6-11「Unspoken, Undone」
魔獣の血臭と臓腑の腐臭が満ちる、地獄を煮詰めたかのような儀式の間。
むせ返るような邪気と死臭の中に、場違いなほど優雅で冷徹な足音が、カツン、カツンと響き渡った。
「やれやれ、国を騒がす害虫どもの様子を見にくれば、これはまたなんてひどい場所だ。妾の鼻がもげそうではないか」
気怠げな声と共に数人のお付きを引き連れて現れたのは、この国の女王アミーラだった。
その姿を認めたクロエは、過去のトラウマに突き動かされるように、咄嗟に一番体格の大きなナックの背後へと身を隠した。
アミーラは汚濁に満ちたその空間に眉ひとつ動かさず、ただ静かに目を伏せる。
唇から凛とした祈りの言葉が紡がれた。
「女神エデルよ、穢れた地に汝が慈悲の光を。我が祈りに今こそ応えよ」
彼女の身体から放たれた柔らかな光が波紋のように広がっていく。
魔獣の血で埋め尽くされた石床、おびただしく飛び散った肉片、淀みきった空気。
おぞましい全てが光に触れたそばから陽光に溶ける雪のように、瞬く間に浄化されてゆく。
誰もが固唾を飲んで、神々しいまでの力を見守った。
あれほど怠惰で世を拗ねた態度を見せながら、彼女は紛れもなく女神エデルに選ばれた正真正銘の巫女なのだと、一行は改めて思い知らされるのだった。
完全に浄化され静寂を取り戻した広間で、衛兵に取り押さえられた教団員のひとりが、アミーラの前に引きずり出され、乱暴に膝をつかされた。
女王は囚人に一瞥もくれず、顎をしゃくり、衛兵にその者のフードと仮面を外すよう、冷徹に命じる。
「……!」
剥き出しにされた素顔に、クロエは息を呑んだ。
心臓が氷の塊になって握り潰されたかのように、冷たく痛んだ。
幼い頃、クロエとロエベにとって、育ての親と言っても過言ではないほど、慈しみ深く、優しく接してくれた侍女マーサの顔だった。
「ねーちゃん、最初から全て仕組まれていることだったんだよ」
ロエベの諦めたような静かな声が、クロエの耳には、まるで遠い世界の響きのように聞こえた。
「そ、んな……マーサ!どうして、あなたが……」
「はぁ。あの女神へ捧げる舞に最も近しき才を持つ者が、まさかこんなにも早く、この国に帰ってくるとはね。これも魔王様のお導きか」
隠れていたことさえ忘れ、クロエはナックの背後から飛び出した。
マーサはそんなクロエを、床に這いつくばったまま睨み上げる。
かつて向けられた愛情に満ちていたはずの優しい眼差しは、今はもう見る影もない。
そこにあるのは、煮え滾るようなどす黒い憎悪に燃える瞳だった。
全身の血の気がさあっと引いていく。
指先から急速に冷えていく感覚。
凍りついた心臓が破滅を予兆するかのように、嫌な音を立てて脈打つのを感じた。
「揃いも揃って、気高き王族の皆々様!我々を捕らえたところで、もう遅い!魔力を失ったこの国は、ただ滅びを待つのみよ!」
マーサは狂ったような甲高い笑みを浮かべた。
そう、すべては教団が仕組んだ寸劇。
王宮内にマーサのような間諜を何十年もかけて育て上げ、魔王の器としてナナミをおびき寄せ、この国そのものを内側から崩壊させるための、壮大な茶番に過ぎなかったのだ。
「先に滅びておくがいい」
アミーラが虫けらでも見るかのような蔑みの瞳で見つめる中、衛兵に引き立てられてゆくマーサは呪詛のような捨て台詞を吐いた。
「我々は滅びない!すぐ、もうすぐに!我らが主、あの魔王様が復活なされるのだ!我らはまた以前のような、魔族と共に歩む、輝かしい暮らしに戻れるのです!流砂の書庫に眠る、あのお方の力によってな!」
「!!!」
クロエとロイは同時に目を見開いた。
「……やはりか」
アミーラは、ふぅ、と心底面倒そうに息を吐き、こめかみを押さえながら天井を目をやる。
きっと頭上には彼女の憂いを映し出すかのように、暗雲立ち込める空中神殿が、不気味な影を落としているのであろう。
一行の戦いは、まだ終わらない。
「この禍々しい儀式は、あそこに灯る魔王の魂とやらの、強大な魔力によるものか。まんまとそれにつられてやってきた哀れな魔獣共も、奴らの儀式の供物にされていたというわけか」
アミーラが静かに、確信を込めて呟く。
儀式の力の源が流砂の書庫にあることが、これで確定した。
「して、勇者よ?どうする?一国のいや、このアストリアの叡智の源泉を、破壊することになるやもしれんが。それでもそなたは、その刃を向けるか?」
アミーラの問いかけは、どこまでも冷たく試すような響きを帯びていた。
「……壊します。魔王の復活を食い止めなければ、全てが滅んでしまう。全ての叡智があってもアストリアが滅べば、そんなものの意味がなくなってしまう。」
ロイの迷いのない真っ直ぐな瞳に、アミーラは一瞬たじろぐも、すぐにいつもの皮肉な表情に戻る。
「ふん。そんなに焦らずとも、どうせこの国も、アストリアも、いつかは滅びる運命ではないか」
だが横顔に浮かぶ深い疲弊の色を、クロエは見逃さなかった。
国を憂い、民を思い、それでもどうすることもできずに、ただすり減っていった、一人の女王の隠しきれない苦悩の影だった。
「女王なら……!巫女なら!もっとシャキッとしなさいよ!」
クロエの魂からの叱咤が飛ぶ。
届くか分からない。けれど、あの日憧れを抱いた彼女がこんなにも情けなく捻くれてしまっていることがただただ悲しくて。
女王に歯向かう行為に驚いたのか、ロエベは不安そうにクロエを見上げていた。
「……貴様に!私の何がわかる……!国を、己の全てを捨てて逃げ出した、裏切り者の貴様に!」
アミーラも抑え込んできた感情が、ついに爆発する。
二人の桃色の瞳が、激しい火花を散らす。
長年いがみ合ってきた本物の姉妹が、初めて互いの感情をぶつけ合うような、痛々しくも激しい口論だった。
***
アミーラの過去は、光と影に満ちていた。
一族の第一王女として生まれ、巫女として女神エデルに選ばれた祝福の子。
輝かしい宿命に応えるべく、彼女は流砂の書庫の叡智のすべてを、まだ幼い頭に詰め込んだ。
民草を救うため、幼い身で数々の政策を打ち出し、魔獣を退けるため、幾重にも及ぶ強力な結界を張った。
けれど誰も幸せにはならなかった。
富める者はさらなる欲望に溺れ、貧しき者たちの不満の声は決して止むことがない。
終わりのない板挟みで、アミーラの心はまるで砂の城のように、少しずつすり減っていった。
自国の血塗られた歴史を知れば知るほど、葛藤は深まるばかりだった。
──本当に、この国は、救うべき価値があるのだろうか、と。
次期女王、女神に選ばれし巫女。
絶対的な存在と囁かれながら、裏で彼女も幾度となく暗殺の危機に晒された。
政敵に、嫉妬に狂った者たちに。
魔王を信仰する教団員に。
代わりにいったい何人の兄弟姉妹が、命を奪われていったのだろう。
途中から、もう数えるのはやめた。
ある日、城の回廊から、中庭で舞うクロエとロエベの姿を見かけた。
(……なんて見事な舞を踊る子だ。母様が、女神へ捧げる舞を、いつかあの娘に奪われてしまうかもしれないと危惧していたっけ)
母はアミーラの立場が危うくなることを案じていたが、アミーラ自身は違った。
もし叶うなら、あの娘と手を取り合い、共に女神エデルへ祈りを捧げられたら、どんなに良いだろう。
どんなに心強いだろう。
そんなありえない夢を、思い描いてしまった。
鳥籠同然の息の詰まるような城の中で、あんなにも自由に楽しそうに舞う姿が、眩しくて、羨ましくて、たまらなかった。
クロエが城から逃げ出す瞬間を目撃してしまった時でさえ、自分もこの重すぎる宿命の全てを捨てて、逃げ出してしまいたいと、心の底から切に願ってしまったのだ。
とっくに、この国は破綻していた。
アストリア一古い歴史を誇りながら、その実、戦争しか能のない国。
他者から奪うことでしか、自らの渇きを満たせなかった国。
民の心はとうの昔に魔に堕ち、ただ緩やかな終わりを待つだけの、死に体の国だった。
自分は滅びを、ただ静かに見届けるためだけに、巫女として、女王として、生かされているのだと。
いつからか、悟ってしまったのだ。
***
「妾はこの国と共に散る運命。それだけのためだけに、女神エデルに選ばれたのだ」
諦観に満ちたアミーラの言葉を、クロエは、涙ながらに真っ向から否定した。
「そんなわけないでしょ!?被害妄想も大概にしなさいよ!あんたなら、この国を救えると思ったから、選ばれたに決まっているじゃない!」
魂からの叫びは、アミーラだけでなく、側にいたロイの心にも、小さくて確かな波紋を広げた。
「……何を、今更」
吐き捨てるアミーラに、クロエは一歩、強く踏み込む。
「出来るわよ……!悔しいけど、あんたになら出来るはずよ!この国を建て直して見せてよ……!あたしだってアストリアを絶対に救うんだから!だから、あたしの生まれたこの国を、どうか、守ってよ……!助けてよ……!」
クロエが胸の前で指を組み、祈るようにアミーラを見つめる。
必死な姿に懐かしい記憶が、鮮やかに蘇った。
国を案じ、民を思い、ただひたすらに純粋に祈りを捧げていた、かつての自分の姿が、目の前のクロエと重なって見えたのだ。
込み上げる熱いものを隠すように、アミーラは、ぷいとそっぽを向いた。
「……ふんっ、本当に減らず口だけは達者なことだ。しかし貴様のそのしょぼくれた泣き顔は、見ていて非常に滑稽だな。その命知らずの向こう見ずさに免じて、今回に限りこの尊大な妾の力を、少しだけ貸してやらないこともない」
「アミーラ……!」
熱き女同士の魂の戦いを初めて目の当たりにしたピィは、怯えたようにロイのマントの中に、小さな身を寄せた。
アミーラはクロエに鋭い視線を送る。
「そなたは、舞え」
「え……?あたしが、舞う?」
頭上に疑問符を浮かべるクロエをよそに、彼女は今度はロエベへと一瞥をくれた。
「ロエベ、飛行艇を用意せよ。妾も行くぞ」
「はいはーい。女王様がご自分で動くなんて、明日は槍でも降るのかな〜」
「姉弟揃って、ペラペラとうるさい軽口を縫い止めてやろうか」
飛行艇が暗雲渦巻く神殿へと向かう中、アミーラは、流砂の書庫で得た遠い記憶を辿るように口を開いた。
流砂の書庫を破壊するには、中心にある『始まりの砂時計』を砕くしかないこと。
破壊の代償として、壊した者は「最も大切にしている記憶」を、一つ、捧げなければならないこと。
その言葉に誰もが押し黙った。
自分の最も大切な記憶とは一体何だろう。
それぞれが自らの胸に手を当て、不安げな表情を浮かべる。
空中神殿は天候そのものが荒れ狂う、この世の終わりのような異界と化していた。
吹き荒れる暴風が艇を激しく揺らし、絶え間なく轟く雷鳴が鼓膜を震わせる。
幾多の困難を乗り越え、一行はついに再び流砂の書庫へとたどり着いた。
「で、始まりの砂?だっけか?どこにあるんだ?」
「知らぬ。どこもかしこも砂だらけだからな。」
「また捜索か……」
広大な書庫で、一行が『始まりの砂時計』を探し回るのをよそに、ナナミだけが何かに導かれるように、その場を離れた。
慌ただしく探し回る足音が辺りに響く。やがてその足音は遠ざかっていった。
ふぅ、と一息つくとナナミは足を止めた。
目の前には『始まりの砂時計』と思わしき大きな砂時計が鎮座していた。
憂いを帯びた目で触れようと手を伸ばした時、細い腕を、クロエとアミーラが同時に優しく掴んで制する。
「あんたについて来て正解ね。様子がおかしいと思ったのよ」
「クロエ。離して。」
「ここはあたし達の国よ。自分の国のことは自分で清算するわ」
クロエの決然とした声が響く。
ナナミも引く気はないかのように、聞き返す。
「分かっているの?代償はあなたにとって最も大切な記憶なのよ?」
「……もちろん分かっているわ」
覚悟を宿したクロエの顔に、ナナミはそれ以上何も言えなかった。
「案ずるな。妾も共にゆく。他の者らに影響がないようにしなくてはな。」
アミーラが静かに祈りを込める。
彼女の身体から、再び眩いほどの慈悲の光が溢れ出し、周囲の禍々しい気を優しく包み込んでいった。
結界のように光の境界が出来上がる。
「魔王の魂は妾が押し止める。さあ舞え、クロエ。」
こくり、と不安そうにクロエは頷き、双剣を構える。
アミーラの作り出した光の境界線を潜り抜けた先、その向こう側に駆けつけてきたロイの姿が見えた。
クロエは、ふ、と彼にだけ分かるように、ほんの少しだけ、微笑んでみせる。
失われるのは、どんな記憶だろう。
消え去ったと嘯いたロイへの淡い想いか、それとももう会うことのできない、亡き母との温かな記憶か。
一瞬の迷いを振り払い、クロエは未来を選ぶため、破壊の役目を一身に引き受けた。
クロエは、舞い始める。
それは戦いのための鋭い動きではない。
ただ母の舞を思い出しながら。
幼い日に焦がれた母のように、優雅に、自由に舞いたいという、純粋な祈りの気持ちを旋律に乗せて。
光の向こう側で、仲間たちは息をすることも忘れ、あまりに美しい舞に、ただ呆然と見入っていた。
声を発する者は誰一人いない。
先に見た禍々しい、地下での儀式とどこまでも正反対で神々しく清らかだった。
神聖な儀式を前に、誰もが一挙手一投足に、目を、心を奪われていた。
ロエベはクロエの舞に、一度も見たことのなかった母の面影を確かに見ていた。
母もきっと、こんな風に舞っていたのだろう、と。
アミーラはクロエと共にいる光の中で誰にも気づかれぬよう、口元にかすかな、満足げな笑みを浮かべていた。
クロエが祈りの舞の最後に、『始まりの砂時計』へと双剣の切っ先を突き立てる。
甲高く澄んだ音が響き渡り、砂時計は無数の光の粒子となって砕け散った。
その瞬間流砂の書庫はその役目を終えたかのように、轟音と共に砂山となって崩壊を始めた。
同時に光の結界の中にいたクロエとアミーラの脳裏から“なに”か、最も大切だったはずの記憶だけが、砂時計の砂が落ちてゆくかのようにゆっくりと、綺麗に消え去っていた。
砂の濁流が一つの悲しい物語の終わりを告げるように、辺り一面を容赦なく埋め尽くしてゆく。




