5-8 「シルリア・ユイリーシャ」
どこまでも続くかと思われた深海の静寂が、今、一行の激しい呼吸とすぐそこで蠢く巨大な影の気配によって支配されていた。
アリアの美しい口の端から、まるで銀色の魂のように漏れた空気の粒が、小さな泡となって光の届かぬこの暗い海の底から、遥か彼方の光輝く海面へと祈りのように儚く昇っていく。
消えゆく泡の軌跡をぼんやりと目で追うように、アリアもまた、憂いに深く染まった大きな瞳を伏せ、遠い過去の記憶の海へと、ゆっくりと深く沈んでいった。
***
かつて、あの「タコ」と名付けられた忌まわしき海の魔獣が、このルミーナの海の穏やかな平穏を、無慈悲に奪い去ってしまうその日まで、若き日のアルベルト卿とまだほんの幼かったアリアは、海底神殿の最も奥深くに祀られるという聖なる『潮汐の真珠』へ、日々の感謝と変わらぬ海の恵みを祈願する祈りを捧げるため兄妹のように、二人仲良くこの神聖なる聖域を訪れていたものだった。
色とりどりの鮮やかな珊瑚礁が、まるで万華鏡のようにどこまでも広がり、天上の太陽の光がゆらゆらと踊るように屈折しながら、この海の底まで柔らかく降り注ぐ、そんな穏やかで優しい海流に常に抱かれていた夢のような日々。
幼いアリアにとって、兄のように慕っていたアルベルト卿が、屈託のない笑顔で、この美しい海の中を魚のように自由に楽しげに遊ぶ姿を見るのは、他の何にも代えがたい、無上の喜びだった。
彼の眩しすぎる笑顔がまだ小さかったアリアの、限られた世界全てを優しく温かく照らしていたのだ。
ある日を境にして、その全ては一変した。
海底の深淵から巨大な影が、この美しい海底を覆い尽くし、あの忌まわしい魔獣「タコ」が突如として姿を現したのだ。
それ以来この神聖なる海底神殿への道は閉ざされ、海の平穏を守護するはずの『潮汐の真珠』への祈りさえも、誰にも許されなくなってしまった。
深い悲しみに沈み、日に日に笑顔を失っていくアリアを何とか励まそうと、アルベルト卿はあの恐ろしい魔獣に、わざと「タコ」などという、どこか間の抜けた子供騙しのような名前をつけ、無理矢理笑ってみせた。
だが魔獣「タコ」の影響は、日を追うごとに深刻さを増し、あれほど豊かだった海の恵みは見る影もなく激減し、ルミーナ王国全体が先の見えない大きな不安に包まれ始めた。
やがて事態を重く見た王国は、精鋭からなる討伐隊を派遣したが、彼らは誰一人として魔獣の棲む深海から生きて戻ることはなかった。
あまりにも大きな犠牲の責任をアルベルト卿は全て自分一人のものと感じ、まだ幼いアリアの涙ながらの必死の制止を振り切り、たった一人で絶望的なまでに強大な「タコ」との無謀な戦いに赴いてしまったのだ。
止められなかった。
どれだけ叫んでも、どれだけ泣きついても、彼の固い決意を翻すことはできなかった。
大きな無力感が、今もなおアリアの胸の奥を鋭い刃物のように、深く容赦なく抉り続けている。
***
ここは冷たい水の中であるというのに、その大きな宝石の瞳からは、大粒の涙が次から次へと止めどなく溢れ出し、アリアの瞳から零れ落ちたその瞬間、彼女の悲しみが昇華するかのように、きらきらと輝く銀色の泡となって、水面へと昇っていく。
嗚咽混じりに今にも砕け散ってしまいそうなほど震える彼女の唇から、封じ込めていたはずの辛い過去が明かされていく。
「タコ、あんたのせいであたしたちは……アルベルト卿は!悪いけど、今日全てを終わりにするんだからね!」
アリアの心の底からの悲痛な決意が、一行の胸を強く激しく打つ。
絞り出すような一言を合図とするかのように、彼らは魔獣タコの潜むであろう、暗く不気味な海底へと降り立ち、それぞれの得物を祈りを込めて固く握りしめた。
突如彼らの頭上の暗がりから、無数の巨大な蛇のような太い触手が、音もなく恐るべき速さで伸び、クロエの身体に捕食者のように、ねっとりと絡みついた。
「ぎゃーーっ!!な、なんなのよこれ!なんかヌメヌメしてて、超絶気持ち悪いんだけどぉっ!!」
「クロエッ!!」
ロイが仲間を傷つけられんとする怒りに声を震わせ、叫び、すかさずその手に持つ伝説の剣で、触手へと鋭く切り掛かるが、タコの体表を覆う特殊な粘液と尋常ではない滑りが、彼の渾身の刃をいとも容易く弾き返し、全くと言っていいほど手応えがない。
「くそっ!こいつ……硬いとかじゃなくて、滑って全然斬れねえぞ!」
「いやぁーーっ!誰か助けてぇーーっ!」
太い触手に完全に捕らわれたクロエは意思を持たない人形のように、無慈悲に振り回され目を白黒させながら情けない悲鳴を上げる。
その絶体絶命の危機にジークが風を切る勢いで鋭い槍を突き出しその分厚い肉を貫き、ナックが渾身の力を込めて巨大な戦斧を振り下ろす。
ゴシャッという鈍い生々しい音と共に、ようやく忌まわしい触手の一本が断ち切られ、クロエはぐったりとした様子で間一髪のところで解放された。
「……死ぬかと思ったわ……。あんなのに捕まったら、もうお嫁に行けないじゃないの……」
息も絶え絶えに的外れなことを呟くクロエ。
一方、自らの触手を断ち切られ激しい怒りに狂ったタコは、残りの全ての触手を嵐のように見境なく振り回し、海底の砂を不気味なまでに巻き上げる。
「アルルホス!あの忌まわしい魔獣の弱点はまだ分からないのかい!?」
クラリスがアルルホスに悲痛な叫びにも似た声で問いかける。
『今、必死に探しておるところだ。もう少し持ちこたえよ!必ずや勝機はあるはずだ!』
アルルホスのどこまでも冷静で頼もしい声が音波のように、水中を伝って皆の脳裏に直接響く。
「あいつのあの巨大な目とかはどう?あれを潰したら少しは動きが鈍るんじゃない!?」
後方で戦況を冷静に見極めていたシルリアが弓を引き絞り、狙いを定め鋭い光を纏った矢を放つ。
加護を受けたその矢は一直線にタコの巨大な一つ目を深々と射抜いた。
タコはその身を焼くかのような激痛に、まるで子供のように身をよじらせ、さらに凶暴になった。手が付けられないほどに暴れ狂う。
『いかん!奴らはおそらくこの光の届かぬ暗闇の中でも、問題なく生きて行ける種族だ。我々のように視覚に頼るのではなく、水の振動や微かな音で獲物や敵の位置を正確に感知しているのかもしれぬ。決して焦るな。奴にも致命的な急所があるはずだ。』
アルルホスが懸命にその急所を探る間、ロイたちは巨大で鞭のようにしなやかな触手に翻弄され続け、完全に防戦一方となってしまう。
太い触手から繰り出される一撃は、海底の巨大な岩をも豆腐のように容易く砕くほどの、圧倒的な威力を持っていた。
絶望的な状況の中、不意にアリアが目を閉じ静かに祈りを捧げ始めた。
その声はこの死闘が繰り広げられる混沌とした水の中にあって、どこまでも清らかに神々しく響き渡る。
「蒼き海の、母なるゆりかごに、女神の聖なる加護を宿らせ給え!揺るぎなきは、清浄なる潮の結界、聖なる守りの環よ、今こそ、この身を、そして仲間たちを包み込みたまえ!」
アリアの祈りの言葉に応えるかのように、彼女身体が、淡く優しい光を放ち始めた。
聖なる光は水面に広がる美しい波紋のように、ゆっくりと広がっていき、傷つき、疲れ果てていた一行の身体を優しく包み込んだ。
不思議なことに、それまで感じていた傷の痛みが和らぎ、身体の奥底から新たな力がふつふつとみなぎってくるのを感じる。
「水の精霊達よ!もっと、もっと、命の限り踊るように!この勇気ある彼らを、清らかな力で守っておくれ!」
すかさずクラリスもまた、周囲に漂う無数の水の精霊たちをその美しい歌声で鼓舞する。
彼の呼びかけに応え、夜空の星々のようにきらめく無数の精霊たちが、一行の身体の周りを楽しげに優雅に舞い踊り始め、魔獣タコの激しく予測不可能な攻撃を奇跡のように巧みに逸らしていく。
守護の聖なる光と、精霊たちの幻想的な舞に護られながらも、ロイたちはなおも暴れ狂うタコの忌まわしい触手を、必死の形相で引きつけ渾身の攻撃を重ねていく。
ロイの振るう剣戟の鋭い音、ジークの突き出す槍の風切り音、ナックの叩きつける斧の重い打撃音が、タコの地の底から響くような低い咆哮と不気味に混じり合い、海底に奇妙な不協和音を響かせる。
後方に位置するシルリアは、愛用の弓を再び強く構え、その矢を引き絞ったまま石像のように固まっていた。
彼女はただひたすらに、アルルホスの的確な指示を待っているのだ。
『……分かったぞ!そこだ!奴の急所は、あそこしかない!』
ややあって、アルルホスの確信に満ちた声が、一行の脳裏に響いた。
彼が指し示したのは先ほどシルリアが、その神業とも言える弓の腕で正確に潰したはずの、タコの巨大な目のほんのわずかに上の部分だった。
シルリアは再び矢を番えその一点に向けて、全神経を集中させ正確無比に狙いを定める。
しかしタコの残った無数の触手が巧みにその急所を守る盾となり、彼女の放つ矢はことごとくその分厚い触手に弾かれるか僅かに急所を逸れて虚しく闇へと消えてしまう。
ついに、矢筒に残された最後の一矢。
シルリアはもはや自分の呼吸すら忘れるほどに全神経を集中させ、ぴんと張り詰めた弓の弦を、ゆっくりと限界まで引き絞り、一瞬の静寂の後その矢を放った。
その渾身の一矢もまたタコの分厚い肉に阻まれ、目標である急所のほんの手前で力なく突き刺さっただけだった。
「……ダメだ」
クラリスが思わずといった風に、落胆と絶望の声を漏らす。
だがシルリアは決して諦めてはいなかった。
瞳にはいまだ揺るぎない、どこか狂気にも似た決意の炎が激しく赤々と燃えている。
絶対に何がなんでも、この忌まわしい魔獣を、この手で倒すのだと。
もはや、周囲の喧騒も仲間たちの必死の声も、彼女の研ぎ澄まされた意識には、全く届いていなかった。
シルリアは吹っ切れたように、その手に持っていた弓を不要な物のようにそっと置くと、未だ最前線で、満身創痍になりながらも懸命に奮闘を続けるロイの元へ、魚雷のように一直線に水を蹴って泳ぎ寄った。
彼が腰に差した二本の剣のうち、常に予備として携えているもう一本の剣を、何の躊躇いもなく抜き放った。
「シルリア!そっちの剣よりも、こっちの剣の方が……」
ロイが自分の手に持つ伝説の剣を彼女に貸そうと指し示そうとするが、シルリアは力強く首を横に振った。
「ううん、大丈夫!……その伝説の剣は、やはり勇者であるロイにこそ相応しいものだから」
彼女がその手で力強く握りしめたのは、鈍く、確かな存在感を放つ銀色の剣。
特別な装飾など何もない、ただひたすらに実用性だけを追求したかのような、どこまでも武骨な信頼できる剣だった。
シルリアはほんの一瞬だけ、その瞳をそっと閉じ全ての雑念を払い、精神を極限まで統一する。
水の中の希薄な酸素を、深く大きく、一度だけ吸い込んだ。
次の瞬間、目の前の巨大なタコに向かって猛獣が獲物に襲いかかるかのように、猛然と切り掛かった。
「私は……私は絶対に、こんなところでは負けないんだあああああ!」
もはや人間のものとは思えないほどの神速。
あれほどまでに重く動きを阻害していたはずの水の抵抗など、存在しないかのようにシルリアのしなやかな身体は、タコの巨大なその巨躯の周りを舞うように、踊るように駆け巡り、彼女の振るう銀色の剣閃が次々と、目にも止まらぬ速さで閃く。
そのあまりの気迫と剣技に畳み掛けるように援護に回っていたロイたちもまた、一瞬、息を呑む。
タコの注意を自分たちへと引きつけ、シルリアへの道を切り開く。
「よしっ!こっちの、一番ぶっとい触手、一本切れたぞー!!!」
ナックの勝利を確信したかのような雄叫びが、水中でくぐもって響く。
「こっちもよ!厄介な吸盤付きのやつ、仕留めたわ!……って、まだあと何本残っているのよ、こいつ!?」
クロエが息を切らしながらも負けじと叫び返す。
「お、おっとっと!やべっ!あ、あと、たぶん、4本か……いや、5本か!?どっちだよ!」
ジークのもはや悲鳴に近い、けれど少しだけ楽しげな声がそれに続く。
地獄絵図のような激しい戦いの喧騒も、今の極限まで集中力を高めたシルリアの耳には、全く微塵も届いていなかった。
ただひたすらに、目の前に立ちはだかる強大な敵に、己の全てとその手に握るただ一本の剣だけで真っ向から立ち向かう。
思ってはいけない。
こんな状況でこんな感情を抱いてはいけない。
そう、必死で自分自身に言い聞かせても、心の奥底からマグマのように熱く、抑えがたい感情が次から次へと湧き上がってくる。
―――ああ、なんて、なんて、楽しいのだろう。
彼女の中に太古の昔から脈々と流れ続けていた、誇り高き騎士の血が、この生と死が紙一重で隣り合う極限状況の中で、歓喜の雄叫びを上げているかのようだった。
仲間たちもまた、それぞれが手を止めずに必死で戦いながらも、シルリアの今まで一度も見たこともないほどに洗練されたどこまでも力強く神々しいまでに美しい剣技に、ただただ圧倒されていた。
「……すげえ……。あいつ、本当に、シルリアなのか……?」
ジークが思わずといった風に、呆然と呟く。
「ほんとだよな……。なにが女だから役立たずだよなぁ。これじゃあ俺の方がとっくにへこたれてるっつーの!」
ロイもまた勇壮な彼女の姿に心の底から奮い立たされていた。
ついにその永かったように思えた戦いに、終止符が打たれるべき時は訪れる。
シルリアは風を操るかのようにタコの予測不能な防御を掻い潜り、一瞬の隙を突いて懐深くへと音もなく飛び込むと、先程アルルホスが指し示した急所………彼女自身が射抜いて潰したはずの目のほんの僅かに上の部分、人間で言えば眉間にあたるであろうその一点に向けて、渾身の全ての想いを込めて、手に持つ銀色の剣を力任せに深く突き立てた。
「もらったぁぁぁあ!」
ザクリ、分厚く強靭な肉を断ち切る。
確かな感触が彼女の手に、全身に伝わってくる。
その確かな手応えにシルリアの美しい口角が、抑えようもなく勝利を確信した笑みとなって吊り上がった。
「や、やったのか……?」
誰かが信じられないといった様子でそう呟いた、まさにその瞬間だった。
ふいにシルリアが先ほど、確かに潰したはずのタコの巨大な目が、ギョロリと最後の力を振り絞り大きく見開かれ、虚ろな怨念に満ちた光を宿して、すぐ目の前のシルリアの姿を確かに捉えた。
お互いの目がほんの数センチという、あまりにも近すぎる至近距離でぴたりと合う。
「うああああああっ!!」
恐怖よりも先にシルリアの身体は、条件反射のように反応した。
容赦なく突き立てた剣をさらに奥深くへと、抉り込むように捻り込み、その忌まわしい肉をありったけの力を込めて切り裂いた。
タコはもはや尽きかけていた最後の力を振り絞ったのか、残っていたただ一本の最も太く強靭な触手を巨大な鞭のようにしならせ、シルリアの無防備だった身体を容赦なく薙ぎ払った。
致命傷を負ったタコは山のように巨大な身体を、ぐらり、ぐらりと大きく揺らしやがてゆっくりと、永遠の眠りにつくかのように、音もなく海の底へと沈んでいく。
かつてこのルミーナの海を支配し、多くの命を奪ってきた恐るべき海の支配者のあっけない終焉を告げていた。
「シルーーー!!!シルリアァァァーーーーッ!!!」
アリアの悲痛な叫びが、静けさを取り戻しかけた海の底に虚しく響き渡る。
タコの最後の力を込めた一撃に薙ぎ倒されたシルリアもまた木の葉のように、いとも簡単に遠くまで吹き飛ばされ、海底の鋭く尖った岩場に身体を叩きつけられる。
薄れゆく意識の中、ぼんやりと、水面の上に蜃気楼のように揺らめく優しい光が見える。
優しく温かい光の揺らぐその先に、不意に懐かしい、誰よりも心から尊敬し敬愛した人の姿が、ふわりと浮かんだ。
高潔な騎士、アルベルト卿。
『シルリア嬢、本当に、大きく、強くなられましたな』
あの頃と少しも変わらない、優しい声がすぐそばから聞こえるような気がした。
きっとこれは都合の良い幻覚か、死の間際に見るという走馬灯か、そういった類のものなのだろう。
それでも都合のいい、聞きたかった言葉が渇ききってひび割れた自分の心に、じんわりと温かく染み渡っていく。
『あなたは紛れもなく騎士だ。その誇り高き騎士の血が、何よりもあなたのその真っ直ぐな魂が、それをはっきりと証明している。だからもう、自分の心に嘘をつかないで。誰がなんと言おうと、あなたがあなた自身の道を選び、迷うことなく進むのです。あなたの信じる、その騎士道を』
運命という大きな壁に屈しそうになっていた、弱い自分自身にシルリアは心の底から嘲笑する。
そうだ。分かりきっていたことではないか。
そんなことずっと前から。
ただひたすらに正しき騎士になりたいと、心の底からそう願い続けてきた、自分の中にあるどうしても抗うことのできない何か。
この全身の血管を熱く駆け巡る、誇り高き騎士の血。
性別など、家柄など、そんなものは最初から本当に些細な、どうでもいいことだったのだ。
自分は他の誰でもない、ただのシルリアなのだと、本当はずっとずっと前から気づいていたのに。
「……仇は、確かに取りましたよ……アルベルト卿……」
それは単なる個人的な復讐ではなかった。
長年、彼女を縛り付けてきた過去のトラウマを、自らの力で完全に乗り越え、自分が信じる騎士としての本当の強さを、この自分自身に、そして天にいるであろうかけがえのないアルベルト卿に、はっきりと示したそんな尊い瞬間だった。
シルリアは深い満足感と共に、穏やかにその瞳を閉じ、どこまでも続く温かくも優しい暗闇にその身を静かに委ねた。
「し……る……!シルッ!お願いだから、お願いだから、目を覚ましてちょうだい!」
耳を劈くような、今にも泣き出しそうな必死の声に、シルリアは重い鉛でも乗せられているかのような瞼を億劫そうに持ち上げた。
ぼやけた視界に最初に映ったのは、綺麗なはずの顔がくしゃくしゃになった、アリアの心配そうな顔だった。
彼女はシルリアの冷たくなりかけた手を自分の命綱でも握るかのように、固く握りしめていた。
「……しんで、ませんよ……。そんな簡単に……」
かろうじて掠れた声を絞り出すと、アリアの顔がまるで梅雨明けの空のように、ぱっと安堵の色に崩れた。
「あぁ、シル……!良かった……!あなたまで、あたしのせいでいなくなってしまったら……どうしたらいいか!」
ぐわんぐわんと船酔いのように揺れる頭を、痛む手でそっと押さえながら、シルリアはアリアの助けを借りてゆっくりと上半身を起こす。
全身の骨が軋み、打撲した箇所からは体中の血液が逆流するかのような激痛が走るが、それ以上に胸の奥深くを満たす、確かな達成感と温かい何かがそこにはあった。
「タコは……あの、忌まわしい魔獣は……どうなった……?」
「大丈夫だよ、シル。あなたがちゃんと倒してくれたよ。ありがとう、本当に、ありがとう……!」
アリアの涙ながらの言葉に、シルリアは少しだけ、ほっとしたような誇らしげな表情を浮かべた。
だが、すぐにそんな自分に気づき、気合を入れ直すかのように、パシンと、自分の濡れた頬強く叩いた。
まだ、終わっていないのだ。何も。
むしろ、ここからが本当の意味での本番と言っても過言ではない。
あの『潮汐の真珠』を魔王の魂から完全に解放し、このルミーナの海に、そして人々に。
真の平穏を取り戻すまでは。
「行こう、アリア……。私たちの戦いはまだ、終わっていない」
シルリアはまだふらつく足取りの身体に、最後の力を込めて鞭打ち、アリアの肩を借りながらも立ち上がろうとする。
「シル、お願いだからこれ以上は無茶をしちゃダメだよ!そんな今にも倒れそうなフラフラな体で……!」
アリアが心の底から心配そうに、彼女の身体を支えようとするが、彼女に向き直ったシルリアの顔に迷いはない。
一人の騎士として、そして一人の人間として、己の背負うべき使命をただひたすらに、真っ直ぐに全うせんとする者の、強く美しい顔があった。
その血に、その魂に、真の意味で目覚めた彼女が、生まれ変わったかのようにどこまでも力強く、そこに立っていた。




