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ruth story  作者: Cy


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7.5-3「奇跡を追う夜」



ロイの肩から血が滲んでいた。

深紅の雫は地べたに落ちるたび、乾いた土に鮮烈な痕跡を残す。

だが、そんな光景を目にしてもなおサザリは他人事のように一切の関心を示さなかった。

何か言ってやろうと立ち上がったクロエの肩を苦々しい顔をしたシルリアが制す。

皆、きっと同じ思いだった。

一言、何か言ってやりたいと言う思いすら唇を噛み締めて我慢する。


ただ1人をのぞいて。


王女の無関心を目にした瞬間、今まで我関せずでいたナナミの心の奥底に張り詰めていた最後の糸が、ついにぷつりと音を立てて切れた。

彼女は静かに歩み出る。

土を踏む音さえ消えたかのような、圧倒的な沈黙の中で。


氷のように冷たいライラック色の瞳が、真っ直ぐに王女を射抜いた。

「……あなたたちは、この旅の邪魔をしにきたのかしら?」


あまりに不敬な物言いに、サザリの取り巻きである高位神官が顔を真っ赤にして激昂する。

「な、無礼者!王女殿下に向かって、その口の利き方はなんだ!」


だが、ナナミは男の甲高い声など存在しないかのように、意にも介さなかった。

「お遊びの旅行気分で来られてはこちらが迷惑なの。王女様。戦う術も仲間を守る覚悟も持たずに、一体何をしにここにいるの?」


ナナミの言葉は、サザリの心を容赦なく抉った。

生まれて初めて自分より身分の低い者から、存在価値を真正面から否定されたのだ。

ただそこにいるだけで、尊ばれていた自分を“役立たず”などと蔑んだ目で見てくるのだ。

「な、なんですって……!」


硝子細工のように繊細で、それゆえにどこまでも気高い王女のプライドが、音を立てて砕け散った。

憎悪と屈辱に燃え盛る双眸が、射殺さんばかりに魔女の子を睨み返す。

視線が交錯する刹那、パチリと乾いた音が響いたかのように二人の間に激しい火花が散った。


張り詰めた空気はもはや物理的な圧力を伴い、周囲の者たちの肌を刺す。

いつか、この浮世離れした少女が何か途方もないことをしでかすのではないか……。

一行の胸に常にあった漠然とした不安が、今、現実という冷たい刃となって喉元に突きつけられていた。

仲間たちは息を呑む。

まさにこの瞬間こそが“いつか”なのだと、誰もが悟った。


ロイは肩に走る灼けるような痛みに顔を歪めながらも、二人の間に割って入ろうと必死に身を乗り出す。

乾いて掠れた唇が懇願の言葉を紡いだ。

「ふ、二人とも……どうか、穏便に……。話せば、きっと……」


だが、ナナミは一歩たりとも退かなかった。

彼女の足はまるで大地に根を張った古木のように、微動だにしない。

凛とした声が、ロイの弱々しい制止を切り裂いた。


「退いて、ロイ。この女には言葉を尽くしても決して分かりはしないわ。これはお遊びではないの。生きるか死ぬか……いいえ、アストリアの全ての未来を賭けた、私たちの旅なのだから」


その言葉が、王女側の矜持という名の乾いた薪に火を放った。

神官は顔を怒りで紅潮させ、声を荒らげる。

「伝説の魔女の子孫であろうと!これ以上の無礼は、断じて許されぬぞ!女神の御名において!」


「もしも女神エデルがこの場を照らしているのなら、“無礼”とやらがどちらの行いを指すのか、見極めてくださるでしょうね?」


ナナミは静かに氷の刃のような冷徹さで言い放った。

一触即発。

気候の良い穏やかな夜なはずなのに、凍てつくような冷気が場を支配し、誰もが一言も発せない。

仲間たちは研ぎ澄まされた刃の上で、息を殺して均衡を保っているかのような、極限の緊張感にただ固唾を呑むしかなかった。






人間たちの矮小な対立が作り出した極限の緊張を嘲笑うかのように、天から降り注いだのは圧倒的なまでの絶望そのものだった。



突如、上空で嵐のように魔力が渦を巻き吹き荒れる。

以前、一行が遭遇したものとは比較にすらならない、魂の芯まで凍らせるような強大で禍々しい気配。

大地は呻き声をあげて軋み、周囲の木々は生命力を根こそぎ吸い取られたかのように、急速にその緑を失い、枯れた枝を天に突き立てた。




「この気配……まさか!」




旅の始まりの頃、一行の前に突如として現れ、かけがえのない仲間の命を奪い去った忌まわしき記憶。

悪夢の具現、黒翼のマルザフィリアが再びその絶望の翼を広げ姿を現したのだ。


漆黒の鱗に覆われた巨躯は、まるで山脈が意思を持って動き出したかのようだった。

大きく広げられた翼は夜を覆い尽くし、星々の瞬きさえも飲み込んで、空そのものを奈落の色に塗り潰してゆく。


憎悪に満ちた瞳には、ただ一人。

深手を負い、満足に動くことさえ叶わない勇者、ロイの姿だけが映っていた。


「ロイ……!逃げろ!早く!」

仲間たちの絶叫が木霊する。

だが彼の身体は裏切り者のように重く、激痛が走り、俊敏な動きなど到底望めなかった。


マルザフィリアの顎が開き、毒の雫を滴らせる長大な牙が、一直線に彼へと向けられる。

時間が、スローモーションになったかのようだった。





瞬間。





ナナミは閃光そのものになった。

誰の目にも捉えられない速度で、彼女はロイの前に躍り出ていた。


「ロイッ!!」


守るべきもののために、彼女の内に秘められた魔力が、生命力ごと爆ぜる。

自らの命を薪として燃やすことをも厭わず、仲間たちさえ一度も目にしたことのない、究極の殲滅魔法を解き放った。

己の体を蝕む呪いが、待っていたとばかりにぞわりと肌を這い、魂の領域まで侵食してくる感覚に、ナナミは苦痛に顔を歪めた。


放たれた魔法は、夜空に散る星々の光を根こそぎ集め、一条の奔流へと凝縮したかのような純粋なる破壊の輝きだった。

それは銀河を束ねて鍛え上げた槍の如く、妖しい煌めきを放ちながらマルザフィリアの頑強な鱗を紙のように容易く貫き、巨躯を内側から爆ぜさせた。


魔力が空間を揺るがす轟音と、マルザフィリアの断末魔の絶叫が混じり合い、鼓膜を劈く不協和音となって世界に響き渡る。

騎士の中には衝撃に耐えきれず、膝から崩れ落ち、胃の内容物を吐き出す者さえいた。


やがて、耳を聾するほどの轟音が嘘のように鳴り止んだ。

ナナミが放った魔法の残滓が、立ち上る土煙の中でダイヤモンドダストのようにキラキラと煌めき、夜空へと儚く消えてゆく。


アストリア全土であれほどの脅威とされ、数多の命を屠ってきたマルザフィリアが、たった一撃で。

こんなにも華奢な、一人の少女が放った強大な魔法によって、塵と化した。

誰もが言葉を失い、一点を、皆の前に立つ小さな背中だけを呆然と見つめる。


これが、魔法。


これが、かつて魔王を封印したと云われる伝説の魔女の血を引く者の、真の力。


王女をはじめ、彼女に同行してきた者たちは皆、計り知れない実力を骨の髄まで思い知らされた。ロイたちですら、あまりの出来事に開いた口が塞がらない。


突如、ナナミの背中が陽炎のようにぐにゃりと揺らめいた。

瞬き一つの間に繰り広げられた攻防のせいで、仲間たちの誰一人として気づいていなかった。

彼女はロイを庇う刹那、彼が受けるはずだったマルザフィリアの毒牙の掠めを受けていたのだ。


雪のように白かった彼女の腕に元々刻まれていた呪いの紋様とは別に、醜悪な灰色の痣が広がってゆく。

まるで清らかな水面に落とされた一滴の墨汁のように、毒が肉体を蝕みながら、じわじわとその白い肌を死の色である灰色に染めていく。


ついに彼女はぷつりと、糸の切れたマリオネットのように力なくその場に崩れ落ちた。


「ナナミ!」

仲間たちの悲鳴が、静寂を取り戻した夜の闇に突き刺さった。

ロイの視界が、絶望に霞む。


傍らではマルザフィリアの巨体が形を保てなくなり、やがて砂のようにサラサラと崩れ、塵となって夜風に消えた。

本来であれば、幾人もの命を奪った恐ろしき魔獣をようやく葬り去ったのだ。

アストリア中が歓喜に沸き、祝杯をあげるべき勝利である。

多くの商人や討伐隊の儚い命が、かの魔獣によって無慈悲に散らされたのだから。

止めを刺したナナミは、救国の英雄としてその名を永遠に轟かせることだろう。

しかし、輝かしい勝利のあとに残されたのは、毒の苦痛にか細く身を捩り、浅い呼吸を繰り返す少女の姿だけだった。


神官は一目で、彼女の命が風前の灯火であることを悟った。

このままでは強大すぎる魔力ごと汚染され、魔に転じてしまうだろうと。

彼女は他の者たちとナナミを囲み、何やらひそひそと言葉を交わした後、まるで救いを与えるかのように、その実、諦念に満ちた首の振り方をした。


「……毒が回った時点で、もはや手遅れです。彼女が魔に堕ちる前に、昇華の儀を行い、この世の苦しみから解き放って差し上げるほかありません」


救済の言葉を借りた、冷酷無慈悲な死の宣告。

無責任な言葉が耳に届いた瞬間、ただ呆然と佇んでいたロイの中で何かが完全に砕け散る音がした。


ーーああ、そうだ。ゼロを失った、あの日とまったく同じじゃないか。


鼻をつく錆びた血の匂い。

腕の中で次第に失われていく仲間の温もり。

指の隙間からこぼれ落ちていく命を、ただ見ていることしかできなかった、あの日の無力な自分。


あんな絶望は、二度と繰り返させはしない。


「誰が……ッ、誰がナナミを犠牲にするなんて許すかァッ!!」


それはもはや人の声ではなかった。

心の奥底から迸る、傷ついた獣の咆哮だった。

ロイは肩の傷が裂けるのも構わず、神官の胸ぐらを掴み上げる。


「必ず助ける!ツクヨの国で手に入れた『アマテラスの花』の丸薬で、毒の進行を少しでも遅らせる!その間に、本物をこの手で見つけ出す!ナナミに指一本でも触れてみろ!ただじゃおかないぞ!」


仲間たちですら、見たことのないほどに荒れ狂うロイの姿。

王宮での彼も、旅路で見てきた彼も、温厚で、臆病で、誰に侮辱されようともヘラヘラと受け流す、プライドの欠片も感じさせない、道端の石ころのような男だったはずだ。

だからこそ激情に満ちた姿に、かつての彼を知るサザリさえも息を呑み、言葉を失った。


クロエが荷物袋から震える手で丸薬を探し出し、そっとナナミの唇に含むませる。

吐き出してしまっても、無理やりに飲ませ嚥下させる。

薬の効果か、わずかに毒の進行が緩んだように見えた。

だが、それは焼け石に水。

ほんの僅かな、残酷な時間稼ぎでしかない。


「……ナナミ、待ってろ。絶対に戻るから」

ロイは意識の混濁する彼女の耳元で、誓うように囁いた。


「……っ……。」

か細い声が、彼の名を呼んだ気がした。


「クロエ。ピィと一緒にナナミを守ってくれ」

「……わかった。ロイたちも、気をつけて」

「ピィ……」

小さな相棒が、悲しげに鳴き無事を祈る。


クロエとピィに後を託し、ロイは仲間たちを率いて闇の中へと駆け出した。




***


ポツリ、ポツリと、空から冷たい雫が落ち始める。

あの日、空が泣いていたのと同じ。

忌まわしい雨だった。

余計なことを考えないように、過去の悪夢を振り払うように、ロイはただがむしゃらに足を前へ前へと運んだ。

雨に濡れた外套が水を吸い、鉛のように重くなっていくが、決して速度を緩めはしない。


本当はナナミを失うかもしれないという恐怖で、心臓が張り裂けそうだった。

今にも叫び出して、泣き崩れてしまいそうだった。


けれど嫌だと叫んだとしても、時間は巻き戻りはしない。


アマテラスの花は、そこかしこに咲くありふれた植物ではない。

ツクヨの国以外で目にすることは、奇跡に近い。

かと言って今からツクヨの国へ向かっていては、到底間に合わない。

ナナミを救うには、この広大な土地のどこに咲いているかも分からない、一輪の奇跡を見つけ出す以外に道はないのだ。


八方塞がりという絶望的な事実ですら、突き破らんとする勢いで彼らはさらに駆ける。


ジークの槍が闇を払い、ナックの斧が道を塞ぐ茨を砕く。

クラリスは皆の心を繋ぐように励ましの詩を歌い、シルリアもまたその知恵を振り絞り、最も可能性のある道を示し続ける。


頼りになるのは雲間から時折顔を覗かせる、儚い月明かりだけ。

彼らは死に物狂いで駆けた。

険しい谷を下り、魔獣の群れを力尽くで突っ切り、ぬかるむ泥に足を取られ、血を流しながら。



それでも誰一人として足を止めようとはしなかった。

ロイの背中に宿るものの重さを、誰もが知っていたから。

言葉を超えて魂で結ばれた、かけがえのない絆だった。


夜の大地を駆け抜けるロイの叫びは、闇そのものを震わせる。

「待ってろ、ナナミ……必ず……必ず、お前を助ける!!」


***


一方で残されたクロエは冷たくなっていくナナミの手を両手で包み込み、必死に呼びかけ続けた。

額に滲む冷や汗を布で拭いながら、まるで自分に言い聞かせるように。


「大丈夫……絶対に助かるから。ロイが必ず、アマテラスの花を見つけてきてくれる。……ねぇ、ナナミ、あんたは強い子でしょう?」


ピィはつぶらな瞳で、ナナミの苦しげな顔をじっと見下ろしていた。

か細く途切れがちな呼吸。

痛みに耐えるために固く閉じられた瞼。

その小さな震えのたびにピィの羽が悲しく揺れ、か細い鳴き声が外幕を叩く雨音に混じって、静かな夜へと溶けていった。

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