5-10 「たったひとつの贈り物」
シルリアの吹っ切れた背中を追いかけながら、ロイはどうしても焦燥感を隠しきれずにいた。
先程の、シルヴィウス騎士団長との決別は彼女にとってあまりにも大きな出来事だったはずだ。
「待てよ、シルリア!お前、本当に大丈夫なのか?ユイリーシャの家紋を捨てるって本気で言ってるのか?」
ロイの隣でクロエもまた、普段の彼女からは想像もつかないほど心配そうに、美しい眉をきつく寄せている。
海底神殿での、筆舌に尽くしがたい激闘は彼らの心身に未だ癒えぬ深い爪痕を残していた。
痛む身体を引きずるかのようにして、シルリアがゆっくりとこちらを振り返った。
振り返った彼女の顔は意外なほど突き抜けたような晴れやかさが浮かんでいる。
「うん……弟のシルフィのことは少し心配だけど……でも、あの子も誇り高きユイリーシャの子だから。きっと、私がいなくても上手くやるよ。それに正直なところ、ものすごくスッキリしたんだ。あのクソ親父の鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔といったら、もう!」
シルリアの久しぶりに見るような屈託のない言葉に、ロイとクロエは思わず顔を見合わせ次の瞬間には、こらえきれずにプッと同時に吹き出してしまった。
やがてそれは堰を切ったかのような、腹の底からの大笑いへと変わっていく。
海底神殿での息詰まるような重圧からようやく解放されたという安堵感と、何よりもシルリア潔い覚悟に対する心からの賞賛が入った、温かい笑い声だった。
「あーーーっ!もうっ!肉体的にも!精神的にも!はちゃめちゃに疲れたーーーっ!」
シルリアが子供のように、天を仰いで力の限り叫ぶと、クロエもぐったりとした様子で肩をがっくりと落とす。
「本当にそうよね……。服も、潮水と汗でベトベトだし……。今すぐにでも熱いお風呂に飛び込んで、何も考えずにふかふかのお布団で眠りたいわ……」
「あ、みんな、本当に、本当にお疲れ様!もし良かったら、今日のところは、うちに泊まりに来て、ゆっくり休んでいってよ!」
疲労困憊の一行の様子を見かねてか、アリアから天使の囁きのような申し出。
一行は心の底から感謝しつつ、彼女の家へと、ふらふらとした足取りで向かった。
辿り着いたのは彼らの想像を遥かに超える、王城の一部を切り取ってきたかのような、目を見張るほどに壮麗な大豪邸だった。
「ちょっ……!やっぱり、ただの庶民ぶりたいだけのお嬢様なんじゃないのよ、あんたって子は!」
クロエが呆れと羨望の混じった声でからかうと、アリアはえへへと照れ臭そうに、少し嬉しそうに笑う。
「う、うん。否定はしないけど……。でも、こんなに広くても、ほとんどの部屋は全然使ってないよ!あたし一人じゃ、広すぎて落ち着かないし」
アリアのその言葉通り、彼女の屋敷は確かに目を見張るほど広大ではあったが、どこか人の気配が薄くひっそりとしていた。
しかし急な客人である一行を迎える準備は、いつの間にか完璧に整えられており、彼らはそれぞれ、アリアの母親代わりだという初老の侍女たちによって、手厚い治療や回復の奇跡を受けたあと、清潔で太陽の匂いのする、ふかふかとした極上の布団の上で、文字通り泥のように深く安らかな眠りについたのだった。
***
まだ東の空が白み始める前の、夜の気配が色濃く残る薄闇の中、ロイは誰かに呼ばれたかのように、そっと目を覚ました。
一度冴えてしまった意識は、もはや再び心地よい眠りの淵へと沈むことを頑なに拒んでいるようだった。
喉の奥がカラカラに渇いているのを覚える。
水を一杯もらおうかと、豪華な彫刻の施された、長い長いマホガニーの階段を物音を立てないように、そっと静かに降りていった。
階下には誰かを待っていたかのように、柔らかなランプの灯りが優しく揺れている。
「……アリア?もう、起きてたのか?」
書斎らしき、壁一面が本棚で埋め尽くされた部屋で、山と積まれた羊皮紙の書類の束に向かっていたアリアがロイの声に気づき、ゆっくりと顔を上げた。
「あ、ロイ君こそ、とっても早いのね!ごめんなさい、起こしちゃったかな?私は、今回の件に関する、国への正式な報告書やら、セレスティア教会への状況報告書やら、おまけに、神殿をちょっと壊しちゃったことに関する始末書も……やらなきゃいけないことが、もう、たーくさん、山ほどあるのよ!」
アリアは隠しようもない深い疲れの色を浮かべながらも、どこか楽しそうに肩をすくめてみせた。
「そうだったのか……。それは大変だな。何か俺に手伝えることはあるか?」
「ううん、大丈夫。ありがとう。区切りのいいところまで終わったから、少しだけ休憩しようと思っていたところなの」
アリアが書斎の隅に置かれた豪奢なソファに深く腰掛けると、まるでそのタイミングを見計らっていたかのように、音もなくメイドが現れ温かいハーブティーを二人の前にそっと差し出した。
芳しい、心を落ち着かせるような優しい香りが、ロイの鼻孔を心地よくくすぐる。
「……ねえ、ロイ君。次は、どこの国へ行くつもりなの?」
静寂を破るように、アリアがふと尋ねた。
「うーん、そうだな……。みんなの意見もちゃんと聞いてみないと、何とも言えないな。正直何も決まってないんだ」
「そっか……。もし何も決まっていないのなら、次はイル=シャル国っていうのはどうかな?あそこの巫女のアミーにあたしから手紙を書いて、みんながスムーズに入国出来るように、手配するよ!」
イル=シャル国。
その名はロイも聞き覚えがあった。
クロエが生まれた国。
謎多き、広大な砂漠に覆われた国。
このアストリア大陸で最も古い、神話の時代からの歴史を持ち、そして現在、魔族の侵攻が他のどの国よりも激しいと言われる、戦乱の国。
「確かに危険もすごく多い国だとは思うけど……あそこには他のどこにもない『流砂の書庫』っていう、とっても大きな書庫があるの。だからきっと、みんなが得られる情報も沢山あると思う」
「流砂の書庫……?」
初めて聞く名前に、ロイは興味をそそられる。
「うん。たぶんアストリアで一番大きな書庫だよ。そこには他の国では決して見ることのできない貴重な本も沢山あるんじゃないかなぁって、あたしは思うの。例えば二百年前に魔王封印した時の詳しい記録とか、あとは……『呪い』に関することとか……ね」
「呪い……」
その言葉が冷たい棘のように、ロイの胸の奥に微かに突き刺さった。
「あっ!ご、ごめんなさい!今の、何でもないの!忘れてちょうだい!」
アリアはしまった、とでも言うように、わざとらしく慌てて話題を逸らそうとするが、その表情は明らかに硬い。
呪い、という不吉な言葉に、ロイの脳裏には一人の少女の姿が痛々しく浮かんだ。
聖域にいる時の力なく気怠そうな様子。
女神への祈りを捧げるたびに、苦痛にその美しい顔を歪ませる姿。
強力な魔法を使うたびに、その瞳から光が失われ虚ろになっていく、あの危うげな瞳。
そして、偶然にも垣間見てしまった彼女の白い背中に、悪魔の刻印のように刻まれた禍々しい黒い痣。
「……分かってるよ、アリア。ナナミのことなんだろ?」
アリア不自然な隠しきれていない態度が気になり、ロイはあえて、その核心を真っ直ぐに突いた。
アリアの表情が、みるみるうちに、絶望的なまでに深刻なものへと変わっていく。
「そんなにナナミの状態は深刻なのか……?」
ロイの絞り出すような問いに、アリアは重々しく頷いた。
「……うん。……ごめんね、ロイ君。本人には絶対にみんなには言わないでって、口止めされてるから……。このことは内緒にしてね」
「……分かった。ナナミの呪いのこと、俺にはまだ何も分からないけど、これ以上悪くならないように、俺の方でも何か方法がないか、こっそり探ってみるよ」
努めて冷静に何でもないことのように言ったつもりだったが、ロイの内心は嵐が吹き荒れる海のように、激しくどうしようもなく荒れ狂っていた。
『呪詛』『代償』『その身を、削る』
かつてツクヨの国で、偶然にも耳にしてしまった、不吉な言葉の数々が、まるで鉛のように重く彼の胸にのしかかる。
ようやっと彼女が、あの小さな身体で一人抱え込んでいる、途方もない秘密の、ほんの僅かな一端に触れたような気がした。
きっとこれだけではないはずだ、という確信にも似た恐ろしい予感が彼の胸を強く締め付けていた。
苦悶に満ちた面持ちで、深く考え込んでいたロイの固く握りしめられた手に、アリアが不意に指を差した。
「……ところでさ、ロイ君。さっきからずーっと、何をそんなに大事そうに握ってるの?何かお守りとか?」
ロイはアリアの言葉に、はっと我に返り、初めて気づいたかのように、自分の右手を見つめた。
眠っている間も、今この瞬間も、失くしてはならない宝物のように、強く握りしめていたらしい。
無意識のうちに、一体何を……?
緊張しながら、その固く握りしめていた手を開く。
そこには夜の闇の中でも、淡く光を放つ大きな真珠のような、それはそれは美しい乳白色の石があった。
「ロ、ロイ君!これって、もしかして!あなた、なんで、どうやって手に入れたの!?」
アリアが信じられないといった表情で息をのむ。
「はれ?いつの間にか、俺これ持ってたみたいなんだけど……」
「驚かないで落ち着いて聞いてね……?いい?」
ゴクリ、と二人の生唾を飲む音が、しんと静まり返った書斎の部屋に、妙に、そしてやけに大きく響き渡った。
「……これ……間違いなく、超絶レアドロップ素材だよ……?しかも見て、この内側から溢れ出すような聖なる輝き……。とんでもなく強力な神々の時代の加護が付与されてる……。もしこれを好事家に売ったりしたら……もしかしたら、とんでもないくらいの価格になるかもしれないよ……」
「……ちなみにアリア。それって、いくらくらいになりそうなんだ……?」
「うーん……あくまで、あたしの個人的な予想だけど……少なく見積もっても……軽く一億ゴルドはくだらないと思うよ……」
「い、い、いちおくぅっ!?」
一億ゴルド。
普通の人間が、一生涯、いや、おそらくは末代のその先まで、毎日、毎日、飽きるほど豪勢に遊び暮らせるほどの途方もない、まさに天文学的な金額だ。
「ちなみに、その、とんでもない加護の、効果の方なんだけど……」
「……おそらく、『致命傷避け』。つまり、これを持っていれば、どんなに深手を負っても、決して命を落とすことはないっていう……奇跡の守護石……」
ロイは唇から血が滲み出るのではないかと思うほど、強く、強く、その唇を噛み締めた。
彼の脳裏に浮かぶのは、もはやただ一人。
いつもは気丈に振る舞いながらも、ふとした瞬間に見せる、あの苦し気に眉を寄せるナナミの姿だけだった。
断腸の、そして胸が張り裂けそうな思いで、だが心には確固たる、揺るぎない意志を込めて、ロイは今にも溢れ出しそうな涙声になりながらも、目の前のアリアにはっきり力強く告げた。
「……アリア……。この辺りに腕の立つ、信頼できる宝飾の加工師はいないだろうか……。急ぎで頼みたいことがあるんだ……」
***
ロイは海底神殿で運命に手渡された聖なる石『マーメイドパージュ』を、アリアが紹介したルミーナ王国一と噂される老練な宝飾師へ託した。
そうして、世界でただ一つの美しい装飾品へと仕立ててもらったのだ。
完成したばかりのそれを、生まれたての赤子を扱うよりも丁重に、裸のまま掌で包み込む。
彼は贈り物を一番渡したい、たった一人の少女の姿を探して夕暮れの港を彷徨っていた。
どこまでも燃えるようなオレンジ色に世界が染め上げられていく、美しい夕暮れの港。
その静かな一角に、ナナミはいた。
世界の喧騒から切り離されたように、物憂げに、打ち寄せる波へその白い足を浸している。
パシャン、パシャンと、彼女の心臓の鼓動に呼応して、時折優しく跳ねる水面を、何とはなしにただぼんやりと見つめ、物思いに耽っているようだった。肩の上にはピィが乗り、何か楽しげに話しかけているのか、小さな口がもぐもぐと動いている。
一度、大きく深く深呼吸をする。
初めて戦場に赴く新兵の心境で、高鳴る鼓動を必死に抑え、意を決して彼女の元へ一歩、また一歩と歩みを進めた。
「……ナナミ。こんなところにいたのか」
「……ロイ。身体の具合はもういいの?」
ロイの声にナナミが永い夢からふと覚めたように、ゆっくりと穏やかに振り返る。彼女の表情は感情を読み取り難い。それでも、瞳の奥に柔らかな光が灯って見えた。
「ああ、もうすっかり大丈夫だ。回復の奇跡もうけたしな。……ナナミこそ何してたんだ?二人で黄昏てるのか?」
「ううん。ピィと一緒にこの港を探検してたのよ。ピィったら見ての通り、とても食いしん坊で面白いの。お魚は大好きみたいなんだけど、なぜか虫は大嫌いで。でも一番好きなのは新鮮な甘い果物なのよね。この子」
アリアの屋敷で、きっと侍女たちの目を盗んではご馳走になったのだろう。
すっかりナナミに懐いたピィは、小さな身体がはち切れんばかりに膨れ上がり、満足そうに「ケプッ」と人間のようなゲップをした。
その間の抜けたピィの姿を、我が子を見るように慈しむナナミの横顔。
細く美しい指が、優しくピィの頭を撫でる何気ない仕草に、ロイの胸の奥でまた甘く切ない痛みが強く響いた。
ナナミの隣へ、ロイは何かに吸い寄せられるようにそっと腰を下ろす。
緊張で今にも張り裂けそうな心臓の鼓動、手に握る『マーメイドパージュ』の微かな温もりと震えを懸命に隠し、努めて平静を装った。
声は僅かに上ずりながらも、彼女に話しかける。
「……あのさナナミ。突然なんだけど……。どうしてもお前に渡したいものが、あるんだ」
そう言ってロイが震える手で差し出したのは、月の雫を固めた乳白色のパールが天の川のごとく連なり、星屑を散りばめた繊細な銀細工が優雅に施された、息を呑むほど愛らしく、神秘的な髪飾りだった。
傾きかけた夕陽の最後の光を浴び、それはオーロラのように柔らかく、優しい虹色の光を放っている。
「……ナナミってさ、髪の左のところにいつも少し癖がついてるだろ?もしかして……アクセサリーとか、そういうのを付けてたんじゃないかなって、ずっと思ってて……」
「…………っ!!」
図星を的確に突かれたのだろう。
普段は感情を映さないはずのナナミの大きな瞳が、驚きに見開かれた猫の瞳のように、さらに大きく、信じられないというように見開かれた。
美しいライラック色の瞳の奥に、隠しようもない純粋な驚きと、何か別の、もっとずっと複雑で切ない感情が、水面の波紋のように静かに、揺らめいているのがロイにもはっきりと見えた。
「……もし良かったら、これ、使って、くれないか……?」
ロイの汗で少し湿った手のひらに、そっと置かれた美しい髪飾り。
ナナミはそれが幻であるかのように、しばらくの間、ただじっと、瞬きもせずに見つめていた。
やがて大切な宝物に触れるように、ゆっくりと、躊躇いがちにそれに手を伸ばし、自分の小さな手のひらに乗せる。
そして再び、初めて見る不思議な生き物を観察するように、黙って食い入るように見入った。
ナナミの肩の上で、心地よい夕暮れの潮風に吹かれ夢うつつだったピィが、不意に小さな顔を不快そうにしかめた。
突然、頭の上に冷たい大粒の水滴がぽつり、ぽつりと降ってきたのだ。
(ん?雨か!?さっきまで、あんなに晴れてたのに……!)
ピィは慌てて小さな羽で自分の額を健気に庇う。
しかし自分の上にはそれ以上雨は降ってこない。
恐る恐る不思議そうに空を見上げれば、どこまでも燃えるようなオレンジ色に晴れ渡った美しい夕焼け空が広がり、雨雲の気配は微塵もなかった。
(……なんだ?気のせいか……?)
不思議に思って小さく首を傾げると、すぐ横で夏の日の夕立のように、ポタポタと絶え間なく水が滴り落ちていることにようやく気づいた。
「ピ?」
不可解な雨の源を、ピィが不思議そうに辿っていくと、ナナミの白い頬、いや、潤んだライラック色の瞳に確かにたどり着いた。
ぽろぽろと、壊れた蛇口から水が溢れるように。
それはロイが初めて彼女に出会った時と、全く同じ光景だった。
大きな瞳をさらに大きく見開いたまま、ただひたすらに声を殺して大粒の涙を流し続けるナナミ。
痛々しく儚げな姿に、ロイもまた、初めて彼女の涙を見たあの時と同じように、どうしようもなく狼狽し、顔面蒼白になった。
「ひっ!ご、ごめん!こんなのいらなかったか!?でもこれ実は、アリアもビックリするくらいの超絶レアドロップ品らしくて!めちゃくちゃすごい加護がついてるらしいんだ……!どんな怪我をしても、絶対に致命傷だけは負わないとか……!す、すごいだろ?!だから、うちのパーティの絶対的な要となるナナミが、これを持ってるのが一番いいと思って……!あ、でも付けるのが嫌だったなら、別に売ってもいいんだぜ!?アリアが言うには、一億ゴルドはくだらないとか、なんとか……!」
年頃の少女がいきなり男からアクセサリーを贈られ戸惑っているのだと盛大に勘違いしたロイは、決してやましい気持ちからではないのだと、裏には深い意味などないのだと、必死に早口で捲し立てる。
ロイのどこまでも不器用で、健気な思いをようやく察したのだろう。
ナナミはゆっくりと、慈しむように小さく横に首を振った。
「……ううん、違うの……。そうじゃ、ないのよ……。……とっても、とっても……嬉しいの……」
燃えるような夕焼けに美しく染まる顔で、まだ大粒の涙をぽろぽろと流しながらも、どこか照れ臭そうにはにかみながら、彼女は心の底から嬉しそうに、ふわりと花が綻ぶように笑った。
その自然で優しい笑顔は、昇華を行う時の神秘的で近寄りがたい顔でも、戦場で見せる凛々しく美しい魔女の顔でもない。
本当にただの、素朴でとびきり可愛らしい少女の、それ以外の何物でもなかった。
ナナミは美しい髪飾りを、それが一番大切な宝物であるかのようにそっと胸の前に大事そうに抱きしめた後、ロイが言っていた通り、いつも癖がついているという左側の前髪部分へ、壊れ物に触れるように優しく、誇らしげにマーメイドパージュをそっと着けた。
―――「私笑うのが、とても下手だから封印したの。」
かつてナナミが零した言葉を覆すかのような、初めて見る何の飾り気もない純粋な笑顔。
その眩い心を射抜くような輝きに、ロイの顔は燃えるような夕日よりもさらに真っ赤に、真っ赤に染まっていた。
幸いにも空一面を覆い尽くすこの美しい夕焼けが、彼のどうしようもなく高鳴る感情と熱く火照った顔を、優しく隠してくれているようだった。
ナナミがこのままでは、忌まわしい残酷な呪いにその身も心も蝕まれてしまう。
そんな絶望的な未来だけは、何があっても絶対に、絶対に阻止しなくてはならない。
ロイは魂に刻み込むように、そう誓うのであった。
***
それから数日後、いつものように活気に満ちた、ルミーナ王国の大きな港町の船着場。
新たな目的地へと旅立つ準備を終えた一行の中に、ひときわ目を引く、神々しいほどの美しい輝きがあった。
ナナミの風に揺れるミルクチョコレートの髪に着けられた、マーメイドパージュの髪飾りが、オーロラのような、淡く、優しい虹色の光をその身に纏い、きらきらと生きているかのように優しく揺れている。
それを真っ先に見つけたアリアは、ニヤリと何か面白いものを見つけた子供のような、悪戯っぽい表情を浮かべ、ふぅーん、と意味ありげに、少し楽しそうにロイの顔を見た。
ロイはアリアの視線に、「当たり前だろ!うちのパーティで今、一番この守りが必要で、一番これを持たせなきゃいけないのは、どう考えたってナナミなんだからな!」とでも言いたげに熱い視線を送り返す。
アリアは「もう、見てるこっちが恥ずかしくなっちゃう〜」とでも言わんばかりに、その美しい頬にそっと手を当てて、わざとらしくおどけた顔をしてみせた後で、ふっと、いつもの真面目な巫女の表情に戻り、旅立つ一行に改めて真っ直ぐに向き直った。
「……行ってしまうんだね、みんな」
名残惜しそうにアリアがぽつりと呟く。
「ああ。いつまでもアリアに甘えてるわけにもいかないからな。それに残りの国も心配だからな……。」
ロイもまた寂しさを感じつつも、アリアの言葉に力強く頷いた。
「ところで、あの『潮汐の真珠』が壊れてから、ルミーナの海の様子は、その後どうだ?何か変わりはあったか?」
「うーん、正直、まだ万全ってわけにはいかないかなぁ。外洋の波もまだ少し荒いし、油断はできない感じ。ただね海の生き物たちは、本当に少しずつだけど、確実に増えて来てるかもしれないの!昨日漁師さんたちが、ここ数年で一番の大漁だったって、前よりもずっと張り切って嬉しそうにそう言ってたんだよ!」
とびっきりな笑顔で、アリアがそう言って笑う。
「それなら良かったな。アリアも漁をするっていうなら、絶対に無理はするなよ?」
「ありがとう!ロイ君こそ、これからの船旅は揺れると思うけど、船酔いとかしないように気をつけてね?」
アリアは旅立つ仲間たち一人一人と、名残を惜しむように、握手を交わす。
やがて大きな汽笛と共に、ゆっくりと岸壁を離れ始めた船に乗り込んだ一行に、アリアはその姿が見えなくなるその時まで、いつまでも、いつまでも、その小さな手を大きく振り続けていた。
彼女の心からの友情と感謝の気持ちに応えるように、ロイたちもまた、姿が水平線の彼方に消えるまで、力強く何度も手を振り返し続けた。
新たな目的地、イル=シャル国へ。
ナナミの髪にまるで希望の光のように優しく輝くマーメイドパージュの髪飾りと、そしてこの胸の奥深くに確かに刻んだ、とある誓いを、唯一の道しるべとして紺碧の海をロイたちを乗せた船は進んでゆくのであった。
第五章 完




