8-9「告 白」
普段、感情を氷の殻に閉じ込めているナナミの涙を見たのは、これで三度目だった。
一度目は、初めて出会ったあの日。
光の届かぬ洞窟の奥底、冷たい宝箱の中で、彼女は頼るものなど何もない心細さに震え、楚々と泣いていた。
二度目は、旅の途中で髪飾りを渡した時。
驚きか、言葉にできない歓喜か、あるいは計り知れない別の感情が胸を突いたのか、真意は今も霧の中にある。
そして、三度目が今だ。
彼女は今までと同じように嗚咽を漏らすこともなく、かと言って顔を覆って隠すこともせず、ただ静かに、瞳から溢れる雫を止めどなく流し続けている。
自らの意思では制御できないのか、自分が泣いていることにさえ気づいていないのか。
彼女がなぜそんな風に、魂を削り落とすような泣き方をするのか、ロイには分からない。
ただ、濡れた横顔を見ているだけで、心臓を素手で握り潰されるかのような、ひどく鈍い痛みが胸を締め付けた。
二人を包む黄昏の世界で、風だけが優しく何処か余所余所しく吹き抜けていく。
燃えるようなオレンジ色の夕日が、みっともないほど赤く染まった自分の頬と、彼女の涙に濡れた頬を覆い隠してくれる気がした。
涙の理由は相変わらず分からないままだ。
けれど、彼女の背負う底知れない宿命を、華奢な肩に降り注ぐ悲しみを、すべて払い除けてやりたい。
悲しみも、苦しみも、喜びさえも。すべてを指が触れ合う距離で分かち合いたいだけなのだ。
ひとしきり涙を流した後、ナナミは「は」と小さく震える息を吐き、指先で乱暴に目元を拭った。
遠い懐かしい記憶を慈しむかのように、優しく目を細めて水平線の彼方を見つめた。
「……病める時も、健やかなる時も。……この呪いが私の全てを蝕んで、見るも無惨に醜く変わり果てたとしても。あなたは、私と共に生きてくれる?」
夫婦となる二人が教会の祭壇で交わす誓いのような言葉。
彼女のライラック色の瞳も、今は夕陽を映して深く濃いオレンジ色に染まっている。遠くを見ていたその瞳が、ゆっくりとロイを捉え、今度は懇願するような色を帯びた。
「二人で……このままどこか遠くへ、逃げてしまわない?」
「……え?」
「アストリアで生きる、顔も知らない人たちの命なんてどうでもいい。私は、あなたが……あなただけが生きていてくれれば、それでいいの」
彼女の声には、切実な熱が宿っていた。
「ねえ、逃げましょう。二人で。誰もいない地の果てまで。
アストリアを救うなんて……そんな大層なこと、叶うはずがないんだわ。……私たちには、きっと出来ないんだよ」
彼女の口から、これほどまでに明確な「弱音」を聞いたのは初めてだった。
あれほど気丈で、圧倒的な力を持ち、皆を導いてきた彼女が、一体何にこれほど怯えているというのか。
震える声を聞いて、ロイの中で迷いは霧散し、逆にある一つの決心が鋼のように固まった。
彼女が怯えるもの。全てから彼女を守り抜くために。この命に代えても。
「……俺も、ずっと逃げたいって思ってた」
「……!」
「ずっとずっと、こんなクソみたいな運命から逃げ出したいって。俺なんかじゃ……きっとどうにも出来ないって、いつも思ってたんだ」
「……」
片膝をつくのをやめ、ゆっくりと立ち上がるロイを、ナナミは縋るような目で見つめた。
冷たくて、呪いがすぐそばまで広がっている自分の手を、彼が取ってくれるのではないか。汚れたこの手を取って、残酷な世界から連れ出してくれるのではないか。そんな淡く、切ない希望に胸を膨らませた。
「旅をして、いろんな人に出会うたびに、俺よりずっと強くて立派な奴がいて……。特にナナミの魔法を見た時なんて、『ああ、俺じゃなくてこの子がアストリアを救ってくれればいいのに』って、情けないけど、本気でそう思ってた」
「……じゃあ!」
ナナミの声が弾む。ロイの手が伸びる。
しかし、彼の手は彼女の手を取って逃げるためではなく、彼女の肩を優しく支えるために添えられた。
「けど……守りたいものが出来たんだ。例え、この命に代えても」
ロイは困ったように、何よりも優しくフワリと笑った。
笑顔を見た瞬間、ナナミの胸を再び絶望が締め付けた。
かつて、ただの弱虫だと思っていた少年は、いつの間にか、こんなにも強い「勇者」になってしまっていた。
自分と同じように、この“役割”から、この“世界”から逃げ出したいはずだと思っていたのに。
自分だけが、置いてけぼりにされたようだった。
「え……」
「だから、どんなにナナミが大事でも……いや、ナナミが大事だからこそ、逃げることはできない。
俺の使命は、きっとこのアストリアを、人々を、救うことだから。
その中には、ナナミ……一番大切な、お前も入ってるんだ」
真っ直ぐな瞳。曇りのない言葉。
ナナミの不安を拭い去るように、ロイは今、ナナミが心の奥底で一番欲していたはずの、けれど今この瞬間に最も聞きたくなかった言葉を口にした。
「俺は、絶対にナナミの前からいなくならないよ」
驚きに見開かれた彼女の瞳に、再び涙の膜が張る。耐えきれなくなった一筋の雫が、白磁のような頬を伝ってこぼれ落ちた。
彼女はグッと涙を堪えるような、泣き笑いのような顔をした後、ふいと視線を外し、マリナの墓へと振り返った。
彼女は、片手に持っていた白いフィノアの花を、胸の前で一度強く握りしめた後、そっと墓前に供えた。
自分の運命への手向けのように見えた。
再びロイの方へ振り返ると、彼から受け取った薄紅色のリゼルナの花を、とびきり大切そうに両手で包み込んだ。
どきり、とロイの胸が高鳴る。
彼女は花越しにロイを見つめ、震える唇を開いた。
「やっぱり……あなたは、本物の勇者なのね」
世界で一番幸せそうなのに、見ているこちらが叫び出したくなるほどに、痛ましく辛そうな笑顔だった。
涙をボロボロとこぼしながら、堪え切れない感情を露わにして。
嬉しいのか、悲しいのか、絶望しているのか、愛しているのか。その全てが混ざり合った、あまりにも人間らしい表情。
ロイが何かを言おうと口を開きかけた時だった。
ゴゴゴゴゴ……
突如、大地の底から響くような、不気味な地鳴りが世界を震わせた。
穏やかだった海が激しく波打ち、水平線の先──光と闇の境界から、どす黒い影が隆起し始めた。
「最果ての島」が現れたのだ。
島の中央から、天を貫くような禍々しい魔力の柱が立ち昇る。
インクを垂らしたように空をみるみるうちに黒く染め上げ、太陽が沈まないはずのハナレア島を、瞬く間に絶対的な暗闇へと突き落とした。
何も見えないほどの深淵。息をするのも忘れるほどの恐怖。
空気が文字通り凍りついていくのを、肌でビリビリと感じる。
ドオオオン!!
空気を引き裂く轟音と共に、突如現れた島から、島全体を消滅させんばかりの強大な魔力の奔流が放たれた。
回避など不可能。防御など無意味。死そのものが、闇の光となって迫り来る。
「な、ナナミ……ッ!?」
ロイが動こうとするより早く、ナナミが一歩、前へと踏み出した。
彼女は迫り来る滅びの光に向かって、躊躇いなく自らの華奢な掌を向けた。
小さな背中にも、もはや迷いはなかった。
彼女が禁忌の魔法を解き放つ。
「ナナミ!ダメだ!魔法を使ったら……!」
ロイの絶叫は、轟音にかき消された。
表情なんて見えないほど深い暗闇に包まれているはずなのに、ナナミの解き放つ魔力があたりを幻想的な光で満たしていく。
キラキラと星々を散りばめ、宇宙そのものを閉じ込めたかのような、美しくも悲しい魔力の奔流。
放つ瞬間、ナナミは振り返り、ロイに向かって──にこりと、悪戯っぽく、愛おしそうに笑った。
薄い唇が、音もなく動く。
「…… 」
ロイの耳に届いたのかは分からない。
カッッッ────!!
視界が真っ白に染まる。
ドオオオオオオオン!!
再び天地を揺るがす轟音が響き渡り、強烈な衝撃波と突風が吹き荒れた。
オルペリアの丘に咲き乱れていた色とりどりの花々が、無慈悲に散らされ、花びらとなって嵐のように舞い上がる。
ナナミが放った命を削る魔力が、彼らに向かっていた破壊の魔法を完全に相殺し、空中で消滅させたのだ。
とてつもない衝撃だった。
ロイは地面に叩きつけられ、砂埃の中で必死に目を開けた。
「う、うう……」
爆風が収まり、舞い上がった土煙が晴れていく。
やがてロイが目にしたのは、信じたくない驚愕の光景だった。
禁忌の魔法を使った代償。
白い肌を侵食するように、どす黒い呪いの紋様がさらに身体中へと広がり、糸が切れた人形のように地面に倒れ伏すナナミの姿。
「ナナミッ!!ナナミ!!」
ロイは悲鳴のような声を上げ、彼女の元へ這うようにして駆け寄った。
抱き上げた彼女の体は恐ろしいほどに冷たく、傷だらけになっている。
「そんな、だめだ……ナナミ!起きてくれ!」
小さな手から滑り落ちた、ロイから受け取ったはずのリゼルナの花。
先の魔法の衝突の衝撃で、美しい薄紅色の花びらをすべて散らし、無惨な茎だけが残されていた。
まるで、行先を暗示しているかのように。




