2-1 「ツクヨの国」
ゼロを失ってから、世界から色が抜け落ちたようだった。
仲間たちの間を支配するのは、重苦しい沈黙。誰もが俯きがちに歩き、交わされる言葉はほとんどない。ただ、乾いた土を踏む自らの足音だけが、やけに大きく耳についた。
次の目的地は、ツクヨの国。
その名を聞いたとき、夜空に浮かぶ月のような、静かで清らかな響きに、ほんの少しだけ胸が明るくなるような気がしたのは、きっと気のせいだったのだろう。現実はどこまでも重く、一行の足取りは鈍いままだった。
風の音すら、どこか遠慮がちに木々の葉を揺らす。陽の光は降り注いでいるはずなのに、心の中は薄暗い影に覆われている。
“死”とはこんなにも唐突で、あっけないものだったのか。
人の命とはあれほど脆く、瞬く間に失われてしまうものなのか。
ロイだけでなく、クロエも、シルリアも、ジークも、クラリスも、おそらくナックも、胸の奥底で同じ問いを繰り返していた。
黒翼のマルザフィリア。
あれほどの強大な存在が、この先にも待ち受けているのだろうか? また、この中の誰かが、ゼロのように……。
見えない恐怖が、冷たい汗となって背中を伝う。
誰もが口には出さないが、その不安は鉛のように重く、皆の肩にのしかかっていた。
息詰まるような沈黙を、不意に破ったのは、ツクヨの国の出身であるナックの声だった。
「……ツクヨの国ってのはよ、風が気持ちいいんだ」
努めて明るい声だった。
「空気が澄んでてな、深呼吸すると腹の底から力が湧いてくる気がするんだ。夜になれば星がそりゃあ綺麗でよ。空から降ってくるみてぇに、手が届きそうなくらい近くに見えるんだぜ」
故郷を語る彼の言葉には、確かな愛情がこもっていた。
朴訥とした響きに、シルリアやクラリスがかすかに頬を緩める。
けれど、心の奥底に突き刺さった棘は、そう簡単には抜けない。ゼロの喪失感は深く、重く、今もなお一行の歩みを鈍らせていた。
ロイはふと隣を歩くナナミに視線を送った。
いつの間にか、彼女の歩く速度が少し上がっていることに気づく。
以前はパーティの後方で、やや遅れがちに歩いていたはずなのに。
(……もしかして、ゼロの歩みに合わせていたのか……?)
考えがまとまらない。
脳裏に焼き付いて離れないのは、雨の中で見た彼女の笑顔ーー。
壊れた人形のように、ただ唇の端を上げていたあの表情だった。
あれは本当に笑顔と呼べるものだったのだろうか?
彼女は仲間だ。
そう信じたい。
だけど、あの空虚な瞳を思い出すたび、心のどこかで冷たいものが蠢くのを止められない。
様々な思いを抱えたまま、一行は木立を抜け、開けた場所に出た。
朱塗りの柱が印象的な、大きな鳥居のような門がそびえ立っていた。
奥には緩やかな石段が続いている。
ツクヨの国の入り口なのだろう。
門の前に、三つの人影があった。
中央に立つのは小柄な少女の姿。
月光を思わせる銀糸で複雑な刺繍が施された、純白の装束を身に纏っている。
さらさらと流れる黒色の髪が風に揺れ、顔立ちはまだ幼さを残しているように見えた。
左右にぴったりと同じ意匠の白装束に、表情を窺わせない白狐の面をつけた従者が二人、微動だにせず控えている。
一枚の絵画のような、静謐で神秘的な光景だった。
「ようこそ〜!ツクヨの国へ!じゃ!」
凛と張り詰めた空気を破ったのは、中央の少女の鈴を転がすような明るい声だった。
彼女の声は厳かな装いとは裏腹に、天真爛漫な響きを持っていた。
「なんじゃなんじゃ、揃いも揃ってしけた顔をしてからに。道中、何か難儀でもあったか?」
悪びれもせず、屈託なく問いかけてくる。場違いな程の明るさにロイたちは思わず顔を見合わせた。
「あのー……失礼ですが、これは一体……?我々は歓迎されているのでしょうか?」
戸惑いがちに尋ねたのはジークだった。
少女は悪戯っぽく、にっと笑ってみせる。
「当たり前じゃろう!アストリアを救うと星に選ばれし勇者一行をもてなさずして、どうするというのじゃ! 主らがこの刻限に到着すると、星がそう告げておったからの。昨日からこの三人で、ずーっと正座してここで待っておったのじゃよ」
隣に控えていた狐面の従者の一人が、ぴくりと肩を震わせ、泣きそうな顔で(面越しにもそれが分かった)自身の足をさすりながら、小さく呻き声を漏らした。
「ナック。無事であったか、よく帰った」
少女は一行の後ろにいたナックに、ふと穏やかな視線を向けた。
「……あ、おう。ただいま戻りました、ミコト様」
ナックの返事は、どこか歯切れが悪い。
「あれ? ナック、この方と知り合いなの?」
クロエが小首を傾げて尋ねる。
ナックはバツが悪そうに頭を掻きながら、やや投げやりに言った。
「あー、紹介するぜ! こちらは、ツクヨの国の巫女であらせられる、ミコト・オオミカミ様だ」
「うむ。そして、ナックの婚約者でもあるのじゃ!」
ミコトは悪戯が成功した子供のように得意げに胸を張った。
「「「「「「えーーーーーーーーーー!?」」」」」」
今度こそ、一行全員の声が見事に重なり森の静寂に響き渡った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、ナック!」
クラリスが目を丸くする。
「君に、こんな美しくて高貴な婚約者がいたなんて……初耳だぞ!?」
「てっきり、筋肉が恋人なのかと……」
普段冗談など言わないシルリアが真顔で呟く。
嘘だろ、信じられない、という視線がナックに突き刺さる。
彼はただニカッと力強く笑うだけで、それ以上は何も語ろうとしない。
ミコトはそんな一行の騒然とした空気を楽しむように眺めていたが、やがて小さく咳払いを一つすると、巫女らしい落ち着いた声音で口を開いた。
「まぁ、よい。色々と話さねばならぬことは山ほどあるのじゃが……見たところ、主らは相当疲れ切っておるようじゃな。魂の光が翳んでおる。これでは星の言葉を詠んでやることもできぬわ。まずはゆるりと旅の疲れを癒すがよい。話はそれからじゃ」
彼女はそう言うと、控えていた従者たちに顎で示した。
「阿形、吽形。客人たちを客間へ案内してやりなさい」
「はっ!」
二人の狐面の従者が深く一礼し、無言のまま一行を手招きする。
全ての仕草が洗練されており、ただの従者ではないことが窺えた。
促されるまま、ロイたちは鳥居のような朱塗りの門をくぐる。
門を抜けた瞬間、先ほどまでの静けさが嘘のように、活気に満ちた光景が目の前に広がった。
時が遡ったかのような、賑やかな町並みだった。
道の両脇には、白壁に瓦屋根の建物が軒を連ね、軒先には色とりどりの暖簾や提灯が揺れている。
道行く人々は、皆、質素ながらも小綺麗な和装に身を包み、表情は明るく、穏やかだ。
「へい、らっしゃい!焼きたての団子だよ、うまいよ!」
「見てってよ、上等な反物が入ったんだ!他国でも評判の逸品さ!」
威勢の良い商人の呼び込みが響き渡り、香ばしい醤油の匂いや、炊き立ての飯の湯気が食欲をそそる。
美しい友禅染めだろうか、鮮やかな織物を広げて見せる呉服屋の前には、女性たちが集まって品定めをしている。
道の真ん中では、大きな荷を背負った行商人が何やら珍しい品物を広げ、あっという間に黒山の人だかりができていた。
道の脇に目をやれば、格子戸の続く長屋が見える。
小さな子供たちが鞠つきや追いかけっこに興じ、屈託のない高い笑い声が午後の青空に響いている。
洗濯物がはためき、どこかの家からは三味線の音が微かに漏れ聞こえてくる。
軒下で穏やかに煙管を燻らせる老人もいる。
戦乱や魔物の脅威とは無縁のような、穏やかで満ち足りた人々の確かな営みがあった。
ゼロを失い重く沈んでいたロイたちの心に、目の前の平和な光景は、眩しく、少しだけ痛く突き刺さる。
石畳が敷かれた道を、従者は迷うことなく進んでいく。
町は計画的に区画整理されているのか、道は広く清潔に保たれている。
道行く人々は、狐面の従者と異邦人であるロイたちに気づくと、好奇の視線を向けながらも、皆一様に道を譲り、穏やかに会釈をして通り過ぎていく。
皆の所作からは、巫女への深い敬意と客人への礼節が感じられた。
やがて一行は、町の賑やかな中心部を抜け、緩やかな坂道を上り始めた。
道の両脇には、見事な桜並木が続いている。
まだ花の季節ではないはずだが、枝には瑞々しい緑の葉が生い茂り、木漏れ日がきらきらと降り注いで、まるで光のトンネルのようだ。
風が吹くたびに、葉擦れの音が心地よく耳を撫でる。空気も、町の喧騒から離れるにつれて、次第に澄んでいくのが分かった。
坂道を上りきると、視界が開けた。
小高い丘の上になっており、眼下には先ほど歩いてきた活気ある町並みが箱庭のように広がっている。
目の前にはひときわ大きな、荘厳な構えの屋敷と奥にさらに大きな神殿らしき建物が静かに佇んでいた。
屋敷は白木造りで、大きく反り返った屋根が見事だ。おそらくあれが、ミコトの住まう屋敷なのだろう。
屋敷へと続く、苔むした長い石段。
一段一段を踏みしめるごとに、場の空気がさらに清浄に厳かになっていくのを感じる。
俗世から切り離された、神聖な領域へと足を踏み入れているのだと肌で理解できた。
石段を上りきり、屋敷の門をくぐると静寂が満ちていた。
案内されたのは、磨き上げられた廊下の先にある、広々とした一室だった。
障子を開けると、清々しくて懐かしいような「い草」の香りがふわりと漂い、張り詰めていた腹の底がふっと緩むのを感じた。
窓側の障子には月と星の意匠が描かれ、床の間には簡素ながらも趣のある掛け軸と活け花。
どうやらここツクヨの国では、このような様式が一般的なのだろう。
用意されていたのは、動きやすく、それでいて品のある和装だった。
慣れない手つきでそれに着替え、部屋に用意されたふかふかの布団に身を沈める。
陽だまりの中で干されたかのような、温かく清潔な日差しの匂い。
雲の上にでもいるかのような、柔らかく、優しい心地よさ。
張り詰めていた緊張の糸が、そこでようやくぷつりと切れた。
午後のまろい日差しがさすこの部屋で
誰もがもう何も考えられず、言葉も交わさず、ただただ深い安堵感に身を委ね、泥のように静かな眠りへと落ちていった。
ーーその頃、月の間。
聖殿の最も奥深く、人の気配のない聖域。
円形の広間の中央に据えられた巨大な円盤ーー星辰の盤を青白く照らし出していた。
盤面には無数の星々が精密に刻まれ、まるで本物の夜空を封じ込めたかのように、淡く、神秘的な光を放っている。
盤の前にミコトが一人、静かに佇んでいた。
白装束の巫女は、光る盤面にそっと手をかざし、伏せられた長い睫毛が微かに震える。
「そうか……やはり、な。」
ぽつりと漏らされた呟きは、誰に聞かれるでもなく静寂に溶けた。
彼女の華奢な手首につけられた黒曜石の数珠が、チリンと一度だけ澄んだ音を立てた。




