6-2「ディープスリープ」
焦土と化した大地を踏破する、極限と呼ぶにふさわしい日々が続いていた。
一行の精神的な支柱となっていたのは、紛れもなくナナミの存在だった。
彼女は自身の深刻な消耗を悟られまいと、常に涼やかな表情を崩さない。
しかし、その澄んだライラック色の瞳の奥に、日に日に深い疲労の色が澱のように溜まっていった。
自分自身が気づいてしまえばこの旅が破綻してしまうことを、本能的に理解していたからだ。
仲間が魔獣の爪に裂かれ血を流すたび、ナナミは静かにそのそばに膝をつく。
彼女の細く白い指がかざされ、聖なる癒やしの言葉が古の響きをもって紡がれる。
そのたび夥しい流血も、見るも無残に裂けた皮膚も、まるで時を巻き戻すかのように、奇跡としか言いようのない速さで塞がっていく。
その度に仲間たちは安堵の息をつき、感謝の言葉を口にする。
だが奇跡には代償が伴う。
彼女が奇跡を起こすたびに彼女自身の生命力が、ロウソクの炎のように確実に削り取られている。
誰もがその事実に気づきながら、口にすることを憚られた。
この過酷な状況下で彼女の力に頼らざるを得ないという罪悪感が、鉛のように重く一行の心にのしかかっていた。
ある夜、巨大な蠍型の魔獣との死闘を終え、それぞれが荒い息を整えていた時のことだった。
これまでで最も激しい戦いだった。
ジークが肩を深く抉られ、ナックは利き腕を焼かれ、誰もが無傷ではいられなかった。
そんな中、岩陰からか細い鳴き声が響く。
「キュイキュイ……」
見れば先ほど討ち取った魔獣の子供であろうか、二匹の小さな影が怯えたようにこちらを窺っていた。
親を失い、見慣れぬ者たちを前に震えている。
「……かわいそう」
クロエが痛ましげに呟いた。
かつて全てを失い故郷を追われた自分自身の姿が、その小さな存在に重なって見えたのかもしれない。
彼女はそっと手を伸ばし、この過酷な砂漠で生き延びられるかは分からないまま、それでも逃がそうとした。
その刹那。
幼い魔獣の一匹が本能的な恐怖に駆られ、クロエの手に向けて鋭い毒針を突き出した。
「危ない!」
誰かが叫ぶより早く閃光が迸る。
間一髪、ナナミが放った魔法が毒針を弾き、返す刃で幼獣たちを打ち据えた。
苦悶の声をあげる間もなく、二匹の小さな命は塵となって砂漠の夜風に掻き消えた。
とてもあっけない、無慈悲な幕切れだった。
「そうやって無用な情けをかけるつもり?魔獣にそんな感情を向ける行為は、命取りになるわよ」
ナナミの静かだが、氷のように冷たい声が夜の静寂に響く。
その声には疲労の色とは別の、経験に裏打ちされた厳しさがあった。
「……」
クロエは唇を強く噛んだ。
彼女の言っていることは正論だと分かっている。
分かっているからこそ言葉を返すことができない。
自分の甘さが招いた危険。
それを救ってくれたのは紛れもなくナナミだ。
だが彼女のその冷徹さが、どうしても受け入れられなかった。
やり場のない感情が胸の奥で渦巻く。
仲間たち全員に回復の奇跡を授け終わった、その途端だった。
ロイの傷に触れていたナナミの指先から、ふっと力が抜ける。
最後の役目を終えたかのように、彼女の身体がふらりと力なく傾ぎ、音もなく砂の上に崩れ落ちた。
「ナナミ!」
ロイが悲鳴に近い声を上げた。
彼は咄嗟に駆け寄りその華奢な身体をしっかりと抱きとめる。
他の仲間たちが息を呑んで見守る中、彼だけが動けた。
いや動かずにはいられなかったのだ。
腕の中に収まった彼女の身体は鳥の羽のように驚くほど軽く、それでいて熱病に浮かされたかのように高熱を帯びていた。
「……問題、ない……わ」
虚ろな声でそう呟き、彼女はロイの腕の中で必死に身を起こそうとする。
けれどその意志とは裏腹に、身体から根が生えて大地に縛り付けられてしまったような感覚に陥ってしまう。どうにも言うことを聞かない。
月明かりの下ですら、その顔色は見る者の心を抉るほどに青白く、艶やかだった唇からは血の気が完全に失せている。
彼女の潤んだ瞳が一瞬だけロイを捉えた。
何かを伝えようと、その唇が微かに動く。
言葉になる前に瞼はゆっくりと閉じられ、糸の切れた操り人形のように彼女はロイの腕の中で静かに意識を手放した。
「……すまない、俺たちのせいで……」
「ピィ……」
ピィもしょんぼりとナナミを心配そうに顔を覗く。
ロイは儚げなナナミの寝顔を見下ろし、唇を強く血が滲むほどに噛み締めた。
己の非力さが、仲間を、彼女を、ここまで追い詰めてしまった。
彼女を自分の旅に巻き込んでしまったのは、こんなにも彼女を頼り切ってしまったのは自分自身だ。
その悔恨が灼けた鉄のように彼の胸を焦がす。
翌朝、夜が明けるのを待たずに、ロイは意識のないナナミを背負い黙々と東を目指して歩き始めた。
「ロイ、きついだろ?少しはかわるぜ?」
見かねたナックが心配そうに声をかける。
その言葉にロイは頑なに首を振った。
「俺なら大丈夫だ!」
「ピィ!ピピ……」
「なんだよ!ピィまで心配すんなって!」
から元気でそう返し、彼は再び砂の海へと足を踏み出した。
この苦しみを自分一人の責任として、罰として背負おうとする彼の悲壮な贖罪のようでもあった。
彼の背中でナナミは時折、熱に浮かされたように苦しげな寝息を漏らす。
か細い呼吸が、異常なほどの熱を帯びた体温が、服を隔ててダイレクトに伝わってくる。
彼女の命の灯火が今にも砂漠の風に吹き消されてしまいそうに弱々しく揺らめいていることを、ロイは痛いほどに感じ取っていた。
同時にその温もりだけが、彼女がまだここに、自分の腕の中にいるという唯一の確かな証であり、彼の心を繋ぎとめる最後の安堵でもあった。
一行の間にいつしか会話は途絶えていた。
灼熱の太陽が容赦なく照りつける中、聞こえてくるのは砂を踏みしめる重い足音と、乾いた風が砂を巻き上げる音、ナナミの重さを一身に受け止めるロイの荒く苦しげな呼吸だけだった。
クロエはロイの後ろ姿を、様々な感情が入り混じった複雑な想いで見つめていた。
彼の仲間を想う深い優しさはクロエもよく知っている。
かつて王城で気まぐれな王女の理不尽から自分を庇ってくれたのも、彼だった。
だが今の彼の背中からは、単なる仲間意識だけではない、もっと深く切実な何かが悲痛な叫びとなって滲み出ているように感じられた。
それが彼女の胸を、細く冷たい針で刺すようにちくりと痛ませる。
倒れたナナミへの嫉妬。
そんな醜い感情を抱く自分への嫌悪。
しかし彼女の身を本気で案じる心も嘘ではない。
無理を続けるロイへの心配と、何もできずにただ見ていることしかできない自分自身への無力感。
幾つもの感情が彼女の中で激しく渦を巻き、答えのない問いとなって彼女を苛んでいた。
どれほどの時間が流れたのだろうか。
誰もが体力の限界を超え意識も朦朧とし始めた頃、地平線の彼方に陽炎とは明らかに違う、確かな都の輪郭がぼんやりと見えた時、一行からようやく微かな歓喜の声が漏れた。
砂に埋もれ色褪せてはいるがあれは間違いなく、イル=シャルの都だ。
けれどその安堵にも似た喜びが長く続くことはなかった。
都の上空には街の絶望を吸い上げたかのように、不気味な紫色の暗雲が渦を巻いていたのだ。
あれはただの雲ではない。
一行は新たな脅威の訪れを、肌で感じ取っていた。




