な儀式を思い出す。
魔獣の血に満たされた祭壇のような場所で、黒い鏡の元に置かれた彼女のことを。
あの時と同じ、赤い、業火のような緋色。
開かれた口元からは、人間にはあり得ない鋭利な犬歯が覗き、獣の如き唸り声を上げている。
呪いが全身に回った時、魔族化する。
伝承にある通りだが、まだ全身には回っていないはずだ。
なぜ、こんなにも早く変異が始まっているのか。
背筋を冷たい蛇が這い上がるような恐怖。
目の前にいるのが、ナナミであってナナミでない何者かへと変わり果てていく。
「ナ、ナナミ……」
「ぐあああああああっっっ!」
彼女の喉から、再び苦悶の叫びが迸る。
肉体を内側から食い破ろうとする魔の衝動。
抗うように、ナナミは自身の震える右手を持ち上げ、自らの左胸、心臓の上へと爪を立てた。
「苦しいのか!?やめろ!それ以上自分を傷つけるな!」
皮膚が裂け、新たな血が噴き出す。
自らの命を絶つことで、魔族化を止めようとしているのだ。
ロイは飛びつき、手首を万力のような力で締め上げ、間一髪で凶行を食い止めた。
組み伏せられた状態で、二人の視線が交差する。
片や緋色の魔眼、片や涙に濡れたライラックの瞳。
二つの色が混在する瞳孔が、激しく揺れ動いていた。
「ロイ……お願い!魔王を!」
泣きながら、血反吐と共に捻り出された言葉。
彼女に残された最後の理性が紡いだ懇願だった。
私にかまうな、世界を救え、と。
ーー自分が選択したはずなのだ。
自分の手を取って欲しいと、この世界から逃げ出そうと言う彼女の提案を断ったのだから。
“世界を救う”という選択は、こういう事だったのかと今更後悔が押し寄せてしまう。
ロイは、奥歯が砕けるほど噛み締め、こくりと一度だけ頷いた。
ロイの意思表示を確認すると、ナナミは力が尽きたように、崩れ落ちる。
動かなくなった彼女を背に、ロイは立ち上がった。
こんなところで、終わるわけにはいかない。
今、この瞬間も、ナナミは自身を支配せんとする内なる怪物と、たった一人で孤独な戦いを続けている。
迷いがあっては刃が鈍る。
ならば、後悔を飲み込んで迷いごと断ち切るのみ。
ナナミを救うには、この元凶たる魔王を討ち果たす以外に道はないのだから。
「うおおおおおおおッ!」
ロイは獣のような咆哮と共に、魔王へ突貫した。
斬撃、刺突、払う、薙ぐ。
旅で身につけた剣技を次々と繰り出すが、魔王の防御は鉄壁。
空間に展開される無数の「鏡」が、あらゆる攻撃を反射し、ロイの身体を切り刻んでいく。
それでも、止まるわけにはいかない。
血を流し、肉を削がれながらも、ロイは剣を振り続けた。
一合、また一合。
数百にも及ぶ攻防の果て、魔王の展開する鏡の一枚に、微かな歪みが生じるのをロイは見逃さなかった。
連撃の圧力が、鏡の耐久限界を超えたのだ。
「入った!」
渾身の力を込めた一撃が、鏡面に亀裂を走らせる。
パリン、という硬質な音と共に鏡が砕け、魔王が喘ぎ苦しんでいる。
絶好の好機。
追撃を加えれば、深手を負わせることができるかもしれない。
だが、ロイの足は、魔王ではなく後方へと向いた。
魔王が怯んだこの一瞬の隙こそが、ナナミに声を届ける唯一の時間。
ロイは剣を捨て、瓦礫の中にうずくまる少女の元へ駆け寄った。
二人共にでなくては、世界を選択する意味などないのだから。
「ナナミ!戻ってきてくれ…!」
手を伸ばし、その身体を抱きしめようとした瞬間。
ナナミの身体から、爆発的な拒絶の魔力が放たれた。
「近づかないで!!! ロイ!!!あなたを殺してしまう!」
衝撃波に弾き飛ばされ、ロイは地面を転がる。
受け身を取り、顔を上げると、そこには涙を流すナナミの姿があった。
緋色に染まりきった左目と、かろうじて色を残す右目。
ライラック色の瞳の方だけから、大粒の涙がとめどなく溢れている。
(……熱い。体が、焼けるように熱い……)
ナナミの意識は、混濁していた。
視界が歪み、世界が溶けていく。
頭の中がぼんやりとし、耳は水が入ったように詰まって、外界の音が遠ざかる。
熱いはずの体とは裏腹に、心臓の奥底だけが、急速に冷えていくのを感じていた。
(冷たい……暗い……)
まるで、重りをつけられて冷たい深海へと沈んでいくような感覚。
光の届かない海底へ。音のない世界へ。
心の温度が、感情が、記憶が、海水に溶けてなくなっていく。
悲しみも、苦しみも、愛しささえも、すべてが漆黒の圧力に押し潰されていく。
(ああ、私はカナヅチだから……うまく泳げないの……)
もがこうとすればするほど、冷たい水が肺を満たし、重く沈んでいく。
もう、指先一本動かせない。
このまま、何も感じない闇の一部になってしまえば、きっと楽になれる。
意識の灯火が、ふっと消えかけた時。
「なぁナナミ」
途端に、沈みゆく意識が揺り起こされた。
分厚い氷の膜を透過して、優しいテノールの声は届いた。
冷え切った深海に、一筋の温かな波紋が広がる。
適温の白湯に浸かったときのような、じんわりと芯まで染み渡る優しさ。
「怖いのも、傷つけられるのも、もう嫌だよな。よく分かるよ」
鼓膜ではなく、魂に直接語りかけるような響き。
震える声は、彼女の抱える恐怖を、痛みを、誰よりも理解してくれていた。痛みを知っている声だった。
「お前を傷つけるもの全部から、守らせてほしい」
呪いの冷水に支配されていた世界に、熱が戻ってくる。
暗闇を切り裂く、力強い宣言。
「俺は勇者だからな」
勇者。
彼が持つ響きが、痛みが、温かさが、ナナミの止まりかけた心臓を再び動かした。
「だから、大丈夫。俺を信じろ!俺を信じて、戻ってこい!」
強く芯のある叫びが、アンカーとなってナナミを引き上げた。
冷たい暗闇の底から、水面へと一気に浮上する。
肺一杯に、酸素と共に彼の想いを吸い込んだ。
「あ……ぁ……」
ナナミの瞳孔が収縮する。
緋色に染まりかけていた瞳から、禍々しい赤が引いていく。
見る間に本来の澄んだライラック色が戻り、唇から覗いていた鋭利な犬歯が縮んでいく。
顔を覆っていた呪痕の進行が止まり、わずかに後退した。
双眸から、ポタポタと、温かい涙が流れ落ちる。
それは絶望の涙ではなく、生還の涙だった。
闇に抑え込まれ、自我を手放そうとしていたナナミが、ギリギリの淵で踏みとどまり、持ち直したのだ。
ロイが、力強く彼女の手を握りしめる。
今度は弾かれることはなかった。
いつもより温かな体温が、掌を通じて伝わってくる。
「ロイ……ありがとう。もう少しで……本当に、闇に飲み込まれてしまうところだったわ……」
掠れた声で紡がれた感謝。
ロイは安堵に顔を歪め、強く冷たい手を握り返した。
しかし、現実は依然として非情だ。
進行こそ止まったものの、相変わらず呪いの痣は白い肌に広がり続けている。
消えたわけではない。
猶予がわずかに伸びただけ。
それでも、今だけは小さな温もりが、わずかな灯火が、二人を繋ぎ止める唯一の希望だった。




