7-5「ナナミ・マチルダ」
ロイがシスター達に頼まれた山のようなシーツを抱え、軋む廊下を歩いていると、ナナミが眠る部屋の扉の前で子供たちのひそひそと囁き合う声が聞こえてくる。
「ねえ見て、あのお姉ちゃん眠り姫みたいだね。ずっと寝てる」
「ばっか、お前知らないのかよ!あれは魔女なんだぞ!俺肖像画を見たことあるもん」
「えー、魔女って怖いんでしょう?人を食べちゃうって、本当なの?」
ロイは思わず足を止めた。
曲がり角からそっと声のする方へと目を向ける。
年端もいかない孤児たちが、扉の隙間からベッドで眠るナナミの姿を、好奇心と共に、大人から植え付けられた恐怖の目で見つめていた。
「こら、お前達。そんなところで何やってんだ?シスター・アガサが夕食の準備を手伝えって、探してたぞ?」
ロイがすっかりこの教会の兄貴分といった口調で声をかける。
まだこの教会来てから数刻しか経っていないというのに、彼のその人柄はすぐに子供たちの心を開かせ、はたから見ればまるで長年ずっとここにいたかのように、その場の風景に溶け込んでいた。
「あ!勇者のお兄ちゃんだ!」
「ねえねえ、勇者!なんであの魔女は、ずっと寝てるんだ?もしかして勇者がやっつけたのか?」
悪意のない、あまりに無邪気な問いかけがロイの胸にちくりと刺さる。
「やっつけたって……あのなぁ、あのお姉ちゃんは悪いやつなんかじゃないよ。アストリアのために誰よりもいっぱい戦って、そのせいで今はちょっと具合が悪いだけなんだ。だから静かに寝かせてやってくれな」
「魔女なのに、アストリアのために戦ったの?」
子供の一人が心底不思議そうに、小首を傾げた。
「ん?」
なんだか、話が噛み合わない。
その奇妙な違和感に、ロイもまた首を傾げた。
怯えたような顔をした、少女がおずおずと話を続ける。
「わたし、この前大聖堂の前で聞いたよ!キラキラの服を着た、太っちょの神官がみんなに言ってたもん。二百年前の魔女は悪い魔王を好きになっちゃって、魔に堕ちて、人々を混乱に陥れたって!だから、魔女はみんな怖いんだって!」
「好き……?」
「うん!らぶだよ!結婚したいのらぶって意味!」
「そ、それは分かるけど……」
“魔女は、自らが討つべきはずの魔王を、愛してしまったから”
先日、アミーラが言っていた言葉がロイの頭の中で、嫌な音を立てて反響する。
同じ一つの事実が、国によって、語る者の立場によって、こうも違う「物語」として伝えられていくのか。
ルミーナ王国では英雄として伝わっていた、魔王を封印したと謂れている伝説の大魔女、マリナ・マチルダ。
その名はどうやらこの国では、魔に堕ち、人々を混乱に導いた、恐るべき魔女の代名詞として、人々の心に深く刻み込まれているようだった。
「でも、その魔女様が魔王を封印してくれたのは、みんな知ってるだろ?」
「ううん、違うよ。本当は昔の勇者様が、悪い魔王を完全に倒して、アストリアは永劫に安寧の地になるはずだったんだって!なのに、悪い魔女が邪魔をして、魔王を倒せないように、封印するだけにしちゃったんだって!」
「……」
自分たちが信じてきた歴史とは違う物語に、ロイは返す言葉が見つからなかった。
「ねえ、勇者のお兄ちゃん。あのお姉ちゃんも魔女なんでしょう?だったら、いつかやっつけてくれるの?」
不安そうにどこか期待を込めて、子供たちが純粋な瞳で、ロイの顔を見上げてくる。
ロイは無垢であまりに残酷な問いかけに、どう答えるべきか迷った。
彼はゆっくりと屈みこむと、子供たちの目線に合わせ小さな頭に、そっと自分の大きな手を置いた。
「……俺の知ってる、あのお姉ちゃんはちっとも怖くないよ。すごく優しくて、誰よりも強くて、誰よりも悲しい人なんだ。だからもし、あのお姉ちゃんが目を覚ましたら、少しだけでいいから、話してみてほしい。そうすれば、きっと分かるから」
ロイのただならぬ真剣な様子に、子供たちはまだ半信半疑ながらも、何かを感じ取ったのか、こくりと、小さく頷いた。
***
教会の一室で、ナナミは夢を見ていた。
まだ自分が、何者でもなかった頃の夢。
誰かと、どこまでも続く道を旅をした記憶。
思い出すだけで痛いぐらいに胸が締め付けられるのに、どうしようもなく温かい光が心の隅々までを満たしてくれる。
あまりに馬鹿げていて、かけがえのない思い出。
全てが夕焼けのオレンジ色に染まる南の島。
リゼルナの花の甘い香りが、潮風に乗って優しく頬を撫でる。
穏やかな波の音が、心地よい子守唄のように響いていた。
隣にはいつも“あの人”がいた。
優しい手。温かい手。
その手が自分の髪を、壊れ物でも扱うかのようにそっと撫でてくれていた。
触れる指先から、ありったけの愛しさが言葉もなく、ただひたすらに溢れていた。
自分の左の髪で静かに輝いている髪飾りと同じ花を、彼は照れくさそうに、一本だけ手渡してくれた。
そして、互いの想いを確かめ合った。
一番大切で、一番幸せだった、記憶。
『ナナミのことが、好きなんだ』
その、少しだけ掠れた、真剣な声。
『……私も、あなたのことが、好きよ?』
まだ恋というものを、本当の意味では知らなかった、無垢な返事。
『……ちゃんと意味、分かってるのか?普通の友達としての好きじゃ、ないんだぞ』
私の純粋さを、心の底から愛おしんでくれるかのような、彼の優しい問いかけ。
『ええ、ちゃんと分かっているわ。夫婦になりたいっていう、特別な好き、でしょう?私のいた国ではね、数え年で十六になったら、もう結婚ができるのよ』
少しだけ背伸びをした、健気で、少しだけおませな言葉。
『ははっ!それは、もう何回も聞いたよ。……ナナミ。絶対に俺が、お前を幸せにするから。約束だ』
細められる、オレンジ色の夕日に染まった、彼の優しい瞳。
その中に同じくオレンジ色に染まった、幸せそうに微笑む自分の顔が映っている。
それだけで、よかった。
他に、何もいらなかった。
ただこの人と、二人でいられるのであれば、アストリアの果てだってどこへだって行けると思っていた。
“絶対に、幸せにする”と、そうあなたは、言ってくれたのに。
ーーーー
ーー
「……うそつき」
自らの冷たい呟きと、頬を伝う一筋の涙の冷たさで、ナナミは永い夢から目を覚ました。
濡れた頬がひどく気持ち悪くて、思わず手の甲で乱暴に拭った。
何を、今更。
とうの昔に失くしてしまった、過去の幻を思い出しているのだろう。
どんなに願ったって、どんなに祈ったって、“あの人”はもう二度と帰ってはこないのに。
ゆっくりと重い身体を起こして、辺りを見渡す。
自分の枕元、いつも大切に抱いている分厚い本の上で、ピィがすうすうと穏やかな寝息を立てているのを見つけて、なんでか心の底からホッとしてしまう。
本ごと小さな温もりを、そっと自分の膝の上に移した後で部屋の中を見回す。
古びてはいるけれど、埃っぽくはない。
隅々まで丁寧に大切に使われていると分かる、優しい空間。
自分が寝ているこのベッドも、決して柔らかいとは言えないけれど陽だまりの中のような、清潔ないい匂いがしている。
窓の向こうには、どこまでも青い海が広がっていた。
ああ、私はまたみんなに迷惑をかけてしまったのだろうか。
ピィを撫で、その柔らかな身体を優しくベッドの上におろすと、自分はずーんと鉛のように重たい身体を引きずるようにして、ベッドから冷たい床へと降り立った。
ギィッと、床が悲鳴のように軋んだ。
体は全くもって万全とは言い難い。
それも当たり前のことか。
私は魔法を使うために、魔のものと血の契約を交わした過去がある。
魔のものは祝福ではなく呪いによって、私に魔法の力を与えた。
だから魔法を使うたびに、呪われた証である醜い呪痕は、ゆっくりと少しずつ、私の身体を蝕んで領域を広げてゆく嫌な感覚がある。
そんな呪われた状態で、女神エデルの強力な神聖力に満ちた領域であるこの聖域にいれば、立っていることすらやっとになるのも当然のことだ。
でも、もう慣れた。
この悲しみも、この苦しみも、この地獄のような痛みも、その全ては私が過去に犯した罪に対して、私自身に課せられた当然の罰であるのだから。
ただ耐え忍ぶ以外に、私にはもう選択肢など残されていない。
ピリピリと微かに痺れる、自らの手のひらを見つめる。
この呪痕が私の全身に、くまなく回りきったその時、私は人であることをやめ、魔族になってしまうのだろう。
でも、きっとそうなった時には。
私の頼もしくて、誰よりも優しい仲間たちが、きっと、私を打ち倒してくれるはずだから。
そこまで考えて、ナナミはスッと美しい目を細めた。
ーーけれど、もし叶うのであれば。
もしほんの少しでも、女神様とやらが私に慈悲をくれるというのなら。
どうか最後の瞬間まで、かけがえのない仲間たちと共に旅をさせてほしい。
仲間たちと共に魔王を討ち果たすという、結末をこの目で見させてほしい。
それが彼女のたった一つの、誰にも言えない本当の願いだった。




