8-8「オルペリアの丘」
逸る心臓が肋骨を叩く音を聞きながら、ロイは島の高台「オルペリアの丘」へと続く坂道を駆け上がった。
背後で響いていた祭りの喧騒は、高度を上げるにつれて波音にかき消され、やがて風の歌だけが鼓膜に残る。
辿り着いた丘の頂。
そこは、下界の時空から切り離されたかのような静寂に支配されていた。
丘の中央、風化しかけた古びた墓標の前で、ナナミが影のように佇んでいる。
白く小さい手には、鎮魂を祈る純白のフィオナの花が握られていた。
空は、終わりを忘れた黄昏時。
琥珀色の光が世界を浸し、優しさと物悲しさをないまぜにした色彩で染め上げている。
ロイが一歩、足を踏み出す。
呼応するように、足元の草地から淡い光の粒が弾けた。
精霊たちの悪戯か、あるいは溢れ出しそうなロイの想いが具現化したのか。
ナナミを取り囲むように、薄紅色のリゼルナの花が次々と蕾をほころばせ、甘やかな芳香を大気へと解き放つ。
夕風に舞う花びらと、黄金に煌めく光の粒子。
息を呑むほどに幻想的で、胸が痛むほどに残酷な美しさだった。
ナナミもまた、足元の異変に気づく。
愛を告げる花々が、彼女の周りで咲き誇る。
けれど、墓標を見つめる彼女の横顔に、先ほどダンスで見せた柔らかな笑みは欠片もなかった。
一直線に引き結ばれた唇、血の気を失った頬。
ライラックの瞳が映すのは、リゼルナの花が象徴する「恋」の輝きではなく、底のない「絶望」の闇。
痛々しいほどに哀しげな背中に、ロイの胸が軋む。
感傷という沼に沈みゆく彼女を、引き上げなければ。
努めて明るい声を喉から絞り出そうとした、刹那。
ズキリ
灼けるような痛みが、ロイの側頭部を貫いた。
視界がぐにゃりと歪み、黄金色の夕焼けが、セピア色の古い記憶へと塗り替えられていく。
──また、あの光景だ。
どこかの丘。見下ろす顔。
肖像画の中にいたはずの伝説の魔女が、幼い自分を励ますように優しく微笑んでいる。
彼女の手にあるのは、今この丘に咲き乱れるのと同じ、甘い香りを放つリゼルナの花。
『あなたは必ず、アストリアを救う勇者になる。私が信じている』
『美しい灰の瞳の勇者。決してこの言葉を忘れないで』
『……だからどうか、きっとアストリアを守ってね』
なぜ、今この瞬間に。
これは白昼夢か、それとも脳が見せる妄想か。
脈打つ痛みにロイがこめかみを押さえていると、ナナミがふいに唇を開いた。
振り向きもせず、ただ墓標に眠る祖先へ語りかけるように。
「どうして……死者は、帰ってこないのかしら」
風の流れる音に消されそうなほどか細いのに芯のある声が鼓膜を震わせる。ナナミの声が聞こえた瞬間、ロイの頭痛を波のようにさらっていく。
あとに残ったのは、胸をえぐるような寂寥感だけ。
死の淵から生者を呼び戻す「復活の奇跡」を行使する彼女だからこそ、その問いは鉛のように重い。
魂を肉体に呼び戻す術を知りながら、何度呼びかけても、必死に手繰り寄せても、決して覆せない死という絶対的な運命。
掴もうと伸ばした指の隙間から、砂のようにさらさらと抜け落ち、遠く彼方へ離れていく感覚。
「……帰って来たくても、戻れないのかもしれないな……」
ロイが絞り出すように答えると、ナナミは乾いた音を立てて自嘲した。
「女神エデルの御許は、現世のことなど忘れてしまうほど、そんなに居心地が良いところなのかしら」
「寂しいよな」
「あら、あなたも寂しいと思うのなら、私が死んだら幽霊になってでも戻ってこれるよう、努力するわね」
「そんな悲しいこと、言わないでくれよ……」
「そう?二度と会えないより、ずっといいわ」
どこまでも深い孤独を孕んだ声に、ロイは背中に隠し持っていたリゼルナの花を、茎が折れそうなほど強く握りしめた。
ナナミは振り返ることなく、独り言のように言葉を継ぐ。
「私ね、昔……命よりも大切な人がいたの。ううん、今でも……誰よりも、大切に想っている人」
「……!」
不意打ちの告白に、ロイは息を呑んだ。
ゴォーン、と頭の中で弔いの鐘が打ち鳴らされた気がした。
衝撃に思考が揺れる。
告白する前に、失恋した……?
いつから?どんな奴だ?どこのどいつだ?
疑問は奔流となって押し寄せるが、この神聖で感傷的な空気の中、野暮な嫉妬を口にできるはずもない。
「けれど、守れなかった」
「……もしかして、前に旅していた時に……」
薄々感じていた予感を、恐る恐る口にする。
だがナナミはそれを遮るように、震える声で続けた。
「私は……大切な人、たった一人のことも守れない、ちっぽけな存在だわ」
あれだけの絶大な魔法を操り、各国の巫女たちにさえ畏敬の念を抱かれる、女神に愛された少女が。
なぜ、そこまで己を卑下するのか。
彼女が抱える闇の深淵を、今のロイが覗き込むことは叶わないのだろう。
けれど。
こんなにもナナミに大切に想われながら、彼女を一人残して逝ってしまった「誰か」が、どうしようもなく憎らしく、同時に、心底羨ましいと思った。
だからこそ。
何を引き換えにしてでも、守りたいと願った。
強くて、脆くて、誰よりも優しい彼女を。
例え彼女の心の中に、消えない面影が居座り続けていようとも。
過去も、悲しみも、すべてを飲み込んで、それでも愛しいと思ってしまったから。
孤独に戦い続ける彼女に、「自分だけは絶対に側を離れない」と、魂に刻み込んで欲しかった。
「……聞いてほしい話があるんだ」
ロイは一歩、前へ踏み出した。
手には一輪のリゼルナの花。
自分の本当の気持ちを、虚飾なく告げる覚悟を決めて。
どこまでもオレンジ色に染まるこの丘で、勇者は片膝を地についた。
まるで姫に忠誠を誓う騎士のように。
震える手で、花を差し出す。
「ナナミ」
気配を感じ、ゆっくりとナナミが振り返る。
風に舞う髪。驚きに見開かれたライラック色の瞳。
瞳の奥にも、一面のオレンジ色の世界が映り込んだ。
目の当たりにした光景は、彼女の記憶の底に眠る、いつかの悲しい別れの景色と、驚くほど鮮明に重なった。
「ナナミのことが、好きなんだ」
『ナナミのことが、好きなんだ』
少しだけ掠れた、けれど真剣な声。
時空を超えて重なる、愛の言葉。
告白が耳に届いた瞬間、ナナミの中で何かが決壊した。
出会ったあの日、冷たい宝箱の中にいた時と同じように。
ポロポロ、ポロポロと。
ライラック色の双眸から大粒の涙が音もなく溢れ出し、頬を伝って白きフィオナの花へと落ちていった。




