8-1「黄昏に向かう船」
ぎしり、と船体が大きく波に乗り上げるたび、胃の腑が喉元までせり上がってくる感覚にロイは呻いた。
べたつく潮風が容赦なく肌にまとわりつき、真上から照りつける太陽は、甲板をフライパンのように熱している。
水平線の先、目指すべきハナレア諸島はまだ青一色の世界の彼方にあり、一片さえも視界には入らない。
船上の喧騒は、もはや遠い世界の出来事のようだった。
「海に棲む魔獣ってなんでみんな、こうもヌメヌメしてんだろうな?」
「考えたことはないが、不利な陸上でもこうやって俺たちを困らせる為なんじゃないか」
景気の良い掛け声と共に、ジークの槍が陽光を反射して閃き、ナックの斧が風を切り裂いて唸りを上げる。
船縁からぬらりと這い上がってきた海魔の粘液質な触手を、二人は息の合った連携で的確に叩き斬り、重い音を立てて紺碧の海へと叩き落としていく。
飛び散る水飛沫が、熱を持った甲板でじゅっと蒸発し、生臭い匂いを立ち上らせた。
彼らの鮮やかな戦いぶりを歪む視界の端に捉えながらも、ロイにできることは、ただひたすら甲板に突っ伏し、喉の奥から込み上げる酸っぱい何かを必死に堪えることだけだった。
「ハナレア島は……まだ、か……」
「ロイは一向に船に慣れないね」
「ほんと、情けないんだから」
「ピィ〜」
白目を剥きかけるロイの横で、シルリアがやれやれと苦笑いを浮かべ、クロエが呆れたようにため息をつく。
ピィも今この時は馬鹿にしたように見下してきている。
二人の髪と一羽の羽を心地よさそうに揺らしていく潮風が、今のロイにはひどく恨めしかった。
狭苦しい船室で横になることも考えたが、淀んだ空気よりは、まだこの風に当たっている方がいくらかマシに思えた。
竪琴を爪弾き、楽しそうに歌うクラリスに、ロイはわなわなと震える手を伸ばして最後の望みを託す。
「く、クラリス……船酔いを止める精霊は……いないのか……」
「うーん、三半規管や平衡感覚を強くしてくれる精霊かあ……君たち、聞いたことあるかい?」
クラリスが傍らを舞う光の粒に問いかけると、好奇心旺盛な風の精霊たちが、面白がってロイの周りをくるくると舞い始めた。
巻き起こる小さな渦が、ただでさえ曖昧になった彼の平衡感覚をさらに狂わせる。
そのたびに大袈裟な反応をするロイが面白いらしく、精霊たちはしばらくの間、彼を格好の玩具にしていた。
「はやく……はやく地上に、降りたい……」
そんな喧騒の中、ただ一人、ナナミは船首の手すりに身を預け、じっと水平線の先を見つめていた。
これから向かうハナレア島。
その名を思うだけで、胸の奥がじくじくと鈍く痛む。
どうして、あんなにも鮮明な夢を見てしまったのだろう。
『ナナミのことが、好きなんだ』
耳の奥で、彼の声が反響する。
優しくて、温かくて、胸が千々に張り裂けるみたいに痛くて……どうしようもなく残酷な、オレンジ色の思い出。
『ナナミ』
不意に、マルザフィリアの毒から奇跡的に回復した際、うわ言のように自分を呼んだロイの声が、脳裏を占めるあの記憶の中の声と、ぴたりと重なった。
はっとして、ナナミは強く頭を振る。
彼とロイを重ねてしまうなんて。絶対にあってはならないことだ。
さあっと波音が遠のいていく。
この旅を無事に終えることができたとして、私はその後、一体どうすればいいのだろう。
答えの出ない問いを、髪を撫でる潮風は海の彼方へと運び去っていくだけだった。
先の戦いでさらに広がってしまった腕の呪痕に視線を落とす。
冷たい枷のように存在を主張する痣を隠すように、ぎゅっと手で握りしめた。
まだ、あと少しだけ。もう少しだけ、このままで。
***
ところ変わって、ハナレア島。
そこは、生命の喜びに満ち溢れていた。
どこまでも続く白い砂浜、太陽の光を吸い込んで宝石のようにきらめくターコイズブルーの海。
陸に上がれば、極彩色の花々が咲き乱れ、熟した果実の甘い香りが風に乗って運ばれてくる。
茅葺屋根でできた風通しの良い家々が並び、沈むことを忘れたかのような太陽が、この島を永遠の昼で満たしていた。
間近に迫った「黄昏の祭り(トワイライト・カーニバル)」の準備で、島全体が陽気な活気に包まれている。
子供たちは浜辺で拾った貝殻を繋ぎ合わせ、屋台で売るアクセサリー作りに夢中だ。
女たちは祭りの衣装となる純白の布を縫い上げながら楽しげに歌い、男たちは汗を光らせながら会場の設営に精を出している。
そんな賑やかな村の片隅で、島の巫女であるアルバは、手のひらの上の魔法石を前に一人、困ったように眉を寄せていた。
『ーーーーザザッーー壊れーーーー』
『残ーーーハーーーー』
「もしもーし、聞こえておりますか?わたくし、ハナレアの巫女なのですが」
魔法石をコンコンと軽く叩いてみても、うんともすんとも言わない。
時折、耳障りなノイズ混じりの音声が途切れ途切れに流れてくるだけで、何を言っているのかさっぱり分からなかった。
「まいったなぁ。うーん、だめだこりゃ」
アルバはあっさりと諦めた顔で魔法石を懐の袋に仕舞い込むと、高い位置で一つに結われた絹のような金色の髪を、さらりとかき上げた。
「さて、気持ちを切り替えて祭りの準備と行こう!」
こきこきと華奢な首を鳴らし、彼女は傍らを舞う穏やかな風に親しげに語りかける。
「ねえ、ウィンリア。風の噂で構わないから、さっきの会議の内容が分かったら教えておくれ」
見えない風の中から、『また貴女は、そのようなことを……』と、やんわりと咎めるような気配が返ってくる。その小言を言われそうな雰囲気を察知するや、アルバは悪戯っぽく両耳を塞ぎ、太陽のようにからりとした満面の笑みで、祭りの喧騒の中へと駆け出していった。




