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ruth story  作者: Cy


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1-4 「回復士」



夜が、白み始めていた。

空の藍色が夜のしじまを押し退け、東の稜線が暁の淡い橙に染まっていく。

ひんやりとした朝の空気が肌を撫で、道端の草葉に残る夜露が朝日を浴びて無数の宝石のようにきらめいた。

新たな仲間――ナナミを加え、勇者ロイの旅は今日本格的にその一歩を踏み出すはずだった。


だがロイの心には夜明けの清々しさとは裏腹に、拭いきれない小さな影が落ちていた。

先に立って歩き出した仲間たちの背中をぼんやりと見送りながら、ロイは無意識に隣を歩く少女の横顔へと視線を投げる。

朝日を受けて柔らかな光沢を放つミルクチョコレート色の髪。滑らかな輪郭。


美しい、と素直に思った。

けれどそれと同時に、胸の奥がざわりと揺れるような感覚もあった。

なんだか精巧に作られたガラス細工のような危うさ。そこにいるはずなのに、どこか現実感が希薄でふとした瞬間に消えてしまいそうな儚さ。

何かが決定的に欠けているような、心許なさが彼女には絶えず付きまとっていた。


「……私の顔に、何か付いてる?」


不意にかけられた声は、湖面のように静かで感情の温度をほとんど感じさせなかった。

ライラック色の瞳が、まっすぐにロイを見据えている。

吸い込まれそうなほどの深さに、ロイは思わず心臓を掴まれたような衝撃を感じ、慌てて視線を逸らした。妙に早鐘を打つ心臓が落ち着かない。


朝靄が立ちこめる中、一行は街の門をくぐり、次なる国へと続く古びた街道へと足を踏み出す。

ナナミがどのような力を持ち、どんな役割を担うのかーー

道中、仲間たちの興味と期待は尽きなかった。

何しろ彼女は伝説の剣と共に古びた宝箱から現れたのだ。

その出自だけでも尋常ではない。


「回復士よ」

ナナミは周囲の喧騒から切り離されたように、事もなげに淡々と告げた。

「魔法も少しは使えるけど、本当に……大したことはないわ」


そんな一言付け加えられたような言葉に、仲間たちは一瞬言葉を失い、次いでどよめきが起こった。


「ま、魔法!? ちょっと、あんた人間よね!? 現代に魔法を使える人間がいただなんて……!」

クロエが信じられないといった表情で声を上げる。


「まさか……! やはり伝説の大魔女の血筋……! ぜひこの目で魔法を見てみたいものだよ!」

ポロン、自分の驚きを表したかのようにクラリスがリュートを鳴らす。

興奮したように青い瞳を爛々と輝かせていた。


「回復士でしかも魔法使いだと?! もはやチートだな…」

普段は冷静沈着な槍使いのジークでさえ、驚きにわずかに目を見開いている。


(よしっ! これはめちゃくちゃ心強いぞ……!)

ロイは内心で力強くガッツポーズを決めた。

回復能力に加え、失われたはずの魔法まで使える仲間。防御と攻撃の両方を兼ね備えている少女。

これで旅の安定性は格段に上がる。

彼女がいれば、どんな困難だってきっと乗り越えられる……!

だが当のナナミは、そんな仲間たちの熱狂的な反応をどこか遠くに感じているかのように、相変わらずほとんど表情を変えなかった。

交わされる会話も必要最低限。

分厚い殻に閉じこもってしまったかのように、どこまでも儚げな雰囲気をまとい、自ら見えない壁を作り出して輪の中からふわりと一歩引いているようだった。

彼女の周りだけ空気が違うように感じられた。


先ほどまでの喧騒が少し遠くへ行く。

七人の足音がまばらにザクザクと舗装されていない道を鳴らしていく。

その時だった。


「おーい! お待ちくださーい!」


背後から間の抜けた必死な声が響いた。

振り返ると、真新しいサイズの合っていないような神官服を着た青年が今にもずり落ちそうな丸眼鏡を押さえながら、息を切らしてこちらへ走ってくる。


「はぁ……はぁ……も、もしかして……魔王討伐の聖なる宣託を受けられた、勇者様御一行で、い、いらっしゃいますか!?」


「……あんたは?」


ロイが警戒を解かずに訝しげに問い返す。


「わ、私ですか?は、はい!王国から派遣されました回復士です!いやぁ、その……地図の読み方を間違えたみたいで、道に迷ってしまいまして……あはは」


青年は底抜けに人の良さそう困ったような、曖昧な笑顔を浮かべる。

彼から溢れ出る頼りなさげな様子に、一行は思わず顔を見合わせた。


「か、回復士……!?」


「おおっ!これはまさしく、オレ達を助けよという女神エデルの有り難き導きだな!」

とナックが特に何も考えなしに笑みを浮かべ声を上げるが、「いや、待て。落ち着いて考えろ」と槍使いのジークが困惑したように眉をひそめる。


「回復士が二人もいるパーティなんて聞いたことがない。役割が重複するし、コストパフォーマンスも悪い。何より、護衛対象が増えるのは単純にリスクでしかないぞ……」


「まあまあ!回復士だぞ?2人いればロストする不安もなくなるんじゃ…「いい」


回復士は2人果たしているのか入らないかの談義が始まろうとしたところ、場の空気を断ち切るように凛とした声が響いた。


「私のことは、守らなくていい」


「……。」

ナナミの一言だった。

やはり声には温度がなく、ただ事実だけを告げる機械ような響きがあった。


青年の名は、ゼロ・ノアール。

聞けば、神官見習いから三日前に正式に昇格したばかりで実戦経験は皆無に等しいらしい。

神官としての階級を問われれば「緑です!」と、なぜか得意げに胸を張って答える始末。


「ちなみに、どの程度の奇跡を習得されておいでで?」

「傷は癒せます!擦り傷程度の、ではありますが……」

「……」


一行は一抹どころではない大きな不安を抱えながらも、王国からの派遣という手前、彼を伴って次の街へと歩を進めるしかなかった。


道すがら、今更ながらナナミとゼロも交えて改めて皆の自己紹介が行われることになった。


「クロエ。ただのクロエよ。ま、見ての通り双剣が得意なの。よろしく」

勝気な瞳は珍しい高貴な珊瑚のような桃色で、つい見つめてしまう。

ツインテールにされた美しい絹のような桃色の髪をかき上げたあとで、軽やかに双剣を回してみせるクロエ。

遠い異国、砂漠に囲まれた国の踊り子の服を纏っており、衣装すらも彼女の美しさを引き立てる武器のようだった。


「オレはナック・エイジだ! 武器はこいつ!」と巨大な斧を掲げ、ゼロの肩をバンと叩く。

「にしても、おまえヒョロヒョロだな? 心配すんな、オレがみっちり鍛えてやっから、いつでも頼んでこいよな!」

屈託のない笑顔でニコニコと笑うナック。

鍛え抜かれた体躯は、鉄の鎧よりも頼りになりそうだった。

炎のように赤い髪は太陽の光を浴びて煌めき、真っ暗な瞳は黒曜石のようで、東の国の生まれを感じさせる。


「……ジーク。槍使いだ。頼むから足を引っ張らないでくれ」

短く、的確に釘を刺すジーク。

三白眼の瞳は氷のような水色でブルームーンストーンを思わせ、きらりと鋭い視線が突き刺さる。

瞳の色と合わせたように、水色がかった薄いグレーの髪はヘアバンダナでしっかりとまとめられていた。


「私はシルリア・ユイリーシャ。弓を使います。以前はルミーナ王国の第三近衛隊に所属していました。ゼロさん、よろしくお願いします」

騎士らしく丁寧な口調だが、思考にはわずかな疑念が宿っている。

悟られないよう完璧な笑顔を作って見せたシルリア。

彼女は代々騎士の家系に生まれ、その血を濃く引き継いだのか、一族特有の褐色の髪色、ペリドットの瞳。

髪は短く切り揃えられ、切れ長の目は凛とした女性なのだと思わせる。


「僕はクラリス。氏はブレイクリーだよ。見ての通り、しがない吟遊詩人さ。もともと移民でね、あちこち旅をしていたんだけど、ロイ達に誘われて。今は精霊使いとして同行させてもらってるんだ。よろしくね、ゼロくん」

人懐こい笑顔で手を差し出すクラリス。

彼の周りはいつも精霊が舞っており、文字通りキラキラと光輝いている。

金の髪に反射し、海のように青いサファイアの瞳をより蒼くし、彼の俳優のような見目麗しい姿と相まってひどく眩しく光っている。


「俺はロイ。ロイ・シリル。……一応、宣託を受けて勇者をやってる者だ。よろしくな、ゼロ」


勇者ロイ。

神託を受けた、灰の瞳を持つ青年。

くすんだ青い前髪は長めに垂れ下がり、せっかくの灰の瞳を石の色のように濁らせる。

懸命に磨けば光るはずなのに、どこか自信なさげに俯いてばかりな印象を与えた。


「み、みなさん、ご丁寧にどうもありがとうございます……! その、未熟者ですが、精一杯頑張りますので!」

パーティからの挨拶に嬉しそうにゼロは深々と頭を下げた。


「ナナミは?」

仲間はずれ、みたいに話題に入ってこないナナミに対してぶら下がった手を手でコツンとつついてロイが促す。


「え」

ナナミは少し驚いたようにロイを見た。


「ナナミも、ゼロとはこれが初めましてだろう? ちゃんと挨拶しとかないと」


「……そう、ね。ナナミよ。私も、回復士」

短く、それだけ告げ、またそっぽを向きながら歩き出す。

団体行動苦手なタイプなのか?などとロイは呑気に考えていた。


「それは心強い! 同じ回復士として、こちらこそよろしくお願いします。……て、えええ!?回復士が2人?!ど、ど、どうしましょう!これどっちか置いてかれたりします?!あああ……絶対僕だ……可愛い女の子の方を連れて行くに決まっている……」


「だから、その話はさっき出ただろう……」


「可愛いとかではなく、正直実力で見たいところが本音だけどね。」


勝手な被害妄想で嘆くゼロを横目に一行はどんどん歩みを進める。

すっかり後方になってしまったゼロとナナミの後ろにロイがいた。

回復士、主にサポートに徹する重要な役割。

回復の奇跡や身体能力向上の奇跡を与えてくれる稀有な存在。

いる、いないでは魔獣、魔族の攻略の難易度が格段に変わってくる。

(本音は、どっちも連れてきたいけどなぁ。)

けれど先ほどジークが言った通り、どうにもコスパが悪い。まだこのパーティは結成されて間も無く。

果たしてどの程度のチームワークがあるのか?ですら計り知れないのである。

なかなかに2人の回復士を連れて行くにはリスクの方が高かった。

(回復士って、足、遅いのな。)


「ところでナナミさん……」


急にゼロは何かを確かめるように、じっとナナミの顔を見つめた。

どこからか生ぬるい風が吹き抜け、振り向いたナナミのミルクチョコレート色の髪をさらりと撫でてゆく。

風はすぐに止んだが、妙に印象に残った。


「あの……僕たち、どこかでお会いしたことありませんか?」

「……?」


ナナミは不思議そうに、小さく首を傾げる。

これまでの彼女からは想像できないほど、年相応の少女のように無垢に見えた。

風が再び吹き始める。

二人が静かに見つめ合う間、ただ木々の葉を揺らす風の音だけが過ぎてゆく。沈黙が妙に長く感じられた。


「あー、きっとあれだろ? 王宮にあった肖像画だよ! ナナミは伝説の大魔女様の子孫なんだ!だから似てるんだよ、な!」


見ている方が気まずくなるような沈黙に耐えかねたロイが、やや強引に割って入るように、努めて明るい声で笑いかけた。


「あぁ、なるほど……そうでしたか。道理でどこか懐かしいような、初めてお会いした気がしなかったんですね。失礼しました」

ゼロはロイの言葉に安堵したように表情を和らげ、納得したように頷き、人の良さそうな笑顔を見せた。

ナナミは何も言わず、ただ静かに頷き返すだけだった。

ライラック色の瞳の奥にどんな感情が隠されているのか、風に揺れる彼女の髪のように掴みどころがなかった。


こうしてまたもや新たな仲間(?)が加わり、多少の不安はあれど、今度こそは順調に旅路が進むかと思われた。




が。


「あれ、ゼロどこ行った?」

「おいおい、ちょっと目を離した隙に……まさかまた迷子か?」

「おーい!ゼロー!返事しろー!」

「皆さーん!こっちでーす!あ、あの、巨大な蜘蛛の巣に引っかかってしまって……助けてくださーい!」

「きゃーーーっ!」


巨大な蜘蛛型の魔獣に糸でぐるぐる巻きにされ、今にも食料にされそうになっていたり。


「ゼロ!? 今、その深い茂みの中から出てこなかったか!? だから、そっちの道じゃないってさっき言ったばかりだろ!!」

「わわっ、また派手に転んだ!? だ、大丈夫か、ゼロ!? ……それよりまず、解けた靴ひもを結んだほうが……怪我するぞ」

「っていうか、いつの間にか姿が見えないぞ!? あいつ、また一人でどこかに行ったのか!!まったく、世話が焼ける!」


――先が思いやられる、とはまさにこのことだった。

仲間たちの間では、道中、ひっそりと囁きが交わされるようになっていた。


「……正直、回復士はナナミ一人で充分だと思う」

「ああ……。けど、王国からの正式な派遣となると、この森に置いていくわけにもいかないだろうしな……」

「とりあえず、次の大きな町までは、なんとか我慢して同行するしかないわね……」


またしても道の段差につまずき、盛大にすっ転んで、赤くなりながら恥ずかしそうに笑うゼロ。

ナナミが無言で手を差し伸べ、泥を払いながら立たせている。

まだパーティに加わってから間もないのに、もはや見慣れた光景を横目で見ながら、仲間たちは揃って深く重いため息をつくのだった。



溜息が合図だったかのように、ふいに森の空気が変わった。

さえずっていた小鳥たちの声がぴたりと止み、生ぬるい風が奇妙に凪ぐ。

代わりに、肌を粟立たせるようなぞくりとした冷気がどこからともなく漂い始めた。

生命の気配が急速に薄れていくような、嫌な静寂。

経験豊富なジークとシルリアがほぼ同時に眉をひそめ、鋭い視線を周囲に走らせる。

精霊使いであるクラリスが、何か不吉な気配を感じ取ったように顔をしかめて空を見上げた。


不穏な気配に一行は弾かれたように足を止め、警戒しながら辺りを見回す。


次の瞬間、空気を引き裂くような轟音と共に、巨大な黒い影が天から急降下してきた。


陽光を完全に遮るほどの巨大な翼が巻き起こす風圧が、周囲の木々を激しく揺らす。

大地を容易く抉るであろう鋭い鉤爪、魂ごと凍てつかせるような憎悪と殺意に満ちた紅い双眸が、眼下のちっぽけな獲物ーーロイたちを睥睨していた。

放たれる禍々しい魔力のオーラが、空気を重く圧し潰す。


「あれは……あの羽……は、黒翼のマルザフィリアだっ……!」

「な、なんで……こんな人里近くの森に、あんな高位の魔獣が……!」


ロイの掠れた絶叫が響き渡る。

その声よりも早く、ナックは雄叫びと共に巨大な斧を、クロエはしなやかな動きで双剣を抜き放ち、シルリアは矢筒から矢をつがえ、ジークは槍を低く構え、クラリスは精霊達を呼び出すために辺りを見渡し、声をかける。

全員が生存本能に突き動かされるように一瞬にして、あるいは長年の経験に裏打ちされた反射で、即座に戦闘態勢を取る。


だが敵の動きは、彼らの反応速度を嘲笑うかのように遥かに速かった。

黒い影から閃光のように放たれた漆黒の毒針が、目で追うことすら叶わぬ速度で飛来し、パーティの中で最も反応が遅れ、ただ呆然と立ち尽くしていた青年ーーゼロの胸を、寸分の狂いもなく正確に貫いた。




「ゼロッ!!」


ロイの絶叫が、悪夢のような静寂を引き裂いた。

ゼロの体がぐらりと大きく揺れ、生命の糸が断ち切られた人形のように膝から崩れ落ちる。

純白の神官服を汚すように、貫かれた胸元から墨を流したようなどす黒い痣が恐ろしい速さで広がり、彼の血の気を失った白い肌を禍々しい灰色へと染め上げていく。

苦悶に歪む顔から、声にならないひきつれたような呻きが漏れた。


「ゼロが刺された!おい、しっかりしろ!」

ナックが駆け寄り急いで抱える。

「マルザフィリアの毒針だ……!まずい、浄化を!」クラリスが辺りに向けて叫ぶ声が響き渡り。

「待って!解毒は!?アマテラスの花は誰か持ってないの!?」

クロエが必死に問いかける。

「こんな森に、あの希少な薬草が咲いているはずが……!」

ジークは悔しげに顔を歪める。

「ポーションを!持ってる限りの上級ポーションでも!」

シルリアが指示を飛ばすが、注がれたポーションでは毒の侵食速度に全く追いつかない。


「ダメだ、毒の力が強すぎる……!ポーションも……無駄だ」




仲間たちの焦燥と絶望が、冷たい現実となって降り注ぐ。

誰もが為すすべなく、ただ目の前で失われていく命を見つめるしかない。

凍りついたような絶望的な状況の中ーー

それまで俯いていたナナミが、静かに右手を掲げた。


彼女の華奢な体を中心に、空気が渦を巻くように歪んだ。

放たれたとは到底思えないほどの、濃密で、禍々しいほどの圧倒的な魔力が奔流となって周囲の空間を激しく震わせる。


それは、祈りや願いといった生易しいものではない。


慈悲も躊躇も微塵も感じさせない、純粋で絶対的な破壊の意志そのものだった。

彼女の足元から黒い影のようなオーラが立ち昇り、掲げられた右手に収束していく。

凝縮された力が、宇宙そのものを固めたかのような一条の漆黒の光となり、マルザフィリアが誇る黒翼の一枚を、音もなく根元から容易く蒸発させた。

魔法が弾けた後、キラキラと星が舞うように光が散ってゆく。


「グギャアァァァァァッ!」


凄まじい断末魔の叫びが森全体に木霊する。

一翼を失ったマルザフィリアは、信じられないものを見るかのようにナナミを睨みつけ、初めて恐怖の色を瞳に浮かべた。

傷つき、力の源たる翼を失った屈辱と、理解を超えた存在への畏怖に身を震わせながら、空の彼方へと文字通り逃げるように姿を消した。





後に残されたのは、耳が痛くなるほどの静寂。



誰もが、目の前で起こった出来事を理解できずにいた。

ナナミの予期せぬ、強大で異質な力に言葉を失い、ただ呆然と彼女とキラキラと舞い落ちる魔法の残滓を見つめるしかなかった。


(あれが……本当にナナミなのか……? さっきまで、ただ儚げに見えた少女が……? いや、あれは……人間の力じゃない……!)


仲間たちの顔には驚愕と安堵と、説明のつかない恐怖が複雑に浮かんでいた。

異様な静寂を破るように、ぽつり、ぽつりと冷たい滴が頬を打ち始めた。

ナナミの力が天にまで影響を与えたかのように、雨が降り出したのだ。


あっという間に雨脚は強まり、森の景色を灰色に煙らせていく。

降りしきる雨に打たれ、濡れた髪がナナミの頬に張りつき、うつむいた彼女の表情を窺い知ることはできなかった。

彼女の周りだけ、雨音すら届かないような、深い静寂が漂っているように感じられた。

ゼロの体は、もうかろうじて生命を繋ぎとめているだけの状態だった。


黒翼のマルザフィリアーー

この魔獣の放つ毒針は単なる毒ではない。

命を蝕み、魂をも穢す。

刺されたものは猛毒に喘ぎ苦しみ、全身に毒が回り切ると魔族にされてしまうのだ。

アンデッドに変わった元人間は、他の人間を襲いまた悲劇を紡いでゆく。

尊厳をも破壊する惨たらしい毒だ。

解毒には女神エデルが落としたと言われる奇跡の花『アマテラスの花』を新鮮なうちに煎じて飲ませる以外の方法がない。

恐ろしいが故、皆冒険者は必ずこの魔獣の存在を頭に叩き込む。

出会わないのが一番、出会ってしまえば最期。

本来、危険地帯と呼ばれる中東の国以外での目撃情報などなかった。

こんな場所で何故。奥歯を噛み締めても時間は巻き戻らない。

それでも目の前で苦しむ彼に、手の施しようがないなんて言えるわけがない。


「ゼロ!大丈夫か?しっかりしろ!ま、魔獣は、ナナミが倒してくれたから。な!大丈夫だよ。ゼロ……」


全身を蝕む激痛と猛毒に意識を保つのもやっとという状態。

見ているこちらの方まで心が千切れそうになる。

それでも彼は、最後の力を振り絞るように、震える声で懸命に言葉を紡ぐ。



「だ……大丈夫、です……よ、ロイさん……これくらい、へいき、です……なんとか……」


健気で、聞く者の胸を締め付けるほど痛々しい言葉を遮るように、真冬の氷のように冷たく、感情の欠片も感じさせない声が静かに告げた。


「……昇華させる」


「え……?」

ゼロが最後の力を振り絞るように、小さく息を呑んだ。


「しょ、昇華!? 本気か、ナナミ! そんなことしたら……ゼロは……! ゼロは死んでしまうんだぞ!? まだ助かるかもしれないじゃないか! 女神エデルの御許へ還ってしまうんだぞ!」

ロイが信じられないというように、半ば懇願するように叫ぶ。


「第一、あんた、本当にそんな大それた奇跡が使えるっていうの?さっきの魔法は凄かったけど、これは別次元よ!口だけじゃないでしょうね?『昇華』は高位の神官だって滅多に扱えない、最高位の秘蹟のはずよ!」


クロエが鋭い疑念の目を向ける。

彼女の言う通りだった。

『昇華』は、穢れゆく魂を浄化し、魔族へと堕ちることから救い、光と共に女神の元へと送り返す最後の奇跡。

それは並の回復士はおろか、長年信仰を捧げ、血の滲むような修行を積んだ熟練の神官や、女神エデルに愛された巫女にしか起こせない奇跡。

神聖にして究極の業のはずだった。


「この毒が全身に回りきる前に昇華させなければ、彼の魂は穢れ、完全に魔族へと堕ちる。そうなれば、もう通常の回復や浄化の奇跡では決して届かない。永遠に救われなくなる」


ナナミの声は激しい雨音に掻き消されそうなほど静かだったが、その響きには有無を言わせぬ絶対的な確信と、冷徹なまでの決意があった。


「だ、だけど!だけど、ゼロはまだ、生きてるんだぞ……!こうしてまだ息をしてるんだ!見捨てるなんてできない!」


ロイの悲痛な声が響く。

仲間の命を、まだ温もりのある命をこんな形で見送ることなど彼には到底できなかった。


「だからこそ」

ナナミは顔を上げないまま、きっぱりと続けた。

小さな声には一片の同情も、揺らぎも感じられない。

「人のうちにーー昇華する」


激しい雨音が、世界の終わりを告げるかのように容赦なく大地と彼らを叩き続ける。

彼女の声は、耳を劈くような激しい雨音の中でも、不思議なほど鮮明に、ロイと仲間たちの耳に届いた。

変えることのできない運命を告げるかのように、冷徹な宣告。


“慈悲”という皮を被った、残酷な“処刑宣告”に他ならなかった。


ゼロの目に大きな涙の粒が滲んだ。

絶望か、安堵か、痛みか、感謝か。

あるいは、全てが入り混じった言葉にならない感情の結晶なのか。

彼は毒に蝕まれ激しく震える体で、それでも懸命に最後の力を振り絞って、穏やかな、慈しむような微笑みを浮かべてみせた。


「ありがとう……ございます……。ぼく……皆さんと、こんな僕だけど……ほんの少しの間でしたけど……一緒に、旅ができて……本当に、……嬉しかったです……」


最後の言葉を受けたナナミの口元が、ほんのわずかに動いたように見えた。

――雨に紛れて誰の目にも留まることのない、一瞬だけの幻のような微笑みだったのかもしれない。


ナナミはゆっくりと両手を胸の前に合わせた。

雨に濡れた唇が、静かに厳かでどこか物悲しい響きを持つ祈りの言葉を紡ぎ出す。

先ほどとは打って変わって、優しく澄み切っていた。


「聖なる天の座より見守り給う、癒しと浄化の女神よ。

名を、エデルと奉ず。


命は巡り、御魂は還る。

我、願い奉るは、この身より離れし命を、穢れなき場所へと導くこと。


闇を裂くことなく、ただ穏やかに。

苦しみを癒やし、愛を包み、光のうちに還せ。


女神エデルよ、癒しの御手をもって、

いま一度、彼を“人”として抱き給え。」


祈りに呼応するように、厚く垂れ込めた灰色の雨雲の隙間から、奇跡のように柔らかな光の柱が降り注いだ。

神々しいほどの暖かな光。

光はゼロの体をどこまでも優しく包み込み、彼の苦悶に歪んでいた表情は、全ての苦痛から解放されたかのように、次第に穏やかな寝顔へと変わっていく。微かな笑みさえ浮かんでいるように見えた。


激しく降りしきる雨の中、彼は安らかな顔でゆっくりと静かに天へと昇っていった。

光の粒子となり、降り注ぐ雨粒と共にきらめきながら空に溶けていくように。

目の前で起きた光景はあまりにも美しく、あまりにも悲しかった。


仲間たちはただ呆然と、神聖で痛切な別れの光景を見送るしかなかった。

突然の出会いと、唐突すぎる残酷な別れ。

これまでの時間が瞬きの間に起きたかのように思えた。

誰もが言葉を失い、立ち尽くしていた。

ある者は固く拳を握りしめ、ある者は唇を噛み締め、ある者は静かに目を伏せ、ある者は悲しげに竪琴を爪弾く。

それぞれの胸に去来するのは、無力感、悲しみ、そして目の前の少女への、理解を超えた感情だった。


けれど奇跡を起こした中心に立つナナミの瞳には――やはり、何の感情も映ってはいなかった。

悲しみも、安堵も、仲間を救えなかった悔恨も、大いなる奇跡を成し遂げた達成感すらもない。


ただ光が消え去った虚空を、魂が抜け落ちたかのように、ぼんやりと見つめているだけだった。

口元だけが先ほどと同じ、奇妙なほど穏やかな微笑みをかたどったまま。

微笑みは精巧に作られた魂のない人形のように、壊れたように空っぽで。

それでいて、見る者の心を鋭く抉るほどに哀しく、痛々しかった。


ナナミが、ゆっくりと顔を上げたその瞬間。


雨粒が止めどなく伝う白い頬、深い湖の底のように感情の揺らぎが見えないライラック色の瞳、そしてーー唇に刻まれた、あの“壊れた笑み”。

異様なまでに静謐で、だからこそ不気味な光景を目にしたのは――ロイ、ただ一人だった。


(……わら、ってる……?)


雨に濡れた彼女の髪は、まるで止めどなく流れる涙のように頬を伝っている。

だが瞳はーーどこまでも乾いていて、底なしの虚無を映しているかのようだった。


(どうしてだ……? なぜ、今……仲間が、ゼロが死んだ、この瞬間に……そんな顔で、そんな空っぽな目で、笑えるんだ……?)


ロイの胸の奥底に冷たく重い疑念の種が、深く決して抜けない棘のように蒔かれた。

ナナミと出会ってから、彼が初めて明確に抱いた感情。


(この子は……本当に、俺たちの味方なんだろうか……? いや、それ以前に……この子は、一体……何なんだ……?)


得体の知れないものに対する、本能的な“畏れ”と呼ぶべきものだったのかもしれない。


雨はまだ止みそうになかった。

ただ激しく降り注ぎ、世界からあらゆる音を奪い去り、ロイの心に生まれたばかりの問いと恐怖だけを、いつまでも、いつまでも、冷たく響かせていた。







第一章 完

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