2-2「巫女の試練」
夜明け前の、ひんやりとした静寂。静けさの中に、カッ、カッ、と乾いた音が規則正しく響いていた。朝靄がかすかに漂う境内の庭で、竹刀が鋭く空気を裂き、力強く踏みしめる草の音が響く。
夜明けと共に始まった、ナックの鍛錬の音だった。
「……ふぁ……。……あいつ、こんな早くから……。……偉い、なぁ……」
ロイはまだ温もりの残る布団の上で、もぞもぞと寝返りを打った。
障子越しに差し込む柔らかな朝の光が、い草の香る静かな和室をじんわり淡く照らし出している。
昨日の到着からの緊張と疲労が、まだ重く体にのしかかっていた。
どうやら午後の睡眠から皆今まで一度も起きずに寝ているようだった。
ふと視線を巡らせた先、少し離れた場所に敷かれた布団で眠るナナミの姿が目に入った。
規則正しい寝息が聞こえる。
普段は感情を窺わせない彼女が、今はまるで警戒心の欠片もない、幼子のような穏やかな表情で静かに眠っていた。
眉間の皺もなく、唇もわずかに緩んでいる。
今まで見たどんな顔よりも安らいで見えた。
無防備な寝顔に、ロイの胸の奥で張り詰めていた何かがふっと解けるような感覚があった。
(こんな顔で眠れるなんて……。ここは、ナナミにとって少しは安心できる場所なのかもしれないな……)
そう思うと、自分自身の心も少しだけ軽くなる気がした。
ロイは再び心地よい布団に身を委ね、優しい微睡みの世界へともう一度落ちてゆこうと、深く息をついた。
「起きろ〜〜〜! 朝餉の時間じゃ〜〜〜!」
けたたましい声と共に部屋の襖がまるで爆発でもしたかのように勢いよく開け放たれた!
白装束の袖をひらめかせ、黒髪のおかっぱ頭を揺らしながら、仁王立ちでミコトがそこにいた。
片手は腰に当て、もう片方の手は高々と天井を指している。
「ツクヨの国随一の霊験あらたかなる巫女であるミコト様が!直々に腕によりをかけて作った朝餉じゃ!食べぬものに明日の太陽は拝めぬと知れ!心して食すが良いぞ〜!なっはっは〜!」
静寂は破られ、布団の中から一斉に苦悶の呻き声があがる。
ロイは飛び起きた心臓を押さえながら、半ば無理やり体を起こす。
少し離れたところに寝ていたナナミがひどく不機嫌そうに目を細め、あからさまな寝起きの悪さでミコトを睨みつけていた。視線はなかなかに鋭い。
広間の中央に据えられた大きな卓には、すでに豪勢な朝食が並べられていた。色とりどりの小鉢には、艶やかな季節の野菜のおひたしや煮物。
ほかほかと湯気を立てる、ふっくらと炊きあげられた白いご飯。
豆腐と若布が浮かぶ、良い香りの味噌汁。程よく焦げ目のついた焼き魚に、数種類の香の物まで。
どれも丁寧に、心を込めて作られたことが一目でわかる、見事な朝餉だった。
だが目の前に並んだ料理の魅力も、突然叩き起こされた眠気と昨日の疲労には勝てない。
誰もがまだぼんやりとした頭で、なかなか箸をつけようとしない。
唯一、すでに鍛錬を終えていたナックだけが、「お、ミコト! 今日の飯も美味そうだな!」と満面の笑みで、ものすごい勢いでガツガツと食べ始めていた。
「なんじゃなんじゃ、アストリアを救わんとする勇者とその仲間たちが、揃いも揃ってこの体たらくか!情けない!食事も満足に摂れんで、一体なにができようぞ!」
ミコトは腰に手を当て、呆れたように一行を見回す。
「よいか? 健全なる精神は健全なる体に宿るものじゃ。そして、健全なる体は健全なる食事から作られる! みな、無理してでも腹に詰め込むのじゃ!」
ミコトの有無を言わせぬ言葉に、一行は渋々といった様子で箸を取る。
恐る恐るひと口、またひと口と食べ進めるうちにしぼんだ朝顔のような顔に驚きと、次いで安堵の色が広がっていった。
(うまい……!)
丁寧に取られたであろう出汁の優しい旨みが、疲れた体にじんわりと沁みわたる。
派手さはないが素材の味が活きた、どこか懐かしくてほっとする味だった。
持ちにくいオハシになかなか慣れず、苦戦しながらも皆は次第に食欲を取り戻し、堰を切ったように食べ始める。
無表情だったナナミでさえ、小さな口で黙々と食事を進めていた。
「うむ、そうじゃそうじゃ!それで良い!沢山食べて、たくさん精をつけて、今日の試練に備えるのじゃ!」
ミコトは満足げに頷き、にやりと笑った。
言葉通り、慌ただしい朝食が終わるや否やミコトはさらに声を張り上げた。
「さぁ、食べ終わったら腹ごなしの時間じゃ!このツクヨの国、直伝のありがたーい鍛錬を受けてもらうぞ!」
有無を言わさず、半ば強制的に動きやすい麻の鍛錬着に着替えさせられる一行。
連れてこられたのは清らかな水の流れる音が響く、静かな庭だった。
空気は冷たく澄み渡っている。
まずは坐禅。
組んだ足の痛みにジークは顔を歪め、額に汗を滲ませながらも必死に耐えている。
次は護摩焚き。
燃え盛る炎のそばで、クロエは熱さに顔をしかめ、時折パチパチと爆ぜる火の粉に怯え、うっかり近づきすぎて大事なまつ毛の先が焦げかけて小さな悲鳴を上げる。
炎を前に女神エデルへの祝詞を捧げるその光景は、とても厳かで神聖な儀式のようにも見えたが、やっている本人たちはそれどころではない。
そして、最後の滝行。
ごうごうと音を立てて流れ落ちる激しい水流に打たれ、ナナミは気を失いかけながらも必死に耐えていたが、最後には足元をすくわれ、あっけなく滝壺へと流されていった。
すぐに阿形と吽形に救助されたが、とてつもなく青白い顔で、とてつもなく不機嫌そうにミコトを睨んでいた。
「よしよし、一人死にかけたが、まあ良い感じに精神が整ったようじゃな。心身ともに清められたところで、お次はこのワシ特製の『からくり屋敷』じゃ〜!」
ミコトに先導され、一行は森の奥深くにひっそりと建つ、古びた大きな屋敷の前へとやってきた。
屋敷の入り口や窓には、全くもって読めない達筆な文字がびっしり書かれた結界札が無数に貼られており、見るからに異様な、不気味な気配を放っている。
恐る恐る屋敷に一歩足を踏み入れると、その瞬間だった。
突如として横壁が開き、上からは巨大な拳が、下からは足払いを狙う棒が、四方八方から丸太のようなパンチングマシーンの仕掛けが予測不能なタイミングで飛び出してきた!
「うわっ!?」
ロイは反応する間もなく強烈な一撃を脇腹に受け、派手に吹き飛ばされて壁に激突し、目を回した。
「な、なんなんだよ、ここは一体!?」
打ち付けた体をさすりながら、ロイが呻く。
立ちあがろうと足を前に出した瞬間、後ろからまた衝撃が走りそのまま前に倒れ込みすっかり目を回してしまった。
「ここは修行場じゃよ!強靭なる精神と頑健なる肉体、そして何より不屈の気力を同時に高めるためのな!どれも魔王討伐には欠かせぬ大事なことじゃよ? みな、心してかかるのじゃ!」
声のした方を見上げると、なんと天井裏の梁の上からミコトがひょっこりと顔を出し、にこやかに手を振っていた。
神出鬼没ぶりに、またも驚きの声が上がる。
ナナミも涼しい顔をしながら果敢に挑むが、突如として目の前の床が抜け、下から飛び出してきた巨大な拳に顎を打ち上げられ、あっけなく吹っ飛ばされる。
ムッとした表情で立ち上がり、機械を睨みつけ、今度は慎重に反対側へ進もうとするが……背後から迫る回転式の丸太に気づかず、またしても派手に吹っ飛ばされ、今度は完全に目を回してぐったりとしてしまった。
「なっはっは! こやつら、なかなか見込みがあるようで、まだまだひよっこじゃのう! そうかそうか、よし、そこの目を回しておる二人はワシが少し預かることにするぞ。残った者たちは己の限界を超えるまで、心してこの試練に励むように!」
ナナミでさえ、赤子の手をひねるように吹き飛ばされた事実に、残された仲間たちは顔面蒼白になる。
すでに修行モードに入っているナックが「よっしゃ、行くぞお前ら!」と気合を入れる声に、半ば涙目になりながらも、彼らは再び理不尽なからくり屋敷へと足を踏み入れるしかなかった。
「こ、こんなメチャクチャな訓練じゃ、実際の戦場で役に立たないわよ〜!」
どこかから飛んでくる拳を必死にかわしながら、クロエが悲鳴に近い嘆きを上げる。
すると、屋敷のどこからかミコトの楽しげな声が響いた。
「甘いのう、小娘!戦場で本当に役に立つのは、技や力だけではない。“予想外への対応力”じゃ!ワシのこのからくり屋敷の仕掛けは、世界一理不尽にできておる!これを乗り越えられれば、大抵のことには動じなくなるわ!」
言葉の通り、ミコトはまるで散歩でもするように、次々と襲い来るパンチや丸太をひらりひらりと優雅にかわしながら、ぐったりとしたナナミとロイを小脇に抱え、あっという間に屋敷の奥へと姿を消してしまった。
あの小さい体のどこに、そんな力を秘めているのだろうか。
ナック以外、あんぐり口が開いた口が塞がらない。
***
――ミコトの屋敷の、静かな縁側。
磨き上げられた木の床がひんやりと心地よい。
軒下に広がる手入れの行き届いた庭からは、青々とした芝の香りが爽やかな風に乗って運ばれてきて、鼻腔をくすぐる。
遠くからはまだ仲間たちの苦戦する声や、からくり屋敷の仕掛けが作動する音が微かに聞こえていた。
縁側に並んで寝かされていたロイとナナミ。先に意識を取り戻したのはロイだった。
「ん……う……。あれ、俺は……一体……? そうだ、あの屋敷で……。……ナナミ!?」
隣でまだぐったりと横たわっているナナミの姿に気づき、慌ててその肩を揺さぶる。
「ナナミ! おい、大丈夫か!? ……ナナミ……!」
しかし、彼女は苦しげに眉をひそめるだけで、一向に目を開ける気配がない。
(あのナナミが……こんなになるまで倒れるほどの威力だったなんて……。なんて恐ろしい屋敷なんだ……。いや、それよりもナナミは本当に大丈夫なのか……?)
ロイは本気で心配になり、青ざめた顔で彼女を見つめた。
「ほう、思ったよりも早かったのぅ」
不意に、背後から落ち着いた声が響いた。
「!!ミコト様!」
振り向くと、いつの間にかミコトが静かに立っていた。
「他の子らは、まだ皆からくり屋敷の中で奮闘しておるぞ。主も早う行って、仲間たちと汗を流してくるとよい」
そうこともなげに言われるも、ロイは先ほどの恐怖が蘇り、かたくなに首を横に振った。
「むぅ。仕方ないのう……。まあ、最後までやり遂げたら、それはそれは快いことがあるぞ!ほれ、勇者じゃろ?がんばるのじゃ〜!」
ミコトはどこから取り出したのか、小さな白いハンカチをちろちろと振って応援(?)してくる。
妙な圧に負け、ロイはしぶしぶ、トボトボとした足取りで、再びあの恐怖の屋敷へと向かうしかなかった。
どこか頼りない背中を見送りながら、ミコトは縁側に戻り、まだ目を閉じたままのナナミを見下ろした。
先ほどまでの快活さとはうって変わった、静かで真剣な声色で呟いた。
「……さて。主とは、ちと先に話しておかなければならぬと思うていたんじゃ。あやつらに聞かれぬ、この場所でな」
ミコトの低い声が静寂に落ちた瞬間、それまでぐったりと寝たふりを続けていたナナミの瞳が、すっと静かに開かれた。
ライラック色の瞳が、警戒の色を滲ませてミコトを見上げる。
「隠しても無駄じゃ。主が何を背負い、何を隠しておるか……ワシには星の光が教えてくれる。全て分かったうえで、敢えて問うぞ。主のその背中から感じる、深く、禍々しい気配……。ずいぶんと途方もない荷物をたった一人で抱えているようじゃが……主は、それを抱えて一体どこへゆくつもりじゃ?」
ナナミは黙ったまま答えない。
ただ、射るような視線でミコトを見返し、答える気はなさそうにその目を細めるだけだった。
「……寝たふりをしても無駄じゃと言うておろう! この、可愛げのない小娘め!」
しびれを切らしたのか、ミコトは悪戯っぽく笑うと、ナナミの柔らかそうな頬をむにーっとつねくり回した。
ナナミは反射的に「いった……!」と声を上げ、イラッとした表情でミコトの手を払い除け、上半身を起こした。
「……あなた、嫌い」
低い声で、吐き捨てるようにナナミが言った。
「ふふ、そうか? ワシは存外、好きじゃぞ。主のような……瞳の奥に、全てを諦めきった深い色を宿しておるにも関わらず、それでも必死に足掻こうとする、どうしようもない馬鹿者のことがな」
そう言って、ミコトはふっと表情を和らげ、少しだけ寂しげに微笑んだ。
ーー遠い昔の大切な誰かの面影を思い出し、目の前の少女に重ねているかのように。




