7-2「祈りの在処」
今日泊まる宿もない、かと言ってセレスティア聖教国内では野宿も禁止されている。
途方にくれるような現状、けれどチリチリと腹の底に湧き上がる焦りの色も濃くなっていた。
それまでどうにか平静を保っていたナナミの身体も、歩き回り疲れ果ててしまったのか、かくりと力なく傾いだ。
「おいナナミ、大丈夫か!?」
咄嗟に側にいたジークがその華奢な肩を支える。
彼の手に伝わってきたのは、酷く冷たい、人のものとは思えぬほどの体温だった。
聖域とされるこの国全体を覆う、清らかで強力すぎる神聖な気が、彼女の内に宿る「呪い」と激しく反発し、その生命力そのものを削り取っているのだろうか。
それでもナナミはフラフラの体に鞭打ち気丈に振る舞おうとする。
「私は大丈夫。なんでも、ないの……」
強がる彼女の唇も顔も真っ青だ。
ズキズキと痛む頭を押さえていると、ふらり、今度はさっきと反対側に倒れ込みそうになる。
「とか言って、立っているのもやっとじゃねーか。無理するな」
「……ごめんなさい」
あまりに弱々しい姿に、ロイの胸は氷の刃で抉られるかのように鋭く痛んだ。
課題がありすぎる。
目の前のことからさっさと片付けたいというのに、今日泊まれる宿もないなんて。
「このままではナナミの身体がもたない。ひとまず動ける者たちで、早く宿を探して情報を集めよう。私は聖騎士団員に知り合いもいるから、もしかしたら何か話を聞けるかもしれない」
ナナミの様子を心配しつつも彼女は至って冷静に仲間に諭した。
この状況で最も効率の良い方法を、シルリアは瞬時に導き出したのだ。
こうして一行は二手に分かれることになった。
シルリア、クロエ、ジーク、ナックは、聖騎士団の伝を頼りに街の中心に聳える大聖堂へ。
一方、ロイ、ピィ、クラリスとナナミは、この辺りで聞き込みをしながら、彼女が休める場所を探すことになった。
シルリアたちと別れ、ロイたちはなるべく人通りの少ない路地を選んで、ゆっくりと歩みを進めた。
しかしナナミの体調は一歩進むごとに、目に見えて悪化していく。
ピィが彼女の肩にとまりで、心配そうに「ピィ、ピィ」と悲しげな鳴き声を上げて寄り添っている。
やがてナナミはもう一歩も歩けない、とでも言うように道端の古いベンチに、崩れるように座り込んだ。
手の中にはいつも大切に抱えている、古びた分厚い本。
一度も中身を見せてもらったことはないが、一体なんの本なのだろうか。
彼女はそれを手放すところを見たことがない。
「クラリス……歌を聞かせてくれない……?あなたの歌が聞きたいわ」
途切れ途切れの、か細い声で彼女はそう懇願した。
元気づける様に、クラリスは明るく頷き笑顔を浮かべた。
「分かったよ。この国はアストリアの中でも、特に癒やしの精霊が多い土地なんだ。きっと君の苦しみを少しは和らげてくれるはずだよ。安心して」
竪琴を優しく構え、指先が弦に触れる。
紡ぎ出されたのは、夜明けの霧のように柔らかく清らかな旋律だった。
彼の歌声に呼応するように周囲の空気から、きらきらと輝く光の粒子のような、癒やしの精霊たちがふわり、ふわりと集まってくる。
彼らはまるで蝶が花に集うように、ナナミの周りを少し戸惑いつつも優しく舞い、苦痛を和らげるかのように、彼女の身体にそっと触れては溶けていった。
幻想的な光景の中、ナナミの強張っていた表情が少しずつ和らいでいく。
やがて彼女は安堵したように、重い瞼を閉じうつらうつらと眠りの縁を彷徨い始めた。
「ナナミ、寄りかかって大丈夫だからな」
せめてほんの少しでも楽になるようにと、ロイは彼女の頭をそっと自分の肩に寄せた。
伝わってくる、冷たい体温と弱々しい呼吸。
彼女を守ると誓ったはずの自分が、結局こうして彼女を苦しめている。
その無力さが彼の心を締め付けた。
「……僕、もしかしてお邪魔だったかな?」
そんな二人の様子を、クラリスがにやける口元を隠しながら、からかうように問う。
「ち、ちがう!そういうんじゃない!」
ロイは顔を赤らめながら、慌ててそう否定した。
精霊のおかげか、穏やかに夢心地になっているナナミの寝顔に、ロイは少しだけ安堵の息をつく。
ただ、以前よりもこうして彼女が力なく眠ってしまうことが明らかに増えた気がして、やはり忌まわしき「呪い」の存在を、意識せずにはいられなかった。
ロイはふと、心の奥底から湧き上がる根源的な疑問を口にした。
「なあ、クラリス……奇跡って一体何なんだろうな」
その問いにクラリスはうーんと、少しだけ考えた後で、いつもの軽やかな口調とは違う、静かな声で答えた。
「精霊の力は、あくまで対症療法のようなものなんだ。傷の痛みを少しだけ誤魔かすとか、溢れ出る血を一時的に止めるとか、できるのはその程度のことさ。あとはその人自身が持つ、治癒の力に頼るしかない。地域によっては精霊を信仰の対象にしている場所もあるようだけど、やっぱり女神エデル様の御業には到底及ばないよ」
「……女神エデルの、御業」
「そう。裂けた肉を瞬く間に繋ぎ合わせ、不治の病をもその光で打ち消してしまう。
女神様のお眼鏡にかなった、選ばれし者たちの敬虔な祈りを聞き届け、その御手を人々にかしてくださる。
それを畏敬の念を込めて“奇跡”と呼ぶんだ。
奇跡とは文字通り、この世界の理にかなわない、神様の偉業そのものなのだよ」
クラリスはそこで一度言葉を切ると、そっとナナミに視線を落とした。
「奇跡を起こせる巫女や神官、そして回復士には、二つのタイプがいるって、聞いたことがあるよ。一つはナナミみたいに、生まれた時から女神様の寵愛という、温かい陽だまりの中にいるような天才型。そしてもう一つは、自らの信仰という名の薪を、何年も何十年も燃やし続けて、ようやくその温もりを、ほんの少しだけ分けてもらえるようになる、努力型」
「そうなのか……。俺も奇跡が使えてたらな……」
そうしたらナナミに、こんな無茶をさせることもないのに。
ああでも、騎士になっていなかったら、勇者として選ばれることもなかったかもしれない。
ん。
そういえば、以前アリアは俺のことも女神エデルに愛されている、とか言っていたような……。
もしかして、本気で祈れば俺にも奇跡が使えるんじゃ……。
ロイはうんうんと唸った後で、試しにぎゅっと目を瞑り、両手を組んで必死に祈ってみたが、当然特に何も起きることはなかった。
「……今からでも、遅くはないんじゃないかな?僕らと同い年くらいの、あそこにいる神官さん、おそらく、血の滲むような修行を重ねて、十年くらいは経っていると見た!だから才能がこれっぽっちもないロイも、これから十年毎日欠かさず女神エデル様に愛の言葉を囁き続けて、その身も心も捧げれば……あ、ご、ごめんってば!ふざけすぎたね!」
そんなどこか気の抜けるような会話をしていた、その時だった。
「もし」
有無を言わせぬ深く重たい声が、二人の背後からかけられた。
クラリスとロイはびくりと同時に肩を強張らせる。
振り返ると、そこに立っていたのはナックよりもさらに背の高い、まるで岩から削り出したかのような屈強な体躯を持つ、一人の男だった。
その風化した岩のような顔にはかつての激しい戦いを物語る、大きな傷跡が立派な勲章のように刻まれている。
随分と厳つい目つきをした男は他の誰でもないロイの肩で眠るナナミを、じっと、射抜くように見つめていた。
因縁をつけようと絡んできた、どこぞのならず者だろうか。
一瞬だけ二人は最大限に警戒したが、よく見ると男のその逞しい身体を包んでいるのは紛れもなく神に仕える者が纏う、質素な神官服だった。
しかも階級は黒。
半端な実力では黒い神官服など着れないのだから、よほどの手練れなのだろう。
この男が?
こんなにもガラの悪そうな屈強な男が……神官?
人を見た目で判断してはいけない。
そう思いつつも、その得体の知れない存在感に二人の額には冷や汗が止まらなかった。
「この嬢ちゃん、どこかで見たと思えば、あの伝説の大魔女にそっくりだ。……それにその灰色の瞳。あんたらもしかして、近頃噂に聞く勇者一行か?」
男は厳つい見た目とは裏腹に、随分と気さくに話しかけてきた。
裏表のなさそうな態度に、ロイとクラリスは少しだけ警戒を解く。
「あ、ああ。まあ、俺たちは、そのようなもんです……」
「やっぱり、そうか!いやあ、こんなところで会えるとは、運がいい」
そう言って男は大きな手を差し出してきた。
握手を求められた二人は戸惑いながらもそのごつごつとした温かい手に応えた。
「僕たちに何か御用でも?」
クラリスが尋ねる。
「……ああ。とりあえず、俺の教会に来ないか?最近は大聖堂のお偉方がな、街の景観を損ねるようなものはすぐに排除しろってうるさいんだ」
男はナナミをチラリと見て、そう告げた。
彼女がここで眠りこけていることは、良くないことらしい。
少し迷ったものの、この聖都で、これだけ多くの聖騎士団がいる中で、まさか騙されることもないだろうと、二人は厳つい男についていくことを決心した。
「にしても、あんなに大きな大聖堂があるのに、他に教会まであるんですね」
眠るナナミをそっと背負ったロイが、隣を歩く大きな男を見上げながら、そう問いかけた。
「ああ。俺のいる教会はな、あのでかくて新しいだけの大聖堂がここに立つよりも、ずっと前からこの地にある教会だからな」
その言葉には彼の教会が持つ長い歴史への誇りと、今の大聖堂への、静かな批判が込められていた。
しばらく歩くと、爽やかな潮の香りが漂ってくる。
優しい潮騒も耳の奥をくすぐる。
街の裏側に位置する、海岸線に古びた教会は世界の喧騒から隠れるように、ひっそりと佇んでいた。
年季の入った煉瓦には、蔦が意図して壁に飾られたかのように、美しく生い茂っている。
そこはただの古びた教会ではなかった。
長い年月、この地で多くの人々の祈りと喜びと悲しみを受け入れ、その全てと共にあり続けた、「生きた場所」だけが持つ、不思議な温かみに満ちていた。
ここを見ていると、なんだか懐かしい気持ちになるのは、一体何故なのだろうか。
自分が心のどこかでずっと求めていた、「誰かが、いつでも安心して帰ってこられる場所」の、その原風景をこの古びた教会に見たような気がした。




