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ruth story  作者: Cy


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9-1「片道切符」



海原は、獲物を狙う巨大な獣が牙を剥くかのように荒れ狂っていた。


船が囚われたのは、「最果ての島」の奈落へと吸い込まれる不可逆の激流。

舵をどれほど切ろうとも、航跡を戻すことなど叶わぬ、死地への招待状だ。

波が船腹を殴りつけるたび、船体はギシギシと断末魔のような軋みを上げ、甲板には鉛を溶かしたような重苦しい沈黙が澱んでいる。

鼓膜を叩くのは、風の唸り声と、船酔いに苦しむロイが喉奥で押し殺す呻き声だけ。

誰もが口を閉ざし、血の気を失った面持ちで、刻一刻と迫る決戦の時を睨み据えていた。


アストリアの命運は、今や彼らのたなごころの上にある。

勝利を掴まねば、瞬きの間に世界は闇に飲まれ、滅びるだろう。

故郷に残した家族、愛する人々、大地に息づくすべての生命。

今度こそ逃れようのない重圧が彼らの双肩にのしかかる。


張り詰めた静寂を引き裂いたのは、船尾に積まれた荷物の山から漏れた、衣擦れの音だった。


ーーガサゴソ……


全員の視線が鋭い矢となって突き刺さる。


「ピィ〜」


音の正体はどうやらピィのようだ。

食いしん坊のピィが、腹の足しになるものを求めて荷物の隙間へ潜り込んだ、その刹那。


「ピギャッ〜〜!!」


押しつぶされたような悲鳴が海風に乗る。

何事かと仲間たちが武器に手をかけ、恐る恐る荷物の山へと集まる。ナックが意を決し、荷を覆っていた粗末な布を勢いよく剥ぎ取った。


そこにうずくまっていたのは、食料でも、潜んでいた魔物でもない。

驚いて目を白黒させるピィを鷲掴みにし、身を潜めていたナナミの姿だった。


「な、ナナミ……!?」


唖然として言葉を失う仲間たちを見上げ、彼女は乱れた呼吸を整えるように一度伏せた瞼を、覚悟と共に持ち上げた。

顔色は紙のように白く、額には脂汗が滲んでいる。立っているのもやっとの状態なのは誰の目にも明らかだ。それでも、ライラック色の瞳だけは、切っ先のように鋭い光を宿している。


「……私も、行くわ」


短く告げられた決意。船酔いで青ざめていたロイが弾かれたように顔を上げる。込み上げる吐き気を意志の力でねじ伏せ、叫んだ。


「だめだ!戻るぞ!一度島へ帰ろう!」


ナナミは無言で首を振る。双眸は、テコでも動かないという鋼の意志を湛えていた。

子供の強請ねだりのようだった。

しかし彼女の要求は甘いキャンディを買って欲しいなどと可愛らしいものではない。

自らの命を削り落とす態度に、クロエが堪えきれず叫ぶ。


「あんたねぇ!自分がどういう状況か分かってるの!?」


クロエの目から、大粒の雫が溢れ出した。怒りではない。深い恐怖と、痛いほどの愛情からくる涙だ。


「戦いの最中に魔族化したらどうするのよ!誰が……誰があんたを止める役目を負うのか、想像したことあるの!?場合によっては、私たちが……あんたを殺さなきゃいけない。仲間を殺す気持ちが、分かる!?」


悲痛な叫びが、暴風にちぎれていく。

クロエはナナミの襟元に掴み掛かったが、ナナミは抵抗もせず、ただ唇を一文字に引き締め、痛みに耐えるように罵声を受け止めた。


惨然とした空気が場を支配する中、重い沈黙を破ったのはジークだった。


「……正直なところ、ナナミがいない戦いは不安だ。本人が無理をしないと誓うのなら、連れて行ってもいいんじゃないか」


ジークの言葉に、シルリアも静かに頷く。


「私たちはアストリア中の巫女様たちから加護を授かっているとはいえ、回復士なしに魔王討伐というのはあまりに無謀な賭けだと思う。頼りたいわけではないけど、ナナミの祈りの力が必要なのは揺るぎない事実だよ。」


傍らでクラリスが竪琴を撫で、水平線を見つめて呟く。

「運命が、ナナミを選んだようだね。大河の流れは、もう誰にも止められない」


ナックは空気を変えるように、わざとらしく豪快に吠えた。

「へっ!どっちにしろ、俺がぜーんぶ倒すぜ!魔王だろうが何だろうが、俺の斧の錆にしてやらぁ!」


皆、それぞれのやり方で、ナナミがここにいるという現実を飲み込もうとしていた。


俯いていたナナミが、ゆっくりと顔を上げる。

仲間の思いを全て受け止め、困ったような、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。


「みんな、ありがとう。体を案じて怒ってくれることも、力を信じてくれることも、あえて選ばないでいてくれることも……みんなの優しさ、しかと受け取ったわ」


一人ひとりの顔を見渡し、最後にロイを見る。


「何と言われようと、私の決意は変わらない。私も行く。あなたたちに、たとえ嫌われようとも」


誓いの言葉に、ロイは拳を握りしめた。

怒りと、どうしようもない無力感が身体を震わせる。

どうして、彼女が安心して待っていられる場所すら作れないのだろう。己の弱さが憎い。

自分だって、果たして魔王を倒せるのか、足がすくむほど不安だ。

けれど、それ以上にナナミを失う恐怖に勝る感情など、この世に存在しない。


「いい加減にしてくれよ……!」


ロイの声が震える。


「なんで……分かってくれないんだよ!そんな状態で、戦わせられるわけがないだろ?!もっと自分を……自分自身の命を、大切にしてくれよ!」


悲痛な叫びと共に、ロイは歩み寄った。

ナナミは逃げず、硬く握りしめられたロイの震える拳を、氷のように冷たい両手でそっと包み込んだ。


「約束するわ。無理もしないし、決して足手まといになるつもりもない」


「……」


「これが……私の、最後・・のワガママよ」


「最後」という響きに、ロイは息を呑んだ。

ナナミの手から解放されたピィも、「ぴ……」と困惑した声を上げる。

船は進む。退路はない。

これは一方通行の片道切符なのだ。


信じていないわけじゃない。

でも、愛する人の身を案じるのは、罪なのだろうか。

葛藤に引き裂かれそうになる心を、ナナミの瞳が射抜く。

そこには揺るぎない覚悟と、深い愛情があった。


ロイは、観念したように肺の空気を吐き出した。


「……絶対に、無茶をしないでくれ。必ず、俺たちが守るから」


「……ええ、分かったわ。約束よ」


ナナミが小指を差し出す。ロイもまた、震える小指を絡めた。

ただの指切り。

幼い子供のような契約。

指が離れると、わずかな温もりが空気に溶けて消えていく。


海流は戻ることを知らない。

船は速度を上げ、瘴気がどす黒い渦を巻く「最果ての島」へと接岸した。

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