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ruth story  作者: Cy


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7-9「正義の証明」

「あ、アストリアの、神聖なる神具を……!」


「貴様!万死に値するぞ!」


「今すぐこの異端者どもを火炙りに処すのだ!!!」


砕け散った『魂の天秤』。

ただの無機物と成り果てた無残な残骸を前に、それまでふんぞり返っていた高位の神官たちが、蜘蛛の子を散らすように狼狽し、ロイを一層責め立てる。

だが彼の耳には、自分たちの権威の象徴が砕かれたことだけに怯える、哀れな男たちの甲高い非難の声など、もはや届いていなかった。

確かな手応えに満足し、遠くから唾を飛ばし吠えるしか出来ない醜い者達に静かに背を向けると、ズタボロの少女の元へと歩み寄った。


やがて天秤が壊れ砕けた片翼から、澱んだ沼の底から湧き上がるかのような、どす黒く濃密な闇の邪気が瘴気となって溢れ出す。


やはり間違いではなかった。

魔王の魂が宿っていた天秤は正義を反対に示していたのだろう。

レオンだけではないはずだ。

一体何人もの可哀想な人たちがこの偽りの天秤に掛けられ犠牲になったのだろう。

鞘に収めた剣の柄を再び強く握りしめた。



大聖堂の「審判の間」は、例えるのであれば地獄の釜が開いたかのような、未曾有の混乱に陥っていた。


「そ、そんな……!魂の天秤からこれほどの邪気が流れ出すなど……っ!」

「浄化だ、浄化の祈りを捧げよ!階下にいる見習いどもを今すぐここへ集めろ!一人残らず命尽きるまで祈らせろッ!」


金と銀の豪奢な神衣を纏った高位神官たちが、恐怖に引き攣った顔で、声を震わせながら叫ぶ。

かつて自らの誇りであり、民を支配するための特権の証でもあったはずの“奇跡”の力は、いまや彼らの手から砂のように、するりと抜け落ちていた。

どれだけ声を張り上げ、天に肥えた手を伸ばしても女神からの応えはない。

微かな光すら、肥え太り汚職に汚れた彼らの手の上に降ってくることはなかった。


女神の力は彼らを完全に見放していた。

すべてはこの国の絶対的な正義を司っていたはずの神具「魂の天秤」が長きにわたり、魔王の魂をその内に封じ込めたせいで、誤った力が誤った者に、あまりに長い間委ねられていた。

そして今、一人の勇者の愚直なまでの真っ直ぐな剣によって、全ての道が正され隠されていた真実が、白日の下に晒されたのだ。


だからもう、女神は彼らに微笑まなかった。



腐敗し、傲慢に堕ちた高位神官たちの足元に、もはや神の庇護はなく、冷たい石の床だけがどこまでも広がっていた。

絶対的な事実がさらなる恐怖と混乱を呼び起こす。

誰もが口を噤み、逃げ場のない焦燥に顔を青ざめさせるなか、審判の間の重い扉が外から破城槌で打ち破られるかのように、轟音と共に力強く開かれた。


「なっ……!」


響き渡る複数の甲冑がぶつかり合う、荒々しい音。

逆光の中に浮かび上がったシルエット。


立っていたのは顔に深い傷痕を残した男、神官レオンだった。


背後には彼を慕う若き神官たち、真に民のために祈ることを知る者たち、この腐敗した大聖堂の中で最後の正義を見出した一部の聖騎士たちが、揺るぎない意志の光を目に宿し、整然とした隊列を組んで続いている。


「大聖堂を追放された、罪人の身でありながらよくも……!貴様、一体何をしに来た!」

憤る神官の声に、レオンはどこか哀しげに笑う。

懐から取り出した分厚い帳簿を、何の躊躇いもなく神官たちの目の前の石の床に叩きつけた。


「横領、献金の私的流用、見習い神官への暴行、有力貴族への脅迫、“魂の天秤”を悪用した不正な審判の数々……。真の罪人はどちらか、測りたくとも魂の天秤はぶっ壊れちまって測れねぇなぁ。うひゃー、お前ら神に仕える者のすることじゃねえだろ、これは。なあ?」


乱暴に開かれた帳簿のページからは、まるで悪魔の契約書のように、黒々とした筆跡で記されたおびただしい数の記録がこぼれ落ちていた。

見れば誰もが目を背けたくなるような、不浄と、強欲と、醜悪な人間の罪の数々。


「こ、このような下賎な者の、根も葉もない言葉など信じてはなりませぬぞ!ミハエラ様!どうか神の御意志を!神聖なる大聖堂を穢す、不届き者たちに正しき裁きを!」


高位神官の一人が最後の希望のように、最上に控える巫女ミハエラに縋るような声を上げる。

声音はもはや、権力者の威厳でも聖職者の尊厳でもなく、哀れな懇願でしかなかった。

だがそれに反論するかのように、レオンは自身の魂の全てを搾り出したかのような凄まじい叫びを放った。


「ミハエラ!お前はいつまで目を閉じたままいるつもりだ!?この国を、この大聖堂を……腐りきった連中の汚れた手の中に、預け続けていいはずがないだろうが!見て見ぬ振りをするのは、もうやめろ!」


彼の声はどこか祈りに似ていた。

長年友を案じ、国を憂い続けてきた男の、迷いも恐れも全てを超えて真実を求める、命を懸けた訴えだった。




「……静粛に」


女神エデルの代理とされる巫女・ミハエラが、レオンの叫びに応えるかのように、ついに閉ざし続けていた薄い唇を開いた。

たった一言で審判の間に満ちていた、あらゆる喧噪が、冬の湖面が凍てついたかのようにぴたりと止まった。

空気そのものが、音を発することを拒んだ。

誰もが言葉を失い息を飲む。

冷たい石の床に彼女のどこまでも澄んだ声だけが、荘厳な余韻のようにいつまでも残っていた。



ミハエラは静かに審判の間を囲むように広がる手すりまで歩み出ると、未だ燻り続ける天秤の残骸から溢れ出す瘴気に向かって、そっと細い手をかざした。

彼女の白魚のような掌から放たれた光は清浄でそれでいて、何よりも強く崇高なものだった。

ここにいる神官たちが、とうの昔に失ってしまったはずの“本物の奇跡”があった。

慈愛に満ちた光は、見る間に瘴気を溶かし、朝の深い霧が昇る太陽の光に焼かれて消え失せるように、この場に満ちていた、全ての邪気を根こそぎ消し去った。

審判の間が一瞬にして、生まれたての朝のように浄められていく。

何人たりとも抗うことのできぬ、真なる“力”の顕現だった。

彼女はゆっくりと振り返ると、この場にいる全ての者に厳かな審きの視線を向けた。

美しい灰色の瞳に宿っていたのは、怒りでもなければ、憐れみでもない。

絶対的な正義そのものだった。


「……その者たちを、牢へ」


ミハエラから言葉が放たれたとき、ようやくこの場にいた全ての人間が、自分たちが本当の意味で“神のもとにある”という現実を心の底から、思い知ったのだった。


彼女が手に持つ儀礼用の杖で、静かに指し示したのは、レオンでも勇者一行でもない。

これまで権力をほしいままにしてきた、金と銀の神衣を纏う高位の神官たちだった。


“女神エデルへ祈りを捧げても、応えてくれなかった”

魂の天秤で測らずとも、誰の目から見ても明白な答え。

女神からどんなに愛されていようとも、邪な気持ちがあれば奇跡は起こらない。

ついに歪みきった権力構造が音を立てて完全に覆ったのだ。






やがて騒動が嘘のように収まり、ナナミの肩を抱えたロイは張り詰めていた緊張の糸が切れたように、急に床にへたり込んだ。

ふと強い視線を感じて顔を上げると、最上階からミハエラがじっと冷たいとさえ思えるほどの、無感動な顔で自分を見つめてくる。


ロイは自分がしでかしてしまったことの重大さを、今更ながらに思い出し、どっと嫌な汗が背中を伝い落ちた。

「ミ!ミハエラ様!もももも、もうしわけ、ございません!いや、その、これには、海よりも深い、わけが!」


結果としては魔王の魂が宿る神器を破壊できた。

あくまで“結果として”の話である。

断りもなく、国の神具を、しかも大聖堂の奥に祀られていた最重要聖具を破壊してしまったのだ。


自分はいまにも斬首される囚人のような気持ちだった。

どんなお叱りを受けるのかと、ただ怯えることしかできない。


しかし思っていた返答とは違うものだった。


「……もう、よいのです。すべては神意。最初から、こうなることは決まっていたことなのですから。いえ……“こうなる運命だった”とでも、言うべきでしょうか」


静けさを湛えた声に、ロイは拍子抜けするほどだった。

怒号もため息すらない。

遠い未来の結果をすでに知っているかのような不思議な口ぶり。


「……」


首の皮一枚で繋がったと、喜ぶべき場面なのだろうが、全てを見透かしたような不思議な話し方に、ロイはただ首を傾げることしかできない。


「まさか……魔王の魂が魂の天秤に宿っていたってこと、最初から知ってたんですか……?」


「……ええ。予感程度ですが。」


あまりにもあっさりとした肯定に、ロイはさらに驚く。

分かっていて、これだけの強者揃いの大聖堂で、魔王復活の危機があるというのに、知っていてなぜ壊さなかった?

なぜ放置していた?

ここはアストリアの大聖堂、歴代でも屈指の聖職者たちが集う場所だ。

万が一、魔王の魂が暴走すれば……国家規模の大惨事になっていてもおかしくなかった。


ミハエラはロイのその疑念を感じ取ったのか、目を伏せて言葉を継いだ。



「女神エデルは自ら手を差し伸べることはありません。ただ、我々の祈りに応えるのみ。

私が先んじて“正解”を選んでしまえば、神の意図した運命が捻じ曲げられてしまうかもしれない。

それでは意味がないのです」


全てはずうっと前から、神々がこのアストリアを創った日から決まっていた運命。

神の描いたシナリオを、ただ粛々となぞるような、それが“神意”というものだという。

一切の介入をせず、余計なノイズを生まない完璧な構造。



「伝書鳩の次は、ただの操り人形ってわけね。あなたも大変ね。たまには自分の運命を、自分で掴み取ってみてはどう?」


ロイの腕の中で、ナナミがややふらついた体を起こしながら、皮肉をたっぷりに吐き捨てた。


「ナナミ!やめなさい!なんでおまえは、回復士のくせに、巫女様相手に噛み付くんだよ〜!」


「その、呪い」

ミハエラが2人の会話を遮るように、静かに言った。


「呪い……!もしかして、解けたりしますか!?」

ロイが期待に満ちた目で、ミハエラを見つめる。

しかしそんな希望に満ちた目から背けるように、静かに目を伏せ、ゆっくりとかぶりをふった。


「……力づくで引き剥がすことは、できるでしょう。けれどその呪いは、もはや魂と一体化し深く絡みついています。

無理に剥がせば、彼女の魂は二度と戻らないほどに、損なわれてしまうかもしれません」


「そんな……」


巫女の代表である、彼女ですら解けないほどに進行してしまった呪い。

絶望感に苛まれる。

手遅れになるというアミーラの声が頭の中で何度も反響してしまう。

あれから魔法は使わせていない。けれどとっくに手遅れだったと言うのか。

そんなロイを横目に、ナナミは何事もなかったように立ち上がった。


「……別に呪いは解かなくても、問題ないわ。」

期待など最初からしていなかった、とでも言うように髪を靡かせた後、何も言わずに居心地悪そうにその場から立ち去ってゆく。


「ナナミ!待てよ!お前まだ本調子じゃないだろ?!」


それをロイが慌てて追いかける。

どこか危うげな二人の背中に、ミハエラは最後の一声を投げかけた。



「ハナレア諸島の巫女を訪ねなさい。彼女はアストリアの巫女の中で、一番呪いに詳しいはずですから」


「!はい!必ず、尋ねてみます。ありがとうございます!」


ロイは一度きっちり頭を下げて礼をした後で、またナナミの背中を追いかけていった。






全てを見届けた巫女ミハエラは、審判の間に静かに佇んでいた。


ーーようやく、終わったのだ。

罪を罪と分かっていても、口を閉ざし、目を背け、耳を塞がなくてはならない日々が。


永劫にも似た長い沈黙ののち、彼女はゆっくりと振り返る。

正面の壁一面に広がる、女神エデルを描いた巨大なステンドグラス。

そこから注ぐ黄金の光が、彼女の銀白の髪と真っ白な法衣を神々しく染め上げていた。


まろい光に包まれながら、ミハエラはふと目を細める。

眩しさに耐えるように。

いや、もっと深い、胸の奥底に差し込む痛みに、そっとまぶたを閉じた。


彼女の瞳もロイと同じ「灰」の色だった。


かつてその灰の瞳に、神託が宿った日。

神殿の奥、誰も入れぬ静謐の間で、聖なる火の揺らめきに照らされた彼女は、確かにこの耳で神の声を聞いた。


「この世界を救うのは、灰色の瞳を持つ勇者である」


その言葉は祝福であると同時に、呪いでもあった。


自分もまた“勇者”候補の一人だったのだ。

アストリアを救い得る者として、女神エデルに選ばれた存在。

だが、それは希望の証などではなかった。

すべての命の重みをたったひとりで背負う、厳しき運命だった。


ほんの少しの誇りと、ほんの少しの恐怖。

選ばれる可能性に安堵し、同時に選ばれる可能性を悔いた。

結局、神に最も近い存在として祀り上げられたがゆえに、誰よりも遠くに置かれてしまった。

自分は勇者になぞなれる存在ではなかった。女神の代理人などと立派な肩書を掲げておいて、大聖堂というちっぽけな世界ですら、ひ弱なこの手では変えることが出来なかったのだから。


神託の言葉は幾度となく彼女に訪れた。

灰の瞳をもつ者が一人たりとも消えぬ限り、アストリアの定めは果てなく巡り続ける。


終わりなき輪廻を告げる予言だった。

運命の流れを、ミハエラはただ遠くから眺めていた。

いや、眺めることしか許されなかった。


祈るだけの存在。

それが自分だ。

世界の均衡を崩さぬよう、余計な手出しをせず、神の意志を代弁するだけの代行者。

結局は牢に入れた者たちと同じ。

責任をとることなく、傍観する未熟者に過ぎない。


彼女の胸の奥に、鈍い痛みが広がる。

あの少女が言った言葉が棘のように心に刺さったままなのだろう。








「よお、ミハエラ。ご苦労だったな」


痛みの中、懐かしい声が静寂を破った。

ナナミとロイが完全に姿を消した後、レオンが審判の間に入ってきたのだ。

さらに一乱闘あったのだろうか。傷だらけの外套のまま、場違いなほど穏やかな眼差しを浮かべている。


「……あなたでしたか」

「どうだった?今度の勇者は」


ミハエラは少し間を置き、石造りの床に視線を落とした。


「全ては、女神エデルのお導きが決めること。そこに私の個人的な意思が、関係することはありません」


そんな風に告げながらも、彼女の声にはどこか微細な震えが混じっていた。

ほんの一拍の沈黙の後、彼女は静かに続けた。


「……ただ」


「ん?」


彼女はゆっくりと顔を上げ、レオンの目を見据える。

薄い唇がほんのりと柔らかな弧を描いた。

長きにわたってノイズを生ませないために、感情を封じてきた巫女にとって、奇跡にも等しい微笑だった。

レオンの眉が上がり思わず言葉を失う。


「運命をただ受け入れるのではなく、自らの手でねじ曲げようとする、愚かで、どこまでも愛おしい少女に私は少しだけ心を動かされました」


「……」


「私も……たった一つでいい。私自身の“運命”を、この手で掴み取ってみたいのです」


灰の瞳はもう曇ってはいなかった。

ステンドグラスの光を真正面から受け止めるように、澄み切って、強く清らかに輝いていた。


ミハエラは審判の間の最上階から身を乗り出し、眼下に立つレオンへと語りかける。


「レオン。どうか大聖堂へ戻り、この国に正しき道を示して欲しいのです。あなたほど強く、正しい魂を持つ神官を私は他に知りません」


祈りでも命令でもない「信頼」だけが込められていた。


「は、はぁ?俺が?だっ、でも!あの教会はどうなるんだ!?それに俺はあんたたちに、追放された身なんだぞ!?」


レオンは困惑したように頭をかきむしる。

ミハエラは静かに首を振った。


「あなたの潔白は最初から分かっていました。むしろこれまで起きた出来事は、大聖堂に溜まりに溜まった膿を、今日、全て吐き出すために必要なことだったのです」


彼女は振り返り、今はもう2人しかいない静まり返った審判の間を見渡す。


「教会も、大聖堂も、本来は一つの“祈り”を目指すもの。あなたがこの聖域を正しく導いてくださるでしょう?」


「伝書鳩でも、操り人形でもない、これが私の意志、願いなのです。」


ミハエラの口調は優しく、決して後戻りを許さぬほどに揺るぎなかった。


レオンはしばらく黙ったまま、考え込むように視線を伏せていた。

だが、やがて吹っ切れたように肩をすくめ、顔を上げる。

すっかりと板についたにやりとした笑みを浮かべながら言った。


「参ったな……まるで、昔のお前に戻ったみたいだな」


ミハエラの胸の奥に、ぽつりと小さな温もりが灯る。

真っ白な何も描かれていなかったキャンバスのような心に、初めて落とされた一滴のインク。


それがどんな未来を描くのかは、まだ誰にも分からない。

けれど、筆を取ろうと決めたのは自分自身だった。


ミハエラは微笑んだままそっと目を閉じ祈りを捧げる。


ーー女神エデルよ。

どうか今度こそ、この国が正しき夜明けを迎えますようにーー

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