6-6「流砂の書庫」
アミーラとの謁見を終え、一行は重い沈黙に包まれながら王宮の長い回廊を歩いていた。
ロエベはそんな一行の様子をどこか楽しむかのように、軽い足取りで先導する。
「飛行艇の準備が整うまで、少し時間があるからさ。とっておきの場所に案内してあげるよ、ねーちゃん」
そう言って王宮の片隅にある、ひっそりとした一室へと一行を導いた。
豪華絢爛な王宮の中にあるにも関わらず、まるで忘れ去られたかのように質素で温かい空気が流れる部屋だった。
扉を開けるとそこにいたのは、年を重ね顔に深い苦労の皺を刻んだ、一人の初老の女性だった。
その瞳には、変わることのない優しい光が宿っていた。
彼女は部屋に入ってきたクロエの姿を認めると、その瞳を驚きに見開き、震える声でその名を呼んだ。
「……クロエ、様……?本当に、クロエ様でいらっしゃいますか……?」
「……マーサ」
クロエの唇から懐かしい名前が漏れる。
彼女は自分を育ててくれた唯一の味方であり、自分の命を救い、母代わりでもあった侍女の元へと駆け寄った。
「ああ、こんなに大きくなられて……。立派になられて……。よくぞ、ご無事で……本当に、よくぞ……!」
マーサは涙ながらにクロエの身体をきつく、痛いほどにきつく抱きしめた。
「痛いわ……マーサ。」
その腕の温もりに、この何年もの間、気丈に振る舞うことで固く閉ざしていたクロエの心の扉が、音を立てて開いていく。
彼女は子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「ロエベのこと、守ってくれて本当にありがとうね……。あの子を、独りにしないでくれて……」
「もちろんでございます。クロエ様との、大切な約束でございますから」
クロエもまた、その痩せた身体を強く抱きしめ返す。
再会を喜び合う二人をロエベは部屋の入り口で、腕を組み、何も言わずにただじっと見ていた。
その表情からは何の感情も読み取ることはできなかった。
感動的な再会も束の間、ロエベがその空気を破るように、わざとらしく明るい声を上げた。
「はーい、感動の再会はそこまで!準備ができたよ、ねーちゃん。さあ、行こうか」
そのあまりに良いタイミングに、シルリアが咎めるような視線を送るが、ロエベは気にも留めない。
クロエは涙を拭うとマーサに「必ず、また会いに来るわ」と強く約束し、弟の後を追った。
ロエベが操縦する魔力飛行艇は、古代の技術で作られた、鳥のような流麗なフォルムを持つ美しい船だった。
しかし、その船体の至る所には、修復の跡と、隠しきれない輝きの失せが見て取れる。
この国の魔力エネルギーが、もはや枯渇寸前であることを無言のうちに物語っていた。
飛行艇は雲を突き抜け、下界とは完全に隔絶された、空に浮かぶ巨大な空中神殿へと向かう。
空を飛ぶと言う初めての感覚に、一行は浮遊感と見える景色の美しさにところどころで声があがる。
風化し所々が崩れかけてはいるが、その荘厳なたたずまいは、かつてこの国がどれほどの繁栄を誇っていたかを物語っていた。
神殿の最奥、一行はついに「流砂の書庫」へと足を踏み入れた。
その瞬間、誰もが息を呑んだ。
そこは本という概念が存在しない、情報の聖域だった。
無数の巨大な水晶の柱が天を支え、その間を光る粒子を纏った金色の砂が、滝のように、あるいは夜空を彩るオーロラのように絶えず舞い上がっては流転している。
床も壁も内部に星々のような光の粒が明滅する透明なガラスでできており、一歩足を踏み出すと、まるで広大な宇宙空間に放り出されたかのような浮遊感に襲われた。
「すごい……」
クラリスが、感嘆の声を漏らす。
書庫の中心には巨大な渦巻き状の砂の銀河があり、そこに無数の「砂文字」が生まれ、流れ、そして消えていく。
この世の全ての事象、全ての歴史、全ての感情が、ここでは情報として絶えず循環しているのだ。
聞こえるのは砂が流れる「サー……」という微かな音と、星々が瞬くような神聖でさえある高周波の音だけだった。
ロエベが書庫の中心にある黒曜石の台座にそっと手を触れると、一行が求める情報が、彼らの意識に呼応するように、目の前の砂の奔流から形を成し始めた。
最初は意味不明な象形文字や幾何学文様の渦だったものが、アミーラから授かった「千の叡智」の加護によって、徐々にアストリア公用語へと「翻訳」されていく。
『二百年前……ハナレア群島……その最果てに位置する忘れられた島の先で、突如として空が七色にひかり、天から地へと、星々の梯子が降り立った……』
『それは、世界崩壊の予兆……。アストリア全土を覆う、逃れられぬ破滅の宣告であった。各国は、その存亡を賭け、依代を選定……』
『鍵たる一人の魔女……マリナ・マチルダは、儀式の直前、愛する者を自らの手によって……その深い絶望と、アストリアへの憎悪から、彼女は、我々が最も恐れていた存在……………魔女が……魔王に………それは、我々にとって最大の、そして取り返しのつかない誤算であった……』
『我々は……彼女を救うことを諦め、やむ無く、この地に彼女の魂ごと、その絶望の全てを封印した……。未来の誰かが、我々とは違う答えを見つけ出すことを、ただ祈りながら……』
『他の記録の歪曲と、歴史の改竄を恐れた、イル=シャルの初代書記官が、その真実を、唯一ここに……記す……』
断片的な、しかし衝撃的な情報。
一行が最も知りたい「具体的な封印の方法」や、「魔王の詳細な記録」の部分に差し掛かると、砂文字はまるで激しい砂嵐のように乱れ、どうしても読み取ることができなかった。
「くそっ、肝心なところが!」
ナックが悔しげに叫ぶ。
「いや、待てよ。こんな史実読んだことないぞ?魔王を封印した魔女様が魔王だった?ならなんでアストリア中に英雄として知れ渡ってんだ?」
「実は、私たちが知ってる史実の方が間違っていた、なんてことあるのかな」
「あーーー!分からん!」
仲間たちがどうにかして情報を引き出そうと躍起になっている中、ロイの足元でピィが彼のズボンの裾を、きゅいきゅいと鳴きながら引っ張っていた。
ピィだけが何か別のものに気づいているようだった。
ロイは小さな相棒に導かれるまま、書庫の隅にある、一際巨大な砂時計へと向かった。
その砂時計の台座に、一冊だけ砂ではなく黒曜石の石板にびっしりと文字が刻まれた「書物」が、静かに安置されていた。
ロイがその冷たい石板に、吸い寄せられるようにそっと手を触れた瞬間。
彼の脳内に奔流のごとく、膨大な情報が直接流れ込んできた。
それはこの世界の根源を揺るがす、禁断の知識だった。
『魔族とは悪にあらず。彼らは純粋すぎる魂が故に、他者の感情を映し出す“鏡”なり。汝が恐怖を抱けば、彼らはその恐怖を増幅させて返す。汝が憎悪を抱けば、彼らは破壊という形でそれを返す。逆もまた然り。愛は執着に、好意は依存に。アストリアの歴史における人と魔族の対立とは、人の心の“弱さ”が引き起こした、悲劇の連鎖に他ならぬ……』
『魔法とは、魔族との絆がもたらす力の顕現なり。その性質は二つ。一つは、友好的な関係の中で授けられる“祝福”。自然の理を借り創造に繋がる力。されど、使う者の感情によく左右され意図しない危うさも併せ持つ……』
『もう一つは魔族の強い憎悪や悲しみを受けた者が得る“呪い”。これは対象者の生命力そのものを糧とし、この世の理を捻じ曲げる破壊的な力を生み出す。呪いによる魔法は使えば使うほど、その魂を魔族の領域へと近づける。やがては人の理性を失い同胞さえも喰らう、真の魔物へと変貌を遂げるであろう……』
『感情とは魔力の源泉、そのものである。喜び、怒り、悲しみ、恐怖。強い感情の爆発は確かに強力な魔法を生む。だがそれは一過性の炎。真に恐るべきは、内に、内に、と溜め込まれた感情。悲しみを押し殺し、苦しみに耐え、絶望を笑顔で塗りつぶす者。その者の内にはやがて星を砕くほどの強大な魔力が、静かに蓄積されていく……。魔族が感情を表に出さぬは、それを本能で理解しているが故。彼らの無表情や沈黙は、冷酷さにあらず。自らの力を制御するための、永い知恵なのだ……』
情報の濁流が、ロイの意識を激しく揺さぶる。
脳裏にナナミのこれまでの姿が、走馬灯のように駆け巡った。
ツクヨの国で耳にした「代償」と言う言葉。
そして、彼女の白い背中に浮かび上がっていた、あの禍々しい黒い痣。
全てが、繋がった。
全てのピースが、あまりにも残酷な一つの絵となって、彼の目の前で完成してしまった。
ロイはもう逃れることのできない事実を認識する。
あのときのあの、背中に浮かび上がる黒いあざ。
ナナミのその力は、きっと祝福などではない。
彼女自身を、その魂ごと喰らい尽くす、忌まわしき呪いなのだと。
彼女の沈黙も、無表情も、全ては暴走しかねない強大な力を、その華奢な身体一つで、必死に、必死に、抑え込んでいたからなのだと。
ロイはその場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
彼の灰色の瞳から、光が消えた。
そこにあるのは、底なしの絶望だけだった。




