6-8「火種」
流砂の書庫から得た膨大で残酷な情報に、一行は心身ともに深く疲弊していた。
狭く砂埃の匂いが染みついた宿の一室に、重い沈黙が澱のように溜まっている。
頼りない蝋燭の光が壁に映る仲間たちの影を、なんだか彼らの心労そのもののように、長く弱々しく揺らしていた。
ロイは重苦しい空気の中から逃れるように、ナナミの看病に没頭していた。
ベッドに横たわる彼女の規則正しいのか乱れているのかも判然としない呼吸の一つ一つに耳を澄まし、熱い額に浮かぶ玉のような汗を、祈るような手つきで何度も拭う。
その行動は義務感ではなく、彼女の命がまだ確かにここにあることを確かめるための彼にとっての心の拠り所だった。
やがて、ナナミの長い睫毛が微かに震えた。
ゆっくりと持ち上げられた瞼の隙間から、まだ夢と現の境界を彷徨っているかのような、ぼんやりとしたライラック色の光が漏れる。
「ここ、は……?」
掠れた、囁くような声。
その音にロイの心臓が大きく跳ねた。
「ナナミ!良かった……!気がついたのか!」
駆け寄ったロイの顔をナナミは焦点の定まらない瞳でしばらく見つめ、やがて自分が眠ってしまっていたこと、どうやら仲間たちの足を引っ張ってしまったことを悟ったのだろう。
表情に痛々しいほどの罪悪感が浮かんだ。
「わたし、寝てしまっていたの?」
「少しだけな。気にするな。まだ体調は万全じゃないんだろ?」
「……平気よ。ごめんなさい、足を引っ張って……」
健気にもそう言って身を起こそうとする彼女の肩を、ロイは優しく制した。
「いいから!今は休むことだけ考えろ。すぐに水と、何か食べられるものを取ってくるからさ」
彼女がこれ以上罪悪感を抱かぬよう、努めて明るい声でそう言って背を向けた瞬間だった。
かさりと衣擦れの音がして、ロイのマントの裾が弱々しい力で引かれた。
「ねえ、ロイ……」
振り返ると、ナナミが何かを必死に伝えようとする瞳で彼を見上げていた。
その潤んだ瞳には様々な感情が渦巻いていた。
閉ざしたままの秘めた想い。
その全てが言葉にならないまま、彼女の瞳の中で悲しく揺らめいていた。
彼女は心配そうに自分を見つめ返すロイの、どこまでも優しい顔を見た瞬間、ぐっと唇を噛み締めた。
言えない。
この人にこれ以上、重荷を背負わせるわけにはいかない。
私一人の問題で彼の進むべき道を、曇らせてはならない。
ほんの数秒の間に彼女の中で、悲しい選択の決着はついたようだ。
「ううん、なんでもないわ……なんだかすごく眠たいの。もう少しだけ眠ら、せて……」
そう言うと彼女は電池が切れてしまったかのように、再び深い眠りの中へと落ちていった。
不安になって見つめた寝顔は先ほどよりも幾分か安らかに見えた。
ロイは彼女が何かを言いかけたことに気づきながらも、今はただ休ませることが最優先だと考えた。
彼女が次に目覚めた時に少しでも元気になれるように、何か栄養のあるものを食べさせよう。
そう決意し、彼は静かに部屋を出て行った。
このほんの僅かな時間のすれ違いが、取り返しのつかない悲劇を引き起こすことになるとはまだ知る由もなかった。
ガシャン、という陶器が砕け散る甲高い音が静まり返った宿の廊下に響き渡った。
ロイが戻ってきた時、部屋はもぬけの殻となったベッドだけが残されていた。
さっきまでそこにいたはずのナナミの姿が、温もりさえも残さずに跡形もなく消え去っていたのだ。
ベッドの上には見慣れない布切れが一枚だけ、ひらりと置かれている。
そこに描かれていたのは、歪んだ蛇が互いの尾を喰らう不気味な紋章。
ナナミのために用意した、お世辞にも具が多いとは言えないスープと、なけなしの綺麗な水が乗ったお盆ごと、ロイの手から滑り落ちる。
彼の視界が絶望でぐにゃりと歪む。
膝から崩れ落ち、彼は床の一点を見つめたまま、しばらく動けなかった。
静かな、静かな絶望が、彼の全身を支配する。
けれどもその静寂は長くは続かなかった。
絶望の底で小さな火種が灯る。
やがて彼の魂そのものを焼き尽くすほどの、燃え盛る激情へと変わっていった。
「ロイ!?今の音は、一体……」
大きな音を聞きつけ、仲間たちが次々と部屋に駆けつける。
シルリア、ジーク、クロエ、ナック、クラリス。彼らが見たのは部屋の中央で立ち尽くすロイと、床に散らばった無残な食器の破片、そして、もぬけの殻となったベッドだった。
「……れた……」
ロイの唇から、掠れた、獣の呻きのような声が漏れる。
仲間たちは息を呑み、彼が次に発する言葉を待つしか出来なかった。
「やられたっっ!!!!」
もはや人間の声ではなかった。
魂の奥底から絞り出したような、獣の咆哮。
普段の穏やかで優しい彼からは、到底想像もつかない純粋な怒りの塊だった。
その凄まじい気迫に恐怖に似た感情で射竦められた者もいるほどに。
彼らの制止する声も聞かず、ロイは宿を飛び出そうとする。
その衝動的な行動を、都合よくなのか。
いや、あるいは意図的にそこに居合わせたロエベが遮った。
理性を失ったロイはその怒りの矛先を、最も怪しいと踏んだ目の前の少年に向けた。
「なんで、お前がここに……!知ってるんだろ?!なぁ!ナナミの居場所はどこだ!?言えよ!」
ロイはロエベの華奢な胸ぐらを力任せに掴み上げた。
「ロイ!頭を冷やせ!確証もないのに、君らしくないぞ!」
シルリアが二人の間に割って入り、強くロイを制した。
その言葉にロイの理性が辛うじて引き戻される。
胸ぐらを掴んでいた手が、ゆっくりと緩められた。
「ご、ごめん…俺……」
ロエベは乱れた服を払いながらも、その表情は少しも動揺していなかった。
彼は掴みかかられてもなお、どこか楽しんでいるかのように挑発的な笑みを浮かべた。
「べつにいいよ。この中で一番なにか手引きしていそうで怪しいのはどう考えたって僕だもんね。命があっただけラッキーかな」
ロエベの言葉を聞き終わらないうちに、ロイは再び宿を飛び出した。
どこへ向かうという当てもない。
とにかくナナミを取り戻さなければならないという、燃えるような衝動に突き動かされて。
「おい、ロイ!」
「待って!」
仲間たちが装備も未揃いのまま、慌てて彼の後を追っていく。
あっという間に宿の薄暗い廊下には、クロエとロエベの二人だけが取り残された。
外の喧騒とは対照的な息詰まるような静寂。
ナナミを攫われ、あの穏やかで優しいロイがあそこまで激昂するなんて。
クロエの頭の中で最後のパズルのピースが、カチリと音を立ててはまった。
「ロイはナナミのことが……」
もはや疑念ではなく、冷たく鋭い痛みを伴う「確信」だった。
彼女がその場に立ち尽くしていると、ロエベが深い闇を落としたような瞳で、ゆっくりと彼女に向き直った。
「ねえ、ねーちゃんはさ。この国の平和とアストリアの平和、どっちを取る?」
きっとそれは姉の覚悟を試す、最後の問いだった。
クロエの心の中には、この弟が裏で手を引いているのではないかという、拭いきれない疑念が渦巻いてしょうがない。
上手いこと言って手駒にできないか、などという考えも一瞬よぎる。
しかし、彼女の性はそれを許さなかった。
どこまでも曲がったことが嫌いな、真っ直ぐな性格だから。
得体の知れない怯えを振り払ってロエベに向き直る。
その勝気な瞳に再び強い光を宿して、きっぱりと答える。
「アストリアに決まっているわ。アストリアの平和無しに、国の平和なんて絶対にありえないから」
「そっか」
ロエベはその答えを聞くと、どこか諦めたような、少しだけ安堵したような、複雑な顔でそう呟いた。
姉が進むべき道を悟ってしまったのかもしれない。
それを指し示すかのように、立ち止まる自分をよそにクロエは仲間たちを追いかけ走ってゆく。
ロエベはそんな姉の後ろ姿が闇に消えるまで、ただ静かにその場で見送るのだった。




