5-7 「沈む悲しみ」
深く暗い、陽光の届かぬ海の底。
アリアの放つ微かな燐光を頼りに、一行は伝説の海底神殿へと一歩、また一歩と足を進めていた。
視界はどこまでも続く青黒い水の帳に閉ざされ、数メートル先の仲間の姿すら朧げにしか認識できない。
そんな彼らを待ち受けていたのは、深淵の闇の中で妖しく揺らめき、点滅する無数の赤い光点だった。それは紛れもなく、この海域を縄張りとする魔獣の群れの目であった。
「みんな、ここからもう少しだけ泳いだ先に、あたしたちが目指す『潮汐の真珠』を祀ってある海底神殿があるの。見ての通りお出迎えの魔獣がうじゃうじゃいるみたいだけど……準備は、いい?」
アリアの普段の快活さとは異なる、巫女としての凛とした声が、重くまとわりつくような水圧の中で、不思議なほどクリアに一行の士気を鼓舞する。
彼女のその言葉に応え、仲間たちはそれぞれ使い慣れた得物を強く握りしめ、無言のまま力強く頷き返した。
(ナナミ……あの子は、本当に大丈夫なのだろうか……)
シルリアの胸中はこれから始まるであろう未知の戦いへの期待と、陸に残してきた仲間への不安とがないまぜになって、複雑に揺れ動いていた。
この水中という特殊な環境での戦いは全くの未知数。
ましてやあんなにも華奢で、儚げに見える少女ナナミを、たった一人、あの鬼のように恐ろしい父シルヴィウスのもとに残してきてしまったのだ。
彼女がどれほど強大な計り知れない力を、その内に秘めているとしても、あの小さなか弱く見える少女の肩が、父の理不尽な怒りに押しつぶされてしまうのではないか。その拭いきれない懸念が、これから始まるであろう戦闘に集中しようとする彼女の意識を、じわりと鈍らせる。
いっそのこと父のあの厳しい言いつけ通りに、この旅から身を引いていれば、ナナミをこんな危険な目に遭わせることも、仲間たちに余計な心配をかけることもなかったのではないか。
そんな、詮無い後悔にも似た苦い思いが、シルリアの心をまるで暗い海の底に引きずり込むかのように揺さぶった。
「シルリア、今は余計なことをどうこう考えるな。俺たちにできることはただ一つ。とにかくナナミを、自分たちを信じることだけだ」
すぐ隣を力強いストロークで泳ぐロイが彼女の心の揺らぎを全て見透かしたかのように、静かに確かな力強さを込めて声をかけた。
その朴訥だが温かい言葉に、シルリアは胸の奥に渦巻いていた一抹の不安をぐっと押し込め、こくりと深く頷いた。
シルリアが背中の矢筒から一本の矢を引き抜き、愛用の弓を力強く引き絞る。
彼女の指から放たれた光の矢は、アリアから授かった『海の抱擁』の加護を受け、周囲の水を切り裂き、まるで流星のような一閃の煌めきとなって、闇の中から現れた魔獣の一体に深々と突き刺さった。
それに気を取られたのか、あるいは仲間を傷つけられた怒りからか、他の魔獣たちが一斉に黒い津波のように襲いかかってくる。
鋭い牙を持つ小さな魚の魔獣の群れや、体表から毒々しい紫色の光を放つ、不気味に波間にゆらめくクラゲのような魔獣たちだった。
ロイ達の連携はそう簡単にはうまくいかなかった。水の抵抗は想像をはるかに超えていたのだ。
「くそっ!これじゃあ、満足に斧も振れやしねぇじゃねえか!」
ナックの振るう巨大な戦斧が、重い水の抵抗にその勢いを完全に阻まれ、虚しく空を切る。
思わず悪態をつく彼の、普段は自信に満ちた顔には隠しようもない焦りの色が浮かんでいた。
実際にこの青黒い水の底へと足を踏み入れて初めて、その戦いにくさを一行の誰もが骨身に染みて痛感していた。
アリアから授かった水の加護があるとはいえ、陸上での戦闘のそれとは、もはや比較にすらならないほど彼らの動きは著しく制限されてしまう。
ロイの振るう剣もまた、狙ったはずの軌道を予測不能な複雑な水流に押し流され、魔獣の硬い鱗をなかなか捉えきれない。
「うおっ!いかん、思うように剣が……っ!」
シルリアの放つ矢も、アリアの特別な加護があったとはいえ、強大な浮力と水の抵抗に抗いきれず、狙いを定めたはずの魔獣の急所から大きく逸れ、力なく深海の闇へと消えていく。
「アリアの加護をもってしても……これほどまで動きにくなんて……!」
「みんな、慣れないと思うけど絶対に大丈夫!あたしがみんなの力を最大限に引き出せるようにサポートするから、今はとにかく安心して目の前の戦いに集中して!」
アリアのどこまでも力強く仲間を鼓舞する声が、混乱しかけていた彼らの耳に、心に、まっすぐに届く。
その言葉に最初に動いたのは、意外にもクラリスだった。
「アルルホス、僕の声が聞こえるかい?どうか、この僕たちに、君のその大いなる力を貸しておくれ」
『……やれやれ、仕方がないな。この水の中では、我が神々しき姿を顕現することはできぬが、ささやかなサポートくらいはしてやろうではないか』
クラリスがその魂で契約する誇り高き神獣アルルホスに呼びかけると、尊大な頼もしい声が彼の脳裏に直接響いた。
次の瞬間、周囲の音がまるで別世界に来たかのように、奇妙なほど鮮明に聞こえ始めたのだ。
イルカなどが使うという超音波による反響定位にも似て、蠢く魔獣たちの正確な位置、仲間たちの声や呼吸、微かな気配までもが、まるで第六感が極限まで研ぎ澄まされたかのように、明確に、立体的に感じ取れるようになっていた。
「な、なんだこれは!?魔獣の場所が……まるで手に取るように……!」
ロイが、驚きと興奮が入り混じった声を上げた。
「深き海に棲まう、愛しき水の精霊達よ。どうか僕らがこの水底で、もう少しだけ動きやすくなるよう、その戯れで力を貸してはくれないだろうか?」
クラリスがさらに優しく祈るように呼びかけると、彼の周囲に蛍の光のような、小さな光の粒が集まり始めた。
それは、この海に太古から棲まう無邪気で好奇心旺盛な水の妖精たちだった。
『イイヨー!イイヨー!ニンゲン、オモシロイ!』
楽しげな、子供のような声と共に水の妖精たちが、一行の身体の周りを、まるで戯れるようにくるくると舞い始めると、あれほどまでに重く動きを阻害していた水の抵抗が、ふっと魔法のように和らいでいくのを感じた。
見えざる優しい手に、その身体をそっと導かれるように、驚くほどスムーズに思い通りに動けるようになっていた。
アリアの授けた『海の抱擁』の加護と、クラリスの呼び覚ました神獣と精霊たちの強力な支援を受け、一行の動きは、先程までとは見違えるように、その鋭さと連携の精度を増した。
ロイとジーク、そしてクロエが長年共に戦ってきた歴戦の勇士のように、互いの呼吸を完璧に合わせ、鉄壁の堅固な前衛を構築する。
ナックは、その巨躯からは想像もつかないほどの機敏さで、敵の側面から水の抵抗をものともしない重い一撃を叩き込み、シルリアは、後方から戦場の女神のように、的確無比な射撃で次々と敵の動きを止め、あるいはその急所を射抜いて致命傷を与える。
この、どこまでも不利な水中という特殊な環境で、彼らの持つそれぞれの個性と能力、何よりも仲間を信じるチームワークは、かつてないほどに眩い輝きを放ち、怒涛の勢いで名もなき魔獣たちを次々と撃破していった。
有象無象に際限なく湧き出てくるかのようだった魔獣の群れを、ロイが渾身の力を込めた最後の一太刀で両断し、切り伏せたその時、それまで闇に閉ざされていた深淵のさらに奥、漆黒の暗闇の向こうに、ほのかな希望の光が見えた。
「……あそこがあたしたちが目指す、海底神殿よ」
アリアがその光が指し示す先を、静かに指し示す。その先には自ら燐光を放つ、壮麗で物悲しい雰囲気を纏った建造物群が、悠久の時を刻む海底の墓標のように、荘厳に佇んでいた。
未だこの世界の創造主である女神エデルの寵愛を色濃く受け、聖なる光を放ち輝き続ける、深海に沈みし黎明の聖都。
かつて、果てしないほどの悠久の歴史を辿れば、そこは緑豊かな、生命に満ち溢れた陸地だったのかもしれない。
しかし、今はただ潮騒にその全てを呑まれし、古の海楼として、永遠とも思える時を海の底で刻み続けているだけだった。
どこか儚げでおどろおどろしい光景を前に、アリアは誰にも気づかれぬようほんの一瞬だけ、深い悲しみの表情を浮かべた。
海底神殿の巨大な門のようにそびえ立つアーチの手前、そこには巨大な黒い沈没船が深海の主のように、黒々とした不気味な影を落としていた。
闇よりも深い影に巧みに紛れ、息を潜めていた何者かが、一行の接近を敏感に察知し、ズルズルと海底を引きずるような、ひどく不気味な音を立てて動き出すただならぬ気配が、水を通して彼らの肌にビリビリと伝わってくる。
「みんな、感じていると思うけど、この先にかなり厄介な強敵がいるからね」
アリアの緊張を隠せない警告の声に、一行はその言葉を裏付けるかのような、ただならぬ邪悪な気配を肌で感じ、一層その身を引き締めた。
「……正体を、現せ!」
シルリアがその手に持つ弓を、満月のように力強く引き絞り、浄化の光を纏った矢を沈没船の暗がりへと鋭く放つ。
光の矢は一直線に沈没船の朽ち果てた船体に深々と突き刺さり、その衝撃で周囲の闇がパッと、雷光のように明るく照らし出された。
そしてその光の中に、ゆっくりと姿を現したのはーー
邪悪な塊がこの海の底で形を成したかのような、途方もなく巨大なクラーケンだった。
ぬめぬめとした巨体からは、数えきれないほどの太く忌まわしい触手が、意思を持っているかのように蠢き、その中央にあるただ一つしかない巨大な円い瞳が、氷のように冷たくどこまでも無慈悲に一行を睥睨している。
そのおぞましい姿を見た瞬間、シルリアの脳内で、まるで固く錆びついていた記憶の蓋が、無理やりこじ開けられたかのような激しい衝撃が走った。
幼い自分に敬愛する騎士アルベルトが、優しい笑顔で、どこまでも力強く語りかけてくれた、あの遠い日のこと。
「騎士とは、決して力だけを誇るものではない。何よりも、その心を、そして信念を貫く、そういう存在なのだ」と。
それから忌まわしい、生涯忘れることのできない光景。
嵐の後の静まり返った浜辺に打ち上げられた、まるで獣に食い散らかされたかのようにズタズタに引き裂かれた、小さな漁船の無惨な残骸とその傍らに、まるで打ち捨てられた人形のように、無残な姿で横たわる、亡骸。
その光景はまだ幼かった彼女の瞳に、まるで呪いのように焼き付いて、片時も離れることはない、永遠のトラウマ。
目の前にいる、巨大なクラーケンの獲物を捕らえんと不気味にうねる触手の動き。
標的を冷酷に見据える、あの巨大な一つ瞳の形。
そのぬめぬめとした体表にまるで呪詛のように浮かび上がる、禍々しい紫色の紋様。
山のように巨大な体の一部に、まるで古傷のように深く刻まれた大きな傷跡。
全てが彼女の脳内でパズルのピースがはまるように、一本の残酷な線となって繋がった。
全身の神経がぞわりと粟立ち、ここは冷たい水の中だというのに、全身の毛が逆立つように総毛立つ強烈な感覚に襲われる。
「こいつが……こいつが……!あの日、アルベルト卿を……!!」
確たる証拠など何もない、ただの直感でしかなかった。
だが彼女の魂が、心の奥底から激しく叫んでいるのだ。
この、目の前にいる忌まわしい魔獣こそが、自分が心から敬愛し目標としていた、あの高潔な騎士のかけがえのない命を奪った、紛れもない仇なのだと。
禍々しいクラーケンの魔獣を、少し離れた場所から見ていたアリアがぽつりと、ひどく悲しそうな声で呟いた。
「……タコ……」
「タコ……?やけに間抜けな名前だな……。っていうか、あんなくにゃくにゃした感じで本当に強いのか……?見かけ倒しってことはないよな……?」
あまりにも緊迫感のないその名前に、ロイがどこか拍子抜けしたように、不思議そうに首を傾げたが、アリアはその顔から一切の表情を消し、真剣な、どこか怯えたような眼差しで、ゆっくりと首を横に振った。
「絶対に油断なんかしないで。あたしたちが知ってる、ただの『タコ』なんかじゃないから……」
アリアの言葉には、並々ならぬ、そして尋常ではないほどの強い警戒と同時に、魔獣の運命を憐れむかのような複雑な響きが込められていた。
シルリアの切長い瞳に、燃え盛るような激しい怒り、たとえ神であろうとも揺るがすことのできない、鋼のような強い決意の炎が鮮烈に灯る。
彼女は震える手で唇をきつく噛みしめ、目の前の巨大なクラーケンを魂ごと射抜くかのように、鋭く睨み据えた。
「私が……私がこの手で、必ず、アルベルト卿の無念を晴らす!」
まるで魂からの叫びのような声は、どこまでも続く深海の冷たい静寂を鋭く切り裂き、これから始まるであろう、壮絶な決戦の始まりを告げる、勇壮な鬨の声のようにいつまでも響き渡った。




