5-6 「断ち切れぬ絆の潮流」
宵闇が静かに帳を下ろした宿の一室。
その穏やかな夜の静寂を、ドンッ、という鈍く重い打撃音が、まるで楔を打ち込むかのように無慈悲に引き裂いた。
おそらくは枕か何かを力任せに殴りつけたのであろうその衝撃音は、階下の食堂で遅い夕食をとっていた他の客たちの耳にも微かに届き、床や壁の不穏な揺れと共に「おい、今の音は何だ?」「何事だ?」という訝しげな囁きをそこここに引き起こしていた。
部屋の中では、シルマルーー
いや、もはやその変装の意味すらなさなくなっているシルリアが、顔に白い布を何重にも巻き付けたままではあったが、その全身からは、まるで地獄の業火のごとき憤怒の炎が燃え盛っているのが、誰の目にも明らかだった。
布の下でギリリと奥歯を噛み締める音が、緊迫した部屋の空気を通して聞こえてきそうなほど、彼女は抑えきれない怒りにその細い肩を激しく震わせている。
「……あの、クソ親父が……っ!私の人生を、なんだと思っているんだ……!」
まるで獣の呻き声のようにシルリアの喉から絞り出された声には、もはや隠しようもない深い憎悪と、やり場のない絶望が滲んでいた。
今にもこの部屋を飛び出し、憎き父シルヴィウスの元へ怒鳴り込みに行かんばかりのその激しい勢いを、クロエとナナミがそれぞれ左右からシルリアの腕を掴み、必死の形相で押さえつけていた。
シルリアのしなやかな腕が二人の意外なほど力強い拘束を振りほどこうと、怒りにわななくように微かに震える。
「お、落ち着けって、シルリア!な?俺もここにいるみんなも、お前以外の誰かをこのパーティーに迎えるつもりなんて毛頭ないんだからさ!だから安心してくれ!」
ロイがまるで荒れ狂う野生の馬を必死でなだめるかのように、必死にどこか情けない形相で怒れるシルリアを宥めようと試みる。
こんなことになるのなら、シルヴィウスの言葉など彼女に伝えるべきではなかったのかもしれない。
いやしかし、いつかは彼女自身が向き合わねばならぬ、避けては通れない道だったのだ。
ロイは内心で、そんな終わりのない葛藤を繰り返していた。
「私も今更抜けるつもりなんてない!」
シルリアの顔を覆う布の奥から、くぐもった、彼女の確固たる意志のこもった、どこまでも力強い声が響く。
「もちろん分かってるよ、シルリア。団長への対処についてはまた後で、みんなで知恵を出し合って考えよう。今は少し落ち着いてくれ。な?」
ロイはどうにかしてシルリアの目を見ようと試みるが、顔を覆う布に阻まれて、その表情を窺い知ることはできない。
その布の奥で、彼女がどれほどの怒りと悲しみに耐えているのかを思うと、ロイの胸は締め付けられるように痛んだ。
「まあ、印象は最悪だったけどよ。ロイがアリアから聞いてきたっていう、『潮汐の真珠』とやらを、さっさと見つけ出してぶっ壊して、そのまま王国からトンズラしちまうってのも、なかなか乙な一つの手だと思うぜ?」
床に胡座をかいたまま、天井をぼんやりと眺めていたジークがまるで今日の天気の話でもするかのように、のんびりとした口調で、とんでもなく物騒な提案を口にする。
その言葉に部屋の張り詰めていた空気が、一瞬にしてカチンと凍りついた。
「いよいよ俺たち勇者一行も、ただの悪の一味に成り果ててしまいそうだ……」
はぁ、とロイの心の底からの深いため息が諦観を帯びて部屋に響き渡った。
いつの間にかシルリアはベッドの上に移動し、体育座りの姿勢で、自分の両膝に顔を埋めるようにして小さく丸くなっていた。
あれほど激しかった怒りの嵐はどうやら過ぎ去ったものの、その背中には深い悲しみと言葉にならない悔しさが、痛々しいほどに滲み出ている。
未だに彼女の腕にそっと寄り添うように絡みついたままだったナナミは、シルリアのその小さな動きに巻き込まれる形で、ベッドの上でなんとも窮屈で不自然な体勢になっていたが、それでも文句一つ言うことなく、ただ静かにその温もりを伝えるかのように寄り添い続けている。
「みんな……本当に、ごめん……。私のこんな個人的な問題で、みんなにまで迷惑をかけてしまって……」
シルリアの声はまだ微かに震え、そして今にも消え入りそうなほどか細かった。
「ここにいる奴らなんて、お前も含めてみんな何かしら厄介で面倒な、訳ありの事情ってもんを抱えてる奴らばっかりなんだ!今更そんなのが一人や二人増えたって、どうってことないだろ!」
ロイが努めて明るく力強い声でそう言うと、ジークも「まったくだな。」とでも言いたげに、笑みを浮かべて頷く。
「そうそう。今は兎にも角にも、もっと目の前にある喫緊の問題について考えないとね。このままアストリアが滅んじゃったら、こんな個人の些末な問題で悩んでる意味すらなくなっちゃうんだから。それこそ本末転倒ってものでしょう?」
クロエがいつの間にかシルリアの隣、ベッドの端にそっと腰掛けながら、その美しい両手を軽くあげて肩をすくめてみせた。
どこまでも現実的でありながら、この場にいる全員を優しく励ますような不思議な響きがあった。
「あぁ……そうだな。クロエの言う通りだ」
ロイがゆっくりと顔を上げ、まるで自分自身に言い聞かせるように、仲間たちの顔を一人一人見渡しながら決意を新たにするように言った。
「明日の朝一番で、アリアが言っていた南側の海流に一番近い岬へと向かおう。俺たちの次の目的地は、海の底だ……!」
「はぁ!?ちょ、ちょっと待ちなさいよ!う、海の中ですってーーーー?!本気で言ってるの、ロイ!?」
クロエの悲鳴に近い声がようやく静まりかけた宿屋の一室に、再び激しく響き渡った。
***
朝日がまだ眠りから覚めやらぬ水平線の彼方から、まるで生まれたての赤子のような、柔らかな黄金色の光を投げかけ始めた頃、一行は切り立った崖が続く岬の突端に立っていた。
夜明け前の冷たい潮風が彼らの頬を容赦なく撫で、すぐ下の岩場では満ち始めた潮が打ち寄せる、力強くもどこか物悲しい波の音が、厳粛な音楽のように耳に心地よく響いている。
その中でただ一人、これから自分たちが為さねばならないことの重さを噛みしめるかのように、憂いを帯びた澄んだ瞳で、静かに朝焼けの海を見つめる一人の少女がいた。アリアだ。
「おーい!アリア!すまん、待たせたな!」
少しばかり緊張を隠せないロイの声が、朝の神聖なまでの静寂の中に力強く響き渡る。
「ううん、大丈夫だよ。おはよう、みんな」
振り返ったアリアは、いつもの太陽のように明るく活動的な港の少女のイメージとは全く異なり、汚れ一つない純白の、しかし簡素なデザインの祭服にそのしなやかな身を包んでいた。
その姿は朝日に照らされてどこまでも凛として気高く、そして神々しささえも漂わせている。
やはり彼女もまたこのルミーナの海と民を守る、特別な力を持つ巫女なのだと、一行は改めて強く認識させられた。
「みんな悪いんだけど、まずはその物騒な装備を全部外してもらえるかな!海の中じゃそんな鉄の塊邪魔になるだけだし、重くて沈んじゃうだけだからね。特にシル!その顔の布、さすがに巻いたまま海に入ったら、顔にぴったり張り付いて息ができなくなって本気で死ぬからね!」
アリアはにっこりと、まるで悪戯っ子のような人懐っこい微笑みを浮かべながら、悪気なく恐ろしく現実的なことを、平然とした口調で口にする。
そのあまりのギャップに、皆一瞬言葉を失い顔を見合わせたが、すぐに慌ててそれぞれが身に付けていた重い鎧や胸当て、そして動きを阻害しそうな武具などを手際よく外し始めた。
シルリアはアリアに名指しで指摘された通り、顔に巻いた布を外すことに、少なからず、いや、かなりの抵抗があるのか、しばらくの間、渋々と、そして不承不承といった様子でためらっていたが、やがて観念したようにその変装を解いていく。
やがて皆、それぞれの個性が際立つ動きやすいシンプルな服装になった。
「よし、じゃあ、今からみんなに、あたしの『海の抱擁』の加護を授けます。ちょっとの間だけ、じっとしててね」
アリアが先程までのくだけた口調とは打って変わって、どこまでも厳かにそう宣言するとその澄み切った力強い声で、古の言葉で紡がれた祝詞を厳かに唱え始めた。
「偉大なる海の母よ、そして慈悲深き光の女神エデルよ、その深き、深き慈愛の御心もって、今、ここに集いし、かのもの達を、その大いなる御力にて守り給え」
アリアがその小さな両手を天に掲げると、彼女の手のひらからまるで溶けた真珠のような、柔らかな乳白色の光が溢れ出し、温かいヴェールのように一行の身体を優しく包み込んでいく。
暖かく、どこか懐かしい、母親の腕に抱かれているかのような不思議な安堵感が、彼らの身体の隅々までを満たしていくのを感じた。
「ええと、じゃあ、今からちょっとだけ説明しちゃうね!」
光がゆっくりと収まると、アリアはいつもの太陽のような笑顔に戻って、これから始まる水中での冒険についての説明を始めた。
彼女が授けてくれた加護は、海の中でまるで魚のように自由に呼吸ができるようにし、そして深海の強大な水圧からも、その身を確かに守ってくれるという、まさに奇跡のような力だった。
だからといって陸上と全く同じように戦えるというわけではなく、慣れない水中での動きや水の抵抗、そして視界の悪さには、かなり苦労することになるだろうということも彼女は細かく付け加えた。
「あ、そうだ、シル!ちょっと、あなたのその弓と矢を見せてくれる?」
一通りの説明を終えたアリアにそう促され、シルリアは少し戸惑いながらも、背負っていた愛用の弓と矢羽根がびっしりと詰まった矢筒を、アリアへと差し出した。
アリアはその古風だが手入れの行き届いた弓矢に、そっとその小さな手を触れ、再び目を閉じ深く、そして静かに祈りを込めた。
「天空を駆ける光の女神よ、この聖なる矢に邪を貫く導きと、水をも裂く力を与え賜わん」
シルリアの弓と矢が、一瞬淡く、そして鋭い光を帯び、すぐにその輝きは消えた。
「アリア……今のは一体、なにをしたの……?」
シルリアが不思議そうな、期待に満ちた目で尋ねる。
「んふふ、シルは私たちの中で唯一の、遠距離攻撃ができる飛び道具の使い手だからね。ちょっとだけプラスで、特別な光の加護をつけさせてもらったの!だって普通の弓矢じゃあ海の中じゃ水の抵抗で、ぜーんぜん役に立たないからさ。すぐに下に落ちちゃうだけだからね」
それは言われてみればあまりにも当たり前の事実であったが、海中での本格的な戦闘など、生まれてこの方一度も経験したことのない一行にとっては、すっかりと頭から抜け落ちていた視点だった。
「……ありがとう、アリア。助かるよ」
シルリアの心からの感謝の言葉に、アリアは「どういたしまして!」とでも言うように悪戯っぽく、そして可愛らしくウインクで応えた。
「ま、ナナミがいれば海の中だろうが、火の中だろうがどうとでもなるだろ!な、ナナミ!」
ロイがまるでこれから楽しいピクニックにでも行くかのように、どこまでも呑気で楽天的なことを言う。
その根拠のない彼らしい楽観的な言葉に、全く予想だにしていなかった、あまりにも衝撃的な返答が、静かに投げかけられた。
「……私は、今回行けないわ」
有無を言わせぬ、絶対的な響きを持ったナナミのいつになく硬い声。
「「「へぇっ!?」」」
ロイ、クロエ、ジークの声が申し合わせたかのように、見事に、間の抜けたように重なった。
シルリアも信じられないといった表情で、驚いたようにナナミの顔を見つめている。
「泳げないんだもの」
あまりにも衝撃的すぎる事実に、まるで呼応するかのようにザパーンッという、ひときわ大きな波が、ナナミのすぐ背後で激しく砕け散り、真っ白な水飛沫がまるでドラマのワンシーンのように、劇的に美しく舞い上がった。
「う、嘘だろ……ナナミ……お前……本気で言ってるのか……?」
ロイがまだ目の前の現実が信じられないといった表情でナナミの両肩を掴み、まるで世界の終わりでも告げられたかのように、絶望の色に深く染まっている。
無理もない。ナナミの持つ圧倒的な戦闘力は、この一行の中でも群を抜いており、彼女の不在はそのまま戦力の大幅な、そして致命的な低下を意味するのだから。
困ったような、少し申し訳なさそうな顔で、アリアがそっとロイの大きな手を、ナナミの華奢な肩から優しく引き剥がした。
「ま、まあまあ、ロイ君。そんなに落ち込まないで。大丈夫、あたしも一緒に行くし、みんながいるんだから、きっと大丈夫よ!」
アリアが力強く、明るく励ますが、ロイの表情はそう簡単には晴れそうにない。
ナナミのいない戦闘……かつて一行が初めて攻略した、あの薄暗いダンジョンでの死闘とも言える苦戦を思い出させ、彼の心にずしりと重くのしかかってくる。
「そんな……ナナミがいないなんて……」
名残惜しそうに、捨てられた子犬のような目で、何度も何度もナナミの方を振り返りながらロイは、半ばアリアに促されるような形で、ゆっくりと、重い足取りで朝日にきらめく冷たい海へとその第一歩を踏み入れた。
その時だった。
それまでロイの肩に大人しく止まっていたピィが、まるで何か恐ろしいものを察知したかのように、甲高い、耳を劈くような悲鳴をあげて、勢いよく空へと飛び立とうとした。
「お、おい!ピィ!まさかお前まで、俺を置いていくつもりか!絶対に離すもんか!」
ロイがパニックになりながらも、反射的にピィの小さな体を掴む。
「ピギィァアアアアア!ビビーッ!ピッ!ゲゲゲゲゲゲッ!」
ピィはまるでこの世の終わりのような顔をして、めちゃくちゃに嫌がり、その小さな羽根を必死にばたつかせて激しく抵抗する。
しかしその涙ぐましいほどの必死の抵抗も虚しく、陸に残ると宣言したナナミが、まるで猫が獲物を捕らえるかのように、ひょいと素早くやって来て、ロイの大きな手からいとも簡単にピィを奪い取ってしまった。
「この鳥は、どうやら水が苦手なようね。……仕方がないわ、私と一緒にお留守番よ」
「ピゲッ!?ギャピーーーーーッ!ピーーーッ!ピーーーーッ!」
ピィにとってはまさに前門の虎、後門の狼。
あるいは、油の煮えたぎる鍋から飛び出したら、燃え盛る炎の中だった、というような絶望的な状況。ナナミのどこか冷たい、有無を言わせぬ力強さで掴まれたピィは、もはやこれまでと観念したかのように、絶望的でいてコミカルな叫び声をあげた。
「待て!シルリア!!!ようやく見つけたぞ!」
その時それまでの穏やかだった岬の朝の空気を、まるで鋭利な刃物で切り裂くかのように、およそこの場にはお呼びでない、怒りに満ちた怒声が、背後から激しく響き渡った。
声の主は屈強な、いかにも手練れといった風情の兵士二人をその両脇に従えた、シルリアの父、あの厳格極まりないシルヴィウスだった。
彼の整った顔は抑えきれない怒りに醜く歪み、その鍛え上げられた巨躯からは、まるで殺気にも似た、凄まじいまでの圧力が、周囲の空気をビリビリと震わせながら放たれている。
「ち、父上……!なぜ、ここに……!?」
シルリアの顔から、さーっと血の気が引き、みるみるうちに青ざめていくのが分かった。
一行の間に、一瞬にして凍りつくような緊張が走った。
その、まるで鬼のような、あるいは怒れる獅子のような形相で、ずかずかとこちらに迫り来るシルヴィウスの前に、決して屈することのない堅牢な壁のように静かに立ちはだかったのは、陸に残ると宣言したはずのナナミだった。
彼女の普段はどこか儚げにさえ見える小さな背中が、なぜか今はとてつもなく大きく、そして頼もしく見える。
「ナナミ!?」
ロイが、思わず驚きの声をあげる。
「……行きなさい、みんな。早く、海の底へ」
ナナミは決して後ろを振り返ることなく、ただ静かに絶対的な力強さを込めて、仲間たちにそう告げた。
その声には何があっても、この場は自分一人で食い止め、仲間たちを必ず守り抜くという鉄のような固い決意が宿っていた。
アリアにそしてジークに強く促され、ロイたちは、まだ戸惑いを隠せないながらも、次々と荒磯の海へとその身を沈めていく。
シルリアは最後に一度だけ、ナナミの小さな後ろ姿を、心の底から心配そうに、感謝の念を込めて一瞥したが、やがて意を決したように、彼女もまた深く青い海中へとその姿を静かに消した。
皆が無事に海の中へと入って行ったことを見届けると、ナナミは片手にまだ暴れようとするピィを握りしめたまま、何一つ臆することなくシルヴィウスたちへと向き直った。
「どきたまえ!我らの邪魔をするというのならば、たとえ女子供であろうと容赦はせんぞ!」
シルヴィウスが腰に下げた長大な剣の柄に手をかけ、今にもその鋭い刃を抜き放ち、斬りかかってきそうな勢いで威嚇するように怒鳴る。
その圧倒的な威圧感は並の人間ならば、それだけで腰を抜かし、竦み上がらせるに十分だったが、ナナミはその殺気にも似た気迫を真っ向から受けても、全く微塵も臆する様子を見せない。
ただ静かにその美しいライラック色の瞳に、まるで極寒の地のオーロラのような、強く妖しい光を宿して、目の前の怒りに我を忘れた男たちに、真っ直ぐにどこまでも冷静に問いかけた。
「あなた達はアストリアを滅ぼすことが出来る?」
そのあまりにも場違いなほど哲学的で、どこか全ての本質を突いているかのような問いに、シルヴィウスは一瞬言葉を失う。
「ふざけたことを抜かしてないで、さっさとそこをどけぇ!でなければ、本当に斬り捨てるぞ!」
シルヴィウスの怒りはもはや頂点に達し、ついにその鞘から剣を抜き放とうとする。
「少しもふざけてなどいないわ。もし、あなたたちに本気でアストリアを滅ぼす覚悟があるのならば、まずは私を倒してからおゆきなさい。もっとも、あなたたちにそれが出来るとは到底思えないけれど」
ナナミの表情から普段のどこか掴みどころのない穏やかさが完全に消え失せた。
代わりに氷河のように冷たく、同時に心の奥底で燃え盛る火山のような激しい怒りが浮かび上がる。
彼女の空いた片手に周囲の空気が意思を持ったかのように渦を巻き、目に見えるほど強大な禍々しいとさえ言えるほどの魔力が、急速に危険なまでに凝縮されてゆくのが、誰の目にもはっきりと見えた。
「ピッ……ピィィ」
ナナミの普段は華奢なはずの手に、まるで囚われの小鳥のように握られたピィが、その凄まじいまでの気配に心の底から怯え、か細い情けない声で鳴いた。
***
すっかり太陽が昇り、どこまでも続く空が磨き上げられたサファイアのように、一点の曇りもない青一色に染まった頃。
先程までの緊張感が嘘のように静まり返った岬の突端には、子供が悪戯で積み上げた積み木のように、無造作に、見事に積み上げられた屈強な兵士二人と、その一番上に力なく干された洗濯物のようにぐったりと伸びている、シルヴィウス騎士団長の無惨な姿があった。
どうやら圧倒的すぎるほどの力量差で、ほんの一瞬にして、文字通りねじ伏せられてしまったようだ。あまりにもあっけない全ての顛末を、すぐ傍らで一部始終見ていたピィは、未だにナナミの小さな手に優しく握られたまま、ただ力なく「ピィィ……」とどこか呆然としたように小さく鳴いた。
ナナミは岬の端にぽつんと置かれた、潮風に晒されてすっかり古びた木製のベンチに優雅に腰掛けると、いつも大切そうに抱えている分厚い本を膝の上に置き、その上にようやくピィをそっと優しく置いた。
やっとナナミの魔の手から解放されたピィは、プルルと全身の羽根を激しく震わせ、悪夢でも振り払うかのように、念入りに羽を整える。
ナナミの細く少し冷たい指が、ピィの小さな体を、まるで壊れ物でも扱うかのように、そっと優しく撫で始めた。
かなり心地が良いのかピィは警戒しながらも、つい、うっとりと目を細めてしまう。
羽を撫で、背中を撫で、そして頭を優しく撫で、最後にその小さな顎を、まるで猫をあやすかのように、そっと優しく撫で上げると、ナナミは有無を言わさぬ力強さで、ピィの小さな嘴をくいと持ち上げ、無理やり上を向かせた。
その美しいライラック色の瞳には、先程までの氷のような怒りとは全く違う、どこまでも鋭く、何かを探るような、底知れない光が宿っている。
「ねえ。私、お前とは、初めましてよね?……一体誰の差し金なのかしら?もしかして……あの、忌まわしい『女』の仕業だったりするの?」
静かだがどこか背筋が凍るような、不穏な響きを色濃く帯びた言葉をかけられたピィは、全身の羽根を逆立てるほどの恐怖に顔を引きつらせ、壊れた人形のように、ぶんぶんと、ただただ激しく首を横に振ることしかできなかった。
***
一方、アリアの導きで仲間たちと共にルミーナの海へと潜ったロイは、慣れない水中での環境に、かなり戸惑っていた。
アリアの授けてくれた『海の抱擁』の加護のおかげで、息苦しさや水圧は全く感じないはずなのに、一体どうやって呼吸をしていいのかが分からず、つい陸上での癖で息を止めてしまい、危うくパニックに陥りかけていた。
「ロイ君、大丈夫?落ち着いて!そんなに力まなくても、大丈夫よ。いつも通りに、ゆっくりと呼吸をしてみて?」
すぐ隣をまるで人魚のように優雅に泳ぐアリアが、その明るく優しい声で、ロイにそっと声をかける。
その声は不思議なことに、水の壁があるはずの海中でも、まるで隣で話しているかのように、はっきりクリアに聞こえた。
言われた通りにロイが意識して、ゆっくりと息を吸い込んでみるとゴボゴボという音と共に、肺に残っていた最後の空気が、銀色の泡となって水中へと儚く消えていき、その代わりに冷たい海水ではない、何か清浄で甘い香りのする不思議な「何か」が、ごく自然に肺の中へと満たされてくるのを感じた。
陸上とほとんど変わらず、普通に呼吸ができることにようやく気づき、ロイは驚きと安堵からくる戸惑いを隠せない。
声も若干くぐもってはいるものの、問題なく互いに聞こえるようだ。
目の前には太陽の光もほとんど届かない、どこまでも深くそして暗い海の底、深淵がまるで巨大な獣の口のように、どこまでもどこまでも広がっている。
その吸い込まれそうなほどの暗がりの中に、ギラリと赤い目の数々が、まるで獲物を見つけた捕食者のように不気味に光りながら、こちらをじっと凝視しているのがはっきりと見えた。
どうやら海底神殿に辿り着くまでには、まだまだ多くのそして想像を絶するほどの苦難が待ち受けていそうだ。
一行はゴクリと生唾を飲み込み、互いの顔を見合わせると、それぞれの胸に新たな、強い決意を刻み込むのだった。




