6-7「ないものねだり」
一行がそれぞれのやり方で膨大な情報の奔流と格闘している中、ロエベは喧騒から一歩離れ、書庫の奥まった場所へと静かに足を運んでいた。
そこには仲間たちが用意した柔らかな布の上に、ナナミが意識のないまま横たえられていた。
金色の砂の粒子が彼女の周りだけ、まるで守るかのように穏やかに舞っている。
ロエベはその眠る少女の顔をただ黙って見下ろした。
表情からは何の感情も読み取ることはできない。
何かの面影を重ねているのか、それともこれから始まる計画の最も重要な「駒」として、その価値を査定しているのか。
やがて彼はそっとその場を離れた。
自らの内に芽生えかけた何かを振り払うかのように。
***
クロエが王国から姿を消したあの日、幼いロエベは広大な王宮にただひとり取り残されたようだった。
「姉は国を捨てた裏切り者」
「王族の義務を放棄した卑怯者」
そんな囁きが冷たい毒のように、彼の耳に毎日注がれた。
廷臣たちは彼を哀れむか、あるいは侮蔑の視線を向け、かつては共に遊んだはずの他の兄弟姉妹たちも、まるで汚れた物でも見るかのように彼を避けた。
彼にとってクロエはただ一人の家族であり、心の拠り所だった。
彼女が舞う姿は彼の世界のすべてを照らす太陽だった。
その太陽が失われた今、王宮のすべてが色褪せた灰色に変わってしまった。
陽光が降り注ぐ壮麗な玉座の間も、花々の香りに満ちた美しい回廊も、彼にとってはただ息苦しいだけの牢獄でしかなくなった。
けれどロエベは決して感情を見せなかった。
泣きたい夜も、叫びたい朝も、彼は幼くして覚えた王族としての完璧な「仮面」を決して外さなかった。
無垢な子供の笑顔、あるいは何を考えているか悟らせない無表情。
そうして感情を殺し心を閉ざすことで、彼はこの残酷な牢獄を生き抜いてきた。
誰にも心を許さず、誰のことも信じない。
その孤独が彼を年齢にそぐわないほど早熟で計算高い少年へと育て上げたのだ。
そんな乾いた砂のような孤独の中にいた彼の前に、ある日、ロゼム教団と名乗る者たちが現れた。
彼らはかつて魔族との共生を掲げ、その叡智と力を正しく理解していた古代宗派の末裔だった。
イル=シャル王国が魔族と契約を結び、世界でも類を見ないほどの強大な魔力文明を築いていた時代、教団はその仲介者として、国に多大な繁栄をもたらしたという。
しかし二百年前に魔王が封印されて以降、意思の疎通が可能な高位の魔族はアストリアから姿を消した。
魔族の力を恐れた人々はかつての共生の歴史を忘れ、教団を「異端思想」として国から追放した。
その後の王国は魔族から得ていた無限の魔力の代替として、地中から採掘される魔法石を用いた不完全な魔法工学に依存するようになった。
だが、魔法石は再生不可能な有限の資源。
近年その枯渇は誰の目にも明らかなほど深刻化し、国力は日に日に衰退していく。
再び“魔力の根源”たる魔族の力を求める者たちが、水面下で増え始めていた。
ロゼム教団はそんな人々の絶望と願いを拠り所に、密かに王宮内部にもその手を伸ばし、長い時間をかけて「内通者」を育て上げていたのだ。
新たな接点として選ばれたのが孤独な王子、ロエベだった。
彼らはロエベの前に唯一の理解者として現れた。
歴史の真実を語り、魔法の理を説き、この国を救うための「大いなる計画」を囁いた。
その言葉は乾ききった彼の心に染み込む水のように、抗いがたく響いたのだ。
***
やがて情報の渦に目を回した一行がそれぞれの溜息と共に、ロエベの元へと戻ってきた。
彼は何事もなかったかのように、仲間たちの会話に耳だけを傾ける。
散々読み漁った書物は重要な箇所が読み取れず、目立った成果は得られなかったようだ。
夜も更け一行は一度宿に戻り、明日の方針を立て直すことにしたらしい。
「少し気になることがあるんだ。あの神殿の上にだけ不自然に立ち込める暗雲……まさかとは思うけれど、あの書庫そのものに魔王の魂が封印されている、なんてことはないかな?」
帰り道にクラリスが鋭い推論を口にする。
それにナックが首を傾げた。
「でもよー、今まで魔王の魂が宿っていた場所にはその力を得ようとワンサカ魔獣が寄ってきてただろ?今回神殿の周りじゃ魔獣の姿なんて一匹も見えやしねーぞ?」
「そうだね。そこが妙なんだ。ただ魔獣だけでなく、精霊の影すらもあの神殿の周りでは全く感じられなかった……。生命そのものを拒絶するような、強力な結界でも張られているかのようだね」
なにものをも寄せ付けない聖なる結界か、もしくは邪悪な結界か。
一行は様々な憶測を立てながら、砂に埋もれた都の寂しい宿へと帰ってゆく。
一行を宿に送り届けた後、ロエベは一人彼らとは反対方向へと歩き出した。
寂れた街の裏通りを進み、古びた書店の扉を潜る。
そこは表向きはしがない古本屋だが、その地下には壁一面に膨大な書物や古文書が並べられた広大な秘密の書庫が広がっていた。
こちらこそが「真の流砂の書庫」なのではないか、と思えるほどの場所だった。
ロエベは蝋燭の灯りを頼りに、静かに古文書をめくっている。
様々な魔獣の生態が精緻な筆致で描かれている本だった。
本棚を挟んだ彼の背後に音もなく、ローブを深く被った教団の使者が現れる。
その気配に気づきながらも、気にも留めない様子で乾いたページをめくる。
その音だけが張り詰めた静寂が支配する空間に響いていた。
「……魔力を取り戻すには、やはり、“彼ら”の力が要るのか」
ロエベが使者にだけ聞こえるような声量で呟いた。
「ええ、王子。魔族は失われた我らの同胞。そして“彼女”は固く閉ざされた扉を開くための、唯一無二の鍵となる御方です」
ロエベは何も答えない。
彼は完全に教団に染まったわけではない。
教団を利用して姉を追いやったこの国の真実を探る“スパイ”として動いている可能性もあれば、逆に国を救いたいという純粋な願いを教団に気づかれぬまま利用され、操られている可能性もある。
その仮面の下の表情にはやはり何も浮かばない。
イル=シャル国はかつて魔族と契約を結び、強大な魔力文明を築き上げていた。
魔族は「魔力の根源に最も近い存在」であり、その無限の祝福のもと、人々は豊かさと秩序を享受し繁栄を謳歌した。
それゆえに人々はいつしか、自らの力で何かを生み出す努力を怠った。
魔族がいなくなってからの国の衰退は必然だったのかもしれない。
魔力の代わりとなる魔法石は、地中に残された魔力の残滓が永い年月をかけて固形化した、極めて貴重な鉱石だ。
王国はこの限られた資源を、軍事、交通、民の生活インフラにまで拡大利用してきたが、近年その埋蔵量は誰の目にも明らかなほど、急激に減少していた。
国の研究者たちはこう警鐘を鳴らしている。
「このままではあと五十年ももたない。いずれ魔法は死に、この国は砂に還るだろう」
一部の者たちは必然的に考え始める。
「ならば再び“彼ら”。魔族と契約すればいい」と。
かつての繁栄を取り戻すための希望か、国をさらなる混沌へと突き落とす禁断の扉か。
その答えをまだ誰も知らなかった。




