9-3 「虚ろなる鏡」
最果ての島の最深部。
かつて女神エデルが惜しみない祝福を与えていた楽園だった頃「星降る祭壇」と呼ばれた聖域に、ロイとナナミは足を踏み入れた。
その名は、天上の星々が降り注ぐほどに近く、女神エデルへ祈りを捧げるのに最も相応しいとされた場所の記憶。
だが今、頭上を覆うのは、煌めく星空ではない。
どす黒く渦巻く瘴気の雲海が天蓋を閉ざし、一筋の光さえも通さぬ、絶対的な闇の玉座と化していた。
祭壇の中央。
銀色の神聖な台座に絡みつき、根を張るようにそれは鎮座する。
不定形の影。
煮えたぎる泥のような粘液と、数多の怨念が実体化した黒い霧の集合体。
人の形を模してはいるが、輪郭は常に崩壊と再構築を繰り返す。
世界中のあらゆる絶望、妬み、嫉み、憎悪を幾重にも重ね、永い時をかけて腐敗させた、純粋な悪意の権化。
人々が「魔王」という言葉から想起する恐怖、そのものが具現化していた。
『……ついに来たか、灰の瞳の勇者。そして……愛しき我が同胞よ』
「魔王……」
鼓膜ではなく、脳髄を直接叩くような不快な重低音。
吐き出された言葉は、腐った沼の底から湧き上がる気泡のように弾け、周囲の空気を更に汚染していく。
ロイとナナミは、走り続けて乱れた荒い呼吸を整えつつ、全身の神経を逆立てて怪物を睨みつけた。
声を聞いただけで、肌が粟立ち、本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らす。目の前の存在は、生物としての格も次元も違う。
「出来れば会わずにどうにかしたかったんだけどな。ここまで来たらどうにも、戦うしかないみたいだ」
「あなたの同胞? 笑えない冗談ね。寝言は寝て言うものよ」
吐き捨てた言葉は、魂が震える己を奮い立たせるための、精一杯の虚勢。
わずかでも気を緩めれば、足元に散らばる凍てついた恐怖が足首を掴み、二度と立ち上がれぬよう大地に縫い付けてしまうだろう。
膝の震えを必死に堪え、武器を握る手に血が滲むほど力を込めた。
魔王と呼ばれし影が、顔と思わしき部分に亀裂を入れ、醜悪な笑みを形作る。
口からは、言葉と共に悍ましい瘴気が漏れ出した。
『貴様はなぜ戦う?世界のためか?名声のためか?』
愚問に対し、ロイは伝説の剣を引き抜いた。
澄んだ金属音が、澱んだ空気を切り裂く。
「俺はただ一人、大切な人を運命から救い出すためにここに来たのかもしれない!」
隣に立つナナミが、ハッと息を呑んだ。
彼女の視線が、自身の手に落ちる。
白磁のような肌を侵食する、黒く禍々しい痣。
震える掌を、彼女は祈るように胸元で握りしめた。
答えを聞いた魔王は、哄笑する。
途端に、祭壇を取り囲む空間がガラスのようにぐにゃりと歪んだ。
魔族の魂の根源たる「鏡」の能力。
禍々しく、だが抗いがたいほどに美しい魔力の奔流。
ロイの脳裏に、不謹慎な思考がよぎる。
ナナミの魔法は、呪いという代償によって使えるようになったものだ。
使うたびに魂を蝕まれ、全身に呪いが回れば魔族に堕ちる危うさを抱えている。それでも、魔王の使う魔法と同様に彼女の放つ魔法も絶望的なほどに美しかった。
魔法とは毒でありながら、抗いがたい魅力を放つ蜜でもある。
祝福されて使う魔法はどれほどに美しいものだったのだろう。
ロイは雑念を振り払い、剣の切っ先を怪物の心臓部へと向けた。
腹の底から、絞り出すように本音を叫ぶ。
「なぁ魔王。悪い。正直俺は、心底どうでもいいんだ」
綺麗事など、この終焉の地には似合わない。
世界平和だの、どちらが正義だの、そんな大層なものは背負いきれない。
今までの旅路で見てきたのは、善悪の境界の曖昧さだ。
「アストリアの平和とか、魔族とか人間とか、どちらが正しいのかなんて、旅をして余計に分からなくなった。だけど……」
脳裏に浮かぶのは、アストリア中を仲間たちと旅をして見てきた国々の光景。
魔族や魔獣に苦しめられてきた沢山の人々、逆に魔族を苦しめてきた痕跡。
そして何より、共に全てを見てきた頼もしく愛しい少女の姿。
「お前が俺の大切なものを、世界の大切なものを傷つけるなら、悪いけど、滅んでもらう。俺が、俺たちがやるしかないんだ!」
咆哮に近い雄叫びと共に、ロイが大地を蹴った。
銀閃が闇を切り裂き、魔王へと一直線に迫る。
呼応するように、ナナミが手のひらを天に掲げた。
極限の集中力のもと放たれた極大の光弾が、弾幕となって怪物を襲う。
「ナナミ!無茶はしないって言っただろ!」
「こんなの、無茶しているうちに入らないわ!」
二人の叫びは攻撃の勢いによって掻き消されそうになるが、手の連携は緩めない。
魔王を前にしては、ナナミの放つ渾身の魔法ですら、子供の石投げに等しいかもしれない。
それほどまでに、眼前の存在は絶対的だ。
だからこそ、出し惜しみなど許されない。
ロイの剣劇と、ナナミの魔法が同時に魔王を捉えた。
しかし。
『無駄だ』
魔王の前で空間がガラスのように張り詰め、「鏡」が出現した。
二人の放った渾身の力が、鏡面に吸い込まれその力を倍加させ、憎悪の奔流となって吐き出される。
「ぐっ……!」
跳ね返された自らの剣圧が、ロイの身体を鋭く切り裂いた。
噴き出す鮮血と共に、激痛が走る。
「……っあぁ!」
ナナミの魔法は、彼女自身へと牙を剥いた。
反射された魔力は肉体を傷つけるだけでなく、体内に深く根付いた呪いを爆発的に活性化させる。
神経の末端から魂の奥まで、内側から激しく蝕まれる感覚に、ナナミが苦悶の声を漏らした。
圧倒的な力の差。
理不尽なまでの絶望が、冷たい壁となって二人の前に立ちはだかる。




