7.5-4「救いの朝」
「頼む、クラリス……歌ってくれないか……」
闇夜を切り裂いて走り続けたロイの声は、ひどく掠れ錆びた鉄が擦れ合うかのようだった。
「ロイ、ちょっと、無茶をしすぎじゃないかな……」
肩で懸命に荒い息を繰り返すクラリスが、リュートを抱いたまま悲痛な表情で彼を制す。
とうに塞がっていてもおかしくない傷口からは、絶えずじわりと血が滲み、もはや痛みだけで立っていることすらやっとなはずだった。
精霊の歌が織りなす優しい力は、彼の燃えるような痛覚を麻痺させているに過ぎない。
いつ割れてもおかしくない薄氷の上を歩くような、仮初めの安寧だった。
「前にも言った通り、精霊の力はあくまで対症療法だよ。これ以上は……君のその肩が、本当に使い物にならなくなるかもしれない」
クラリスの真剣な眼差しを前にしても、ロイは力なく首を横に振るだけだった。
灰の瞳には肉体的な苦痛を遥かに凌駕する、魂の焦燥が宿っている。
「……俺なんかより、ナナミはもっと苦しんでいるんだ」
腕の一本や二本、この身がどうなろうと構わない。
ただ、大切な少女を助けられるのなら。
きっと、アストリアを救うと大見得を切った勇者が吐いていい言葉ではなかった。
けれど今この瞬間だけは、アストリアの運命よりも、ただ一人の少女の命を救えるのなら、それでいい。
アマテラスの花を見つけ出す瞬間まで身体の形が保てばそれで十分だった。
ロイの鬼気迫る気迫に根負けしたクラリスが、諦めたようにそっとリュートを構える。
悲しみを湛えた旋律が、夜の静寂に溶けてゆく。
すると肩を灼くような激痛が、すっと薄絹の向こう側へと引いていった。
ロイは短く息を吐き、仲間たちへ視線を送ると再び闇の中を駆け出した。
月が煌々と夜空を照らす。
だが、優しい光は希望の在り処までは示してくれない。
こうしている間にもナナミの命の灯火は、風の中の蝋燭のように儚く揺れ、すり減っていく。
焦りが冷たい手となって、ロイの心臓を鷲掴みにした。
ない。どこにも、ないのだ。
心が折れそうになるたび、脳裏に浮かぶのはナナミの顔だった。
照れた時に見せる、あの下手くそな笑顔。
拗ねたように、むっと固く結ばれた唇。
誰にも見せないように、悲しみを一人で堪えて俯く横顔。
今まで見て来た彼女の全てが、瞼の裏で鮮明に再生される。
「……あいつ、本当に変わり映えしないな」
思わず、自嘲じみた乾いた笑いがこぼれた。
直後、胸の奥からどうしようもなく熱いものが込み上げてくる。
それでいい。
そんな不器用なナナミが良かったのだ。
いつの間にか彼女の些細な変化を隣で見守りたくて、彼女の姿を目で追ってしまっていた。
もっと色々な話がしたいと思った。
少しずつ縮まったかと思えば、またふいと遠ざかってしまう、二人の距離がもどかしかった。
表情、声、仕草、癖。
不器用な彼女を構成する全てのものが、どうしようもなく愛おしかった。
こんなにも大切で温かい想いを、失ってたまるものか。
今まで見ないふりをし、臆病に蓋をしていた己の心。
本当の形に、極限の状況になってようやく気づいてしまう。
ーーナナミのことが、好きだ。
触れれば陽炎のように消えてしまいそうなほど儚いのに、陽だまりのように誰よりも温かく優しい存在。
それを守りたいと願うただ一つの純粋な心が、とうに限界を迎えたはずの身体を、なおも突き動かし続けていた。
様々な想いを巡らせながらも、決して歩みを止めなかった足が、やがて彼を視界の開ける崖の上へと導いていた。
星々の瞬きさえもが音楽のように聞こえそうなほど、静まり返った夜明け前。東の空に、明けの明星がひときわ強く輝いている。
光に吸い寄せられるように歩を進めると、あの日、初めてナナミと目が合った時のように、伝説の魔女の肖像画がふと頭に浮かんだ。
それに伴って、夢のように淡い記憶の断片が蘇る。
ずっと昔、まだ自分が何者でもないただの子供だった頃。
誰かから甘い香りのする一輪の花を差し出された。
心配そうにこちらを覗き込み、優しく微笑む美しい顔。
薄い桜色の唇が、何か大切な言葉を紡いでいた。
『……大丈夫。あなたを必ず……』
その言葉の続きは──。
ずきり、と頭の芯を鋭い痛みが貫いた。
ロイは思わずこめかみを強く抑える。いつか見た白昼夢のような、不確かで曖昧な記憶。だがこれは大事な記憶だ。決して忘れてはいけないはずの、魂の記憶。
ふーっと細く白い息を吐き、彼はゆっくりと目を閉じる。
『……大丈夫。あなたを必ず……助けにいくわ。困った時は星の導きを信じてね。それに何度だって朝日は昇るから。だからどうか、諦めないで。私はいつだって、あなたのことを……』
──あなたのことを……なんて、言ったのだろうか。
白い靄がかかったように、記憶はそこで途切れた。ハッとしたように、ロイは再び夜空を見上げる。
今まで一度も歩みを止めなかった足が、遠い記憶の言葉に導かれるように、ゆっくりと明けの明星が指し示す方角へと進んでゆく。
長い夜が明け、東の空が血のように赤く、世界が白く染まり始める頃。
心身ともに限界を迎え、仲間たちの誰もがもはやこれまでかと天を仰ぎ、諦めかけたその時だった。
朝日が天からのスポットライトのように、崖の先端の一点を照らし出す。
そこに夜の涙を吸って咲いたかのように夜露に濡れ、淡く神々しいまでの白い光を放つ、たった一輪の花が咲いていた。
それは紛れもなく、彼らがその命を賭してでもと探し求めていた幻の花。
「アマテラスの花」だった。
「……あった……。本当に、あった……」
探し求めていた美しい花の姿に、ロイの灰色の瞳から一雫だけ熱い涙が静かにこぼれ落ちた。
仲間たちもまた、心の底からの安堵に表情を崩し、涙を浮かべながら互いの肩を強く叩き合った。
だが、花を見つけられれば終わりではない。
ここからが本当の時間との勝負だった。
「みんな、もう限界なのは分かってる。あと少しだけ、俺に力を貸してくれ!」
「おう!」
「もちろんだ!早くナナミの元へ急ごう!」
***
長く、残酷な夜を過ごしたのは、ロイたちだけではなかった。
一晩中、猛毒に喘ぎ苦しむナナミを介抱するクロエもまた、その精神を極限まですり減らしていた。
なぜロイは、自分に残れなどと言ったのだろう。
もし万が一、間に合わなければ。自分がこの手で、ナナミにとどめを刺すことになるというのに。
──いや、むしろ。
いっそのことこの子がいなくなれば。
一瞬、純白の紙にどす黒いインクが一滴落ちたかのように、醜い考えが頭をよぎり、クロエはぶんっと激しく頭を振った。
バチンッ、と乾いた音を立て、思い切り自らの両頬を強く叩く。
眠そうにナナミの顔を見つめていたピィが、その音にびくりと小さな身体を揺らした。
(弱気になっちゃだめ……!)
みんな今この瞬間も、必死に幻とも言える花を探しているんだ。
あたしはあたしに出来ることをしなくちゃ!
残りの丸薬を砕いて水に溶かし、意識のないナナミの口へと無理やり流し込む。
雪のように白かった肌が、どんどんと生気のない薄灰色に染まっていく。
呪いのせいで腕にまで広がった黒痣と毒の色が混じり合い、彼女の命を確実に蝕んでいくたびに、青白くなった唇からは苦痛に満ちたか細いうめき声が漏れた。
見ていられなかった。
けれど、一人ぼっちで耐え難い苦痛と孤独に戦っている彼女を、放っておけるはずがなかった。
この丸薬を作った、優しい巫女の顔が脳裏に不意に浮かんでは消える。
「ミコちゃん……お願い……ナナミを守って……」
ナナミは呪われている。
圧倒的な力の裏に、そんな悲しい秘密を隠していたなんて。
いつからだろう、私たちは彼女を疑いの目で見ていた。
こんなになるまで必死に戦って私たちを守ってくれたというのに。
強力な魔法を使えば使うほど、彼女の魂と生命を蝕んでいく死の呪い。
想像を絶する苦痛を、彼女はなんてことない顔で耐え抜き、私たちを癒してくれた。
そんな子が敵なわけないじゃない。
そんないい子を、この手で殺せるわけがないじゃない。
「ナナミ、死んじゃだめ。絶対に死なせたりしないから……!もうすぐ、ロイたちが帰ってくるんだから。だから、絶対に負けちゃだめよ。魔に堕ちたりしたら、許さないんだから!」
それは心から溢れ出た、嘘偽りのない彼女の本当の言葉だった。
冷たくなりかけた手を強く握れば、弱々しいながらも、確かに握り返してくる。
まだ私はここにいる、まだ生きていると、言わんばかりに。
辺りがゆっくりと白み始めてきた。
遠くで、サザリの騎士団が神官たちと何かを話している。
もしナナミに何かしようものなら、ここにいる全員を敵に回してでも、その指一本触れさせはしない。クロエはそう固く覚悟を決めた。
それでも、心のどこかで奇跡を祈ってしまう。
──お願い。ロイ、みんな。早く、早く戻ってきて。
必死に祈りを捧げていると、道の先、朝焼けの赤い光を背負って、見慣れた仲間たちの姿が見えた。
「ロイ!みんな!」
泥だらけでズタボロになりながら息を切らし、疲れ果てて、もはや限界のはずの仲間たち。
彼らの満身創痍の姿を見つけただけで、クロエの目頭がじわりと熱くなった。
「アマテラスの花は、あったの!?」
ロイは返事の代わりに、ただ高々と右手に握りしめた一輪の白い花を掲げた。
それを見たクロエは、泣きそうになるのをぐっと堪え、ナナミの顔へと向き直った。
「ナナミ!ナナミ、しっかりして!みんなが帰ってきたのよ!もうすぐよ、もうすぐあんたを助けられるわ!」
皆がナナミのもとへ駆け寄る。
シルリアの震える指先が、それでも正確にアマテラスの花をすり潰していく。
クラリスが精霊たちに力を借り、清らかな水を数滴落として静かに混ぜ合わせると、淡く光を帯びた雫は真珠のように柔らかな輝きを放ち始めた。
ロイは出来上がった薬を、限界寸前のナナミの乾いた唇へ、一滴、また一滴とゆっくり注いだ。
彼女の喉が嚥下するたび、見守る仲間たちも同じようにゴクリと喉を鳴らす。
最後の一滴を飲ませ終え、苦悶に寄せられていたナナミの眉間がふっと緩んだ、その時だった。
「ピピィッ!」
沈黙を破り、ピィが歓喜の声を上げる。
「見て!ナナミの腕が!」
シルリアの叫びに、皆が目を凝らした。
灰色に蝕まれていた肌が、朝靄が陽の光に溶けるようにみるみる浄化されていく。
おぞましい毒は消え去り、雪のように透き通る白肌が戻っていく。
浅く乱れていた呼吸も、春の微睡みのように穏やかさを取り戻し、やがてナナミは長い睫毛を震わせ、薄く瞳を開いた。
「ナナミ……!」
冷たい手を握り続けていたクロエが、涙声で彼女の名を呼んだ。
ナナミが視線を向けると、そこにはぐしゃぐしゃに濡れた美しい泣き顔があった。
「あんたは……!あんたって子は……!本当に、馬鹿みたいに、心配をかけるんだから……!次こんな無茶をしたらっ、絶対に許さないわよ……!」
「クロエ……?」
困惑するナナミをクロエは感情のままに思い切り抱きしめた。
強く、けれど壊れ物を扱うように優しく。
周りを見れば仲間たちが皆、傷と泥だらけでボロボロになっているのに、ひどく安堵したような優しい顔をこちらへ向けていた。
「間に合って本当によかった……。クロエも徹夜で看病、大変だったろ。少し休め」
ジークがその場にへたり込み、深く息を吐く。
「とりあえず腹減った……なんか食うもんねぇのか」
ナックのいつも通りの言葉に、張り詰めていた空気がふっと和んだ。
「あたしはなんてことないわよ!あんたたちこそ、本当によく見つけてきてくれたわ……!ありがとうーっっ!そんな、ボロボロになってまで!ほら、こっちに来なさい!傷の手当てをしてあげるんだから!」
クロエは涙を乱暴に袖で拭うと、今度は甲斐甲斐しく仲間たちの手当てを始めた。
「君たちも見守ってくれていたんだね。優しい子たち、どうもありがとう」
どうやら精霊たちもナナミを心配していたようで、クラリスは周囲の気配に優しく微笑みかけている。
戻ってきた日常。
温かい騒がしさに紛れ、誰にも気づかれまいとしたのか、ナナミの唇の端がほんのわずかに綻んだ。
ただ一人、ナナミの変化から一瞬たりとも視線を逸らさなかった者がいたことにも気づかずに。
「ナナミ」
「!!……ロイ。あなた、肩の傷は……」
倒れる直前のことを覚えているのだろう、無理に起き上がって手を伸ばそうとしたナナミをロイは静かに制した。
代わりに彼女の腕を取り、二度と離すまいとするかのように、強く握る。
やたら真剣な眼差しに、ナナミはむず痒さを覚えて思わず視線を泳がせた。
耳の奥に残っている。
先ほど自分を呼んだ、いつもとは違う熱を帯びた声が胸の奥をざわつかせてやまない。
「……よかった、本当によかった。ははっ、ははは!」
泣きそうなのに、どうしようもなく優しい声色だった。
──倒れている間に、彼の身に何があったのだろう。
不安そうに見上げるナナミに、ロイはかすかに笑みを浮かべた。
生きていてくれた。
耐え抜いてくれた。
助けることが、できた。
たまらずに、ロイはナナミをそっと抱きしめる。
「ロイ、苦しいわ」
「いつも無茶をさせて、ごめん」
「それはこちらの台詞だわ。私は平気よ。それより、あなたが無事で……人が心配しているのに、なにを笑っているの?」
「はは、ははは!」
彼女らしい強がりに、ロイはもう嬉しさが堪えきれずへにゃりと相好を崩して笑った。
心の底から、幸せそうに。
かくして、ナナミの命の灯火は仲間たちの不屈の魂によってもたらされた奇跡の花の力で、かろうじて繋ぎ止められたのだった。




