6-1「砂の誘惑」
どこまでも続く紺碧の海原が、頭上から降り注ぐ太陽の光を砕いて、数えきれないほどの瑠璃色の宝石を撒き散らしている。
ルミーナ王国を出航してから数日、穏やかな風を受けた船は快調に波を切り進んでいた。
甲板では、仲間たちがそれぞれの時間を過ごしている。
シルリアは愛剣の手入れに余念がなく、その横顔にはルミーナでの一件を経て得たであろう、迷いの消えた静かな強さが宿っていた。
ナックとジークは船べりで釣りに興じ、時折上がる釣果に子供のような歓声を上げている。
船首に立つクラリスが紡ぐ精霊への歌は、清らかな旋律となって潮風に乗り、この旅路を祝福しているかのようだ。
そしてナナミはマストの影に寄りかかり、静かに書物を読んでいた。
彼女の揺れるウェーブがかった髪で、ロイから贈られたマーメイドパージュの髪飾りが、陽光を弾いて淡い虹色の光を放っている。
そんな様子を見て安心する、ロイ。
相変わらず船には弱いようで青い顔をしたまま、ぐったりと力が抜けている。
そんな平穏な光景の中、クロエだけが一人浮かない顔で手すりに寄りかかっていた。
優雅な仕草で潮風に揺れる柔らかな桃色の髪を、耳にかける。
けれどその瞳は遠い水平線の一点を、どこか不安げに見つめていた。
彼女の胸の内では忘れたはずの過去の記憶が疼くようにその存在を主張し始めていた。
「ねえ、そう言えば次はどこに行くつもりなの?」
その問いかけはこの穏やかな空気を破る、彼女の不安から漏れた呟きだった。
問いかけられたロイは船べりにぐったりと腰掛け、未だに克服できない船酔いで青白い顔を一層歪ませた。
彼は仲間たちの顔、とりわけ静かに本を読むナナミの横顔を盗み見ながら、気まずそうに決意を込めてその名をこぼした。
「んー……イル=シャル国……」
その国名を聞いた瞬間、クロエの顔からさっと血の気が引いた。
輝かしい王家の記憶、優しい母の微笑み、そして暗殺されかけた過去、全てを捨てて故国を追われた辛酸の日々。
愛と憎しみが複雑に絡み合う故郷の名に、彼女はたまらず船の太い柱にしがみつき、子供のように激しく首を振った。
「あそこだけは、絶対に嫌!」
シルリアがクロエの姿に悪戯っぽい笑みを浮かべ容赦なくその足首をぐいと引っ張る。
「まぁまぁ、クロエ。今の私たちは逃亡者とか国外追放とかではなくて、アストリアを救う命運を背負う勇者一行なんだし、そんな気負わなくても」
心底楽しそうなシルリアに倣い、ナナミは読んでいた本から顔を上げると、こてんと首を傾げた後で状況を把握したのか無言ですっと立ち上がり、クロエの反対の足首をむんずと掴んだ。
「ちょっと!ナナミ!あんたまでなんなのよ!?」
「クロエ、我慢なさい。わがままはよくないわ」
「それ言えばどうにかなると思ってるんでしょ!?大体ね、あんただってこの前泳げないとか言って海底神殿に来なかったじゃない!」
クロエの必死の抗議に、ナナミは「あ、そうだった」とでも言いたげな純粋な顔をした後で、助けを求めるように周囲を見回した。
「「「泳げないのは仕方ないだろ」」」
船首で歌っていたクラリス以外の男たちの声が、呆れたように重なる。
その絶大な援護射撃を得て、ナナミは再びクロエの足を引っ張る手にぐっと力を込めた。
「ナナミに甘すぎるのよ!あんたたちはーーーー!!!あたしも命がかかってんだけど?!」
シルリアとナナミに両足を引かれ、クロエは無様に甲板に這いつくばる羽目になった。
瞳には悔し涙が滲んでいる。
「クロエ、聞いてくれ」
船酔いでふらふらになりながらも、ロイがゆっくりと彼女のそばに屈み込んだ。
声は弱々しいが、灰の瞳には真摯な光が宿っていた。
「魔王封印の事実は、アストリア中で広く知れ渡っているのに、その詳細についてはあんまり判明してないだろ?二百年前に何があったのか、どうやって魔王を封印したのか……。本当のことを知らなければ、また同じ過ちを繰り返すことになるかもしれない。イル=シャルにあるっていう『流砂の書庫』なら、何か手がかりが見つかるかもしれないんだ。みんなの未来のために、どうしても必要なんだ」
ロイの真剣な眼差しと言葉の端々から滲み出る、アストリアを救いたいという切実な想い。
どうにも押しに弱いクロエは、仲間たちの物理的な圧力とロイの必死な説得の前に、ついに抵抗を諦めた。
「分かったわよぅ……!行けばいいんでしょ!?行けば!もう、この先どうなっても知らないんだから!」
涙声でそう叫ぶと、彼女はぷいと顔を背けた。
その横顔には諦めと、ほんの少しの覚悟が浮かんでいた。
やがて船は異国情緒漂うイル=シャルの停泊場に到着した。
ルミーナの活気とは全く異なる、乾いた風が香辛料と砂の匂いを運んでくる。
日干し煉瓦で造られた建物が立ち並び、行き交う人々は皆、ターバンや顔を覆う布で強い日差しと砂埃から身を守っていた。
「いい?この布を必ず巻いて。肌の露出は極力減らすの」
船を降りるなり、クロエがテキパキと指示を出す。
普段、踊り子の艶やかな衣装を好んで纏う彼女が、自ら手本を示すように、慣れた手つきで顔と身体にぐるぐると布を巻いてゆく。
実は単なる準備ではなく、この国の厳しい現実と対峙するための、彼女なりの儀式のようにも見えた。
暑苦しいにも関わらず、彼女は顔までしっかり覆ってしまった。
その様子を見てナックが不満げに口を尖らせる。
「ええー、こんな暑いのにわざわざ厚着するのかよ」
「直接日光を浴び続けたら、あっという間に体力を奪われるわよ?!死にたいの?」
その口調は普段の彼女からは想像もつかないほど厳しかった。
彼女がこの地で生き抜いてきた経験が、その言葉に重みを与えている。
「シルマルでござる」
「シルリア、ふざけないで。それに夜はかなり気温が下がるわ。これは大切な防寒具の役割も果たすんだから」
「ピィ!」
シルリアの茶化しを軽く睨みつけ、一行はクロエに倣って装備を整えた。
ピィも大人しくロイと共に布に巻かれ存外心地良さそうだった。
停泊場の喧騒を抜け、一歩、乾いた大地に足を踏み出す。
その瞬間世界の音がふっと消えた。
そこには見渡す限り砂、砂、砂。
黄金色の砂紋が、風によって絶えずその姿を変え、果てしない大地が地平線の彼方まで広がっていた。
「す、っげえ……」
誰もが圧倒的なまでの雄大な景色に、しばし言葉を失い興奮をあらわにする。
しかし、その感動は灼熱の太陽がじりじりと肌を焼き始めた時、早くも薄れ始めていた。
終わりの見えない広大な砂漠での旅路は、彼らの想像を絶する過酷さを伴った。
昼は陽炎が立ち昇り、呼吸をするだけで肺が焼けるような熱気に包まれる。
夜は一転、全ての熱を奪い去るような極寒が骨の髄まで凍えさせた。
「みろよあそこ!今度こそオアシスじゃねえか?」
誰かが希望に満ちた声を張り上げ、一行は最後の力を振り絞ってその影へと向かう。
だが、近づくにつれてそれは儚く揺らめき、やがて跡形もなく消え去る蜃気楼だった。
そんな裏切りが、彼らの心を少しずつ蝕んでいく。
更にはこの過酷な大地には、命を脅かす住人がいた。
「でたぞ!囲まれてる、構えろ!」
静寂を破り、砂の中から巨大な鋏を持つ蠍型の魔獣が姿を現す。
その甲殻は砂漠の色に紛れ、気づいた時には既に包囲されていた。
「キシャーーーッ!」
甲高い威嚇音と共に、鋭い毒針がロイの頬を掠める。
一行はすぐさま陣形を組み、応戦する。
だが、砂に足を取られ思うように動けない。
体力の消耗も激しく、かつてないほどの苦戦を強いられた。
剣を振るう腕は鉛のように重く、魔法を放つための集中力も長くは続かない。
度重なる魔獣との激闘は、一行の心身を、まるで砂が風に削られるように、容赦なく確実に削り取っていくのだった。
癒えぬ傷と深い疲労の色は、もはや誰の顔にも色濃く刻み込まれていた。




