2-3 「束の間の安寧」
からくり屋敷から命からがら這い出してきた一行は、文字通りボロボロだった。
修行のためにわざわざ着た鍛錬着はあちこち汚れ、埃にまみれ、皆の顔には疲労の色が濃く浮かんでいる。
体は打撲や擦り傷だらけで、特に早々に脱落したロイとナナミは、まだ少し顔色が悪い。
そんな彼らの中で、ただ一人汗ひとつかいていない涼しい顔のナックが、庭の隅で重りのついた太い木棒を軽々と振り回し、ぶうんぶうんと風を切る音を響かせている。
まだ体を動かす余裕があるのかと、他のメンバーはさらにどっと疲れが増すのだった。
「おぅおぅ、皆よう頑張ったのう!その根性や良し!ではでは、お待ちかね!このツクヨの国が誇る、天下の名湯……温泉じゃ♡」
ミコトがぱん、と柏手を一つ打って満面の笑みで告げた。
「「「「温泉!!!!」」」」
力尽きかけていた一行の目に、一斉に生気が戻り、ぱあっと輝きが灯った。
疲労困憊の心身に、これ以上ないほどの甘美な響き。まさに地獄から天国への誘いだった。
***
——女子風呂。
竹垣に囲まれた、趣のある露天風呂。
湯船にはなめらかな岩が組まれ、湯口からは絶えず清らかな湯が注がれている。
ふわりと立ちのぼる湯気の向こうには、満天の星が瞬く夜空が広がっていた。
水面には淡い月明かりが映り込み、銀河の湯に浸かっているかのような、幻想的な美しさだ。
時折、夜風が湯面に浮かべられた季節の花びらを優しく揺らす。
「はぁ〜〜……生き返る……」
シルリアが至福の表情で肩まで湯に沈み、長いため息をついた。張っていた気が緩み、騎士の顔から年相応の少女のような顔に戻っている。
「ほんっと、最高……!露天風呂って。景色も綺麗だし……」
湯船の向こう側で、クロエもまた岩にゆったりと背を預け、蕩けるような表情で頷いた。まとめ上げられた桃色の髪が湯気でしっとりと濡れている。
「うん……。でも、ちょっと勿体無いね。ナナミは結局来なかったんでしょう?」
シルリアが残念そうに呟く。
「部屋の隅で布団にくるまって、『温泉はいい』ってさ……。ふふ、なんだか拗ねてる子供みたいだったんだから」
クロエが先ほどのやり取りを思い出してくすくすと笑う。
「ね。意外と人間らしいというか、女の子らしい一面が見れた気がする。ここに来てからさ」
「出会ってからゼロの一件まで……正直、ずーっとなんだか感情が読めなくて、人形みたいで……怖いくらいだったもんね」
湯に浮かぶ花びらが、ゆらり、と二人の間を流れていく。静かな湯音だけが響く中、ぽつりとシルリアが問いかけた。
「……クロエは、どう思う? ナナミのこと……」
クロエは湯面を見つめ、少し考えるように黙った後、静かに口を開いた。
「……まだ、よく分からない、かも。とっつきにくいのは確かだけど……。でも、やっぱりあの力は凄い。もし本当に味方でいてくれるなら、これほど心強いことはないと思う。……そう、味方でさえいてくれれば、ね」
「その、『味方であるかどうか』の確信が持てない……」
シルリアの声には、わずかな不安が滲む。
「あの力もそうだけど……時々、すごく遠い目をする時があるでしょう? 私たちとは違う何かを見ているような……。それにあの子、前に言ってたわよね? 以前、一緒に旅をしていたパーティは……全滅したって」
「……まさか、ナナミが……?」
クロエの顔から血の気が引く。最悪の想像が湯気の向こうにゆらめいた。
その時だった。
「裏切りじゃーーーー! 悪い子にはお仕置きじゃのう!」
「「きゃーーーーーっ!!」」
突如、背後からぬっと現れた小柄な影が、遠慮も呵責もなく二人の豊満な胸をわし掴みにし、一揉み、二揉みした後で感触はそのままその手を自分の胸に重ねる。
圧倒的にナニかが足りていないようだった。
「ワシよりも若いくせに、発育が良過ぎじゃ!」
信じられない、と言った顔でミコトが2人を見つめる。ひどく傷ついた顔をしていた。
「ミ、ミコト様!? いつの間に!?」
「もう〜!立ち聞きなんて、たちが悪いですよ!」
シルリアとクロエが悲鳴を上げて、自身のバストを抑えつつミコトに小さな抗議をしてみせる。
「しつれいな!ワシはただ、湯加減を見に来たついでに、たまたま話が聞こえてきただけじゃ!これは盗み聞きじゃ!」
「それを一般的には立ち聞きって言うんですってば!」
湯の上にぷかぷかと浮かべた、アヒル隊長の形をした浮き輪の上で、ミコトがふんぞり返りながら、片手にお猪口を持ち、優雅にお酒を口に運んでいる。
子供のような外見と裏腹に、仕草には妙な色気とどこか食えない風格が漂っていた。全く悪びれる様子はない。
「まあ、安心せい」
ミコトはくいっとお猪口を干すと、悪戯っぽく笑った。
「あやつは味方じゃよ。このワシの星詠みがそう告げておる。間違いはない。……ただ、まあ……なんというか……色々と下手くそなだけじゃよ。生きるのも、伝えるのも」
ミコトはそう言うと、ふっと夜空を見上げた。
ちょうどその時、満天の星空を切り裂くように、一筋の長い流れ星が静かに尾を引いて消えていった。
三人はしばし、光の軌跡を目で追っていた。
「……巫女様が、そこまで言うのなら……本当に、そうなのかもね……」
クロエが肩の荷が下りたように、ふぅ、と息をついて湯に沈み直す。
シルリアもまだ少し疑念は残るものの、ミコトの言葉に少しだけ安堵したように頷いた。
「さてさて!辛気臭い話はここまでじゃ〜!」
ミコトはぱん、と手を叩き、にわかに目を輝かせる。
「せっかくの女子会じゃ!女同士、もっと華やかな話をしようではないか!そう、恋バナじゃ〜♡」
「こ、恋バナ!?」
シルリアとクロエの声が裏返る。
「うむ!これだけ若い男女が集まって旅をしておるのじゃ!惚れたの腫れたの、一つや二つあって当然!むしろ少ーしくらい爛れているくらいが、若者らしくてちょうど良いに決まっておるわ!どうじゃ?ナックは他の女子にちょっかいなど出しておらぬか〜?んん〜?」
ミコトがニヤニヤしながら二人に詰め寄る。
「あ、あたしたちはアストリアを救うために旅をしてるんです! そんな爛れた関係だなんて、滅相もありません!」
クロエが慌てて否定する。
「ほう?にしては主、顔が真っ赤じゃぞ?」
「これは、のぼせただけですっ!」
シルリアが咳払いを一つして、話題を変えようと口を開いた。
「そ、それよりも、私はナックとミコト様が、どういった馴れ初めでご婚約されたのか、ぜひお聞きしたいです。本当に驚いたんですよ。ナックはそんな気配、一ミリも見せませんでしたから」
途端にミコトはげぇ、とでも言うような顔をして、ぷいっとそっぽを向いた。
「……つまらん話じゃ。星辰の盤が『この者と縁を結べ』と示したから、国のしきたりに従ってそうなっただけじゃ。あんな筋肉のことしか頭にない朴念仁、ワシのタイプではこれっぽっちもないわい」
「えっ、ナックって昔からあんな感じだったんですか?」
クロエが興味津々に尋ねる。
「そうじゃよ。全くもってなんともつまらぬ男じゃ。物心ついた時から、修行、修行、鍛錬、鍛錬、稽古、稽古の一つ覚え。色気もへったくれもない。あやつもワシと同じで盤と国に決められた相手と、決められたように結婚させられるだけの存在じゃ。本望ではなかろうて」
「へぇ……なるほど……。たしかにナックって恋愛沙汰には全くもって興味なさそうですもんね……」
シルリアが納得したように頷く。
「ていうか、そもそも婚約って言葉の意味をちゃんと理解してるかどうかも怪しいわよね、あいつ」
クロエが苦笑いを浮かべる。
「ああ、情けない、実に情けないわ……! 我が夫になろうという者が、浮いた噂の一つも立てられぬ朴念仁とは……! 女の甲斐性がないのう、ワシも!」
ミコトはなぜか嘆き始めた。
そこへ突如バタバタと慌ただしい足音が響く。
おかめの面をつけたミコトの従者が、湯気で曇った脱衣所の戸を勢いよく開けた。
「ミコトさま!ミコトさまは、こちらにおいででしたか!?お姿が見当たらず、皆で心配しておりましたぞ!」
「おっと!なっはっは!もう見つかってしもうたか!残念じゃ!」
ミコトは舌を出しておどける。
「なりませぬよ、ミコト様!そのような場所で、よその者にご自身の御身を無防備に晒されるなど、あってはなりませぬ!」
従者が必死に諫める。
「かたーいこと言うでない!よいではないか、よいではないか!世界を救う勇者一行と、こうして裸の付き合いをするのも一興というものじゃ!」
「なりませぬと申しております〜!」
従者に文字通り引っ張り出されるように、ミコトはアヒル隊長の浮き輪を小脇に抱えて脱衣所へと向かう。が、戸口でくるりと振り返り、悪戯っぽく片目を瞑って言った。
「あぁ!そうそう、言い忘れておったわ!月の刻を過ぎると、ここの湯は男女入れ替わる仕掛けになっておるからの!間違って入って、あっはーん、うっふーんなハプニングにならぬよう、よぉーく気をつけるんじゃぞ〜!なっはっは〜!」
どこからともなく「かぽーん」と、間の抜けた鹿おどしの音が夜の静寂に響いた。
***
一方、男風呂。
女子風呂のしっとりとした雰囲気とは打って変わり、こちらは湯けむりの中から、まさに年相応とは言い難い、もっと幼稚な戦いのような、賑やかでかなりくだらない喧騒が響き渡っていた。
「うぉりゃああああ!この水は相当冷てーぞ!?ナック!」
「はっはっは!甘いぜ、ロイ!この程度でへこたれるオレ様では…ぶふぉっ!?」
ロイがかけた湯が、見事にナックの顔面を直撃する。
「あはは、ナック油断大敵だよ」
クラリスが優雅に微笑みながら、ちゃっかりと手桶で援護射撃を開始する。
「くっそー!お前ら、まとめてかかってこい!」
ナックが雄叫びを上げ、巨大な体躯で盛大な水しぶきを上げながら反撃に出る。
「おいおい、騒ぎすぎだ。他に誰かはいってくるか……うわっ!?」
あまりのはしゃぎぶりに注意しようとしたジークにも、流れ弾ならぬ流れ湯が降り注ぐ。
結局、彼も額に青筋を浮かべながら、大人げなくささやかな反撃を開始する。
湯かけ合戦はヒートアップし、そこかしこで水しぶきが上がり、笑い声と奇声がこだましていた。
「よーし、次は潜水対決だ! 一番長く潜れたやつが勝ち!」
「望むところだ!」
「僕も参加しようかな」
「……子供か、お前たちは」
ひとしきり騒いだ後、皆が湯船の縁に腰掛けたり、岩に背を預けたりして、火照った体を冷ます。
湯けむりの向こうには、満月が煌々と輝いていた。
岩にぐったりと寄りかかり、全身を湯に沈めながらひときわ幸せそうな、恍惚とした表情でロイが呟いた。
「……はぁ〜〜……。……俺、もう……このまま……温泉になりたい……」
素直で情けない願望に、一瞬の静寂の後、男たちの間からどっと大きな笑い声が湧き上がった。
「ぶわははは! ロイ、お前勇者だろ!?」
「温泉に転職希望か?」
「気持ちはすごく分かるよ、ロイ」
「そうだろ〜?!わかる男だ……クラリスは……」
旅の苦労も、命の危険も、複雑な思いも、ほんのひとときだけ。
温かな湯と、くだらない仲間たちの笑い声の中に、すべてが溶けて流れていくようだった。




