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ruth story  作者: Cy


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5-9 「潮汐の真珠」



先程まで死闘を繰り広げた巨大なタコの亡骸が永遠の眠りつくように、ゆっくり静かに海の塵へと還りゆく中、未だ陽光の届かぬ暗闇には得体の知れない、どこまでも不穏な空気が粘りつくかのように重く漂っていた。

この広大な海の底そのものが息を殺し、次なる厄災の訪れを固唾を飲んで待ち構えているかのようだった。


「……なんか嫌な感じがしないか?さっきよりも空気が重いっていうか……」

ロイの不安を隠せない呟きは重く冷たい水の中に溶けることなく、すぐそばにいた仲間たちの肌をぞわりと粟立たせた。

ざわざわざわと、まるで内側から掻き乱されるかのような形容しがたい嫌な気配は、時を追うごとに強まるばかりだ。

皆、息を詰め研ぎ澄まされた神経を、目の前の深い闇の奥へと一点に集中させる。

「見て、あそこっ!」

クロエが緊迫した声で叫び、指で前方を指さした。暗闇の奥、そこかしこに地獄の灯火のように爛々と赤黒く輝く無数の双眸がぼんやりと浮かび上がり、蠢きながら、確実にこちらへとその距離を詰めてくるのが見えた。

深淵の底が開いた巨大な顎から、とめどなく溢れ出してくる怨念の光のようだった。


「くそっ!またかよ!一体、何匹いやがるんだ!」


ロイは忌々しげに吐き捨てるように叫び、手に馴染んだ剣の柄を強く握りしめる。

おびただしい数の、先程までとは明らかに異なる種類の魔獣たちが、訓練された軍隊のように統率の取れた動きで、確実に迫りつつあった。

『……先程まで我々と死闘を繰り広げていた巨大な魔獣の、その強大な力を求めてやってきたのかもしれぬな。』

アルルホス隠しようもない緊張を滲ませて推察する。

先程倒したタコの強大な魔力の名残、あるいはその新鮮な血肉を貪り食らい、己が力とせんと浅ましくも醜い欲望に突き動かされて、この深海の底まで集まってきたのだろう。

海の捕食者たちの原始的で獰猛な本能が死してなおこの場に色濃く残る強者の残り香に、まるで磁石のように引き寄せられたのだ。


シルリアは先程の戦いでタコの巨体に深々と突き刺さっていた己の矢を、一本、また一本と、荒々しく引き抜いていく。

その白く細い指先はタコのどす黒い血と、おびただしい量の体液にぬめぬめと濡れていたが、もはや一切の揺らぎはなかった。

「ロイ、この剣は返すよ。ありがとう。」

彼女は回収した全ての矢を、背中の矢筒に静かに収めると、先程まで自分が振るっていた、ロイの予備の剣を彼へとそっと差し出した。

その美しい横顔は先程までの筆舌に尽くしがたい死闘の痕跡を色濃く残し、痛々しいほどに青白かったが、その瞳には確かな光が宿っていた。


「え、でも、お前……どう見ても、俺なんかよりもずっと剣の扱いは上手いじゃないか。本当にいいのか?」


ロイは彼女のその申し出に、隠しようもない戸惑いを覚える。

シルリアが先程見せたあの神懸かりとも言える剣技は、彼我の差を、己の未熟さを、改めて痛感させられるほどにどこまでも洗練され、そして美しかったのだから。


「うん本当に、久しぶりに心の底から楽しかったよ!……でも、やっぱり私は、もっともっと弓の道を極めなきゃいけないみたい。それが私の騎士道だから」


満身創痍の今にも倒れそうな体でシルリアは悪戯が成功した子供のように、ふっと唇の端を上げてみせた。

どこか儚げな笑顔は、深い疲労の色の中にも揺るぎない意志の光を宿していた。

彼女はロイの返事を待つまでもなく、彼の戸惑う手をそっと取り、その手に馴染んだ剣を彼の腰の鞘へと滑るように、名残惜しそうに滑り込ませると、再び自らの愛用の弓を手に取り、残された数少ない矢をつがえる。

その一連の動作に、もはや一切の淀みも迷いもなかった。


「……ほんと、お前ってやつは、真面目だよな〜。」

ロイは照れくさそうに、少しだけ拗ねたように苦笑しつつも、彼女の真摯で、真っ直ぐな姿勢に温かい気持ちになっていた。

「私の憧れの人は、剣も、弓も、槍も、およそ全ての武術において他の誰よりも秀でていた。私は、いつか必ずその人を超えていきたい。それが私の唯一つの目標だから」

シルリアの瞳がまるで遥か彼方の、今はもう見ることのできない理想の星を見つめるかのように、すっと細められる。

その静かな言葉には彼女の魂からの決して揺らぐことのない強い決意が、痛いほどに込められていた。


眼前に津波のように迫り来る魔獣の群れは、最早「群れ」というよりも、彼らの行く手を完全に阻む、黒く、そして絶望的な「壁」と化していた。

奴らはロイたちのすぐ背後に、小山のように横たわるタコの亡骸を、血走った飢えた目でただひたすらに狙っている。

絶望的な魔獣の壁の、ほんの僅かな一瞬だけ見えた切れ間をロイは見逃さなかった。

一瞬の判断で、すぐそばにいたシルリアとアリアの背中を、渾身の力で優しく、ぐっと力強く押した。

「ロイ君っ!?」

アリアが不意を突かれて驚きの声を上げる。


「頼む!二人とも、先に『潮汐の真珠』のところへ向かってくれ!俺たちも、こいつらを片付けたら、すぐに追いかけるから!絶対に!」


次々と襲い来る魔獣の攻撃を、まるで踊るように巧みにいなし、時にはその勢いを利用して弾き返し、ロイはもはや絶叫に近い声で、そう張り上げた。

決して大きくはない彼の背中は、確かに、かけがえのない仲間たちを守る、最後の盾そのものだった。


「で、でも……私たちだけ先に行くなんて……!」


シルリアが明らかに躊躇う。

仲間を見捨てて自分たちだけが安全な場所へ行くことなど、彼女の騎士道が彼女の魂が、決して許さない。


「アストリアを、救うんじゃなかったのかよ!?騎士として!こんなところで俺たちが全滅なんかしててっ!いいわけないだろうがっ!」

ロイの魂からの叫びが、シルリアとアリアの胸を深く打った。

その言葉には彼なりの、不器用な勇者としての矜持と、仲間たちへの揺るぎない信頼、何よりも、このアストリアを必ず救うのだという、あまりにも純粋な使命が痛いほどに込められていた。


「……わかった!必ず、後から来て!絶対に、死なないで!」

きつく、血が滲むほどに唇を噛み締め、シルリアがアリアの細い手を強く引いた。

アリアもまた、ロイと残された仲間たちのその悲壮なまでの覚悟を、決して無駄にはできないと、溢れそうになる熱い涙をぐっと堪えて、力強く頷き二人は、シルリアの放った光の矢のように、神殿のさらに奥深くへと姿を急いだ。


神殿の最深部へと続く入り口にはゆらゆらと青白く揺らめく、不思議な水の壁が形成されていた。

それはあたかも聖域への侵入者を拒むかのように、内部と外部とを厳粛に隔てている。


「ここから先はあたしたちがさっきまでいた海の中とは違って、地上と全く同じ空気があるんだよ。遥か古の、まだ神々が生きていた時代の頃の特別な加護が今もまだこの場所だけには残っていて、その力がきれていないみたいなの」

アリアが荒い息を切らしながら、興奮したように説明する。

その言葉通り、異世界への扉のような水の壁を恐る恐る通り抜けた瞬間、ふっと、羽が生えたかのように身体が軽くなり、彼女らの肺が久しぶりの清浄な空気を取り込んだ。

確かにそこは先程までの重苦しい水圧も、まとわりつくような水の抵抗も存在しない、陸地と全く同じ重力と、そして神聖なまでの清浄な空気に満たされた、不思議な空間だった。

しかし同時に、先の壮絶な戦いで負った数々の傷が急激な重力の変化と共に、ズキズキと存在を強く主張するかのように痛み始める。

消耗しきった体力はいつもよりも数段も、いや、数十段も自分の身体を重く感じさせた。


『潮汐の真珠』が永い間、静かに安置されていたという神殿の最深部。

海底神殿の他のどの場所よりも、さらに清浄な空気が満ち、神聖などこまでも深い静寂が支配する特別な空間だった。


まるでこの神殿の主のように厳かに鎮座する、虹色に輝く巨大な『潮汐の真珠』は、その神聖な場所の雰囲気とはあまりにも裏腹に、どす黒く、禍々しいとしか言いようのない邪悪なオーラを生き物のように、もくもくと立ち昇らせていた。

ドクン、ドクンと、巨大な、病んだ心臓が、苦しそうに不気味に脈打つかのように、不規則な鼓動を繰り返し、最後の力を振り絞って邪悪な意思に必死に抗おうとしているのが、シルリアとアリアには、痛いほどに伝わってきた。


「シル……本当に、ごめんね。最期にちゃんとお祈りを捧げたいの……。いいかな……?」

アリアは痛々しい真珠の姿を前にして、ただ呆然と立ち尽くし、今にも消え入りそうなほどか細い声で、シルリアにそう告げた。

海の青さを映した瞳は、溢れんばかりの涙で潤み、深い、深い悲しみをたたえている。


「うん。もちろん。アリア。……いってらっしゃい」

シルリアはただ静かに優しく頷き、今にも崩れ落ちてしまいそうな、小さな背中祈るように見守った。


このルミーナの海を永きに渡り守護してきた巫女と、その力を宿す『潮汐の真珠』との、あまりにも悲し最後の対話だった。

永い間、人の手によって感謝の祈りを捧げられることのなかった、忘れ去られた真珠への心からの謝罪。

そしてこれから自分たちがこの手で行わなければならない、破壊という、あまりにも残酷な行為への、深い、深い贖罪。

アリアにとってこの海底神殿、そしてこの『潮汐の真珠』は、他の何にも代えることのできない、彼女の魂の拠り所とも呼べるほど、本当に、本当に大切な場所だったのだ。

ようやく、ようやくこの場所に辿り着けた、この今日という日が、そのかけがえのない場所との永遠の別れの日になるなどと、一体誰が想像できただろうか。


語り尽くせないほどの、溢れるばかりの感謝。

どうしようもないほどの、愛惜の念。

胸が張り裂けそうなほど、悲痛な思い。



その全てをアリアは、ただひたすらに祈りに込める。

一筋、また一筋と、彼女の美しい頬を伝い落ちる熱い涙は、彼女の悲しみを吸い込むかのように、この神殿のどこまでも清浄な床石に、儚く吸い込まれていった。


どれほどの時間が経ったのだろうか。

ようやく祈りを終え、シルリアの方へとゆっくりと振り返ったアリアの顔はおびただしい量の涙で濡れながらも、どこか吹っ切れたような、まだ深い悲しみをその奥底に湛えた、非常に複雑な表情をしていた。

大切だった。本当に、心の底から大切だった。

もっと、もっと、ずっと大切にしたかった。

けれどもう、何もかもがとっくの昔に手遅れなのだ。

諦めきれない、断ち切れない思いがまだ焼け付くように、熱く胸に残っている。


それでも彼女はこのアストリアの民のために、そして未来のために、ルミーナの巫女として己の個人的な感傷をこの場で今、振り切ったのだ。

「ありがとう、シル……。本当にごめんね……。あたしにはどうしてもこの手で壊すことなんてできそうにないの。お願い、してもいい?」

その声はまだ微かに震えていたが、彼女の大きな瞳に揺るぎない覚悟の光が宿っていた。

シルリアはアリアのその悲壮なまでの覚悟を、ただ黙って、真正面から受け止めた。


騎士として、揺るぎない自分自身の信念に目覚めた今のシルリアだからこそ、アリアの言葉にできないほどの深い悲しみも、その奥にあるあまりにも大きな決意も、まるで自分のことのように、痛いほどに伝わってきたのだ。


「こちらこそありがとう、アリア。あなたの大切な想い、確かに受け取ったよ。私がこの手で、あの真珠を破壊する。あなたが私を恨むというのなら、それでも構わない。私はそれを受け入れる覚悟ができているから」

シルリアは力強く宣言した。

アリアの重すぎる心の荷をほんの少しでも軽くしようという、彼女なりの不器用な優しさと、この過酷な役目を自らが引き受けるという、騎士としての気高い決意に満ち溢れていた。

アリアは涙に濡れたぐしゃぐしゃの顔で、それでも心の底から優しく、どこか救われたように微笑み、深く一度だけ頷いた。

シルリアは愛用の弓をそっと構え、一本の矢を引き絞る。

その矢には、輝かしい未来への強い願いが込められていた。

静寂の中、放たれたその一矢は神々しいほどの光の尾を引きながら、禍々しいオーラを放ち続ける『潮汐の真珠』の、そのまさに中心を寸分違わず射抜いた。

パリン、という薄いガラスが砕けるかのような、物悲しくて澄んだ音が、神殿の奥深くに響き渡り、次の瞬間『潮汐の真珠』はその内部から太陽が爆発したかのような、眩いばかりの光を放ちながら粉々に砕け散った。

キラキラと虹色に輝く無数の真珠の破片が、神殿の空気の中を最後の別れを惜しむかのように舞い、あたかも天上の星々が流す美しい涙のように、静かに儚く降り注いだ。

「……さようなら……。今までこのルミーナの海を護ってくれてありがとう……」

アリアは祈るようにそっと指を組んだまま、ただただ、そのあまりにも幻想的で、物悲しい光景を瞬きもせずにじっと見つめていた。

その大きな瞳には言葉では到底言い表すことのできない、万感の思いが走馬灯のように去来していた。


『潮汐の真珠』が完全に破壊された影響か、ゴゴゴゴゴ……と、大地の奥底からの呻き声のような不気味な地鳴りが神殿全体を激しく揺るがし始めた。

それまで神聖な空気を満たしていた海底神殿の壁の至る所に亀裂が走り、天井からは滝のように容赦なく冷たい海水が轟音と共に流れ込んでくる。

深い悲しみに包まれていたアリアも目の前で急速に起こり始めた神殿の崩壊を敏感に察し、シルリアに一刻も早い海底神殿からの脱出を必死の形相で促した。

冷たい海水が奔流となって押し寄せる海底ではロイたちが今度こそ本当に満身創痍となり、もはや立っているのもやっとという、見るも無惨な状態だった。


「お、お前ら……。本当に、やってくれたのか……」


ロイの声はひどく掠れていたが、疲れ切った瞳には確かな安堵の色が浮かんでいた。

先程まであれほど猛威を振るっていたタコの巨体は、既に海の塵と化して跡形もなく、あれほどまでに際限なく湧き出ていた魔獣の群れも、彼らが文字通り死力を尽くして蹴散らしてくれたようだ。


「みんな、本当に疲れているところ悪いんだけど、もう時間が全くないの!お願い、私にしっかりついてきて!」


アリアが叫び、一行は互いの肩を貸し合い、最後の力を振り絞って、ただひたすらに光がキラキラと揺らめく海面を目指して無我夢中で泳ぎ始めた。



その時だった。

ドォォォォン!!という、腹の底にまでズシンと響くような、途方もなく巨大な爆発音が彼らのすぐ背後から轟いた。


何事かと、一行が恐怖に顔を引きつらせながら振り返ったまさにその瞬間。

激しい、抗いようのない強大な水流が、まるで巨大な壁となって彼らに襲いかかり、一行はもはや何の抵抗もする術もなく、濁流の中へと木の葉のようにあっけなく呑み込まれてゆくのであった。


***


ドォォォォン!!

港でただ一人、海の彼方をじっと見つめながら小さな相棒ピィと共に、仲間たちの帰りを静かに待っていたナナミの目の前に突如として、巨大すぎるほどの水柱が天を衝くかのように、轟音と共に勢いよく上がった。

その高さはこの港町のどの建物よりも遥かに高く、見る者全てを圧倒し恐怖させる。


「……思ったよりも、早かったわね」

ナナミは常軌を逸した光景を前にしても、少しも表情を変えることなく、ただ冷静にそう呟いた。

美しいライラック色の瞳は今まさに荒れ狂わんとする、不気味なほどに静まり返った海の一点をただじっと見据えている。


「ピィーー!ギャピーーーー!ゲゲゲゲゲゲッ!!」


ナナミの肩に乗るピィはあまりにも恐ろしげな、まるで世界の終わりのような光景に完全に怯えきって、もはや鳥の鳴き声とは思えないような奇妙な奇声を上げている。

ナナミは哀れなピィの小さな頭を慈しむかのように優しく撫でると、衝撃波となって肌を刺すように押し寄せる生暖かく湿った海風に髪を激しく靡かせながら、厳かに細く美しい指を組んだ。


蒼穹そうきゅうを渡りし、いにしえの神々の御名みなにおいて、切に願わくは我らが儚き命、眼前に迫り来る海の脅威より、ことごとく護り給え。揺らぐことなきこの大地のことわり、この聖なる地に、力強く宿らせたまえ。慈悲深き光の女神エデルよ、その貴き御手みてをもって、荒れ狂う潮を鎮め塞き止め給え。我、古の聖約に従い、今こそこの地に加護の道を紡がん。ここに絶対なる守護の環を、高らかに顕現せしめる!」


力強い詠唱と共にナナミの身体から、淡い黄金色の光がオーラのように放たれる。


時を同じくして、先程、天を衝くように上がった巨大な水柱が、全てを飲み込まんとする、途方もなく巨大な津波となって平和な港町を、まさに襲いかかろうとしていた。

大地を揺るがすような、腹の底からの轟音と、目の前の視界を完全に覆い尽くす、絶望的なまでの水の壁。

何事かと、それぞれの家々から慌てて飛び出してきた住民や、港で網の手入れをしていた漁師たちは非現実的で絶望的な光景に、ただただ怯え戸惑い言葉もなく困惑し、足が地面に縫い付けられたかのように青ざめた顔で立ち尽くすしかなかった。

しかし、まさにその瞬間だった。


ナナミが展開した神々しいまでの神聖な防護結界が、港町全体を力強く包み込むように現出する。


黄金色の聖なる光を放つ、巨大な半透明のドームは全てを破壊し尽くさんとする、あの巨大な波の直撃をまるで何事もなかったかのように真正面から受け止め、奇跡的にもこの港町を、そこに生きる全ての人々を完全に守り切ったのだ。


バシャァァァンという、耳をつんざくような轟音と共に巨大な津波は黄金色の結界に激突し、砕け散る。

その凄まじい波飛沫が激しい夕立のように、空から絶え間なく降り注ぎ、ようやく悪夢から覚めたかのように、安堵の息を漏らす住民たちの足元は津波の余波であっという間に海水に浸かっていた。

それでもナナミは何事もなかったかのように、その黄金色の結界を微動だにせず維持したまま、未だに水柱の上がった海の先、荒れ狂う海原の向こうを、ただじっと静かに見つめていた。


「……おかえりなさい、みんな」

優しい声が、まだ止まない波の音にかき消されることなく、確かに仲間たちの元へと届いた。


「た、ただ、いま……ゴボッ!うぇっ!……しょっぺえ……マジで死ぬかと思ったぜ……」


いつの間にかナナミのすぐ足元には、先程の津波に呑まれたはずのロイたちが、まるで打ち上げられた魚のように、折り重なるようにして転がっていた。

皆ずぶ濡れで、全身砂と海藻にまみれ、見るからに疲労困憊といった様子だったが、幸いにも命に別状はなさそうだ。

どうやら先程の全てを飲み込むかと思われた巨大な波の、強大な余波によって陸へと押し戻されるようにして帰還したらしい。


「ピイッ!ピイイイイィィィ!!」

それまでナナミの肩で小さく震えていたピィが、ロイの姿を認めるや否や、まるで堰を切ったように歓喜の声を上げ、小さな体でロイの肩に止まる。

そのクリクリとした大きな目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


この全てを洗い流すかのような大波は、呼ばれていない、最も厄介なものまでも呼び覚ましてしまったようだ。


冷たい海水を頭から浴びた衝撃か、あるいは、ただ単に運が悪かったのか、港の片隅で、先程ナナミに打ちのめされて気を失っていたはずのシルヴィウスが、低く呻き声を上げながら、ゆっくりとその重たい瞼を開いた。

……もう、今すぐにでも宿に帰り、温かい風呂に入り、そして泥のように眠ってしまいたい。

そんな一行の唯一の願いは、この男の目覚めによって無情にもあっけなく打ち砕かれることとなる。

地上の、あまりにも重い重力にさえ抗えないほどに疲れきったその身体を、彼らは、まるで最後の力を振り絞るかのように、悲鳴を上げる筋肉に鞭打つようにして、ゆっくりと起こすのだった。


「シ、ルリア……」

シルヴィウスのまだどこか虚ろな、掠れた声が静まりかけた港に、娘の名を呼んだ。

「……父上」


シルリアは父の声に、どこか冷ややかに応じる。

二人の視線が決して相容れることのない、それぞれの複雑な思いを乗せて、青いの空の下で鋭く交差した。


「お、お前達……一体、何を……しでかしたのだっ」

先程の天変地異のような大波といい、目の前で敗残兵のように満身創痍となっている一行の姿を見渡し、シルヴィウスはその動揺と混乱を隠せない。

先日の謁見の間で、この若き勇者たちが語っていた、現実離れした話がどうしても彼の頭から離れなかったのだ。


「……魔王の魂が宿っていた、『潮汐の真珠』を、この手で破壊いたしました」

シルリアはズタボロの姿のまま、父のその非難がましい視線を真っ直ぐに見据え、淡々とはっきりとした口調でそう告げた。


「な、なんと……!?そ、それは、もちろん国王陛下の、正式なご許可はもちろん得たのであろうな?まさか独断でそのような暴挙を……!」

シルヴィウスの声が驚きで僅かに上ずる。

彼の騎士としての、貴族としての常識で万死に値する、決して許されざる暴挙だった。


「巫女としてここに宣言いたします。その許可は私が、このルミーナの巫女アリアが確かに下しました」

凛としたアリアの声が、シルヴィウスの見当違いな言葉をぴしゃりと遮った。

それを言われてシルヴィウスは、ハッとしたように息を呑む。

そうだ、巫女とはアストリアにおいて、本来、王族と同等の、いや、時にはそれ以上の絶対的な権限を持つ、神聖なる存在。

巫女の、女神エデルからの宣託には、たとえこの国の国王であっても、決して逆らうことは許されないのだ。

彼の激しい動揺は、みるみるうちに青ざめていく顔色にありありと浮かんでいた。


「父上、私たちが今倒すべき魔王という存在は、常に人間の道理など全く通用しない、理不尽な相手なのです。この、あまりにも理不尽でしかない過酷な旅で、私たちはただ運命に選ばれただけに過ぎないのです」

シルリアは言葉の一つ一つに確かな力を込めて、父にそう語り続ける。

これまでの想像を絶するほどの過酷な旅で培われた、揺るぎない覚悟が深く滲んでいた。


「……一体何を言いたいのだ?シルリア」

シルヴィウスは娘の、いかにも達観したかのような言葉の真意を掴みかね、ただ戸惑いを露わにするしかない。

「私は、このアストリアを救うという使命のためならば、我がユイリーシャの家名さえも、喜んで捨てても良いと、本気でそう思っております」


シルリアの発した言葉は、まるで天から落ちてきた雷鳴のように、シルヴィウスの誇り高き騎士としての心臓を容赦なく打ち抜いた。

ユイリーシャ家。

その輝かしい名誉と、何百年にも渡る伝統を他の何よりも重んじ、守り抜いてきた彼にとって、それは到底受け入れられるものではなかった。


「お、お前……!そんなことが、この私が、ユイリーシャ家が許すとでも思っているのかっ!」


まるで喉から血を絞り出すかのような、苦悶に満ちた声で、シルヴィウスは目の前の、自分の思い通りにならなくなってしまった娘を、激しく詰った。


「許しなど端から必要ありません。これは他の誰でもない、この私が、私自身の意志で選び、そして覚悟を決めた道なのですから」


シルリアのペリドットの瞳に、もはや一切の迷いも恐れもなかった。


言葉を完全に失い、ただ呆然と立ち尽くすしかない父の姿を、もはや何の感慨もなく背にして、シルリアは、まるで最後の別れを告げるかのように、一方的に、そしてきっぱりと宣言する。


「私はもうあなたや家のための道具ではありません。一人の名もなき騎士として、ただのシルリアとして、私自身の意志でこの命が尽きるその瞬間まで生き、このかけがえのない仲間たちと共に、必ずやこのアストリアを救ってみせます」


晴れやかな宣言が終わった瞬間、彼女の背中には新たな門出を祝福するかのように高く澄み渡った、美しい空が広がっていた。


絶対的な存在だったはずの父シルヴィウスの威光は、もはや彼女の自由な心を縛ることは決してなかった。

呆然と、ただその場に力なく佇むしかない父を静かに置いて、シルリアは何の未練もなく踵を返す。

ロイとクロエも何の言葉も発しないシルヴィウスに一礼だけすると、一切の迷いもなくシルリアの後ろ姿を追った。

アリアもナナミも、他の仲間たちもまた同様に。

残されたシルヴィウスの前には、広がる青い空と、先程までの荒々しさが嘘のように、静けさを取り戻しつつある美しい海だけが、何も語りかけることなく、無言のままにそこにあった。


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