6-9「クロエ」
ロエベの挑発的な言葉を背に、クロエは宿の薄暗い廊下を飛び出した。
仲間たちがロイの後を追って行った方角へ、ただ無我夢中で足を動かす。
砂埃の舞うイル=シャルの裏通りは、迷路のように入り組んでいた。
しかし彼女の目にはなにも映っていなかった。ただ一人探し求める人以外、視界には入ってこなかった。
街の惨状も物乞いをする人々の掠れた声も、もはや彼女の意識には届かない。
彼の心がナナミにあることは、もう疑いようもなかった。
分かっていた。
彼の視線が、その優しさが、誰に向けられているのか本当は気づいていた。
それでも、気づかないふりをしていただけだ。
「ずっと、王女様のものだと思っていたのに」
クロエの脳裏に幼い頃の記憶が蘇る。
ルミーナの王城で、遠くからサザリ王女と、その「お気に入り」として常に側にいるロイの姿を、柱の影からこっそりと眺めていた日々。
出会いたてこそ自分よりずっと下位の存在と思っていたのに、もう自分とは住む世界が違う。
決して触れてはいけない存在。
ロイはあの気まぐれで、残酷で、絶対的な力を持つ王女様のものなのだと、そう自分に何度も言い聞かせることで、この恋心に蓋をしてきた。
敵わない相手だと最初から諦めていたから。
それならば、ただ彼の仲間として側にいられるだけでいい。
そうやってずっと自分を納得させてきたのに。
「後から来た、あの子に掻っ攫われてしまうなんて。……ズルい」
胸の奥から醜い感情が、黒い煙のように立ち昇る。
突如として現れた、儚げな少女。ナナミ。
彼女はクロエが長年かけて築き上げてきた諦めの壁を、何の苦もなく、いとも容易く飛び越えていったように見えた。
最近、ナナミがつけ始めたオーロラのように輝く髪飾りは、もしかして、ううん、きっと、ロイから贈られたものに違いない。
自分がいなくなった時、ロイはあんな風に理性を失うほど激しく怒ってくれるのだろうか。
血眼になって自分の名前を呼びながら探してくれるのだろうか。
答えは、分かりきっていた。
どうしようもない嫉妬心が身を焼く。
初めて彼に出会った、あの王城の一室。
サザリ王女の理不尽な暴力から震えながらも自分たちを庇ってくれた、小さな頼もしい背中。
あの瞬間にクロエの心には、確かに恋の種が蒔かれたのだ。
それが彼女の初恋だった。
でも彼は王女様のお気に入り。
同じ王族という生まれでも自分とは天と地の差がある、雲の上の存在。
だからこの想いは決して誰にも知られてはいけない。
ただ彼の仲間として側にいられるだけで、それで十分幸せなのだと、そう信じて疑わなかった。
なのにあの子は、そのささやかな願いさえも打ち砕いていく。
魔法が使えるだけの、奇跡を使えるだけの、可愛げもない、なんてことのない、物静かな少女なのに。
側にいられるだけでいいという、自分の最後の砦すらも否定された気がして、胸が張り裂けそうに苦しい。
こんな醜い想いを抱えたまま、アストリアを救うだなんて、なんて馬鹿げているのだろう。
分かっている。
分かっているのに、心が、どうしようもなく痛むのだ。
「ロイ!」
曲がりくねった路地の先、人波をかき分けるようにして進む彼の背中を見つけ、クロエは力の限りに叫んだ。
息を切らし、頬には汗と砂埃が混じり、その灰色の瞳には、焦燥と抑えきれない怒りの炎が渦巻いている。
血眼になって、ナナミの気配を探していたのだろう。
その必死な姿が、クロエの胸をさらに締め付けた。
「クロエ……?」
「ピピィ?」
ふと、自分の声に彼が足を止めてくれた。
その他愛ない事実が、今のクロエにとっては世界で最も大きな出来事のように感じられた。
彼は驚いたように振り返ると、クロエのただならぬ様子に気づき、彼女の元へと駆け寄ってきた。
「お前、どうした?!なんでそんなに泣いて……。何かあったのか!?」
ロイの指がそっとクロエの濡れた頬に触れる。
彼の手から伝わる、不器用でどこまでも優しい温もり。
……ああ、どうして。
どうして、あなたはそんなにも優しいの。
優しくなんかしてくれなければ。
こんな時に私に気づいてなんてくれなければ。
長年、心の奥底に固く封じ込めてきた想いが、彼のその優しさによって一瞬で決壊した。
「……すき」
か細く掠れた、ほとんど吐息のような声だった。
「は?」
「ピッ!」
ロイは何を言われたのか理解できず、間の抜けた声を上げる。
ピィの方がずっと察しがよかった。
「あんたのことが好きなのよ!小さい時から、ずっと、ずっと!!」
堰を切ったように想いが、涙と共に溢れ出す。
「はぁ??お前、ふざけてるなら大概にしろよ!今そんなことを言ってる場合じゃないんだぞ!」
ロイの反応はクロエの想いを拒絶するものではなく、ただこの極限の状況下で唐突な告白をされたことへの純粋な混乱だった。
しかしその言葉は、クロエの心をさらに追い詰める。
彼女は首がちぎれるほどに、ぶんぶんと横に振った。
寸分もふざけてなどいない。
これが、私の、たった一度の、本気の想いなのだと。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、ただ必死に訴えかけた。
クロエの本気の涙と、悲痛な表情に、ロイはようやく事態の深刻さを理解した。
彼の顔が戸惑いとほんの少しの驚きで、じわりと赤く染まっていく。
「へ……?お前……が?……好き?……俺を?」
泣きながらロイの服に縋りつき、こくん、と小さく頷くクロエ。
ロイの赤くなった顔を見て、ほんの僅かな、針の先ほどの小さな期待が彼女の胸をよぎった。
けれど彼の脳裏に、攫われたナナミの青白い顔が浮かんだのだろう。
ハッとした表情をした後で、クロエの肩を掴むと優しく彼女を引き剥がした。
「悪いけどお前のことは大事な仲間だと思ってる。妹みたいに、生意気だけど放っておけない、そんな存在で……。でもそれ以上は、なくて……」
彼なりの最大限の誠実さから出た言葉だった。
しかし、その誠実さこそが今のクロエにとっては何よりも残酷な刃となって、その心を深く切り裂いた。
「同じ仲間なのに、ナナミは特別なの!?」
嫉妬と、悲しみと、全ての感情がごちゃ混ぜになった最後の叫びだった。
その言葉に今度は比べ物にならないほど、ロイの顔が真っ赤に染まった。
彼は図星を突かれた子供のように、視線を彷徨わせる。
「……それは、まだ、分からない」
その、ちぐはぐで、しどろもどろな答えこそが何よりも雄弁な「答え」だった。
好きだって、バレバレだ。
クロエはそう悟った。
「……あっそう」
全身から力が抜けていく。
乾いた色のない声が自分の口から漏れた。
やっぱり、敵わない。
気まぐれな王女様にも、あの物静かな少女にも。
自分の恋は戦う前からずっと前に、終わっていたのだ。
二人の間に気まずい空気が、砂漠の砂のように重く降り積もる。
そんな息の詰まるような沈黙を破ったのは本調子を取り戻した、クロエだった。
彼女は涙の跡を汚れた袖で乱暴に拭うと、顔を上げた。
もう涙はなかった。
「まっ、いっときの迷いだったみたいね。あんたへのこの馬鹿みたいな想いも、今のでさっぱり消え去ったわ」
わざといつもの勝気な口調で、明るくそう言ってみせる。
強がりは砕け散った心を隠すための、彼女が身につけた唯一の鎧だった。
「お、おう?」
あまりの変わりように、戸惑うロイ。
「二度と自惚れないでよね!あんたなんか、もうこれっぽっちも好きじゃないんだから!」
「……は、はい」
クロエはそう一方的に言い放つと、彼に背を向け走り出した。
その背中は、少しも震えてはいなかった。
「ええ、今のなんだったんだ……?」
「ピピッ!ピゲっ!チュルリリリ!ゲゲゲゲ!」
呆然と取り残されたロイ。
もう少し女心を勉強しろ!この若造が!とでも言いたげなピィの叱咤が乾いた街に響いていた。
路地裏の誰にも見られない物陰で、彼女は一人崩れ落ちた。
声を殺して泣いた。
永かった初恋の、あまりにもあっけない終わりを悼んだ。
しかしいつまでもそうしてはいられない。
ナナミが危険な状況にいる。
仲間たちが探している。
クロエはゆっくりと立ち上がった。
ロイへの想い、弟への不信、母国への複雑な感情。
その全てをこの砂漠の砂の中に埋めていく。
彼女はもう「恋する少女」ではない。
アストリアを救う一行の、一人の「人」として、ただ仲間を救うことだけに集中する。
涙を拭い再び顔を上げた彼女の桃色の瞳には、もう迷いはなかった。
強く、気高く、どこか悲しみを湛えた、美しい戦士の光が宿っていた。




